1-1 邂逅
―
たった一言だった。
それがどれ程むつかしく
伝えにくい言葉か。
生きるよりも優しく
亡くなるよりも穏やかに。
空気はちょっぴりと震え
君は気付いたかな。
そうであるなら
灰被りの僕は眠ろう。
―
水色の空。
程よく冷たい空気。
春が訪れ始める頃の心地よい気候のなか、リリィは街のなかを歩いている。人の多い市街地からは少し距離があるためか、ここは静かで落ち着いた雰囲気だ。
2階か、3階だての住宅やビルが並ぶなかを小川に沿って進んでいた。小川の両岸には3メートルほどの大きな歩道があり、道端には草花がある。
ゆったりとその中を歩いていた。
感じるのは風と陽の光。
右耳に付けたイヤーカフスがわずかに揺れる。
不思議なほどの静けさがそこにはあり、人の気配さえ感じられない。心なしか時間さえも、速度を落としたように感じる。
色とりどりで整然と並んだ住宅街を抜け、街は狭い路地に続いていく。次第に周辺の建物は茶や白色のものが増え、時折木造の建物も見受けられた。川はいつの間にか地下に入り、道も密集した建物の中を抜ける狭い路地に変わってくる。建物との距離が近くなったせいか、先ほどまで射していた光は遮られ、風も吹かなくなった。路地は心なしか暗い。
しばらくの間、歩き続きていると、車のエンジン音や喧騒が近づいてくる。大きな通りのすぐそばまで来たためだろう。路地の終わりも近い。ふと狭くなり始めた空を見ようと視線を上げた。
「えっ……」
リリィは思わず立ち止まっていた。
思いもしなかったことに一瞬、思考が停止する。
それは一人の男だった。
リリィの右手にある黒色のビル。
その一番上、屋上の端に男が立っていた。
男はまっすぐに空を見ている。
唐突に右手を高く挙げたかと思うと、そのまま口元に近づけた。吐かれた灰色の煙がわずかに見える。
「……あ、あの!」
リリィは男に向かって声を掛けてみた。やや大きな声で、男に届くように。
男は周囲を見回し、やがてリリィのいる地上に目を向けた。ぼさぼさの長髪に、黒のジャケットとパンツ。パステル系の黄色いシャツを着て、黄色いフレームの眼鏡をかけている。三十代前半だろうか。
男はこちらを見て話す。
「今、呼んだのは君か?」
男の声は思ったより落ち着いたものだった。
「はい!そうです!」
「そう……。それで、何の用?」
「そこ、危ないと思うんですけど!」
男は少し首を捻ったように見える。
「うん。まぁ、そうだろうね。けど、問題ないよ。」
「いや、でも……。というか、何してるんですか? ……あっ、絶対ダメです!早まらないで!」
大げさにため息を吐く素振りをしている男の姿が、三階分低い位置にいるリリィからもよくわかった。男はその場にしゃがみ、リリィに向けて呆れた表情をする。
「僕は今、タバコを吸っているだけだよ。死ぬ気など微塵もない。」
「なんで、そんな屋上の端っこでタバコ吸うんですか!落ちちゃいますよ。」
「大丈夫だよ、気を付けているし。ここはね、空がきれいなんだよ。」
そう言うと男は再び立ち上がり、空を見上げる。
「綺麗に見えるって……。」
リリィは呆れて、一気に力が抜けてしまうのを感じた。視線は自然と下へ下がる。
「君!」
男は思い立ったようにリリィに声をかける。
「せっかくだからここに上がってきてくれ。手前の非常階段から上がれる。結構いい景色だよ。見てごらん。」
突然の言葉だったが、興味がわいた。リリィは階段を上る。
「わ、分かりました。」
そこからは街がよく見渡せた。遠くまで乱立するビルディング。あふれる人々。絶え間ない車の流れ。とても大きな街だ。
「はじめまして。僕のことは、ヤマと呼んでくれ。宜しく。」
そういうと男は手を差し出してきた。握手した手は大きく温かい。
「名前は?」
「リリィと言います。初めまして、ヤマさん。」
「……リリィか素敵な名前だね。」
ヤマは笑顔をでそういうと、一度街のほうを眺めて、再びリリィのほうに向きなおった。
「そうだ、リリィ。君に面白い物を見せてあげよう。ついてきて。」
