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序章





それは本当に突然で、一瞬の出来事だった。

ここ数日の度重なる残業の果てに転職を本気で考え始め、いざそうなった暁にはあのクソ上司の頭装備を必ずやすっ飛ばしてやろう。

そうしよう。不毛なんだかまだ少数精鋭が善戦してるんだか知らないけれど、きっと爽快な気分でこの職場を後にできるに違いない。

そんな事を考えながら私は自宅玄関の扉をくぐった。

瞬きを一つ、次に目を開いた時には―――




―――私は戦場にいた。



飛び交う怒号、馬や徒歩で敵味方なく縦横無尽に駆け巡る大勢の兵士たち。

武器のぶつかり合い、地面を揺らす大勢の軍靴、馬の嘶き、悲鳴、倒れ伏し生きたものがやがて物へと変わる音。

たくさんの音の渦の中に私は立っていた。

ただそれらは薄布一枚向こう側の出来事のようにほんの少し遠く、実際周りにいる兵士たちは私の存在なんて気にも留めていない。

まるでそこにいないかのように見えていない。

そして駆ける彼らは文字通り私の体をすり抜けていった。

立体のホログラム映像か何かの中に立っているかのようだった。



だからこの時、何もしなければよかったのかもしれない。

目には見えないけれど手に残るドアノブの存在を強く意識したら、目を閉じ後ずさりをしていたら。

あるいは元の世界に、日常に戻れたのかもしれない。

けれど目の前に彼が現れてしまった。

後で思い返してもこの時の私は、彼が誰なのかなんてはっきりと認識出来てはいなかったのに。

しかし伏して死体のふりをしながら弓矢が狙う先を理解してしまった。

そうしたらもう体が勝手に動いていたのだからどうしようもない。

なんのプランもなくただ真っ直ぐに矢の射線上に飛び出す。

放たれたそれは過たず私の背を射抜き氷の冷たさは一瞬、灼熱が背中全体を駆け抜けていく。

そこに肉が抉れる以外の苦痛があった。もしかしたら毒が塗ってあったのかもしれない。

妙な冷静さでそんなことを考える。

これまで平凡に三十年生きてきて矢傷を受けた事なんてありゃしないのに。

痛みなのかなんなのかもわからない苦しさに、口からは勝手にうめきとも獣の唸りともつかない声が漏れる。

それが聞こえたのか、そもそも私が飛び出す前から気づいていたのか。馬上の彼が振り返るのが見えた。

もはや足に力も入らず地面に倒れこんでいく間、スローモーションのようにそれを見る。

夜色の髪を顔を埃に塗れさせた彼はそれでも綺麗で、その綺麗な双眸が沈んでいく私を追っているのがわかった。

口が『なぜ』と動いたところまでは見ることができた。



何故?

いま考えたってこの時何故そんなことをしたのかわからない。

だって体が勝手に動いてしまったんだもの。

わからないけれど私は確かに自分の意思でこの世界に干渉してしまった。

薄布を引き裂いて、隔てられていたこちら側へと来てしまった。

帰れるのか。帰れないのか。

それはわからない。教えてくれる人はいない。

というか、自分はこのまま死んでしまうんじゃないか。

そんなことをぐるぐると考えながら私は意識を手放したのだった。









「―――ッ、ァア……‼」


身じろぎした瞬間、背中を走る激痛で目が覚めた。

左の肩甲骨より少し下がったところ。心臓でなかった事が救いだけれど、燃えるような痛みはなかなかに堪えがたく。

初めの頃は昼夜を問わず目が覚めては気絶してを繰り返していた。たぶん。

熱と痛みでだいぶ意識が朦朧としていたので、いつ目が覚めていつ気絶したのか記憶はだいぶ曖昧だ。

あれから何日経ったのかは知らないけれどようやく意識を手放さない程度まで落ち着いてきた。

ここでやっと自分の置かれている状況を把握しようという余裕が出てきたのである。

うつ伏せに寝かされているのはとても品と質のよいベッドで、目線だけで確認できる部屋の中は当然見知らぬものだ。

部屋の調度品も、私の意識があるなしに関わらずそばに控え時に汗をやさしくぬぐってくれる使用人らしき人たちの恰好も。

私が知る限りの知識によれば現代よりも中世ヨーロッパの様式に近い気がする。

しかしだ。ちらほら聞こえる彼らの会話は確かに日本語なのだ。

そういえば最初の戦場でも普通に兵士たちの言葉は理解できていた。

これは何かのドッキリか。

いや、こんな大怪我をするようなドッキリなんてネタバラしもせずに続行できるわけはない。

そもそもその辺にいる一般人をひっかけてなんになるんだ。

なんて考えながら私の中で答えは出ているのだ、信じる信じないかは別として。

つまり。



よくあるいわゆる異世界トリップってやつだ。



私は詳しいんだ。

何故ならよく読んでいたからね!

