日記
生きられなくなってきた。
最悪のシナリオである。
まいった。死にたくないが、死ぬしかないような状況に追いやられる。実際は、現実的にはまだ、なんとか、生きていけるが、精神的に、不安が襲ってくる。原因は、沢山ある。物理的で、即物的な観点から言えば、生活態度である。生活習慣が、何を食べて、どう余暇を過ごすか、此れを出来るだけ改めて精進すれば、精神は、少しは安定するだろう。じゃあ、何故そうしないかと言えば、人間好きに生きたいからであり、そんなに、頑張って生きるものでもないからと思いたい。只たんに、甘い人間なだけということでもある。しかし、私みたいな、人間がなんとか生きようと思ったら、そうすべきなのかもしれない。失いたくないものは、そういった余裕というより、隙であり、その隙のせいで、今こうして、精神的に不安定になっているのかもしれない。プロのアスリートのように、ストイックな生活をもし私が送ることが出来れば、人間として変われるだろう。
しかしながら、アスリートのように、ストイックな生活の中で、私は、絶対に先の事を考えてしまう。つまり、報酬の事だ。対価を望み、節制したのであれば、不安定な精神が不摂生な生活と同じように訪れてしまうことは、裏切りであり、その事でげんなりし、継続等せずに元の生活に戻る。努力が出来ないのだ。ストイックな事をいっさいしていない身からすると、その過程が報酬までの我慢の道のりでしか無くイライラとしてしまうのだ。と此処まで述べたが、結局は、人間は習慣の生き物で、其れを繰り返せば、自然と身体が勝手にそうしたくなるものでもある。
私にとっては、読書もそのひとつだ。まず、本を読むという行為から遠ざかると活字を読む事に抵抗を感じる。いや、活字を読むことは差ほど抵抗を感じないが、本を手に取り文章を読むことに抵抗を感じる。話しは、脱線したが、何故、ストイックな生活をしないのかは、目先の欲に目が眩んでいるからであり、そんな生活を望んでいないからであり、遠くにある報酬を意識出来ないからであり、報酬が支払われない、期待した結果が得られない、過度な期待をする、期待する事にうんざりする、そういった後付けがあり、結局の処、結果から得た後悔から来る改善意識が、ストイックな生活であり、その結果を望んだ訳では勿論無く、まして、結果等考えずに、飲んだり食ったりオナッたりしてる訳で、結果を考えながら飲んだり食ったりオナっていたら、其れはその時点で損をしているわけで、その結果が、そういった後悔の念を呼ぶのは、割りと生物的に理にかなった事だとしても、其れを意識し改善出来る人間は、上等で酷くマニュアルチックな人間にも思える。其れに、そういった、人間のストイックさは、人間をタフネスにするかもしれないが、私のような人間は真似出来ないが、もし真似したとしたら、逆に脆くなり、折れてしまうのではないかと、ストイックな先の未来が、今の私の未来より危ういかもしれないと、只、一歩も、踏み出さずにそんな、結末を想像する。
だから、私は死にたい訳では無く、結果論で死ぬかもしれない。人は、其れを馬鹿というのだけど、まぁ。日本の社会にカウンセリング文化が浸透すれば良い等と洋画なんかを観ていて、良く思ったりしていたのだけど、きっとあれも裕福な家庭であったり、別に文化的に実際問題浸透しているのかしらないが、良くカウンセラーに昨日見た夢なんかを話したりしていたり、過去のトラウマどうたらかんたらを話したりしていたり、昨日見た鳥がどうたらかんたら話したりしていたりしていて、割りとフラッとに抵抗なくカウンセリングを受けれる雰囲気があるのかと、思ったりしていたのです。例えば、此れが日本だともっと深刻だったり、周りから変な噂が立たれるようなことになったりし、此方も構えてしまうし、突然訪れて、昨日見た鳥が僕の前だけ息を止めて歩いていったんですよ、とか、この前夜中に田んぼの前歩いたら、カエルが合唱するのを辞めて、其れが何か世捨て人認定されたように感じたんですよ、とか言ったら、其れは其れで、やっぱり深刻にとられそうな気がするけど、そういった事をナチュラルに受け止める、発信出来る場というものは、まぁコミニュケーション能力の度合いだったり、相手との信頼関係も多いにあるが、まだ、日本という国でその文化的土壌は、出来上がっていないし、ナチュラルなものでもないと思う。要するに、此の発言を、深刻に受け止めてしまう国が日本であり、生きずらさなのだ。おおげさに言えば。いや、此の発言を大袈裟に受け止められてしまうかもと恐れてしまうのが、我が家であり、私であり、私の今の状況であり、やはり此の今の社会の空気でもあると、感じる。
ちょっと、落ち着いて話しを戻すと、精神科に行けよという事になってしまいがちだが、一旦置いといて、仮にカウンセリングに行くとしよう。此れも報酬の話しに近い気がするのだが、要するに貴方は、何をしにきたの?何が目的なの?私は何をしに来たの?何が目的なの?
ということになる。気がする。相手もその「ナニ」を期待し、わたしも「ナニ」を期待する。或いは、期待されていると思う。
其れが、問題であり、障害なのだ。その何とは、病名だったり、薬だったり、カウンセラーの知識に元付く診断だったり。
果たして、何を期待していたのだろう。今だったら、自己承認欲求だろう。だが、果たして何を期待するのだろう。ティーカップ片手に背凭れに寄り掛かって、寛ぐカウンセラーに、お菓子でも食べながら革のソファに尻を沈めて、くっちゃべりたいのか。
ぞくぞくする答えを知りたい。どうやったら死ねますかと聞かれたら、とんでもない方法を教えてくれるような答え。
まぁ、その時、その時で期待するものは違うと思うが、要するに報酬をお互いに或いは勝手に此方が期待し、期待されていると思い、提示しなければいけなく、また、提示されなければ、損をした気分になり、提示されたものが、此方の意に叶わなければ、後悔するということになる。
要するに、フランクな場ではなく、その場がフランクな場であったとしても、フランクには捉えられず、
また、コミニュケーションも実は重荷であり、枷であり、余程気が合い、対等な気分で話せると感じない限りは、一回限りの場となる、何より、わざわざ出向くのも、その施設へ入るのも億劫になる。此れは、大分個人的な意見になったが。
しかし、もし私が捉える映画の中の文化を現実に置き換え、其れが浸透する社会が日本に無いのは、国民性であり、恥の文化であり、内向的で、内と外を隔てる民族であり、何も可笑しなことではなく、何でもかんでも無理に合わす方が難しいし、可笑しなことでもある。
しかし、あぁいう気楽な診療のような、客観的な自己分析の場というものは、大いに精神的に有意義なものだと思う。私のような人種が其れを享楽出来るかどうかは別てして。