ビルの屋上、地面が見えるほど橋のほうに立っていたヤマはそう言うと、くるりと回転し、階段を降りて行ってしまった。
リリィが慌てて下りていくと、ビルから出てすぐの路地で彼は待っていた。リリィが下りてきたのを目で確認すると、
「そこで見ていてくれ。」
といい、大通りへと向かう。ふと、前を見る彼は、歩きながらリリィに話しかける。
「リリィ……、白百合という意味か。いい名だね。」
日の光が逆光になって彼の表情までは見えなかったが、それでも声色はとても優しいものだった。
大通りに面した路地。その場所で隠れるようにして、リリィはヤマのことを観察している。彼は交通量の多い道路に沿うようにして続く幅の広い歩道をゆったりと歩いていく。その速度は他さえも急くようにして歩く集団のなかでは異質に見えた。
しばらく歩いて行き、彼はそのまま横断歩道を渡り始めた。変わったところは歩く速度くらいで、ほかには何一つおかしなところはない。
横断歩道の真ん中ぐらいまで歩いていくと、立ち止まり、彼は空に向けて手を挙げる。そして、顔も空を見て、そのままの姿勢でしばらく静止し続ける。
彼はそれ以外、何もしなかった。
何もしなかったのだ。
周りを歩く人々は訝しげにヤマを見て通り過ぎていく。声をかける者もいない。
服装も容姿も。
ヤマの外格とでも呼ぶべき部分は、都会の喧騒の中でも特に違和感がない。しかし明らかに彼は周りの人間とは異なっている。彼だけが、その空間の中から浮き出してしまったよう。イレギュラーなものとして弾かれてしまったように見える。
ヤマがそうして静止していたのはせいぜい数秒だっただろう。歩行者用の青信号は点滅を始め、皆足早に横断していく。彼も上げていた左手をすっと下ろすと、元来た道を再びゆったりと歩いて戻ってきた。
リリィのいる路地に戻ってきた彼は、優しく微笑みながら言った。
「どうだったかな。」
「とっても不思議でした。あの人々の中にいるのに、まるでいないみたいで、なんだかこう、とっても不思議で……。」
彼はリリィのその言葉を聞くと、驚いたのだろうか、わずかに眉を上げ笑った。
「そうだろ。不思議なんだ。たったあれだけのことでも特別になる。日常は簡単に特別にできるんだ。カラフルに装飾できる。」
そう言うとヤマは路地を大通りとは反対方向に歩いて行ってしまう。
「あ、あの!」
リリィは二人で話していた時よりも少し大きな声で、彼に呼びかける。もしかしたら、大通りの誰かが声を聞いて、こちらに気づいたかもしれない。
立ち去ろうとしていたヤマは、顔だけをこちらに向ける。
「どうしたんだい?」
リリィにとって彼は、この街に到着して初めて話した人だった。この邂逅はきっと特別なはず。そんな不思議な確信がリリィの胸の中にあふれてきて、だからこそ、リリィがもう一声かけることは別段変わったことではなかった。
「もう少しお話がしたいんです。何となくそう思って、それで……」
ずっとまっすぐにリリィを見つめていたヤマは、こちらに向き直ると、
「……そうか。まずはそうだな、君の名前を改めて教えてくれ。」
「リリィ・グレィ・スティフォールと言います。」
リリィは、そう言った自分の声が少し震えているのに気が付いた。緊張しているのだ。
「……リリィ・グレィ・スティフォール。素敵な名前だ。」
そう言うと、ヤマは横断歩道でしていたように左手を上げ、空を見つめる。彼の優しい表情は身を潜め、まっすぐにその瞳で天を仰いでいる。先ほどまでよりもやや低く、落ち着いた声で話し始めた。
「名前などというものは結局のところ、記号に過ぎない。数多いる人間という生物を、人間同士の間で区別するための記号に過ぎない。けれど、時折、何かを指し示すという本来の意味を超えて、名前というものが存在することがある。その名前を持つものに装飾をするように、元の存在を多少グレードアップさせる。そんな効果を持った名前を持つ人間に、あるいは、そういった装飾をされても全く気品を失わない美しい人間に、僕は時折出会う。」
彼はもう一度リリィを見つめた。
「リリィ、君はアートは好きかい?」
続く……
次話、10/10(火)18:00更新。