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紙士養成学校の日常5~闇の小馬・中編~

作者: 工藤 湧

 吉華二十四年十二月十九日月曜日、紙士養成学校本校。午後五時半を過ぎてこの日の実習も全て終わり、日は落ちた。しかし普段ならこの時間帯無人のはずの校舎一階の会議室には明かりが煌々と灯り、人の姿があった。

 会議室には四人の教師がいた。校長の前橋、教頭の福原、そして主任教師の鏑木と武藤だ。今朝前橋が、海外出張中の藍沢を除く三名に招集をかけたのである。校内外で何か重要な事案が発生した場合、校長が役職教師を集めて会議を開くことになっているのだが、今回の議題について三人はいっさい内容は知らされていない。されどこうして前橋が突然呼ぶということは、何か想定外の出来事が起きたことを意味するわけで、室内にはただならぬ緊張感が漂っていた。

「さて……。忙しい中、今日こうして集まってもらったのは」

 会議机を挟んで向かい合う三人を、前橋は険しい眼差しで見詰めた。

「昨日わしが妖魔局長に報告した件について、皆に話しておかねばならなかったからだ」

 そう言うと前橋は、一昨日から昨日にかけて起こった一連の事柄について、順を追って説明した。一昨日の十七日、前橋は翠からある物を託された。そして翌十八日、妖魔局長の自宅を訪ねて直々にそれらの物ーー妖紙のリスト、暗号文とその解読結果、三面鏡が写った三枚の写真を渡したのだ。

 前橋から話を聞いた局長の驚愕ぶりは、並々ならぬものがあった。ことに現在に至るまで「行方不明」となっている小馬の妖紙がリストの中にあり、それが奪われたことに対しては、戦慄を覚えたほどだ。しかし彼には直ぐに誰が妖紙を奪った犯人なのか、見当がついた。局長は紙士ではなく、いわば普通の「キャリア警察官」。だが長年に渡って妖魔や紙士がらみの事件を担当し、現場経験も豊富でその知識量は決して紙士警察官に引けを取らない。また表舞台には出てこない紙士の「闇の歴史」にも精通しており、その知識が答えを導き出したのだ。

「藍沢の娘をさらった奴が……。藍沢から昔、そんな事件があったとは聞いていましたが、まさかあいつを頼ってそんな物を送りつけてくるとは。それで校長、局長は犯人について何とおっしゃっていましたか?」

 鏑木が慎重に尋ねると、前橋は僅かに眉間に皺をよせた。

「『黒駒くろこま三兄弟』という連中を知っているかね?」

 局長も前橋も翠へ送られた写真を見て、同じことを考えた。三枚のうち一枚にだけ独楽が写り込んでいた。これは「独楽」、つまり「駒」を意味するのであり、犯人は黒駒三兄弟ではないかと。ところがその名を聞いても鏑木は首を傾げ、武藤は知らないとはっきり答えた。二人とも初耳だったようだ。ただ福原だけは違った。

「噂程度には……。もぐりの中ではかなりの歴史を持つ一団と聞いていますが……」

「その通り。語弊のある言い方だが、由緒正しきもぐりとでも言うべきか。その歴史は三百年以上前に遡ると言われておる」

 前橋の話によれば黒駒三兄弟は福原も言うようにもぐり紙士の一派で、始祖が黒い馬の家紋を用いたことからこの名が付いた。もぐりの世界ではかなり有名な一団であったが、メンバーは漉士、折士、染士が各一名ずつの究極の少数精鋭。それを謳うだけあって実力は裏世界ではトップクラスで、各人紙士免許でいうところの十段を軽く越える能力の持ち主らしい。紙士法が施行される以前、即ち百年ほど前までは妖魔退治や折妖作成などの依頼をこなしながら、全国を股に掛けて活躍していた。だが他のもぐり集団同様、法に縛られることを嫌い、違法紙士団となってしまった。

 黒駒三兄弟にはその技術を次世代に伝えるにあたり、ある「鉄の掟」がある。メンバーは各自三十歳を迎えると後継者育成を開始するが、結婚はせず実子も儲けない。身よりのない子供の中から紙士としての素質がある幼子ーー六歳以下の子供を探し出し、養子とするのだ。そして徹底的な英才教育を施して紙士術を叩き込み、自分が死ぬか五十五歳になると、次世代へ代替わりをする。その後継者のことを馬をもじって若駒、近年ではコルト(colt:英語で若い雄馬のこと)と呼ぶらしい。実子では我が子可愛さに素質がない子を後継者にしてしまう恐れもあるし、兄弟の間で後継者争いも起きる。血統よりも実力重視、技術は一子相伝ーーそれが黒駒三兄弟の伝統であり、代々実力者を生み出してきた秘密なのだ。

