Ep.1
「え〜このようにして、生き残るために筋肉や歯、同種を見分ける嗅覚など、特異な能力が発達し、進化した形態を持つ生物も少なくありません。」
ペンをくるくる回しながら、俺は大学の授業を右から左へ聞き流す。そうしてふと時計を見ると、時刻は既に18時に近く。もうすっかり、日が落ち始めている時間帯だ。
(ちょっと早いけど...いいや、疲れたしもう帰るか。)
俺はそそくさとノートや筆箱を鞄の中にしまい込んで、ゆっくりと音を立てずに大教室から抜け出そうと試みる。
「特に幼生に多く見られる...オオサンショウウオなんかにありがちですね。同種喰らい、共食いを好んでする個体などが一例に上げられます。この呼び名としては...。」
席を後ろに陣取っていたことが功を奏したのか、俺はまんまと講義を抜け出すことに成功。僅かでも早く帰れる喜びに心を震わせながら、俺はモラトリアムを謳歌するため大学を後にした。
田舎から都会に越してきて二年。昔はあんなに勉強して望んだ大学に入れたというのに、今ではすっかり机に向かうことも無くなった。
偉大な目標も、何か壮大な夢さえ俺には持ち合わせが無い。このままでいいんだろうか。なんて在り来りな問いが脳みそを行ったり来たりして、俺の歩幅を少しづつ狭めていった。
「俺って、何がしたいんだろうなぁ...。」
空を見上げると、仄暗い紺色に真っ白な穴が空いている。どこまでも突き抜けてしまいそうな、際限のない空洞。せっかく普段より早く帰路に着いたというのに、俺はぼーっと月の下に立ち尽くしてしまった。
平々凡々。実に良く、簡潔に俺を表した四文字だと思う。それに現代の推し活、恋愛、SNS。おおよそ、日々を乗り切るための娯楽にもどっぷり漬かれなかった中途半端さ。飢餓も疫病も戦争もない、歴史の狭間で無味無臭のまま進む人生。俺はやはり、モラトリアムを謳歌しすぎているのかもしれない。
小さくも大きくもないため息が出て、俺は再び歩き出した。人通りの多い都市から電車を使い、閑散とした住宅街へと進んでいく。
家のすぐ近くまで着いた頃には、辺りは正真正銘夜の中。月明かりと切れかけの街灯が頼りなく、俺の形に影をくり抜いた。そうしてふと前方を見ると、数メートル先、同じように落ちる影が一つ。
(珍しいな。普段はここら辺、あんまり人なんか居ないのに。)
もうすぐ夏も近い暑さだというのに、ウィンドブレーカーに身を包むフードを被った人影。それが俺の視界の真ん中に、こちらを正面から覗き立ち止まっている。
街灯に蛾が群がって、ジジっと光が明滅した。見慣れたいつもの道が、一瞬で不気味なものに染め上げられる。俺は異様な雰囲気に固唾を飲みながらも、ただ何でもないように道を進んでいく。
(変な不審者に絡まれてトラブルになるのは避けたいしな。目とか合わせないでおこ。)
サッと顔を逸らして、俺は少し遠回りになるが、ここを迂回しようと決意。そうして人影の手前にある路地を右に曲がろうと、足を一歩踏み出した刹那のこと。
「匂う。やっぱり少し、少しだけ、匂うんだよ。同種、お仲間の匂いだ。」
月明かりが反射して、フードの奥から白い歯がにっこり顔を出す。コンクリートジャングル、野生が淘汰された現代では久しく見ることの無い野生の笑み。
剥き出しにされた闘争心が、一点の曇りなくこちらへと向けられる。その事実が俺の本能に全力で危険信号のアラートを響かせ、全身を瞬く間に硬直させた。
チカチカ、また街灯が明滅する。そうして極わずか、秒数にして一秒にも満たない瞬き程の一瞬。パチンと、弾けるように灯りが消えた。月だけが残された純度の高い暗闇を皮切りに、俺は無我夢中で足を走らせる。
一呼吸の間さえ置かずに、光はすぐさま回帰した。そのせいか、背を向け踵を返して走るも、俺は光に反応して背後を覗いてしまう。故に網膜へはっきりと焼き付けられたのは、あらゆる生命に共通する恐怖の形。
血走った眼、吊り上げられて光る犬歯、少しでも距離を殺そうと飛ばされた腕。自身よりも強大な捕食者が、背後から爪を立てて襲いかかってくる光景を、俺は人生で初めて目の当たりにする。
(ヤバいヤバいヤバい!何だよこれ、ガチの不審者じゃん!とりあえず警察、ってか襲ってくるって...なんか武器、包丁とか持ってんのか?)
