第九王女のプライベート芋畑ダンジョン
ティティルーゼは、広大な領土を誇るカリサス王国の第九王女であった。
側妃と認められる最低爵位の伯爵家出身の母親は第五側妃だった。その美貌で一時的に国王からの寵愛を受けたものの、すぐに飽きられてしまったために王宮での地位も低い。
身分の高い他の側妃たちや正妃から時々虐げられることもあったが。
それでも側妃として、王女としてのお手当が最低限であったが支給されていたので、王宮の片隅の部屋で母娘ふたりで穏やかに暮らしていた。
「お母様、今日はマナーの先生は来られないの? 昨日は語学と音楽の先生が来てくださらなかったし……」
ティティルーゼの質問に母親は困ったように美しい花の顔を曇らせた。その表情を見て賢いティティルーゼは察した。
母親の美貌に嫉妬した他の側妃か正妃かの指図だと。
母親の美貌は、母親に幸福よりも不幸を多くもたらした。短い戯れで国王に寵愛されたものの後は打ち捨てられ、衣食住は保障されているが王宮で薄遇されて粗雑に扱われていた。
「お母様、心配しないで。マナーはほぼ完璧だと先生からお墨付きを頂戴しているから。それに。お勉強ならばお母様が教えてくださるでしょう?」
「ええ。お母様は語学が得意なの、五ヶ国語をティティルーゼに教えてあげられるわ」
「嬉しい、お母様。私、外国語に興味があったの」
大きな黒縁の眼鏡のティティルーゼが微笑む。視力は悪くない。顔を隠すための眼鏡であった。容貌を見せないように、と。決して人前では眼鏡を外してはならないこと、髪を結んだ紐を解いてはならないことを母親から強く繰り返されていた。
部屋の前の狭小な中庭も母娘のささやかな楽しみであった。
母親は水の『天恵』持ちであったので中庭の花々の世話をしていた。
「お母様のお水、透き通っていて綺麗」
「うふふ、女神様のご慈悲のおかげね。ありがたいことだわ。ティティルーゼにも『天恵』があれば……将来の選択肢が増えるかも知れないのに……」
この世界に魔法はない。
しかし魔法に近い力はあった。それが『天恵』である。
十万人に一人の確率で女神より『天恵』と呼ばれる力が人間に与えられていた。『天恵』は能力がそれぞれで、母親のように水魔法の『天恵』を与えられている者もいれば、治癒や予知や風魔法や火魔法など個人個人によって能力が異なった。
本来ならば『天恵』持ちは女神の『愛し子』として尊重されるはずなのに、この『天恵』すらも妬みの対象となった。
王宮という閉じられた世界で。毒を秘めて咲き誇る真紅の夾竹桃のごとく嫉妬に燃えた他の側妃たちと正妃は、憎しみに近い羨望をもってティティルーゼと母親を疎んじたのであった。
「お母様、種を植えました。この花は春になったら咲くのでしょう?」
「そうよ。春に咲く花よ、さぁ、お水を撒きましょうね」
こうして中庭には母娘が丹精込めた花々が四季折々に美しく咲きあふれた。
草花が芽吹き薄緑色のレースで飾られる春麗ら。
小鳥の囀りに誘われたティティルーゼが何気なく、
「お母様。春は雲がふんわりと浮かんでいますね。太陽や月がガラスを通したみたいにぼんやりとして。水が心地よい水温となって。私、綿雪が降り積もったような雪柳や妖精のベッドのようなチューリップや蝶々の羽みたいな花びらのスイートピーが好きです」
と、人魚が歌うような声で綴った。母親が熱心に身を乗り出す。
「まぁ、ティティルーゼは詩人みたいね。では夏は?」
「夏ですか? 夏は木々や草の生気あふれる葉色に染まったみたいな風が吹きますよね。空は明るい青空となって。夏木立の緑陰はくっきりと濃くて。黄昏が紫陽花の花色みたいに変化するのも素敵です。浮遊する蛍は儚げで。泳ぐ金魚の尾びれは涼しげで。馬鈴薯の花は白くて可愛くて、水面を漂うように咲く睡蓮は清らかで、月下美人の花は神秘的で綺麗です」
「お母様も月夜に咲く月下美人は好きだわ。次の秋は?」
「秋は月が冴え冴えとして、流れ星が夜空を走って星流れる光の針みたいです。初露、朝露、夜露。草花に宿る露が水の小さな水晶玉のようにキラキラとしています。黄葉、紅葉、葉が鮮やかに色が変わる様も美しいですし、熟した果物の葡萄や梨や栗や柘榴が美味しいです。楚々とした風情の萩も好きです」
「うふふ、秋は美味しいものがたくさん実るわよね。最後の冬は?」
「冬は。冬は、雪や風がやんでほこほこ暖かい日が好きです。木々や草々が枯れてしまった枯園でも、早朝の霜柱をサクサクと踏むのは楽しいです。雪は真っ白で。川底が透けるように澄んだ冷たい水は鏡のようで。樹氷も霧氷も雪と氷が織りなすガラス細工みたいで、太陽に照らされる木々は凍った花が咲いたように美しいです」
母親は感嘆のため息をついた。
「ティティルーゼは好きなものがいっぱいあるのね。貴女には豊かな感性と才能があるわ。もっともっと勉強をさせてあげたい……」
ティティルーゼは母親の願いが叶わぬことを知っていた、王女として相応の教養を身に付けたいという自分の希望も。だから笑顔で言った。
「いいえ、お母様。私は勉強よりもお母様といっしょにいられるならば幸せです」
「でも……」
「大好きなお母様のお側がいいのです」
「……あたくしもティティルーゼが大好きよ」
「嬉しい、お母様。大好きです」
涙の滲む顔に笑みを浮かべて母娘はお互いを抱きしめあった。
諦めたことは数多くあった。
たくさんの悲しみを母娘で分けあった。
それでも。
母娘の部屋には宝石のような愛があり。
慎ましくとも幸福な生活であったのだ。
だが、運命は残酷だった。
ティティルーゼが13歳の時にもともと身体の弱かった母親は風邪をこじらせて亡くなってしまったのである。
医師は来ず、薬も届かなかった。
王宮中で風邪が流行ったために母親は後回しにされたのだ。