「しかし黒駒三兄弟は、少なくとも紙士法施行以前は温厚で善良な一団だったはずです。いくら同じもぐりからとはいえ、妖紙を奪うとは……」

 福原は納得がいかないようだったが、前橋はそうは考えていなかった。

「確かにな。だが朱に交われば何とやら。代を重ねるうちに悪行にも手を染めるようになったのかも知れん。連中はかつて、紙士の行動に制限を設けることを拒絶し、和州政府の説得も聞かずにもぐりと化してしまった。その実力故に政府は彼らを恐れ、検挙しようと努めたが、未だその姿は闇の中だ。何が起こっても不思議ではない」

「まあ、何て怖い……。それで校長先生、局長はその妖紙のリストをどうなさるおつもりですの? その中には小馬の妖紙もあるんでしょう?」

 今度は武藤が怖々尋ねてきた。前橋は藍沢の海外出張の詳細についてこの三人に話していない。実際は鏑木がテツから話を聞き、藍沢が小馬退治の手助けに行ったことは知っている。しかし鏑木が口を閉ざしているので、その事実を前橋は把握していないのだ。よって前橋は一昨日、藍沢がもたらした新情報を彼らに伝えなかった。このリストにある小馬の妖紙がベイアードで紙解きされたことを。

「局長は独自に調査をされると言われていた。そう、他部署には任せず妖魔局のみで行うとな」

「独自に、ですの? でもどうしてですか?」

「警察庁、もしくは警視庁の上層部に内通者がいる可能性が否定出来ないからだ」

 前橋の信じがたい言葉に三人は息をのんだ。まさかの展開だ。警察内部に裏切り者がいるかもしれないとは。皆言葉を失ったが、何とか鏑木が沈黙を破った。

「しかし何故そう断言できるんですか?」

「実はな……。局長がこのリストのことを耳にしたのは、これが初めてではなかったのだ」

 局長がリストの存在を知っていたーー前橋もこの話を聞いた時は、それはもう腰が抜けるほど驚いたという。局長が日曜日で仕事が休みにもかかわらず、前橋をわざわざ自宅に招いてリストを受け取ったのも、そんな理由があったからだ。

 十日前の十二月九日、勤務中に局長はある一本の電話を受けた。それは警視庁のとある署の妖魔課長からだった。本日、当課に妙な書類を持ち込んだ人物がいるので、見てもらえないかと。その書類というのが妖紙のリストだったのである。リストの中には一目で危険とわかる妖魔が素妖の妖紙もあった。これは自分の署だけで抱える案件ではない……と、妖魔課長は判断したようだ。

 さて、その妖魔課長の話によればーー持ち込んだ人物は六十代くらいの年輩男性。男性は言うにはこのリストにある妖紙を、かつて自分が勤めていた会社の社長が極秘に所持していた。ところがそれを他人に奪われて妖紙は行方不明、リストだけが手元に残った。奪った相手の報復を恐れ、今まで黙っていたが、最近社長が亡くなった。昔の会社仲間と協議した結果、やはり警察に事実を打ち明ける方がいいということになり、こうしてやってきたというのだ。ただ妖紙を奪った相手の具体的な名など詳細は、まだ教えられないと言っていたが。彼の話が本当かどうか怪しいので、妖魔課長は取りあえずリストを受け取って男性の指名と連絡先を訊き、一旦帰した。

 しかしそれきり妖魔課長からの連絡が途絶え、リストの一件も担当警察署から妖魔局まで上がってくる気配がない。不思議に感じた局長が三日後にその署に問い合わせてみると、何と連絡をした妖魔課長は州都市外の別の署に異動になっており、問題のリストの件も全く引き継ぎされていなかった。「ほら話じゃないですか。そんな話、聞いていませんよ」と新任の妖魔課長は、他人事のように答えるばかり。やむなく異動先の警察署へ電話を入れるも、元妖魔課長は「知りません」と頑なに否定したーー

「局長もわしからリストの話があるまでは、その妖魔課長のでっちあげかと思っていたそうだ。しかしこれが真実となると、不穏な者の存在が感じられる。何者かが圧力をかけ、リストの存在を隠そうとしたということだ」

 重要な事件と判断されれば黙っていても上層機関を経て、妖魔局まで要件は伝えられる。だが妖魔課長が先走った行動に出て、署長にも通さず局長へ一報を入れたのだ。自分の手柄にしたかったのか、気を利かせたつもりだったのか、今となっては理由は定かではないが。

 ただこれではっきりしたのは、妖魔課長から局長まで情報が行く間、誰かが妨害したということである。結果妖魔課長は左遷同然に異動させられ、リストの件はなかったことにされてしまった。元妖魔課長がしらを切ったのも、何かしらの脅迫を受けていた可能性が高い。

