2- 母親(2)
ベル・ローザ・スティフォール。それがリリィの生みの母の名前だった。初めて耳にすることにリリィも戸惑う。思わず俯き、固まってしまう。すると、横に座っていた真紀が、膝に乗っていたリリィの手をそっと握ってきた。それは言葉もなく、行動だけだったが、リリィに勇気を与える。約束とは何かと、リリィはおばぁに問う。
「あなたを育てるという約束。勿論、あなたを大切に思っていた。でも、あなたを育てることになったきっかけは、あなたのお母さんにそう頼まれたからなの。」
「頼まれた?」
「うん。今でもよく覚えてるよ。リリィのお母さんはとってもきれいで優しかった。」
「ちょっと待ってください。ベル・ローザっておっしゃいましたか?」
リリィの横に座っていた真紀が口を開く。その名前を知っているような口ぶりだ。
リリィは真紀に尋ねる。
「真紀、知ってるの?」
「知ってるよ。有名な絵本作家さんにそういう名前の人がいるんだよ。」
リリィはそんな絵本作家の名前を聞いたことがなかった。
「真紀ちゃんの言うその人がまさにそうだよ。」
リリィの気持ちは語られる事実に追いつけない。
「とても有名なアーティストだったんだよ。絵本作家としても一流で、有名だったの。」
「そうなんだ……。」
「確か一冊あったはず。」
そう言っておばぁは立ち上がり、隣の部屋へと消えた。暫くすると、一冊の絵本をもって戻ってきた。
正方形の絵本は、白一色の中央に黒い字で『ユリのおひめさま』と書かれていた。やわらかなゴシック体で書かれたその表紙は確かに、リリィもみたことのあるものだった。内容はいまいち覚えていなかったが、それでもその本のことは記憶にあるのだ。まさか自分の生みの母が書いたものだとは、リリィも思わない。
「その一冊は、あなたのお母さんにあなたを育てるように頼まれたとき、一緒に渡されたの。読み聞かせたりはしなくてもいいから、傍に置いていてほしいって。」
「……どうして、ベルさんは、私の傍にいてくれなかったの?」
「それは……。」
そこまで言って、おばぁは口籠ってしまう。不安になり、握られていたのとは別の手を真紀の手の上に重ね、ぎゅっと握りしめる。その先を聞きたくないと、思ってしまう。
テーブルを見つめたまま、おばぁがゆっくりと口を開く。
「……それはもう、いなくなってしまったからよ。」
「……リリィ?」
真紀の声が聞こえる。気のせいだろうか。声が少し遠く聞こえる気がする。真紀の手に重ねていた自分の手の甲に、なにかがぽつりと落ちたのを感じる。
下を見ると、幾つもの跡が見え、次第に視界がぼやけ始める。
私、泣いてるの?
突然、リリィの体が横へ引かれる。そして、身体が動いた方へ視線を向けると真紀の顔がすぐそばにあった。真紀がリリィを抱きしめたのだ。真紀の体温を感じて、何だか妙に安心して、どんどんと涙が流れてくる。リリィもぎゅっと真紀を抱きしめ返す。
どれくらいの時間かはわからない。そのまましばらくの間、そうしていた。
リリィはようやく落ち着き、おばぁの方に身体を向き直す。
「いい友達が出来たね。」
そういったおばぁの表情は微笑んでいるような、悲しんでいるような何とも言えない表情だ。
「うん。あったばかりなのに、ずっと前から知ってるみたいに自然な気持ちになるの。」
「良かったね。」
「おばぁ、……続けてください。」
リリィがそう言うと、うんと頷いたおばぁは再び話し始めてくれた。
「あなたを産んでくれたベルは、とても優しい女性だったのよ。」
……続く
次話、10/24(火)19:00更新。