「……あたくしのティティ、どうか……幸せになって……。髪、を……切っては、ダメ、よ……。女神様は、美しいもの……に、『天恵』……を、くださ……る……わ……。誠実……な……心を………………」
枯れ落ちる寸前の花のように顔色を失った母親にティティルーゼが縋り付いた。
「いや、いや、お母様! 私を一人にしないで!」
耐えきれずティティルーゼはすすり泣く。涙が頬を伝った。胸が千切れるように哀しい。
「女神様……! お願いします! お願いします! お願いします! お母様をお助けください……っ!」
しかし。
泣き叫ぶティティルーゼの祈りは、叶わなかった願いの重なりの一つとして無情にも積み上げられてしまったのだった。
そうしてティティルーゼは。
母親と暮らしていた部屋に放置された。
名目上は、母親を亡くしたために正妃がティティルーゼの養母となったが、正妃はティティルーゼを引き取ることはなかった。
正妃には実子の王女が二人、王子が二人おりティティルーゼの面倒まで見る気はなかったのだ。
亡き母親の生家の伯爵家もティティルーゼの後見をしなかった。王子であれば価値もあっただろうが、ティティルーゼは王宮で半ば忘れ去られているかのような影の薄い第九王女。伯爵家にとって利用価値はない。
兄弟の王子たち、姉妹の王女たちはティティルーゼを見下して苛めて遊ぶことはあっても優しくしてくれたこともなかった。
ティティルーゼが黒髪であったことも軽視に拍車をかけた。
カリサス王家の色は金髪と青眼。
王子と王女の全員が金髪青眼で誕生するわけではないが、高確率で金髪青眼であった。
だがティティルーゼは母親と同じ真っ直ぐな長い黒髪だった。目の色も太陽の光を浴びて呼吸する若葉のように鮮やかな緑色である。
王家の色を所有しないティティルーゼを軽んじる者は多かったのだ。
父親である国王もティティルーゼを気にかけることはなかった。
ティティルーゼに限らず王子と王女の養育は母親と、乳母や側近たちや家庭教師たちの仕事である。ましてやティティルーゼは母親の実家の権勢や王家の色などあらゆる条件において王女としてのメリットが薄く、ゆえに政略として使える利点もない。国王が関心を向けることはなかったのである。
つまりティティルーゼは家族から愛されることなく。周囲からも尊重されることなく。一人ぼっちとなってしまったのであった。
第九王女として身のまわりの世話をするメイドは日替りで二人派遣されていた。だが、メイドはメイド。食事を運び、掃除をして、風呂の用意をして、諸々の家事全般を担当するだけであった。
ティティルーゼの話し相手になってくれることもない。頭を撫でくれることも、労ってくれることも、慰めてくれることも、メイドの役割ではなかった。
王宮にはたくさんの人々がいても。
まるで道の途絶えた孤島のような部屋で。
ティティルーゼは寂しくてベッドで泣いたが、夜はメイドすらおらず孤独の痛みに胸を刺し貫かれるだけであった。枕元の鈴蘭灯には灯りもなく。飛べないまま凍った冬の小鳥のように。冷え固まって一人ぼっちで眠るしかなかったのである。
食事も用意されない日があった。
メイドが日替りなのでバレることはないと、手を抜くメイドが幾人もいたのだ。ティティルーゼに同情的なメイドたちは真面目に働いていたので、そのおかげでティティルーゼは飢える寸前のギリギリのラインを保つことができていた。
王宮を出ることも考えた。
だがティティルーゼは王宮しか知らない。王宮の外の世界で頼る者もいない。
13歳の自分には無謀すぎる考えだと、聡明なティティルーゼは現実的な選択ではないことを理解していた。何より母親は側妃として王家の墓に入っているのだ、身分を捨ててしまえば母親の墓に参ることもできなくなる。
結局ティティルーゼは一人きりで立ち竦むしかなかったのだった。
そんなある日。
母親との思い出である大事な中庭がグチャグチャに荒らされた。
「全部引っこ抜きなさい!」
姉の第四王女が庭師たちに指示していた。側には第五王女と第七王女もいて面白げに笑っている。
慌ててティティルーゼが駆けつける。真っ青になって姉王女たちに懇願した。
「おやめください! お姉様、お願いいたします!」
「お姉様なんて呼ばないで! おまえに呼ばれると虫酸が走るわ!」
と、憎々しげに第四王女が吐き捨てた。
ひんやりと冷たい風のようなものが胸の底に吹く。巻き付く蔓みたいな悔しさに、無力なティティルーゼは唇を噛んで頭を下げた。
「……第四王女殿下、どうかお願いいたします。中庭を破壊するのをおやめください」
第四王女が高慢に嗤った。
「王宮に相応しくないのよ、こんな貧相な中庭もおまえも。こんなものは王宮には不用だわ!」
第四王女の命令に、庭師たちは中庭を掘り返して徹底的に損壊させた。花の一輪さえ残さずに踏みつける。
「やめて! やめてください!」
嘆願するティティルーゼを王女の侍女たちが押さえつける。
そして、ティティルーゼの質素なドレスに何かの液体をかけた。パチャ。濃密な甘い匂いが広がる。
「フフフ、みすぼらしいこと。さぁ、巻き添えにならないように早く行きましょう」
颯爽と身を翻して第四王女たちが立ち去った。後ろを振り返りもしない。
ヴヴヴヴヴヴヴヴ……。
ティティルーゼは泣くこともできなかった。
幾匹もの蜂に襲われたからだ。
部屋に逃げ込もうとしたが、扉の前にメイドたちが立ち塞がり入れてくれない。
「助けて!」
悲鳴をあげたが、助けてくれる者などいなかった。
無我夢中でティティルーゼは走った。
蜂が迫ってくるのを背中に感じた。
距離が縮まる。蜂の方がティティルーゼよりも速い。
焦りから足元を見ていかなったティティルーゼは小石に躓き、勢い余って一気に地面に転倒する。長い黒髪を縛っていた紐がブチリと切れた。恐怖で肌が粟立つ。ティティルーゼはその場で頭をかかえて両膝を曲げて蹲った。反動で黒縁の眼鏡がガチャンと外れた。
ビュッッ!