「翠さんにあのリストを送った『おばさん』が、局長にあれを直接渡したがったのも、あんな暗号を使ったのもこれで納得がゆく。警察内に連中に荷担する者がいれば、警戒せざるをえまい」

「し、しかし校長」

 ここで福原が戸惑いながら前橋の話に割り込んできた。

「いくら力のあるもぐり紙士とはいえ警察、しかも上層部に内通者がいるとは考えにくいのですが……」

「だが僅か三日のうちに役職につく者を強引に異動させ、全てを無に帰すことが出来る人物となると、警視庁なら本部に勤務する者、もしくは警察庁の者くらいしかおらんだろう。まあ好き好んで連中に協力しているとは限らんが……な」

 ここで全員が一様に黙り込んでしまった。どうもことはかなり厄介なようだ。前橋が役職教師に局長との話をこうして伝えたのは、藍沢が関わっていたからだ。もし藍沢が海外出張中ではなく、直接娘からあのリストを受け取っていたら、まず校長である前橋に報告したはずである。よって今回の件は本校の役職教師の中で情報を共有するべきと、前橋は考えていた。

 皆俯いたまま考え込んだ。一体誰が「黒駒三兄弟」と通じているのか。想像したくもないが、どうやら事実のようだ。と、その時ーー

「誰だ!」

 突然鏑木の鋭い声が窓へ向かって飛び、残る三人もいっせいに顔を上げた。見ると誰かが会議室の窓に外から貼り付いている。四、五十歳くらいの女性だ。頬はこけ、目は窪んで異様に大きく見える。パーマをかけた頭はぼさぼさ、着ている服もくたびれて汚れが目立つ。腕を振り上げ、女性は窓ガラスを二、三度叩いた。

「開けて‥…開けて下さい」

 か細い声を上げたかと思うと、女性はそのままずるずると崩れ落ちて窓枠から消えた。慌てて福原が駆け寄り、窓を開けて下を覗き込んでみると、女性はぐったりと力なく横たわっていた。

「こりゃいかん。かなり弱っている」

 それを聞いて鏑木が外へ回り、女性を担ぎ上げて保健室へ運んだ。ベッドに寝かしつけたが、意識はあるものの衰弱が激しい。会議をいったん中断し、全員が保健室に集まってきた。同じ女性として彼女の様態が気になるのか、武藤が手を取って袖をめくってみた。着ている服から見て幾分ふくよかな体型をしているようだが、それにしては腕が細い。

「これは暫く何も口にしていないわね。あ、そうだわ」

 武藤は保健室を出て職員室へ向かった。明日の講義や実習の合間におやつに食べようと思って買っておいた、菓子パン三個と紙パックのジュースを自席の机の中にしまっておいたのを思い出したのだ。

 武藤からパンとジュースを受け取ると、女性は目の色を変えて食らいつき、横になったまま猛烈な勢いで食べ始めた。人目もはばからぬ食べっぷりからして、よほど空腹だったとみえる。

