1-2 彼
リリィはヤマに連れられて近くの喫茶店にやってきた。街の一角にあるその店は、外向きこそあまり目立たないものの、ブラウンのアンティーク家具で統一されている。上質なイメージを訪れた者に与え、喧騒に包まれた外部とはまるで異なる雰囲気を有していた.
「リリィ、私はね。ある場所にとても興味を惹かれているんだ。」
そう言ったヤマは着ていたジャケットの内ポケットから一枚の写真を取り出した。
写真には一つのビルが写っていた。三十階ほどあるだろうか。全面ガラス張りの高層ビルであり,太陽光を反射しているせいで、ビルそのものが発光しているように見える。ビルの周りには、ちらちらと他の建物も写りこんでおり、一つのタワーも見えた。シルバーのそのタワーには見覚えがあった。
「これって、この近くのタワーですか?」
リリィが指差した部分には一つの塔が写っていた.鉄骨でできたその塔は,全体がシルバーにカラーリングされた鉄塔である.かつては電波塔として使われていたものの、時代の流れとともにその役目を終了した過去の遺物ともいえる.しかし,その象徴的な塔は,この街のランドマークとなっており、今でも多くの人が訪れる観光スポットとなっている.
その鉄塔が見えるということは,この喫茶店からも近い位置にあるはずだ.
「あぁ、そのとおり。そして、私が興味のあるのが、こっちのビルだ。」
「ただのビルにしか見えませんけど。」
「ただのビルであることに変わりはない。けれどね、今度の週末にここで一つの展覧会があるんだ。私はそれに興味があってね。しかし生憎別の予定がある。そこでリリィ、君にお願いがしたい。」
「お願いですか?」
喫茶店の中にはほとんどお客はおらず、先ほどマスターと思われる初老の男性がコーヒーを持ってきてくれた.けれどリリィの目前におかれた二つのカップから立ち上がっていた湯気は次第に少なくなり,徐々に冷えてきている。
ヤマは、コーヒーとは無関係に落ち着いた調子で話を進めている。
「そうだ。君にはここへ行き,写真を撮ってきてもらいたい.」
「写真、ですか?」
ヤマの話によれば、明日、ビルの一部が解放され美術展が行われる。絵画や骨董品,書物や宝飾品などその種類は様々で、巷でも話題になっているらしい。一般開放されるうえ、基本的には写真撮影は許可されているらしく、そこへ行ってどんなものが展示されているか写真に収めてほしいとのことだった。本来であれば行きたいのだが、どうしても外せない用事があるらしい。
その時、リリィとヤマの目の前にぬっと腕が伸びてきて、コーヒーカップをつかんだ。その手の主は喫茶店のマスターで、リリィのことを見つめると蓄えた白い口髭の間から、優しく落ち着いた声で言った。
「コーヒーが冷めてしまいましたかね。交換いたしましょう」
マスターはそういうとカップをお盆に乗せ、代わりに新しいカップをテーブルに乗せた。湯気が立っているのが分かる。
マスターはコーヒーを二つともテーブルに置くと、今度はヤマのほうを見て話しかけた。
「シュウさん、いったい何を話していたのですか?こちらのお嬢様が困っておいでですよ。」
「あー、いや、困らすというか、そんなつもりはなかったんですけど……。お願いをしてまして。」
「お願いでございますか?」
ヤマもマスターのほうを向き、話し始める。
「明日、美術展が開かれるんです。僕は用事があって行けないので、この子に行ってもらおうと。でも、さっき会ったばかりなので完全に警戒されてしまっているんですけどね。」
与野はヤマの話を聞きながら、テーブルの上の写真を見た。
「あれ与野さん、ご存知でしたか?」
「えぇ、以前そこで働いていたものですから。」
与野はリリィをちらりと見て話す。
「それはそうと、こちらの方はお知り合いの方ですか?」
「はい。先ほどそこで会いまして。なんというか、成行きですね。」
「それはまた、シュウさんも思いきりがよいですね。」
そういうと、再びリリィのことを見て話し始めた。
「シュウさんに連れられて大変でしたね。私は与野と申します。ここの店主もしております。どうぞよろしくお願い致します。」
丁寧な物言いにかしこまってしまったリリィは、少し緊張して答えた。
「は、はい。宜しくお願いします。」
「お名前はなんとおっしゃるのですか。」
「リリィと言います。宜しくお願いします。」
「とても素敵なお名前でございますね。」
リリィに向かって与野はそう言い、その会話を聞いていたヤマが声を掛ける。
「先ほど偶然に会ったことは確かだけどね。何となくリリィに頼みたいと思ったんだ。」
「しかしそう突然では。……、リリィさんも、突然のお話だったでしょうから戸惑ったことでしょうシュウさん、あまり困らせてはいけませんよ。」
与野はそう言い、カウンターのほうへ戻っていった。その後ろ姿を見ていると、またヤマが口を開いた。
「それで、どうかな。やってくれるかい。」
「そもそも、どうして写真を撮るんですか。それほどまでに気になるものが?」
それまで朗らか微笑んでいたヤマの表情がほんの一瞬だけこわばったような気がした。すぐに彼はリリィに笑顔を向けると、話し始めた。
「あぁ、とても気になる作品がいくつかね。でもせっかくだから全部見たいと思って。お願いしたいんだ。やってくれるかな。」
「……わかりました。」
「ありがとう。」
そう言うと幾らかの紙幣をテーブルの上に置き、彼は立ち去ってしまった。入口の鈴のカランという音が静かな店内に響く。
机の上にあったコーヒーはまたも冷めてしまったようだ。もう湯気は立っていない。口に含むとまだほんのり温かさが残っていた。
続く……
次話、10/12(木)21:00更新。