風を切る音が響いた。
ポト、ポト、ポト、大地に落ちる雨音のような音も。
「大丈夫ですか?」
若い男性の声だった。
蜂の羽音はしなかった。
震えていたティティルーゼは、おそるおそると顔をあげる。
目の前には騎士服を着た赤い髪の少年が立っていた。
視線が合う。
赤い髪の少年騎士が花のように可憐な13歳のティティルーゼを見た。
ティティルーゼが赤い髪の凛々しい15歳の少年騎士を見た。
目を見開く。
鼓動が高鳴った。
まばたきを忘れた目が熱に染まり、ジワリと頬が上気する。
恋をしたのは瞬間だった。
お互いに、無防備なまでに一途な一目惚れであった。
「……僕は。僕はレジアス辺境伯家のジルリオンといいます。近衛騎士の末席に身をおく者です」
近衛の騎士服は金糸で贅沢に刺繍がほどこされ、黒いベルトの上には飾帯が幾重にも巻かれて華やかさを演出していた。
「……私は。私の名前はティティルーゼです」
ティティルーゼはレースや刺繍の飾りのない灰色の質素なドレスだが、そのシンプルさがかえって足元近くまで流れ落ちる長く艷やかな黒髪の魅力を際立たせていた。花の蕾のような唇も、緑の瞳も、あどけなさを残す顔立ちも、滑らかな白磁の肌も、華奢な手足も、清純な美しさがあった。
自身の美貌で苦労した母親が心配してティティルーゼの美しさを地味でやぼったい髪型にしたり眼鏡をかけさせたりして隠していたが、それらを転んだ時に落としてしまっていた。
ティティルーゼに見惚れていたジルリオンが一瞬で我に返り、片膝をついて騎士の礼をとった。
「ご無礼をお許しください。第九王女殿下」
ティティルーゼは社交の場に出たことがないので容姿は知られていないが、王族としての名前は系譜にある。誰もティティルーゼを重要視しないので、ティティルーゼの名前すら覚えていない者がほとんどであった。しかし、ジルリオンのように貴族の知識として心に留める者も少数であるがいた。
「立ってください。私は王女といっても名ばかりですので……」
ティティルーゼは切ない色を宿した瞳でジルリオンを見つめた。
「ありがとうございました。……私を助けてくれる人はいませんでした……あの、お名前を呼んでもよろしいでしょうか?」
「喜んで。どうぞジルリオンとお呼びください」
「感謝いたします、ジルリオン。私はティティルーゼと、いえ、ティティと呼んでくださいませ」
「ありがたき幸せにございます―――ティティ様」
「ティティです。ジルリオン、言葉も崩して楽に喋って欲しいです」
「……お言葉に甘えます。ティティ」
頬を染めて、13歳の少女と15歳の少年らしく初々しくはにかみ笑う。胸が痛い。名前を呼ばれることが嬉しくて、心臓が熱い。
「ティティ」
「はい、ジルリオン」
ジルリオンが若い狼のようにクンッと鼻を鳴らした。
「甘い匂いが?」
「第四王女殿下に何かの液体をかけられました」
雨に打たれた花のように悲しげに俯くティティルーゼの姿に、ジルリオンの額に青筋が立つ。許すまじ、第四王女。即時に第四王女はジルリオンの敵と認定された。
ジルリオンがティティルーゼのドレスの裾に視線を走らせる。敬語を省略して口調をくだけさせて言った。
「これは虫寄せの匂いだね」
騎士服のポケットから小袋を取り出した。
「ティティ。中和をしてもいいかな?」
「お願いします。蜂に追いかけられるのは嫌です」
小袋を傾けて、ジルリオンはドレスの裾に粉をふりかける。
「野外の訓練用に虫除けを持っていてよかった。―――虫除けの匂いの方がキツくなったから、もう蜂は寄ってこないよ」
ホッとティティルーゼは息をつく。
「重ね重ねありがとう、ジルリオン」
ほわっと笑うティティルーゼが可愛い。
ジルリオンは情報の重要性を認識していた。
だから、剣聖と称賛される王宮騎士団長の元で修練をするためにレジアス辺境領を離れて王宮騎士の任についた時、様々な情報を収集した。
もちろん王族の情報も。
亡き第五側妃とティティルーゼが冷遇されていたこともジルリオンは知っていた。
王家に対して腹の底から蛇がうねるような怒りが沸き上がった。叫びたくなるのをこらえてジルリオンは呼吸を整えた。これは同時に、王家に蔑ろにされているティティルーゼを囲い込むチャンスだとジルリオンは思考したのである。
一目惚れとは恐ろしい。
さらに恐ろしいことには、ジルリオンは決して諦めることのない執着のねばっこいタイプだったのであった。仕方ない。レジアス辺境伯家の血族は頭の回路が壊れているのではと囁かれるほど優秀なのに、とんでもなく粘着質の家系としても有名なのだから。
ジルリオンは、ティティルーゼと結婚するための計画を頭の中で猛烈な速さで組み立て始めていた。貴族の10代は結婚適齢期、政略結婚ならば幼児でも婚姻を結ぶ。ましてや王家と辺境伯である、政略としての理由はたっぷりとあった。外見は申し分のない爽やかな少年騎士であるが、ジルリオンの内面は悪魔よりも悪魔的思考をする腹黒純度100パーセントなのだ。
「ティティ。いきなりで信用できないだろうけれども、僕と婚約をしてくれないか?」
