固定電話
妻の妊娠を機に都内のアパートを引き払い、郊外に思い切ってマンションを買った。
頭金の三割を負担してくれた義父が、電話の加入権も譲ってくれたので、新しく固定電話も購入して加入手続きを済ませた。共働きだった頃はそれぞれが携帯電話を持っていれば、それほど不便も無かったが、妻が退職して家にいるようになれば、やはり電話が引いてあった方がいい。災害の時なども固定回線の方が復旧が早いと聞いた。
予定日の三ヶ月前に退職した妻は、家の電話を使って実家の義母と長話をしているらしい。そう頻繁に行き来できる距離でもないので、母親と電話で話していると不安が紛れると言っていた。
「でもね、お母さん以外からは、昼間は碌な電話がかかってこないのよ」
ある夜、妻は顔をしかめて呟いた。彼女が作ってくれた夕食を口に運びながら私は答えた。
「どんな電話? いたずら電話か?」
「ううん。そういうのは無いけど、保険とかお墓とかマンションとか、勧誘の電話。あと、振り込め詐欺みたいなのも何回かかかってきたわ」
最近流行りの犯罪の名前を聞いて、私は箸の手を止めるほど驚いたが、気の強い妻は、子供はまだいませんと怒鳴り返してやったと平然と告げた。我が妻ながら頼もしい。
今はほとんどの世帯が独居か共働きだ。親と同居している夫婦も少ないから、日中の家に電話しても誰もつかまらないだろう。用事があれば相手の携帯電話にかければ事足りる。なるほど、そんな時代にあえて日中の家庭に電話してくるのは、セールスか詐欺の電話に違いない。私が子供の頃と比べて、何とも乾いて世知辛い時代になった。
それからひと月ほど経った。
日曜日の午後、妻は友達と食事に出かけるといい、すっかり大きくなったお腹を抱えて外出していた。
前日に休日出勤していた私は疲れ切っていて、ソファで昼寝を楽しんでいた。
妻が身重になってからは、仕事から戻った後や休日も家事を手伝う多かったので、こうしてぐったりと休んでいられるのは久しぶりだ。子供が生まれたら生まれたで、また忙しなくなるだろう。貴重な休息時間であった。
しかし妻が以前に話した通り、昼過ぎから電話がよく鳴るようになった。出てみればやはり墓の勧誘であった。
「最近流行しているロッカー型などではありません。緑がいっぱいの土地に新しく建設した霊園ですので、お墓参りもお散歩気分でお楽しみいただけます」
私の両親も妻の両親も今のところ健康だし、万一のことがあっても、それぞれの代々の墓がある。私たちには全く不要の物であったが、気の弱い私は断るタイミングをつかめずに、中年女性の早口の案内を聞いていた。
結局長々と彼女の説明を聞き、「いかがですか? 今度、ぜひ説明会に……」と尋ねられた段になって、ようやっと結構ですと断ることができた。
ぶつりと音を立てて電話は切れた。ひとに時間を取らせておいて、挨拶もなく電話を切るとは失礼な。不愉快だった。
確かにこんな調子では、妻も電話にうんざりするだろう。
その後も、私がソファに寝転がってうとうととするたびに、見計らったように電話が鳴った。今日は墓のセールスばかりであった。
電話をかけてくる人間と墓の場所が違うだけで、あとは異口同音だ。妻などは相手を遮って「結構です」と一言告げて終わってしまうのだろうが、無口な私は他人の話を遮ることができずに、ついつい相槌まで挟んで聞いてしまうのだった。
しかし、それも四、五回も繰り返すと、さすがに腹が立ってくる。
時刻は四時を回っていた。ランチを食べたらすぐ帰ると言っていた妻はまだ帰らない。友達との話が長引いているのだろう。
再び電話が鳴った。どうせまたセールスの電話だろうが、もしかしたら義母から妻あてにかかってきたのかもしれないと思うと、出ないわけにもいかなかった。
こんにちはあという明るい挨拶で始まった会話は、またもやお墓のセールスだった。
今度は軽薄そうな若い男の声が、郊外だが駐車場が広い、景色が綺麗だと、ぺらぺらと今までと同じようなことをまくしたてる。
「僕も何度も行ってるんですけどね、すっごくいい感じなんですよ。お墓参りとかも、そんな暗い感じにならないで、なんかこうカジュアルな感じで行けちゃうと思うんですよ。あの~ほら、みんなでドライブがてらーみたいな感じで」
フレンドリーさを表したいのか、感じ感じと連呼する友達口調こそ嫌な感じだ。口のききかたを知らない若者が私は嫌いだった。むらむらと怒りがこみ上げる。ついに私は相手の話を遮って言った。
「いいえ。結構です」
硬い声で返したつもりだが、相手はめげなかった。
「いや、ちょっと待ってくださいよ。ご料金もありえないくらいお安いんです。ここならお子さんも一緒に、ご家族揃って入れますよ」
怒りは頂点に達した。まだ若い私たち夫婦ばかりでなく、生まれてもいない子供の墓の心配を今からしなければならないというのか。
「いい加減にしてください! こっちだって忙しいんだ!」
私はとうとう怒鳴り声を上げた。貴重な休息時間を邪魔されるのはうんざりだった。
「……なんだ、てめえ?」
一瞬の沈黙のあと、男の声ががらりと変わった。怒りを吐き出した爽快に浸る間もなく、どっと私の背中に汗が吹き出す。
「こっちだって、仕事でやってんだよ。なんでキレられなきゃなんねえんだ、あ?」
やばい。ただの軽薄そうな男ではなく、実はやくざ者だったのかもしれない。一段と大きくなった男の声が、受話器越しに耳にがんがんと響いた。私はこの手の人間が大の苦手だ。
「てめえ、コラ、何か言えよ……」
言い返すこともなく、私は音を立てて受話器を置いた。
大きく息を吐く。まだ心臓がばくばくと波打っていた。
電話を切ったはいいが、相手はこちらの電話番号を知っていることは間違いないのだ。もしまたかけてきたら、どうしよう。あるいは住所を突き止められて、仕返しにこられたりしたら。臆病な私の頭は、嫌な想像で膨れ上がった。
壁にかかっている時計を見上げた。四時半近く。妻はまだ帰らない。
もうたくさんだ。どうして電話一つのために、こんなに怯えて苛々しなければならないのだ。
私は電話が置いてある棚を前にずらすと、本体から繋がるモジュラーケーブルを握った。
今日はもう電話線を抜いてしまおう。もし義母がかけてきたら悪いが、緊急の用事なら妻の携帯にかけ直すはずだ。
やはり固定電話など無い方がいいのかもしれない。料金も無料ではないのだ。デメリットの方が大きい気がした。
ケーブルがするすると手ごたえなくたぐりよせられる。電話線は既に抜けていた。