3- 不安(2)
「与野さん、ベル・ローザ・スティフォールさんをご存じなんですか?」
「勿論です。私はかつてベル様の執事をしておりましたから。……それでヤマさんの居場所ですが、おそらくSTグループのビルでしょう。リリィさんが写真撮影に訪れたあのビルです。」
「それじゃあ、そこに行けばヤマさんに会えるんですね。」
それが分かれば十分だ。どこに向かえばいいのかわかれば。それだけで十分だ。
与野にヤマが無事であるだろうということを聞いたリリィは、身体の調子も幾分か戻ったため、カウンター席から立ち上がって、すぐにでも外に走り出そうとする。与野がそれを制止して話す。
「リリィさん、お待ちください。ご用意はしてあります。」
「用意、ですか?」
リリィがそう尋ねたとき、喫茶店内にカランカランという音が響いた。そちらを振り向くと、黒服の老紳士が立っている。
「彼は十傘と申します。現在のスティフォール家、お抱えの執事です。」
与野がそういうと、十傘は一礼し再び外へと出て行った。それを見送り、与野がリリィ達に声を掛ける。
「リリィさん、STグループのビルには十傘の車でご移動ください。真紀ちゃん、君も一緒に行ってくれるかい?」
そうするつもりだと真紀が答える。それを聞いて、与野は再びリリィに話す。
「リリィさん。ヤマさんは、もういろいろなものを放棄するつもりなのだと思います。私では彼を救えなかった。だからせめて、彼を呼び止めて下さい。突然こんなことを言われても困るのは重々承知しています。ですがどうか、お願いします。」
そう話す与野の表情は真剣そのものであり、リリィは小さく首を縦に振った。
リリィと真紀の二人は店内を後にし、外に停めてあった黒の車に乗り込む。十傘は、STグループのビルまでのおよその時間を告げるとすぐに車を走らせた。車内ではリリィも真紀も喋ることはなく、外を見つめている。
ヤマは何をするためにビルへと向かったのか。彼は何を放棄したのか。先ほどのヤマの表情、そして、初めて彼に会った時の気だるげに空を見つめる表情がリリィの頭の中に浮ぶ。
リリィ、と真紀がリリィに声を掛ける。
「大丈夫?」
真紀はそう言いながら、リリィの顔を覗き込んだ。
「うん。でも正直、なんだか頭が追いつかない。ヤマさんはどうして忘れろ、なんて言ったんだろう。」
彼はリリィに忘れた方がいいと言った。彼はリリィのことを知っていたのに、何も言わなかった。彼は、出会ったことをなかったことにしようとしている。
「それはヤマさんに会って聞いてみないことにはわからない。けど、リリィの言うとおり、まずはちゃんと話さなきゃ。そうじゃなきゃ始まらない。」
「そうだよね。」
きちんと生きている。そのことが何よりも重要で、違えてはいけない事実だ。
生きていれば、話すことができる。
言葉を交わすことができるのだ。
窓の外には老若男女、様々な人々が行き交っている。その誰もが生きていて、皆が違う今を生きている。リリィの耳には、車のエンジン音が心地よい一定のリズムで聞こえた。
……続く
次話、11/1(水)19:00更新。