 五分もかからず全て平らげると、女性は半身を起こして浮かぶかと頭を下げた。

「有り難う御座いました。おかげで生き返りました。それであの……藍沢さんはどちらに?」

「藍沢君なら先週の金曜から海外へ出張へ出ているよ。それがどうかしたのかね?」

 前橋の言葉を聞いた途端、女性の顔からみる間に血の気が引いていった。

「そ、それじゃ翠ちゃんに渡したあれは……!」

 翠に渡した「あれ」ーー彼女の一言にその場にいた全員が反応した。代表して前橋が女性に尋ねる。

「あんた、もしかして『お菓子をあげたおばさん』かね?」

「は、はいっ……! でもどうしてーー」

「安心しなさい。あれはわしが昨日妖魔局長に届けてきた。翠さんがわしの所に持ってきたんだよ」

 前橋がそう説明すると女性は目を潤ませた。

「ああよかった。翠ちゃんは賢そうな子だったから、きっとあの手紙の意味をわかってくれると思ったわ。これでみんなも浮かばれる……」

「それであんた、何でこんな所に来たんだ?」

 鏑木がむっとした顔で問いかけると女性は我に返り、ベッドの上に正座して叩頭した。

「ご、ご免なさいっ! もうここしか逃げ込む場所がなかったんです! それにここに来れば藍沢さんにも会えるし……」

「逃げ込む場所? あんた、誰かに追われているのか?」

「はい……。あ、申し遅れましたが私、里中真智子さとなかまちこと申します。お察しの通り、十六年前に藍沢さんのお嬢さんを誘拐した者です」

「そうか。それで里中さん、わしはあんたに訊きたいことが山とあるんだが、その質問に答えてくれないかね?」

 前橋の目が鋭く光ったが、女性ーー里中は物怖じすることなくしっかりした口調で答えた。

「はい、何なりと。あなた方は藍沢さんと同じ養成学校の先生方。リストも届けて頂きましたし、信頼できます。全てお話ししましょう」

 楽な姿勢をとると、里中は語り出した。あのリストとそれに載っていた妖紙にまつわる話を。


 その日、鏑木が自宅へ戻ったのは午後九時前だった。今日は実習終了後に会議があるから……とは自宅へ伝えてはいたが、やはり心配だったのだろう。玄関の引き戸が開く音がするや否や、割烹着姿の小柄で色白な女性ーー妻の美沙子みさこがすぐに出迎えた。

「お帰りなさい、あなた。随分遅かったのね」

「ちょっと会議が長引いてな。悪かった」

 妻にはそう言ったものの、実のところ前橋が「当初予定していた」会議は、里中がやってきた時点で事実上打ち切られていた。その後里中から実に信じられないような話を聞かされたうえ、彼女の処遇を含めて事が長引いてしまい、鏑木はやっと八時前に紙士養成学校を出ることが出来たのである。

 鏑木がコートを玄関先のハンガーフックに引っかけ、自室へ入ろうとすると、美沙子の声が後ろから追ってきた。

「あ、そう言えばすぐるがあなたに訊きたいことがあるって……」

「卓が?」

 鏑木は足を止めて振り向いた。次男の卓は大人しい性格で口数も少なく、お世辞にも愛想がいいとは言えない。そのため勤め先の郵便局ーー阿倍野局でも窓口業務や小包配達など、人と接する機会が多い職務には不向きと判断され、手紙配達担当となっているのだ。引っ込み思案な態度は家族に対しても同じで、父親ともあまり積極的に話そうとはしない。そんな卓が自分に訊きたいことがあるとは。これは滅多にないことであり、些細な話ではないような気がしたのである。

「そうか。それならまず卓の話を聞こう」

「でもまだ夕ご飯食べていないんでしょう? その後でも……」

「構わないさ。すまんが話が終わるまで少し待ってくれ」

 そう妻に言うと、鏑木は自分の部屋に卓を呼んだ。室内で向かい合って畳の上に座り、息子に問いかける。

「それで卓、俺に訊きたいことって何だ?」

 父親が思いの外真顔で尋ねてきたので、卓は些か戸惑っているようだ。しかし暫しの間をおき、意を決したように言った。

「それじゃ親父、率直に訊くけどさ……。折妖犬とそうじゃない普通の犬って、ぱっと見で区別つくかい?」

 完全に意表を突く質問で、鏑木は危うくあっと声を出すところだった。確かに折士である自分の専門分野に関する質問ではあるが、まさかこののんびり屋の息子の口から折妖の話が出るとは、想像だにしてなかったのである。

「どうしてそんなことを訊くんだ?」

「今日職場の同僚が配達先の庭で犬を見て、言ったんだよ。折妖犬だって。でも俺には普通の白い北出犬きたいでいぬにしか見えなかったんだ。その犬、唸り声もあげていたけど、やっぱり声も普通の犬と変わりなかったし……」

 卓はちょっと気になったから訊いてみたんだ……といった感じだったが、鏑木はそんな程度では済まされなかった。確かに折妖とそうではない同種の普通の動物は、外見で容易に見分けがつく場合もある。色や形が普通種にはない奇抜なものであればだ。だが卓の話によれば問題の犬は白い北出犬、姿形は至って普通。卓の目で普通の犬と区別がつかないのであれば、もう答えは一つしかない。周妖光しゅうようこうが見えているのであるーーその同僚には。

「卓、詳しいことを話してくれないか」

「うん……。実は今日の夕方までに届けなくちゃいけない荷物を、あいつが持たずに出てさ……」

 その「あいつ」とは、同期で郵政省に入省した塚田晃一つかだこういちだった。卓とは対照的に明るい性格で愛想が良く、人を笑わせるのが得意なので、男女を問わず局内でも人気者だ。卓とは同じエリア、阿倍野区桃木町の小包配達を担当しており、エリア内の住民からも評判がよかった。

 この日ーー十九日の午後一時頃、塚田は午後に配達する予定の荷物を郵便馬車に詰め込み、局を出た。ところがその三十分後、積み忘れの荷物があることが発覚した。それは前日に住人不在で届けられず、別の者が持ち帰った荷物。今日の正午から四時までの間に再配達してくれるよう、昨日の夕方に依頼があった物だったのである。ところが引継がうまくいかず、何も知らない塚田は配達に行ってしまった。