優しくジルリオンがティティルーゼの手をとる。
「僕はティティが好きだ。一目惚れなんだ。辺境伯家の次男と第九王女。僕との婚約は、レジアス辺境伯家のスペアの政略として成り立つけど好条件ではない。王妃や側妃の方々、王女殿下たちが嫉妬するような垂涎の婚約じゃないから目立つこともない。でも婚姻すれば、レジアス辺境伯家はティティの後見となれる。ティティの立場を守ることができるんだ」
「私の立場……」
「僕はティティの現状をおおまかに把握している。このままだったらティティの身が危ない可能性もある。お願いだ、僕と婚約して。僕にティティを守らせてほしいんだ」
真摯でひたむきなジルリオンの眼差し。
ティティルーゼは視線をそらして、黄昏の光が受けて伸びる木々の影をながめて言った。
「……私との婚約は利益がありません」
ジルリオンが追いかけるように言う。
「あるよ。僕が幸せになれる」
「でも……」
「僕はティティが好きなんだ。理由がそれだけではダメかな?」
逡巡して、ティティルーゼは口を開く。
「……ジルリオンが望んでも、レジアス辺境伯家が許可をしないと思うわ」
「心配いらないよ。レジアス辺境伯家も反対なんかしない、代々レジアス辺境伯家は恋愛結婚なんだ」
ジルリオンの声は明るい。
しつこくこびりつく粘着の家系なのだ。
レジアス辺境伯家において、恋愛の邪魔をする者は地獄の呪いをかけられると声を潜めて囁かれるほどの公然の秘密なのである。賛成こそすれ反対する家族はいなかった。
視線を戻して、ティティルーゼはジルリオンを見た。
「……本当に? 私はジルリオンの迷惑にならない?」
ティティルーゼだってジルリオンが好きなのだ。蜂から救ってくれて。かっこよくて。一人ぼっちのティティルーゼに初めて手を差し伸べてくれた騎士で。婚約できるならばどれほど嬉しいことか。
それに、王宮での未来が暗いこともティティルーゼは理解していた。ジルリオンの差し出してくれた手がおそらく唯一の道だということも。
「信じてほしい。レジアス辺境伯家の血族は一途(=執念の塊)なんだ」
キリッと澄んだ双眸で言い切るジルリオンの内面はドロドロの底無し沼である。
「本当の本当に、ジルリオンの負担にならない?」
不安と期待にティティルーゼの緑の瞳が水面を揺蕩う花びらのように揺れる。
「信じて。僕が幸せになるだけだよ」
事実であり、真実である。
強心臓と鋼鉄の神経を誇るジルリオンはにっこりと笑みを浮かべた。
「ティティといっしょに幸福になりたいんだ」
ぎゅっ、とティティルーゼがジルリオンの手を握り返した。
「……ジルリオンと婚約をしたい、です」
「ありがとう! ティティ、二人で幸福になろうね!」
抱きしめたい気持ちをグッと我慢して、ジルリオンはティティルーゼの細い手を両手で宝物のように包んだ。
手を取り合うティティルーゼとジルリオンを黄昏の光が照らす。
雲が夕顔の白い花びらがほぐれるように静かに形を変え、黄昏に色づき、ほんのりと影を刷く。空には夕闇を帯びた黒い紺色が徐々に広がっていた。
「ティティ、部屋に送っていくよ。明日も会える?」
「会えるけど。ジルリオン、仕事は?」
「近衛だけど近衛の仕事はしていないんだ。騎士団長の鍛錬を受けるために来ているから。形だけ近衛に籍をおいているんだ、他にも何人かいるよ」
仲良く話しながら歩き、ティティルーゼの部屋に到着したジルリオンは激怒した。
破壊された中庭。
夕食の準備をされていない部屋には、灯りすら灯っていない。
顔面は平静を装っていたが、ジルリオンの腸は煮えくり返っていた。
その夜から何故か。
正妃と側妃たち、王女たちと王子たちの部屋に毒蜘蛛や百足や毒蛾などの毒虫が出現するようになった。蚊やダニなどによる感染症を引き起こす虫によって床につく王族もおり、厳重に対処されたが虫の被害は続いた。
日夜の連続なので自然的とは考えられなかった。
だが、よほど用意周到なのか人為的な痕跡が発見されない。
特に第四王女、第五王女、第七王女、その侍女たちや取り巻きたちは肉食アリの大群に襲われて、顔面や手足に傷跡が残ることになってしまった。
これにより王族たちは疑心暗鬼に陥り、不信感を抱いてお互いに警戒を高めていったのであった。
一方で。
ひっそりとティティルーゼとジルリオンの婚約は結ばれた。たいして重視すべき婚約ではない、と書類による婚約だけで国民への公布もなかった。
しかし、目立たない婚約をティティルーゼは喜んだ。王妃たちや姉妹の王女たちの嫉妬は恐い。処世術は埋没して人目を引かないこと、とティティルーゼは母親から教えられていた。
ティティルーゼの環境も激変した。
部屋はそのままだが、レジアス辺境伯家から派遣された専属のメイドのサビナと女性騎士のタリアが護衛についたのである。ティティルーゼは気付いていなかったが、複数の影も配置されていた。この影からの情報をサビナとタリアが受けて、姉妹の王女たちと遭遇しないように上手く接触を回避できるようになったのであった。
もう一つ激変したことは、ティティルーゼに『天恵』が女神より与えられたことだった。