嘘です。残業ばかりの日々の隙間の潤いにちまちま読んでいたからそんなに詳しくはないです。

そんなことはどうでもいいが根拠は一応ある。

私がこんな大怪我をしてまで助けたかった彼だ。

あの瞬間にははっきりと誰なのかわかっていなかったけれどいまならわかる。

彼はヴァリスヴェア・ミシュクル。

某乙女ゲーの登場人物、この国・エスタシオン王国の"夜の守護者"の呼び名を持つ騎士の一人なのだ。

ちなみにとある攻略対象の親友であって彼自身は攻略対象ではない。

にもかかわらず彼は人気があった。

整った容姿はもちろん真面目で誠実な人柄、親友との友情の深さを知れるエピソード、国いや国王に対する人一倍の忠義心。

戦乱に揺れる大陸にあって自分についてきた民を守るために国を興し、いまもなお周辺諸国との国境線での攻防を続ける国王と同じように彼もまた国民を愛していた。

向けるまなざしは慈愛に満ちていて優しく、また彼らを守るために戦う背中は大きく力強かった。

攻略対象ではないのに本編でかなりの人気を博した結果、のちに発売されたファンディスクにて親友を中心とした形はとっていたものの実質彼のエピソードと新規描き下ろしスチルが収録されたのである。

何故攻略対象に昇格させないのかと多数のお問い合わせがあったと聞くが、ついぞ実装されることはなかった。

私はそれでよかったと思っている。

攻略対象になってしまったら新たな設定やなんかも知ることはできるけれども、それ以上に想像の余地が失われてしまうのが嫌だった。

私は私だけの彼がすでに出来上がってしまっていたから。



どうしてこんなに彼について熱く語るのかといえば命の恩人なのだ。

最近もたいがいだったのだけれどもう少し若い頃には手の抜き加減も息の抜き方もわからず、いっそ人生投げてしまおうかなんて思っていた時期があった。

そんな時に出会ったのがこの乙女ゲーであり、彼だった。

もともと小説も漫画もゲームもそこそこ嗜んでいて、ただそれらを楽しむ時間も余裕もなくなって久しく。

どうせ投げるんならちょっと楽しい思いでもしてからにしようかと無理やり有休をねじ込んだ帰り道。

本当に偶然。店頭に並んだ新発売のポップの中で絵が好みだったから以外の理由もなく手に取り、食糧を買い込んでやり込んだその夜にはドハマりしていた。

内容はよくある乙女ゲーと特に変わらない。

俺様やわんこや腹黒やクールやネガティブな攻略対象を現代日本からやってきた主人公の少女がなんやかんやしていく。

恋愛エピソードなんかはたぶん普通だ。癒したり歯向かったり謀略を阻止したり。

ただその過程で明かされていくサイドストーリーがよかった。

攻略対象自身とその周りにいる人々の過去や現在を巡る物語。

メインのキャラクターと同じように生き生きと描かれていた。

だから攻略対象たちはそれぞれ愛されていたし、周辺の人々もまたそれぞれにファンがついたりしていた。

彼もその一人なのである。

こんな人の下で働きたかったと号泣したのも懐かしい。

民を思い、部下を思い、そして最後には親友の為……。

メインではない為に語られたエピソードはそう多くはない。

その少ない中で泣いて笑って喜んでとにかく一喜一憂した結果、四日ほどの有給が明ける頃には生きる気力を取り戻していたのである。

公式SNSを覗いたら追加エピソードの製作がすでに進行中だという情報があったおかげでもあるかもしれない。

そう遠くない未来に希望があるって素晴らしいよね!