 手紙配達は小包配達より一時間遅れて出発するので、この時卓はちょうど配達準備の真っ最中だった。すると上司が卓に「塚田の馬車くるまを捜し出して、これを渡してこい!」と強引に命じた。受け取った荷物は十二、三センチほどの細長い箱で、騎馬で配達する卓にとって邪魔にはならない。しかし同一エリアを担当するとはいえ、無線機なしで同僚と連絡を取ることは難しかった。

 ただこんなトラブル、郵便局ではさして珍しいことではない。対策はちゃんとあるのだ。郵便局で使用する折妖馬は、数頭分の他の折妖馬の臭いを記憶している。塚田が乗務する馬車に繋いだ七号馬の臭いは、残っている折妖馬の中では十四号馬が記憶していたので、卓はこの馬に跨がって配達へ出た。

 約十分後、卓は担当エリアに到着した。今の時間、塚田はこの周辺ーー桃木五丁目にいるはずだ。卓は十四号馬に七号馬の臭いを捜し出すよう命じた。幸いなことに十分ほどで、十四号馬は住宅地の一角に停められた塚田の馬車を見つけることが出来た。塚田は荷車の後部ドアを開け、荷物を取り出しているところだった。今から停車場所のすぐ横の家に荷物を届けに行くようだが、仕事に集中しているのか、卓が近くにいることに気付いていない。仕事の邪魔をしては悪いと考えた卓は門の前で待ち、配達を終えて出てきたところで塚田に物を引き渡すことにした。

 呼び鈴は玄関ドア横にあるので、塚田は荷物を抱えて門扉を開け、庭へ入った。卓はそれを確認した後、門の前まで行って待機。ところが庭で鎖もつけずに寝そべっていた白い北出犬がむっくと起き上がり、横をすり抜けようとする塚田に向かって唸り声をあげた。塚田はうわっと小さな声を上げて驚いたが、犬がそれ以上自分の方へ向かってこないと知ると、舌を打った。

「何だこいつ、折妖犬かよ……」

 塚田の文句が確かに卓には聞こえた。折妖犬ーーと。無事仕事を終えた塚田に持ち忘れた品物を渡すことが出来たが、卓は同僚が発した一言が何故か気になって仕方がなかったのである。

「……とまあ、こんな訳なんだよ。でも親父が言うことが本当だったら、紙士でもないのに塚田はどうして周妖光が見えたんだろうなあ……」

 理由がわからず考え込む息子に対し、鏑木は冷静に答えた。

「紙士でもないにもかかわらず、周妖光が見えるのには四通りのケースがある。まず第一に考えられるのは先天性妖視能力者、通称『鬼の眼持ち』である場合だ」

 鬼の眼持ちとは、生まれついて妖視能力を持っている人間を指す。しかしその出現確率は数十万人に一人。この八百五十万の人口を抱える州都市内でも、十数人程度しかいないことになる。鬼の眼持ちの出現は遺伝が要因とされる一方、その遺伝力はかなり不安定。鬼の眼持ちの子供が必ずしも鬼の眼持ちになるとは限らない。逆に両親が普通の人間であっても、鬼の眼持ちの子供が生まれることもある。が、その場合でも血筋をさかのぼっていけば、必ずや鬼の眼持ちの先祖に辿り着くという。

「実際、俺のクラスと藍沢のクラスに一人ずつ鬼の眼持ちはいるが、この二人は双子だ。だが全校の今期の学生の中で、鬼の眼持ちはこの二人を入れても僅か四人。つまりそれだけ貴重ってことだ。どうだ、塚田はこのケースだと思うか?」

「多分違うんじゃないかなあ……。もしそうならあの社交的な塚田のことだから、絶対誰かに自慢していると思うけど」

「そうか。それなら二番目のケース。紙士養成学校に在籍歴がありながら、何らかの理由で紙士免許を取得できなかった場合」

 この二番目のケースで最もよくあるのが、妖視能力がD止まりで紙士術を学ぶ前に強制退学となった場合だ。周妖光は妖視能力が身に付かなかった、もしくは身に付いてもEの者には見えない。が、Dの者ならば見えるので、折妖と普通の動物との区別がついても何ら不思議はない。

 また無事妖視能力C以上を取得しても、不祥事や学費の滞納などが原因で退学となったり、卒業試験に不合格になった者もこのケースに含まれる。こうした者はそれまでに取得した紙士術は封印されるが、妖視能力は放置される。妖視能力は悪用される恐れが少ないし、持っていても違法とならないからだ。