それはジルリオンと出会った日の翌朝であった。
朝食のバスケットを持参してティティルーゼの部屋にジルリオンが入ってきた時、女神の声が響いたのである。
『ティティルーゼよ。そなたの声は愛い、言の葉も愛い、心も愛い。そなたに『天恵』を授けようぞ。ジルリオンよ、そなたはティティルーゼの守護者じゃ。ティティルーゼの『天恵』に入る許可を与えよう』
びっくりして固まるティティルーゼに女神の言葉は続く。
『これからカリサス王国は数十年に一度の大乾季がやってくる。そなたの母親の『天恵』はカリサス王国に必要であったというのに、人間とは愚かなものじゃ。水の『天恵』持ちは他にもおるが、そなたへの『天恵』は妾の人間への慈悲ぞ。そなたの母親の件は妾も立腹しているのじゃ。故に使うも良し、使わぬも良し、そなたの自由にせよ』
予告などない。『天恵』は女神が授けたい時に授ける天のお告げであった。
突然のことに唖然としていたティティルーゼだったが、ハッと我に返って呟いた。
「……ジルリオン、私、立ったまま夢を見たのかも……。女神様が私に『天恵』を授けてくださった夢を見たの……」
「夢じゃないよ、ティティ。ティティは『天恵』持ちになったんだよ!」
「夢じゃ、ない……?」
「もう『天恵』はティティに結びついているから、胸に手をあてて『天恵』のことを考えてごらん。自分の『天恵』がわかるはずだよ」
目を閉じて、ティティルーゼが両手を胸に手をあてる。
「……私の『天恵』はプライベートダンジョン……」
ティティルーゼが目を開けた。緑の瞳が芽吹いたばかりの新緑の葉のように輝いている。
「ジルリオン、嬉しい。私、本当に『天恵』を女神様から頂戴したのね」
「おめでとう、ティティ。でも『天恵』のことは秘密にしよう。『天恵』を搾取したり利用したりする者は多いから」
「ええ。幸いなことに女神様のお声を聞いたのは私とジルリオンだけだもの。絶対に王家や貴族には言わないわ。……お母様の二の舞いになるもの……」
保護の名のもとに王宮に閉じ込められた母親。
なのに母親に与えられたのは保護どころか心を削る辛い日々だった。ティティルーゼは母親の覆轍を踏む人生をおくりたくなかった。
「けれども大乾季のことは伝えなければ」
ティティルーゼが強い口調で言った。
「皆が飢えてしまうわ」
「僕に任せて。レジアス辺境伯家から国王陛下に報告をするよ、祖母が予言の『天恵』持ちなんだ。祖母の予言だったら皆が信じるからね」
ジルリオンの祖母はここ数年間、予言をしていない。床にふせっていた。それでも、かつては外れることない予言者としての名高い実績があった。
「ジルリオン。もしよかったらダンジョンに私と入ってくれる? 不安なの」
戸惑いがちにティティルーゼがジルリオンを窺う。
「あたりまえだよ。ティティが嫌だと言っても安全の確認のためにダンジョンに入るよ」
ヴォ゙ン。
ぽっかりと黒い穴が開き、ティティルーゼとジルリオンが足を踏み出した。ジルリオンは剣の柄に手をかけている。
ダンジョンには。
芋が1個と。
鍬が1丁と。
立派な角と純白の毛、全身が淡く光る3メートルほどのマウンテンゴートがいた。おそらく女神の眷属の聖獣である。鳥や獣など姿は様々であるが、光り輝く純白は聖獣の証であった。
「え〜と……?」
ティティルーゼが混乱する。
ダンジョンとは、普通は迷路であったり地下建築であったりと複雑な構造をしていた。が、ティティルーゼのダンジョンはただただ広大であった。草の一本さえ生えていない。土地が無限のように広がっているだけであった。
モンスターもいない。
宝物もない。
あるのは、芋と鍬と聖獣である。
とりあえず鍬に触ってみると、開眼するようにティティルーゼはダンジョンのシステムを悟った。
「ジルリオン! このダンジョンは芋畑なのよ、私が鍬で土を耕して、あの芋は無尽蔵に苗を発芽させる種芋で、聖獣様は畑の世話をしてくださるの!」
「けど、ティティは華奢だよ。畑なんて無理だ」
「いいえ。このダンジョンは不思議な空間で、疲労なんて関係ないし、鍬も力なんていらないの」
軽々とティティルーゼが鍬を持ち上げる。
「ね? 見てて?」
ドガガガガガガガガガガガガガガガガガッ。
ドレスの裾が蝶々の翅のように翻り、瞬く間にティティルーゼの細い腕が大地を耕した。
1分で10メートルくらい進む。
まるで突風のごとく速い。
ジルリオンが断言した。
「なるほど。自然の摂理無効のダンジョンらしいダンジョンだね。これならば安心だ」
その翌日。
ジルリオンは、サビナとタリアをティティルーゼに紹介して、頭を下げた。
「ごめん。急な用事で王都に来ていた父上とともにレジアス辺境伯領に戻ることになった。早馬の連絡では、領地の兄上に何かあったらしい」
「わかったわ、ジルリオン。私は大丈夫だから心配しないで」
「サビナとタリアは信用できる。ダンジョンのことを伝えても秘密を漏らすことはないよ。ティティの手助けになってくれるよ」
「ええ、ジルリオンの紹介だもの。信頼するわ。あのね、手紙を書いてもいい?」
