絶対にモテない男 ~生命編~
勉強の息抜きに、私はテレビを見ることにした。勉強机から離れてソファに座り、テーブルの上のリモコンを手に取って電源を入れる。六〇インチの四Kディスプレイに映るのは一頭のチンパンジーの姿だった。うん。悪くない。動物は好きだし、チンパンジーは興味深いと思う。チャンネルを変える必要性はないと判断し、少しだけ音量を上げると私はリモコンをテーブルの定位置に戻した。
そのチンパンジーは野性のメスらしく、海外の大学教授が研究の為に彼女が所属する群れを観察しているらしかった。チンパンジー全般の基礎的な知識を交えながらテレビは進行していき、そして恐らくはこのコーナーのテーマへと突入する。
メスのチンパンジーの出産、そしてその子供の死だ。
人間の支配下では珍しい事だが、自然の中では赤ん坊の死は珍しくない。出産とは命懸けの危険行為であり、生命にとってリスクの高いイベントだと大学教授が熱っぽく語る。
そして問題はこの後で、その母親チンパンジーが子供の死体を抱きかかえて離さなかったのだ。乳を与えようとしたり、目を覚ませと頭を撫でたり、甲斐甲斐しく彼女は死んだ子供の世話を続ける。
チンパンジーにも死を悼む知能があるのかもしれない。私がそう思うと同時に、ナレーションも似たような事を言い、スタジオではゴリ押しされている女優だかアイドルだかの女の子が涙を流している。
番組はそのままスタジオに戻り、VTRに関して様々な意見をゲスト達が交わした。共通すのは誰もが母親の息子に対する愛に感動していると言うことであり、私もそれは完全に同意だった。チンパンジーだって悲しむし、慈しむのだ。
この感動を誰かと共有したくて、私がその対象に選んだのは自由ヶ丘利人だった。可愛い野良ネコを見て平然と『畜生だろ?』とまったく興味を示さないあの男に、動物の素晴らしさを教えたかった。最初はメールにしようかと思ったが、字を打つのもまどろっこしい。私は電話した。
コール短く利人が電話に出た。暇をしていたらしく、電話の向こう側からは欠伸混じりな声が届く。
「『よう。どうした? ゴキブリでも出たか?』」
開口一番、なんて事を言うんだコイツ。
「違うわよ。今、テレビ見て取っても感動したの。聴いてくれる?」
「『この時点で、俺にとっては少しも心惹かれないんだが?』」
「聴け」
「『はい』」
私は感情たっぷりにチンパンジーの母親のことを説明した。時々相槌を打ちながらも、殆ど黙って耳を傾けてくれていた利人は、私の話が終わると少しの躊躇もなく、まったくの感動も感じさせない声でこう言った。
「『多分“子供が死んだ”って理解出来てないんだろうな。チンパンジーだから』」
……………………。
私は最初、その言葉の意味がわからなかった。そして何とか絞り出したのは「は?」の一言。利人は至極当然のことのように続ける。
「『子供が生きていると思っているから、ずっと抱きかかえていたんだよ。乳を与えようとするのも、頭を撫でるのも、その子猿が生きていると言う前提があってだ。その行動は死んだ我が子を想うような、センチメンタルな物じゃあない。だって、賢いと言っても猿だぞ? “死”なんて人間的な感傷を持っているとは俺は思えないな』」
えぇ。
普通、そんな風に考える!? コイツには心がないのか? あの光景を見て『愛』じゃあなくて『無知』って感想を抱く人間がいるなんて信じられない。
私は愕然とした気分で電話相手の顔を思い浮かべる。
「『千恵。考えてもみろよ? 例えば同じ行動を取ったのがハエだったらどう思う? 仲間の死体に集まって、肢を擦り合わせるハエだ。そいつを見て『ああ。ハエも死を悼むんだな』って思うか? 思わないだろ? むしろ『うわ。ハエって仲間の死骸も食べるんだ。所詮虫けらよね』って思うんじゃあないか?』」
「いや。そりゃ、虫だったらそうだけどさ。チンパンジーだよ? 類人猿だよ? 六〇〇万年前に共通する祖先を持つんだよ?」
「『六〇〇万年! 六〇〇〇年前の文字を解読するのにも一苦労なのに、そんな大昔の共通点に何の意味があるんだよ』
「うぐ。確かに」
「『なまじ、人に似ているから、人間と同じように考えていると考えちまってるだけだ。大体、そのVTRは何処で終わったんだ? まさか、チンパンジーが親族を呼んで子供の死体を埋葬したのか? 違うよな? その内に母親チンパンジーが子供の死体を放置したんじゃないか? そしてそれは『死を受け入れた』からじゃあない。『もう動かないから無駄』と判断したからだと俺は考えるね』」
うおぉおおお。
否定したい。否定したいけど、頭の中に浮かぶのは感情論だけだ。確かに人間らしい心を持っていると考えるよりも、『猿だから死がわからない』と考えた方が合理的な気がする。動物達はアニメのキャラクターじゃなくて、日々殺し合いの社会を生きる猛者達なのだ。きっと、利人以上に奴等は合理的に勤めなければ死んでしまう。
「『まあ、もしかしたら子供の死を悲しんでいる可能性もあるかもしれないけどな』」
感動の涙が完全に乾いた頃になって、しかし利人はそんな殊勝な言葉を続けた。
勿論、善意ではないだろう。
「『ただ、それをどうやって確認するんだ? 猿の気持ちなんてわかるわけがない。』」
「いや。顔とかみればわかるって!」
「『は! わかるわけがない。相手の表情から感情を読み取れるなら結婚詐欺師は成立しない。相手が何を考えているかなんて、人間同士でもわかるわけがないんだから。だから俺は同情しない。人の心の内を考えるなんて人権侵害も良い所だ。俺が総理大臣になったら、動物番組で動物の心情を勝手にナレーションするのを法律で禁止するね』」
「取り敢えず、利人が全くチンパンジーの話で感動していないのは確定だよね?」
「『わからんぜ? 実は感動して滂沱の涙を流しているかもしれない。けど、それを恥ずかしがってまるで逆のことを言ってる可能性もある』」
「ないでしょ」
「『まあ、ないけど』」
ないのかよ!
「『いや、さっきの“ないけど”は嘘かもしれないぞ? まあ、そんなわけで、相手が本当に何を考えているかを知る方法はない。そうだろ?』」
「そだね。はぁ。わかった。私は母親チンパンジーが子供の死を悲しんでいたと思い込むことにするよ」
「『ああ。それが良い。あとテレビばっか見てないで勉強しろよ?』」
「はいはい」
「『じゃあ、おやすみ。千恵』
「おやすみなさい」
……………………。
あいつ、絶対にモテないだろ。
一体何度目になるかわからない確信を抱き、テレビの電源を落とすと勉強机に向かった。