 更に三番目のケースが、紙士免許を取得して紙士になったものの、その免許を剥奪された、又は返納した場合だ。免許剥奪は通常、紙士法や妖魔産物利用法に著しく違反した者が対象となるが、それ以外犯罪、例えば殺人や強盗などの重大犯罪を犯した者も含まれる。また返納はその理由の多くは加齢によるもの。早い話年をとって紙士術の施術が難しくなった場合だ。これ以外にも病気や怪我が原因となることもあるし、女性の場合、結婚や出産を機に返納することもある。これらのいずれの場合も紙士術は封印されてしまうが、第二のケース同様に妖視能力は残される。

「卓、この二つのケースに塚田は当てはまると思うか?」

「これは違うよ。あいつ、紙士養成学校にいたことなんてない。あいつ俺と同期で、高校を出てすぐに郵便局に入ったんだから」

「本当に高校を出ているのか? それより前、中学を出て入学した可能性はないのか? お前と同じ年なら吉華十七年入試、第四十七期なら入れないことはない。本校でなくても地方校に入学していれば、俺が知らなくても当然だしな」

「でも俺、あいつと高校三年間ずっと同じクラスだって奴、知っているから。同じ局の貯金部門の女の子だよ。その子に昔、高校の卒業アルバム見せてもらったんだ。確かにあいつ、顔写真が載っていたんだよ」

「成程……。そうなるともう可能性は一つーー第四のケースしかないな。だがこれは穏やかではないぞ」

「何だよ、その第四のケースって……」

 たじろぐ卓に鏑木ははっきりと告げた。

「違法紙士、即ちもぐりだ。全てとは言わないが、もぐりも多くが妖視能力を持っている。塚田はもぐりなんじゃないか」

「そんな、あいつに限って……。勤務態度は真面目だし、私生活でもトラブル起こした何て話も全然聞かないし……」

「わからんぞ。もぐりは発覚すれば紙士法違反で懲役刑が課せられるから、化けの皮が剥がれないように向こうも懸命に隠そうとする。だから大部分のもぐりは真っ当な職に就いて、ごく普通の市民のふりをしているんだ。お前の側に潜んでいたって何の不思議もないんだぞ」

 だがそれきり卓は目を伏せて口を噤んだ。自分が抱いた些細な疑問が原因で、同僚を疑う羽目になったことを後悔しているようだ。そんな息子に鏑木は労るように声をかけた。

「卓、お前塚田とは仲がいいのか?」

「うん……。もう長いこと同じエリアを担当してきたし、他の同期と一緒にたまに飲みに行ったりするから……」

「そう、か……。だが紙士としてもぐりを放置するわけにはいかん。俺に考えがある。悪いが少しだけ協力してくれ」

 そう言って鏑木は卓の肩を優しく叩いた。無言で頷いたものの、卓の目からは涙が溢れ落ちた。息子の苦しい胸の内を察し、鏑木も心の痛みを感じずにはいられなかった。


 鏑木が卓と話していた頃からやや遅れた、午後九時半過ぎ。福原も州都市から西へ三十キロほど離れた飛鳥田県あすかたけん戸畑市とばたしの自宅へ戻ってきた。福原の自宅は住宅地から少し離れた場所にある、山沿いの傾斜地に建っていた。家屋は古い木造の平屋で、「一人」で住むには十分すぎるほど広い。周囲二百メートル以内に他の家はなく、敷地のすぐ後ろにまで林野が迫っていて、昼間でもとても静かな場所だ。しかしそんな寂しげな自宅周りとは対照的に、庭には色とりどりの季節の花が常に咲き乱れ、庭木もよく手入れされており、ちょっとした洋風庭園のようになっていた。

 普段なら通勤には電車と乗合馬車バスを利用する福原だったが、今日は賃走馬車タクシーを使っての帰宅だ。そのことを珍しく思ったのだろう。留守を守っていた二体の竃乙女達が家から出て、玄関前で出迎えた。

「旦那様あ、どうしたの? 今日はタクシー帰りなんて、リッチなことをして」

 ファルシオーネがふわふわと宙を漂いながら尋ねると、すぐ後ろからグリフィーナが現れた。

「本当、質素な旦那様らしくな……あ! 女の人がいる!」

 竃乙女達はひどく驚いたように目を見開き、福原の後ろを覗き込んだ。確かに福原の背後には一人の年輩女性ーー里中がいた。しかしもっと驚いたのは当の里中だった。竃乙女達は不可視状態。普通の人間である里中には、声は聞こえどその姿は全く見えないのだから。

「これこれ娘達や。今日はお客さんがいるから、姿を見せなさい」

 はーいという返事の後、彼女らの体に徐々に色がつき始めた。一体の髪色は黒、もう一体は栗色。瞳の色は共に海のような青で、容姿はフランス人形にも似て愛らしい。その姿に里中の顔から思わず笑みがこぼれた。