「僕も書くよ。王都の出立は明日なんだ。今日はデートをしよう、王宮を出る許可をもらってきたんだ」
初めてのデート。
初めての王宮の外。
ジルリオンの馬に乗って寂れた裏門から出ると、貴族街、商人街、職人街や平民街と続き、何もかも初めてのティティルーゼをワクワクとさせた。
「どこへ行くの?」
「あの中庭に撒く花の種を買おうと思って」
ジルリオンの気遣いをティティルーゼは嬉しく思ったが、首を横に振った。
「ううん。今は芋畑を優先したいから中庭の花はいらないわ。それに……せっかく植えてもお姉様方にまた荒されてしまったら……悲しいもの…………」
納得したジルリオンは別の提案をした。
「では、塔に登ろう。ティティは王都が初めてなんだろう? 王都の町並みを見てみようか?」
「塔?」
「大聖堂に王都で一番高い塔があるんだ。立入禁止だけれども、コネがあるから」
ジルリオンに手をひかれてティティルーゼは螺旋階段を登った。
石造りの螺旋階段は長く、薄暗い。
はぁはぁとティティルーゼの息が上がる。
ようやく登った塔の上には、手が届きそうな青い空があった。指を入れたならば爪が青く染まりそうだった。
空の底には、賑やかな王都の町並み。
無数の人、家畜、馬車が盛んに行き交っている。
王都を囲む城壁には色とりどりの旗が掲げられて風にたなびき勇壮であった。
王都から遠く、青い空を切りとるみたいに聳え立つ壮大な山脈。その下の緑滴る森を横断する大河の流れは、空と水が織りなす美しい旋律のように青く燦めいていた。
風が吹く。
天と地に速さの異なる風が流れて留まることはない。
翼をひろげた鳥が一羽、風に乗って空を滑り白雲の彼方へと消えた。
「一羽で飛ぶあの鳥は、寂しくないのかな……」
ティティルーゼが呟く。
「たぶんあの鳥は巣に帰るんだよ。ティティも一人じゃないよ。僕がいる」
「うん、うん。私とジルリオンは婚約したものね」
「ずっといっしょだよ」
「うん。ずっといっしょにいるわ」
くだりの階段はジルリオンがティティルーゼをおぶった。
「かっこよくお姫様抱っこをしたいけど、足元が見えなくなる。おんぶで我慢してね」
「私こそごめんなさい。体力がなくて」
「このままおぶってレジアス辺境伯領へティティを連れていけたならばなぁ……」
「結婚は成人年齢の16歳だもの。よほどのことがない限り、体面があるから王家では16歳以下での結婚を結ばないわ」
「非常に残念だ」
そうして翌日、ジルリオンはレジアス辺境伯領へと旅立った。
以前とは異なり、ティティルーゼはサビナとタリアと影たちに守られていて安全であった。お腹がすくこともない。お風呂にも入れる。清潔な寝具で眠れる。枕元の鈴蘭灯には灯りが灯っていた。でも、ジルリオンがいない。寂しくてたまらなかった。
寂しさを紛らわすためにティティルーゼはダンジョンにこもって、長い髪をくるくると結わえると無心になって鍬をふるった。
ドガガガガガガガッ。ピョン。
ドガガガガガガガッ。ピョン。
ドガガガガガガガッ。ピョン。
鍬の動きが速すぎて残像すら見えない。
結わえた髪の端っこが兎の尻尾のように揺れる。
純白のマウンテンゴートが楽しそうに目を細めた。
朝も昼も夕方も一生懸命に芋畑でティティルーゼは働いた。
働きながらティティルーゼは歌も歌った。
マウンテンゴートが喜ぶからだ。
すっかりマウンテンゴートとティティルーゼは仲良くなり、親友となった。
マウンテンゴートの前世は異世界の人間だったらしく、ティティルーゼに色々なことを教えてくれた。
異世界の歌も。
素晴らしい歌がたくさんあって、ティティルーゼは夢中になったのだ。
飲めや歌えや〜、とか。
ガンガン進め〜、とか。
君への応援歌〜、とか。
誰も聴いたことのない歌詞を元気よく歌ってザクザクと耕していく。
そのこともあってティティルーゼは毎日毎日ダンジョンに通った。
収穫する喜びもあった。
ダンジョンの芋は、植えてたった5日で成長するのだ。
耕す。
苗を植える。
芋が成長する。
大豊作。
収穫する。
このサイクルでどんどん収穫できるので、ティティルーゼはとてもウキウキと歓喜した。マウンテンゴートが魔法で手伝ってくれるので苦労するようなこともない。
一部はレジアス辺境伯領へと運ばれ、残る大部分の芋はダンジョン内部にある時間停止の貯蔵庫に収められた。
ダンジョンでは芋以外は育てることはできないが、この芋は完全栄養食であった。
栄養価は高く、微量の回復効果もある万能の芋だったのだ。疲労や体力の回復、病気や怪我の回復、風邪などの予防の効能がある。しかも超絶美味しい。
サビナもタリアもレジアス辺境伯領の人々も、芋を食べた者たちは口を揃えて言った。
「毎食、食べても飽きない。むしろ毎食この芋を食べたい。この芋はもはや芋ではない、お芋様である」
と。
そして3年。
ティティルーゼは16歳になった。
今夜はティティルーゼの初めてのパーティーである。
兄である第三王子と隣国の王女との結婚披露宴であり、辺境へと旅立つティティルーゼが父親である国王へと挨拶をするパーティーでもあった。
