リセとの出会い、ぼくの前日譚
ぼくが初めて田井中リセに会ったとき、彼女の声優としてのキャリアはすでに2年目に差し掛かっていた。
我々スタッフのいる調整室からガラス1枚隔てた向こう側、マイクブースに佇む彼女は、もう4月だというのにニット帽をかぶっていた。
『私には魔法の才能はなかった、だけど、だからあなた方に会えたんですね。』
少しウィスパー気味の透き通った声。その声に負けない、透き通った白い肌。
ニット帽からは、長い、金色のさらりとした髪が伸びている。
ハーフだろうか、目鼻立ちはくっきりとしているが、全体的には幼い印象だ。
もちろん、この時のぼくは、彼女が現世に転移してきたエルフだと気づくことはなかった。
はずだった。
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ぼくが籍を置くスマートフォンゲームの開発会社では、主要なキャストの配役(どのキャラを、どの声優さんにやってもらうか)は、ぼくたちシナリオチームと宣伝チームの話し合いで決められた。
宣伝チームが絡むということは、すなわち「ある程度売れている声優」を使う、ということだ。キャラクターとのマッチングより、宣伝効果=売り上げが重視される。
でも、いわゆるモブ(主要キャラではない、脇役)のキャスティングはシナリオチームに任されている。
ぼくは、この仕事が好きだった。
まず、声優事務所のホームページを隅から隅まで見る。そして名前を知らない声優のプロフィールページを片っ端から開いてみる。
大抵の声優事務所のホームページでは、サンプルボイスを聞くことができる。それを物色しながら、ぼくはこのキャラはこの子がいい、とか、この人はいつか使おう、とか、にやにやしながら考えているのである。
入社4年目、ぼくのような末席の人間でも、キャラクタークリエイトができるんだ。
そう思うと、俄然テンションがあがるものだ。たとえ、いまここが、午前2時をまわったオフィスだとしても。
「またニヤけてるよ」
同僚の小暮が教えてくれた。同期で、まあまあ仕事のできる、すこぶる顔の良い、重度の廃課金ユーザーという残念な男だ。自分でシナリオを書いているゲームに、給料の4分の1を課金している。
「うるさいよ」
「うるさくてもね、言わせてもらいますよ。怖いんだよ、深夜ににやにやされるの」
広いオフィスはすでに人はまばらで、残っている人間の直上しか電気が付いていない。
「ま、いいけどさ。俺は帰るよ」
「小暮、タクシーで帰るの?」
「なに、相乗りしたかった?」
言いつつ、小暮はもうカバンを背負っている。
「いや、今月そんなに課金してないのかな、って」
支度を終えた小暮は、にやりと笑いながら去っていった。
「残念、今夜は女の家に泊まるのさ」
その晩、ひどくムカついたぼくは、小暮のデスクを蹴ってから、会社の休憩室で寝た。
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田井中リセ、という声優を知ったのはほんの2ヶ月前の。2月のことだった。
スマートフォンゲームはほぼ毎月のペースで音声の収録がある。この日も収録の立会いをし、19時からやっとオフィスで仕事を始められた。
メールをチェックし、イラストチームから届いた再来月登場の新キャラのラフ絵を確認する。
モブキャラの中に、一人、お気に入りのキャラがいた。
魔法世界を旅するRPGのなかで、魔法が使えない女の子。
だけど才能のなさを卑下しない、いつも努力をしている女の子。
魔法を使えないがゆえに、敵に狙われるも、最終的に主人公パーティが救ってめでたしめでたし。
大筋の流れはチーム長が考えたものだが、セリフを書いたのはぼくだ。
『私には魔法の才能はなかった、だけど、だからあなた方に会えたんですね。』
イベントのラスト、去り行く主人公たち勇者一行にむけ、彼女はこのセリフをつぶやく。
全部で30個ほどしかセリフのない役だったが、ぼくは彼女に一番良いセリフをしゃべらせることにした。
とはいえ、だ。
モブキャラというものは、基本的に予算を割くことができない。
となると、必然、売れていない、または新人の声優から、彼女にぴったりの声を探さなければならない。
さらに言えば、新人とはいえ一定の演技力は必要である。
声がマッチして、演技力があって、そして若手。
「今夜も徹夜かな」
缶コーヒーを一口すすり、ぼくは何気なく、在籍人数10名ほどの小さな事務所のホームページを開いた。
「ん?」
事務所サイトのトップページ、ニュースリリースに、目がいった。
『田井中リセが準所属から所属になりました』