「このお二人さんが教頭先生と暮らしている妖魔ですか? 妖魔の中にもこんな可愛らしい子がいるんですね」

「あら、おばさんったら正直ね!」

 満更でもないのか、グリフィーナが頬を赤らめた。妖魔でも誉められれば悪い気はしないらしい。初対面の人間を警戒しがちな竃乙女だが、里中のこの一言で親近感を抱いたようだ。

「娘達、この人は訳あってうちに連れて帰った。お世話をしておやり」

 福原がそう言うと、二体の竃乙女達は快く承知した。もともと世話好きな妖魔ではあったが、里中に好印象を持ったことも大きかった。とはいえ、やはり気になったのだろう。ファルシオーネが尋ねてきた。

「でも旦那様、どうしてこの人を連れて帰ったの?」

「そうだな……。お前達にも事情を話しておいた方がいいな。でもそれはこの人に一息入れてもらった後だ。いいね?」

「わかりましたあ!」

 竃乙女達の元気のいい返事を聞くと、福原は里中を連れて家の中へ入った。

 何故福原は彼女を自宅へ連れて帰ったのか。紙士養成学校の保健室で里中から話を聞き終えた後、追われている彼女をどうするか前橋らは話し合った。勿論このまま校内に放置することは出来ない。ひとまず誰かが家でかくまってやらねばならないのだ。

 前橋と鏑木は家族と同居しており、家族への負担も考えると里中の庇護は難しい。適任は武藤だ。武藤は夫が単身赴任中で、息子も独立して家を出ており、現在一人暮らし。しかしこれに前橋が難色を示した。武藤の自宅は州都市内の繁華街に近く、人目に付きやすく相手に見つかる危険性があった。さらに女性一人では万一追っ手が来た場合、とても対処出来ない。

 そこで福原がかくまうことになった。福原の自宅は州都市から離れた場所にあり、郊外なので目立たない。それに表向きは一人暮らしでも、実際には竃乙女が同居している。いざとなれば彼女らが守ってくれるはずだ。

 その様なわけで福原は里中を連れて桐生が岡駅前まで行き、そこからタクシーを拾って帰宅した。里中の体力は完全には回復しておらず、公共交通機関を使っての帰宅は酷と判断したのだ。

 さて、寝室に入った福原は、押入から長持を幾つか引っ張り出し、中に入っていた服を探り始めた。

「さーて、家内の物はここにあったっけ……」

 福原の呟きに里中ははっとなった。福原は一人暮らしだというが、家族はどうしたのか。いるのかいないのか。気にはなっていたものの、車中で訊くに訊けなかった質問を里中は思い切ってしてみた。

「あの教頭先生、奥様は……」

「家内かい? こっちにいるよ」

 福原は立ち上がり、寝室の隣にある居間へ里中を連れて行った。灯りをつけ、彼が指さす方向を見て里中は絶句した。そこにあったのは仏壇だったのだ。遺影の中で里中より少し若めの優しそうな女性が、にこやかに微笑んでいた。

「あれが奥様……。亡くなられたんですか?」

「ああ。もう十七、八年前になるかな。心臓病で急にね。仕事から帰ってきた時には既に冷たくなっていた。可哀想なことをしたよ。もう少し私が気を遣ってやれば、事前に病院に連れていけたのにね」

「それはお気の毒に……。お子さんはいらっしゃらないんですか?」

「欲しかったんだけど、授からなかったなあ。まあこればっかりは運だし。今は娘達がいるから寂しくはないけどね」

 そうは話したものの、福原の顔は物悲しげだった。寝室へ戻った福原は妻の服が入っていた長持を見つけると、里中を側へ呼んだ。

「この中から好きな服を選んで着なさい。あんたと家内は体格が似ているから、多分サイズは大丈夫じゃないかなあ。あと風呂が沸いているはずだから、先に入ってきなさい」

 福原は里中を寝室に残して台所へ向かった。家事の大部分は竃乙女達が手伝ってくれるが、和食派の福原は彼女らが得意の洋食がどうも苦手なので、料理だけは自分でやるようにしているのだ。慣れた手つきで調理を済ませ、二人分の食事をこしらえ終えたところで、里中が風呂から出てきた。

 遅めの夕食をとり、片付けも終わって二人が居間で向かい合った頃、時計の針は午後十一時半を指していた。

「さて……。お疲れのところ申し訳ないが、もう一度学校で話してくれたことをこの達にも教えてやってくれないか」

 福原が左右の肩の上に漂う竃乙女達に目をやりながら頼むと、里中はしっかりとした目つきで話し始めた。入浴し、きちんとした食事もとったので、体力はかなり回復したようだ。