唐突な出来事に対して、半ば反射的に逃走を選択したが、走っていると不思議なもので思考が冴えてくる。俺は速度を維持したまま、近くにあった道路の反射鏡で背後を確認した。
丸腰。体格はそこそこがっしりしているものの、驚くべきほどでもない。吹き出したアドレナリン。夜風に冷やされながらも、人生で一度あるかないかの異常事態を目の前に、俺の脳みそが導き出した答えは一つ。
(これ、ワンチャン勝てんじゃね?)
中学生が教室に入ってきたテロリストを壊滅させる妄想を繰り返すように、俺もまた人並みに頭の中で犯罪者を畳んできた。
イメトレならば百戦錬磨。俺は思考を巡らせ、走りながら大きく息を吸い込む。それから切り返すように、足を止めて体を反対方向へ向ける。
一、急にこちらが止まれば相手は驚き、なおかつ急停止ができず無防備に突っ込んでくることになる。
二、そこにラリアットの要領で一撃を叩き込み、相手を行動不能にさせる。
三、相手が動けなくなったうちに、さっさと逃げる。
今まで積み上げてきたイメトレの成果か、果てまた緊急時の本能か。俺は振り返るその合間に思考を完了させて、既に行動に移っていた。
眼前に迫る追跡者。間合いやタイミングは想定通り。だから何事もなく、イメージ通りに事は全て運ぶ、はずだった。その時、強い風が吹き上げて相手のフードを捲り下ろす。
ガシャンと、金属同士が擦れ合う音がした。フードの中から現れたのは、おそらく中世のものであろうと考えられる甲冑。
「『騎士念慮』。」
「は?」
ウィンドブレーカーが跡形もなく消し飛び、その中から飛び出してくる銀の鋼鉄。加えて、先程まで徒手だったのは嘘だと言わんばかりに、右腕にはどこからか出現した剣を握っている。
速力を維持したまま相手は剣を振り上げ、こちらを切りつけようと薙ぎ払う。ただ先程吹いた風のおかげか、俺は動作を出始めで止めていたため、すんでのところで刃に触れることはなかった。
鋭い線が自分の一歩手前を通り、少し遅れて俺は自分の命に指がかかったことを悟る。異常事態。言葉で見ると最初の状態と変わらない、単に振り出しに戻っただけのこと。
だが恐怖の格が、怯えの質が違う。理解の外側にある事柄を前にしてようやく、俺はこれから殺されるのだと真に把握した。
「...お前もモルフだろ。使えよ、そっちの方が美味い。」
「...意味が分からない。」
ありえない超常。俺の知る限り人間は急に甲冑を着込めたり、剣を呼び出したりすることは出来ないはずだ。それなのに、目の前の男はお前もだと言う。お前も同じだと、そう告げている。
「作戦か?まぁいい。どうせすぐに、胃の中さ。」
地面に下げられた剣がガリガリと音を立て、アスファルトを削っていく。そうして一歩、また一歩とこちらに近づいてくるのを、俺は天を仰ぎながら感じていた。
(死ぬのかぁ、俺。...受け入れらんねーのに、なんか静かだ。)
目まぐるしく情緒が一周回って、落ち着きが肺の中にスっと溜まる。がらんどう、空っぽの月明かりが、最後の手土産として俺に送ってくれたプレゼントなのかもしれない。だから俺は瞳を瞑って、せめて声を上げずにその時を待つ。
「いい夜ね。そう、人が死ぬのはもったいないぐらいの。」
背後からぽんと、やさしく背中を叩かれる。それからふんわり、何か柔らかい花の香りが俺の横を通った。自然と、瞑っていた瞼が解けていく。
黒髪の艶やかな、月明かりみたいに白い女。モノクロで、触ったら通り抜けるんじゃないかと思えるぐらいの薄さと透明感。俺はこの瞬間、恐怖も怯えも、息さえ忘れてただ彼女だけを見ていた。