……田井中リセ。聞いたことのない名前だ。
この事務所のホームページはたまに開くが、有名な人が男女一人ずつ、あとは名前の知らない若手たち。
だけど、準所属の声優はチェックしていなかった。
一応聞いてみるか。
ぼくは、田井中リセのプロフィールページを開いた。
なるほど、ビジュアルはいい。最近の声優業界は、本当にビジュアルを重視している。まあ、でも、いまはとにかく声だ。
ぼくはヘッドホンをつけ、ボイスサンプルを再生した。
サー…っというノイズ音のあと、
「……田井中リセです。よろしくお願いします。」
もう、それだけで十分だった。
彼女しかいない。今夜は終電で帰れそうだ。
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話は冒頭に戻る。
今日は田井中リセの収録日だ。スタジオには、音響監督、ミキサー、そしてぼくと田井中リセ。
モブキャラの収録なのでプロデューサーはいない。すべて末端のぼくにお任せだった。
彼女がセリフを読む。彼女の声を聞く。
音響監督が振り返り、アイコンタクトでチェックを請う。
「なんら問題ありません」
本心からそう思った。
それを聞き、音響監督はマイクブースへの回線を開く。
「はい、田井中さんOK。収録は以上です。」
「ありがとうございました!」
礼儀の正しい子だ。
帰りの準備を整え、マイクブースを出た田井中リセは、スタッフのいる調整室までやってきた。
「緊張したぁ」
「いやいや、よかったよ田井中さん、ねえ」
音響監督がぼくに話を振ってくれる。
こういうとき、声優さんと仲良く喋って良いのか一瞬迷ってしまう。
「ええ、本当に。このキャラクターは、あなたしかいないと思ってたので」
「そんな、照れます」
田井中リセは、本当に照れているようだった。
「ところで、帽子暑くないの?」
音響監督がリセのニット帽を指差す。
「えっ、変ですか」
変ですか。彼女の問いに、一瞬の静寂が訪れた。
変ではない、まあ、季節を考えたら、少し変ではあるが、暑くないの?の問いに対する答えとしてはいささか不自然ではあった。
「いや、そんなつもりは、」
ふと見ると、すでに彼女は赤面していた。
きっと、いまの静寂に対してだろう。「やってしまった」という顔をしている。
「は、あはは、変ですね、でも帽子?が好きなので、ええ、じゃあお疲れ様です!」
言うやいなや、彼女はスタジオから出て行ってしまった。
「なんだったんでしょうか」
「さあ、なんか俺、聞いちゃいけないこと聞いたかな」
音響監督も困惑していた。
無理もない。ぼくも気になってたもん、あのニット帽。
でも、もう少し話したかったな、いやまあいいんだ、クリエイターと声優なんてこんなもんだ。
また話したかったら、また仕事をあげればいいんだ。うん、そうしよう。
いつか、また、このキャラをだしてあげよう。そんなことを考えていたとき、ミキサースタッフが呟いた。
「あ、田井中さん、スマホ……」
調整室のテーブルの上に、見るからに女性もののカバーをつけたスマホが置かれていた。
この部屋のスタッフは全員男だ。
ぼくはすかさず、そのスマホを手に取ると、スタジオを飛び出した。
「田井中さん!」
スタジオの建物は広い。きっとまだ建物内にいるはず。
しかし玄関まで走っても、彼女の姿はなかった。
ならばトイレか? いや、自販機コーナーの可能性も……
振り返り、トイレの方に視線を向ける。
すると、給湯室に、さっきまで見ていた小柄な女性が立っていた。
「田井中さん、」
近づきながら話しかける。
なんだか彼女は少し落ち込んでいるようだった。
そして、ニット帽をとっている。
「田井な……」
「え?」
彼女と目があった。
金色の長い髪の毛から、耳が出ていた。
耳、なのか。
その先端は尖っており、顔の輪郭に対してほぼ真横に伸びている。
「……エルフ」
つい、声にでていたようだ。
彼女は、ハッと気がつき、すぐにニット帽をかぶる。
うつむいた顔は、しかし湯気が出るほどに赤かった。
「み、見ましたか?」
「え、あ、いや、」
「耳。見ましたか」
うつむきながら彼女は問う。
生まれつき?コスプレ?様々な憶測と、このようなときになんと答えるべきなのか、頭がくらくらするようだった。こんなときは、これだ、耳のことには触れない方が良い。
「あの、スマホ、忘れて、」
はっ、と、また彼女がぼくの方を見る。
その瞳は少し潤んでいるようだった。
彼女は何も言わず、ぼくの手からスマホを奪い去り、走っていってしまった。
「……なんだったんだ」
ぼくはただ、彼女が走って行った方を見ているしかなかった。
(続)