王国では段々と雨量が減少しており、深刻な問題が年々増加していた。
昨年までは少量でも雨は降っていたのだが、今年はほとんど雨の恵みはなかった。空気はカラカラに乾き、池や川の水量も底をつきかけている。農作物は壊滅的被害を受けており、すでに今年は収穫量の期待ができない。少ない井戸と水の『天恵』持ちの魔法によって人間の飲み水はかろうじて確保できているが、3年連続の降水量の減少による農作物や植物の生育不良で備蓄も使い果たしていた。今年は、冬を越えられない者が続出するだろう。
第三王子の結婚も隣国からの支援目的であった。
「ティティルーゼ様、お美しいですわ」
サビナとタリアが黒髪を流したティティルーゼを絶賛する。
「サビナとタリアも出席するのでしょう?」
「はい。家が男爵なので貴族として出席いたします。何かあれば馳せ参じますのでご安心くださいませ」
「まぁ、タリア。心配は無用ですよ。ジルリオン様がいらっしゃいますからティティルーゼ様は安全です。それにもう国王陛下直筆の結婚許可書も頂戴しているのですから、レジアス辺境領行きを誰かに妨害されることもありません」
「そうですわね。ティティルーゼ様はレジアス辺境伯家の後継者であるジルリオン様の婚約者ですもの。口出しできる者はおりませんね」
「結婚式の日程も決まっているのです。レジアス辺境伯家を敵にまわすなど愚かな所業ですわ」
敵対者には容赦しない、とサビナとタリアがホホホと上品に笑う。
ティティルーゼは、パーティー後にレジアス辺境家へと嫁入りのために王宮を出ることが決定していた。
「ティティ。迎えにきたよ」
3年前よりも身長が高くなり精悍さを増したジルリオンが入室してきた。赤い髪は燃えるように鮮やかで、神話から抜け出してきた若き軍神のようであった。
王宮の奥ならば足を踏み入れることはできないが、ティティルーゼの部屋は王宮の端っこなので出入りの制限がされていなかった。
「ジルリオン、凄く素敵なドレスとお飾りをありがとう」
ジルリオンの双眸がやわらかく弧を描く。
「僕のティティ。綺麗だ。花の妖精みたいに可愛いよ」
ティティルーゼの首には、中央の大きなルビーを花芯としてダイヤモンドの花びらで形取られた薔薇の花のネックレスが輝いている。
ドレスは、裾が後ろに長く伸びているロングトレーンドレスであった。色は緑を基本として白いシフォンやレースを重ねて薄い緑色となっていた。
マウンテンゴートによるデザインのドレスであるので、王国ではロングトレーンドレスは存在していなかった。だが、ティティルーゼの足元よりも長く流れる黒髪にはとても似合うドレスだった。
マウンテンゴート曰く。
『ロングトレーンドレスもいいけど、ティティちゃんには十二単衣が似合うのに。リアル平安絵巻と西洋アンティーク人形の奇跡の合体美少女だもん。ああん、未練だわ。いつか必ずティティちゃんに十二単衣を着てもらいたいわ』
十二単衣とは何ぞや? とティティルーゼは思ったが、情熱的に語るマウンテンゴートを前にして賢いティティルーゼは口をつぐんだのだった。
パーティー会場に入ると、ティティルーゼとジルリオンは注目の的であった。
ジルリオンは、銀糸で複雑な紋様の刺繍が施されたマントを着用していた。レジアス辺境伯家の後継者をあらわす紋様だった。
3年前、ジルリオンの兄はレジアス辺境伯家の後継者の地位を強引に捨ててアドルファ公爵家の入り婿になったのだ。アドルファ公爵令嬢と熱烈な恋愛をしたのである。
レジアス辺境伯家の血であるが故にどうしようもない、と皆がサッサと諦めてジルリオンを新たな後継者にした経緯があった。
「あの方が次期レジアス辺境伯なのね」
「ステキな方だわ」
「パートナーの女性はどなたかしら?」
「黒髪が素晴らしいわ、なんて綺麗なの」
「ええ。夜の月の化身みたいだわ」
「二人が並ぶと太陽と月のように美しいこと」
人々がさざ波のようにざわめく。
ティティルーゼはジルリオンにエスコートされて、人々の耳目を集めながら国王に礼を執った。
「第九王女ティティルーゼが、王国の太陽たる国王陛下にご挨拶を申しあげます」
人々がどよめく。
「第九王女殿下!?」
「初めてお姿を拝見したぞ!」
「あんなにも美しいお方だったのか!」
国王自身もティティルーゼの美貌に驚愕していた。
黒髪を流し、眼鏡をとり、着飾ったティティルーゼの姿に国王の側に立つ王族たちも唖然呆然としている。
「う、嘘よ。いつもみすぼらしかったのに!」
「貧相な姿をしていたわ、なのにどうして美しくなれるの!?」
王女たちが悔しげにティティルーゼを睨んだ。
「あの顔ならば利用方法は他にもあったのに惜しいことをした」
「まったくだ。帝国の側妃にして援助を求めることができたものを」
「今からでも他国に売ることはできないのか?」
王子たちは声を低くしてヒソヒソと話す。
小声であっても近くにいるのだ。当然ジルリオンの耳に届いていた。
ジルリオンの目の奥に、禍々しく滾るような仄暗い熱がジワリと滲む。
ティティルーゼにも聴こえていた。身体がこわばり、ひゅっと喉が鳴った。
ドォン!