と、まぁ長くなってしまったがそういうことだ。

間違いない。間違えるはずがない。

彼はヴァリスヴェアその人だ。

風になびく夜色の髪、満月を嵌め込んだような琥珀色の瞳、精悍で整った顔、何より馬上で手にしていた黒い刃の彼の愛剣。

ゲームの中で見たままだった。

あの一瞬以来顔を合わせていないのだけれど、果たして彼は無事なのだろうか。

いや、無事に違いない。

ゲーム開始時点、主人公がやって来る少し前に国境線争いはだいぶ落ち着いてきていた。

本編中に起きる戦闘はどれも同盟や休戦協定を終える直前の最後の小競り合いでそう大きくはなかったはずだし、その頃彼が直接戦闘に出る時には数少ない機会に親友キャラと近くで武を競っていたはずだ。

この間の戦闘ではその様子はなかった。

つまりいまはまだゲーム本編の開始前なのではないだろうか?

彼が主人公と出会うことは確定事項なのだから、いまここで命を落とすはずはない。

確認するまで安心はできないけれど、こんな怪我までして無事じゃなかったら目も当てられない。

使用人さんもとい、すぐそこに控えてらっしゃるメイドさんにぜひとも聞きたいところなのだがひと声出すたびに傷が痛んで続かないのだ。

うつ伏せで寝ているのも首がだいぶ辛くなってきたし……あぁ早くどうにかならないものか。



はたから見ればただうめいているだけにしか見えない私だが、この時私は私なりにあれこれと考えていたわけである。

わからないことはひとまず置いておいて怪我が治った後をどう生きていくかとか。

世界が違うのである。文化が違うのである。

言語は同じようなので会話に困ることはないが、いかんせん日常生活についてゲームでわかることなんてほとんどないのだ。

まずは怪我を治すこと。元気になったら日常生活に困らない常識を教えてもらって。

どこのどなたかいまはまだ存じませんがこのお屋敷の主さんに身元保証人になってもらってどこかお仕事を紹介してもらって。

あ、最初は住み込みだととても助かります。お世話になったお礼は働いてお返ししますので。分割ですが。

それでできればここを出ていく前に彼に一度会わせてもらいたいなぁなんて。

無事な姿をちゃんと確かめたい。

そしたら元の世界に帰れるのかはわからないなりに、それまでしっかりこの世界で生きていくのだ。

あの時体は勝手に動いてしまったけれど、それに後悔はないけれど。

現実となってしまったこの世界で出会ったからといって彼のそばで生きられるなんて思わない。

現実はそう甘くない。大丈夫、私知ってる。

同じ空気を吸えるだけで本望です。

なんて。

真面目な話、私の中の彼を私はいっそ愛しているけれども(痛いやつとか言わないでわかってるから!)。

でも現実の彼とそれは別の人間なのだ。姿かたちがそっくりなだけの別人。

見た目はとっても好みだしきっと素敵な人には違いないけどね!

その分平々凡々な三十路も過ぎようという自分が釣り合うと思えるほど夢見がちでもないのである。

だから私はここでの生きる術を手に入れて一人でも生きていけるように―――





目を閉じて考え事に夢中になっていたから誰かが近づいてくるのも気が付かなかった。

そっと額をなでられる。

ひんやりと冷たい大きくて武骨な手が、壊れ物でも扱うようにゆっくり往復する。

優しい手の感触に、そういえばこれが初めてではないと気が付く。

夢うつつに何度かこの手が張り付く前髪を払い、額の汗をぬぐい、安心させるように頭をなでてくれた。

思い出してはっと目を開いて主を見ればそこには想像通りの、否、私の願望通りの彼の姿があった。

スチルで見た慈愛に満ちたあのまなざしで、でもぐっと寄った眉根は苦しげで。

見た途端、涙があふれてきたから自分でもびっくりだ。

手があまりにも優しかったからとか、こんな顔をさせてしまって申し訳ないだとか、大好きな人が目の前にいる感動だとか。

どれかというか全部が理由でぼたぼたと涙が滝を作って枕に吸い込まれてべしょべしょになるし、鼻水も盛大にすすってしまった反動で背中に激痛は走るしでそれはもう散々だったのだけれども。

そんな私を見て見た目よりも元気そうなことを察してくれたのか、ちょっと困ったように彼は笑ってくれたのだった。







かくしてかつて愛した乙女ゲーの世界に異世界トリップした私、こと望月(もちづき) 海歌(みか)三十歳は。

一人でも生きていけるようになるのが当面の目標。

それは間違いないのだけれど。

周りの様子からこの屋敷の主が彼である事を察してしまった私は、果たして無事に独り立ちすることができるのだろうか。

同じ空の下どころか同居ってどういうこと。

あと推しが目の前で自分の為に一喜一憂する威力って半端ない。

……尊死という言葉が脳裏にちらついて離れません。






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