赤裸々
春に生まれた僕に、十六回目の冬が来た。
部室の扉を開けると、先輩はいつも通り本のページを捲っていた。
長机が二台と、椅子が四脚あるだけの小さな部屋。南の壁は一面本棚になっていて、文庫本に覆われている。時を刻む音と紙の擦れる音だけが、この部屋に響いていた。
先輩の胸には、見慣れない花が飾ってある。
「先輩、本当に卒業するんですね」
「当たり前でしょう、三年生なんだから」
本から視線を逸らさないまま、先輩は凛とした声でそう言った。
確かに当たり前の事ではあるのだが、僕にとっては先輩がここにいることこそが当たり前な訳で。だから、そんな当たり前が当たり前に当たり前じゃなくされることが……。
やめよう。考える内に自分でも良く分からなくなってきて、荷物を放り出して机に突っ伏した。だいたい、頭を使うなんて僕には向いていない。
ふと顔を上げると先輩の顔が目に入る。何度見ても綺麗な顔だ。
黒く艶めく長髪と、氷の様な瞳。細い四肢と均整な顔立ちも合わさって、先輩が本を読む姿はなんというか、すごく「絵」になる。
「そんなに見つめてどうしたの?」
僕の視線が気になってか、先輩は本をパタンと閉じた。……そんなに見つめていただろうか。
僕としては、ぼうっとしていただけのつもりだったのだが。
「いやあ、今更ですけど、なんで卒業式の日にまで部室に来てるのかなって」
わざわざ否定するのも面倒で、ついでに質問してみる。
とっくに卒業式も終わって生徒達がいなくなった今、先輩は何故こうしてここにいるのか。
そもそも、大抵の文化部は九月の文化祭が終わった時点で三年生は引退している。先輩も同じ時期に文芸部を引退したはずだったのだが、引退後も先輩は部に顔を出してくれていた。それも毎日。
部室に来ては本を開き、僕と言葉を交わす事はほとんどない。あったとしても「あれを取って」だの「今日はあの本の発売日」だの、雑用か他愛もない話だけだ。
「……卒業式の日もいつも通り過ごしたかったの。ただそれだけよ」
そういうと先輩はまた本を開き、またページを捲り始めた。
なんとなく、その言葉が嬉しかった。先輩の日常に、僕が含まれていることが、なんとなく。
また少し頭を使って、この気持ちは何で嬉しいんだろう、と考えてみる。
恋、とは違う気がする。確かに先輩は美人だし、付き合えたら嬉しいとは思う。けれどそれはアイドルに向ける恋慕のようなもので、非現実的な叶う事のない夢だ。
好意であることには違いないと思う。でも友情だとか、他の何とも違う。
結局でた結論は「憧れだから」だった。誰しも憧れの存在に認知されれば嬉しいだろう。多分それと似たようなものだ。ほんの少しだけでも、先輩の日常の片隅に僕が存在できていれば、それは嬉しいことなのだ。
僕の方もなんでいるのか聞かれるかと思ったが、そんなことはなかった。
先輩は、本とコーヒー以外に興味がない。自分と本とコーヒー以外は全て自分の世界の外にあるもので、それがどうなろうとどうでもいいのだと前に話してくれた。
「そろそろ片付けないといけないわね」
パタン、と二度目の音が響く。何をするのかと思えば、先輩は本棚に閉まってあった本を段ボール箱に詰め始めた。
「先輩、何してるんですか?」
「荷造りよ。立つ鳥跡を濁さずって言うじゃない? この本たち、全部私のだから」
先輩がこの場所で荷造りしてることも不思議だったが、この一面の本が全部先輩のものだったことに驚く。てっきり卒業生や保護者の寄付で集められたものだと思っていた。
というか、これだけの量の本をどうやって持ってきていたんだろう。もう僕が唯一の文芸部員だというのに、この部の事を何も知らない。
「もう私もここには来れないからね。きちんと、最後くらいは整理しておかないと」
「先輩、もう来ないんですか……?」
「当たり前でしょう。私はもう卒業するのよ」
卒業すれば高校からいなくなる。当たり前だ。でも、卒業しても先輩はこの部室で本を読んでいるんだと思っていた。形式上は所属していなくともここが僕たちの居場所だと、ここにくればいつでも先輩と会えるんだと思っていた。
そうじゃないとわかると、なんだか急に空しさが込み上げてきた。悲しいだとか嫌だとかいう前に「先輩がここにいる」のが日常ではなくなるのが、ただただ空しい。
「じゃあもう、先輩とは会えないんですか」
意識せずとも勝手に口が動いて、そっと僕の言葉は部屋に落とされていた。
「そうだね、会う理由はないかもしれないね」
先輩は淡々と、感情のない声でそう言った。
「先輩は悲しくないんですか? もう僕に会えないんですよ?」
「うーん。私達ってただの先輩と後輩だしねえ。巡君はどうなの?」
――ただの先輩と後輩。
先輩と後輩って、こんな簡単に縁を切れるものなのだろうか。
何の言葉を交わさずとも、二年間同じ時間を共にしたというのに。
「僕は、悲しいですよ」
「なんで?」
「なんでって……。だって会えないんですよ? 今までそこにあったものがなくなるって、悲しいことじゃないですか」
先輩はふーん、とひとごとのように返事すると、またテキパキと本を段ボールに詰め始めた。
その手を止めないまま独り言のように、先輩は呟いた。
「君はてっきり、私の事が好きなんだと思ってたよ」
ドキッと、胸が締め付けられるような感覚。先輩にそういわれると、今さっき結論を出したばかりの僕の想いもまた分からなくなる。
本当に憧れだけだった?
本当は恋に落ちていた?
……駄目だ。やっぱり僕に考えるのは向いていない。考えれば考えるほど思考は同じところをぐるぐる回り、頭痛がしてくる。
そもそも、どこからが恋なんだろう。ライクとラブの境目って、灰色みたいに曖昧だ。
「じゃあ、先輩はどうだったんですか? 僕の事、どう思ってました?」
考えても分からないなら考えない。考えなければ、考える必要はないんだから。
だから、僕は先輩に質問した。期待もあったかもしれない。もし僕が好きだって言ってくれたら、僕の気持ちも分かる気がしたから。
「私は……」
キーンコーンカーンコーンと、チャイムが鳴り響いた。卒業式の日にも関わらず働き者のチャイムに少し感心する。時計を見ると午後十九時で、完全下校のチャイムだった。
これ以降学校に残っていると補導の対象となる。届け出を出していれば話は別だが……。そもそも卒業式の日にこんな時間まで残っているということ自体が、補導の対象になりかねない。
「そろそろ、帰らないとね」
結局その続きは聞けないまま、僕と先輩はもう二度と会う事はなかった。