パーティー会場に落雷のような音が響く。人々の悲鳴と怒号が交叉した。
ティティルーゼの動揺を感じとったのか、突然、聖獣が現れたのだ。
ダンジョンのマウンテンゴートであった。怒りで淡く光る純白の毛が逆立っている。
『無礼者どもめが! 13年間の養育費よ、受け取りなさい。利子に芋も1個つけてあげる。これで借りはないわ。ティティちゃん、アタシがついているわ! 言ってやんなさい!』
マウンテンゴートが王族にバラバラと金貨と芋を魔法で叩きつけた。
「うわぁ!」
パッコーン。軽い音を立てて国王の額に芋が直撃する。
再び人々がどよめいた。
「聖獣様!?」
「なんと神々しい!」
「養育費? 王女殿下の養育費だと?」
「あの金貨の量は百枚か二百枚程度だが?」
「それに、あの芋は何だ?」
「もしやあの芋は黄金甘芋ではないか!? レジアス辺境領のみで流通している極上の芋だ!」
相手が聖獣なので誰も王族に対する不敬を咎める言葉は言わない。王族よりも尊重されるべきは聖獣であるからだ。
ティティルーゼが一歩進む。
「国王陛下、養育費をお返しいたします。育てていただき(国民の税金に)感謝を申しあげます」
養育費は13年間で金貨150枚。王女としてあり得ないほど低い金額である。残る3年は食事も用意されなかった。ジルリオンに芋を売って生活費としていた。
「お礼に、私は国民に芋を無料で配る計画を立てております。冬になっても国民を飢えさせるなんていたしません。私は第九王女。王女として国民を守りとうございます」
「この芋を配るだと?」
国王が王座から身を乗り出す。
「はい。栄養価満点の芋です。第九王女の名のもとに国民に配ります。貯蔵庫は全国民を1年でも2年でも養えるほどに芋が保管されています。レジアス辺境伯家、アドルファ公爵家、それぞれの派閥貴族の協力により王国全土への運搬の手筈は整えられておりますのでご心配なく」
国王の名ではなく。
王族の関与もなく。
王家から蔑ろにされていた第九王女と、貴族たちによる国民の救済であった。
王家の面目は丸潰れである。
しかし反論はできなかった。
ティティルーゼの後ろには聖獣がいたからだ。
にこり、と可愛らしくティティルーゼが微笑む。
「くれぐれも邪魔はしないでくださいませ。でないと飢えた国民の反乱が起こりますよ」
国王は顔を歪めた。
『あ、ちょっと、そこの国王。ティティちゃんのお母様の死因となった犯罪者たちを罰しなさい。あの風邪は薬さえあれば治ったのよ。女神様の『愛し子』に手を出したんだから、天罰が嫌ならばきちんと人間の罰を与えなさい。だいたいアンタだって紙一重の位置にいるのよ、私生活はダメダメだけれども施政面では賢王だから見逃してあげているのよ』
マウンテンゴートが王族を冷たく睥睨する。
ゴクッ、と崖っぷちにいることを自覚した国王が息を呑んだ。背筋に冷や汗が流れる。たじろぎを隠して国王は言った。
「……承知いたしました、聖獣様」
国王の言葉に真っ青になる正妃と側妃たちと一部の貴族たち。
『そこのアンタたちも!』
グルリと視線を走らせて、マウンテンゴートが貴族たちに心ノ臓が喉から飛び出てきそうな威圧をかける。マウンテンゴートの前世はオネエ様なので声にはドスがあった。
『昨今、敬意が足りないわよ。『愛し子』を搾取することも利用することも禁止よ! アタシが見ているからね!』
顔色を変える貴族たちの中には、土気色の顔になっている者もいた。
そんな王族たちと貴族たちの様子を、ティティルーゼは落ち着いて眺めていた。
国民を救いたい、これはティティルーゼの本心の気持ちである。
大聖堂の塔から見た王都が、王国の景色が忘れられない。たくさんの人々の生活が、中庭のように惨く壊れてしまうのは絶対に嫌だった。
しかし、理由はもう一つあった。
きっかけはジルリオンがレジアス辺境伯の後継者となったことだ。
ティティルーゼは価値のない王女だった。が、将来ジルリオンが爵位を継承した時に妻が価値のない王女では、ジルリオンが他の貴族たちに侮られてしまう。だからティティルーゼはジルリオンに相応しい価値のある王女になりたかったのである。
豪奢な刺繍の、美しい図案の色糸の表と雑然とした糸の集まりの裏面の表裏がひっくり返るように、もうティティルーゼを価値のない王女と嘲笑する者はいなくなるだろう。
ジルリオンはティティルーゼを守りたいと言ってくれた。だからティティルーゼもジルリオンを守りたかったのだ。
国民を救いたい。
ジルリオンを守りたい。
この切望を『天恵』の芋畑ダンジョンは叶えてくれた。
「女神様に万謝を捧げます」
胸に手をあてて、そっと祈るティティルーゼであった。
「ティティ、行こうか」
「はい、ジルリオン」
翌朝、ティティルーゼはジルリオンにともに王宮を出立した。
輿入れの持参品が用意されていないことが判明して国王は慌てたが、今さらである。見送りにきていた貴族たちから国王へ向けられた白眼視は自業自得であった。
「レジアス辺境伯家で何もかも準備してあるからね」
「ありがとう、ジルリオン」
「お礼を言うのはこちらだよ。黄金甘芋のおかげで誰一人として飢えることがない」
「私の力じゃないわ。女神様のご慈悲のおかげよ。大乾季も過去の文献では2〜4年で終わるもの。もう少しの我慢だわ」
「ティティは優しいね。そうだね、もう少し皆で頑張ろう。きっと結婚式をあげる来年には雨が降るよ」
こうして後に、「お芋の王女様」と称えられるティティルーゼは国民から深く愛されて、ジルリオンと仲睦まじく幸福な人生をおくることになるのだった。
ちなみに誰も知らないことであるが、ジルリオンも『天恵』持ちであった。ジルリオンの『天恵』は『蟲王』。
秘密裏に。
証拠も残さず。
ティティルーゼに害なす者は苛烈な報復を受けていたが、マウンテンゴートも便乗して魔法を使うようになったので、敵対者はさらなる地獄を味わうことになってしまったのであった。
読んでいただき、ありがとうございました。
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リブリオン様より大幅加筆して電子書籍化
「ララティーナの婚約」
表紙絵は逆木ルミヲ先生です
「悪役令嬢からの離脱前24時間」
表紙絵はおだやか先生です
「筆頭公爵家第二夫人の楽しいオタク生活」
表紙絵は昌未先生です
どうぞよろしくお願いいたします。