「私は以前、そう翠ちゃんを誘拐した罪で逮捕される直前まで、とある倉庫会社に勤務していました。でも実は会社の社長と副社長、それに専務ともう一人別の社員の計四人は違法紙士、つまりもぐりだったんです」

 会社トップら四人がもぐり。この事実は社内でも一部の役職社員だけが知る「秘密」だった。誘拐事件を起こす前年までにこの秘密を把握していたのは、もぐり当人を除けば三人。部長の二人・五十嵐智造いがらしともぞう日高亮太ひだかりょうた、そして事務職員兼社長秘書の里中だけだった。

 では何故この四人がもぐりだったのか。それはこの会社を立ち上げた先代の社長と副社長の過去が関係していた。戦前、この二人は旧和州陸軍に事務員として勤務していた。だがその本当の職業はーー

「陸軍専属のもぐりだったんです。陸軍は密かに兵器用妖紙の研究を行っていて、二人はこの研究員でした。前社長が染士、前副社長が漉士です。しかし軍は研究が外部に発覚するのを恐れていたので、大っぴらに研究員であることを名乗れません。そこで専属のもぐりなどという、ややこしい職ができたんです」

 もし彼らが正式な紙士免許を取得すれば、紙士であることを公表するようなもの。事務員という隠れ蓑は通用しない。故に紙士ではないが、紙士術をマスターした者、即ち軍専属のもぐりなるものが誕生したのだ。

 ところが終戦を境に二人を取り巻く状況が一変した。終戦の年の三月、和州は敗戦国として連合国軍の占領下に置かれたのだ。研究の指揮をとっていた軍上層部幹部は慌てふためいた。もし研究が白日の下に晒されたら、自分の命が危ない。A級戦犯として裁かれるかも知れないのである。幹部は数人いた研究員らに研究のデータや資料を焼却処分させたが、研究用に極秘に所蔵していた十数枚の妖紙だけには手を下せなかった。貴重かつ危険な妖紙がその中には含まれており、使いようによっては一発逆転もありうる……と、考えたからだ。

「その幹部は秘蔵の妖紙を前社長と前副社長に託し、ベイアード軍から何が何でも守るようにと命じました。こうして小馬や幽鬼、青雷鳥といった物も含む、十五枚の妖紙が二人の手に委ねられたのです」

「え、小馬! 怖い!」

 「小馬」と聞いた途端、怯えたグリフィーナが天井すれすれまで一気に飛び上がった。ファルシオーネも過剰な反応を示し、室内をぐるぐる回り出す。

「小馬、怖い! 小馬、嫌い!」

「これ娘達、それは妖紙の話だよ。妖魔じゃない。安心しなさい」

 福原が懸命に宥め、何とか竃乙女達は落ち着きを取り戻した。彼女達の出身地である中央ヨーロッパは、暗黒霧の小馬が好んで縄張りを作る地域に含まれている。故に小馬の恐ろしさをよく知っているのだ。小馬は他の妖魔にも情け容赦がなく、彼女らとて所詮は餌でしかない。相手の視界に入ったら最後、即座に食い殺されてしまう。

 竃乙女達が定位置に戻ったところで、里中は話を再開した。

「どうやって隠しおおせたのか、今となってはわかりませんが、とにかく十五枚の妖紙はベイアード軍に見つからずに済みました。噂ではベイアード軍は小馬の妖紙を血眼になって捜していたっていう話ですけど……」

 里中は知らなかったが、実際にベイアード軍は小馬の妖紙を全力で捜索していたのだ。和州占領を米軍が主導したのも、この貴重な戦利品の入手が目的だったと噂されているぐらいだ。しかし例の軍上層部幹部がとうとう口を割らなかったので、その行方はわからず終い。翌年秋の軍撤収を機に諦めざるを得なかった。

「もし小馬の妖紙が米軍に見つかりそうになったら、他の十四枚と共に焼けーー二人はその様な指示を受けていたそうです。しかし今思えば、その方が良かったのかもしれません。あんな事件が起きずに済んだのですから。それはともかく、終戦から二年が経過して世の中が少し落ち着いてきた頃、二人は輸出入品を保管する倉庫会社を設立しました。これからは貿易が盛んになるから、それを見越していたんでしょうね」

 前社長と前副社長は数年ほどは「大人しく」会社の業務に専念し、その甲斐あって会社は三十人ほどの社員を抱えるほどに成長した。だがこの頃から今まで眠っていた「もぐり紙士研究員」としての欲望が、むくむくと頭をもたげ始めたのだ。また研究をしたい、研究成果を試したい。誰かにこの技術を伝授したいーーそんな思いだった。

「二人は幹部から妖紙と一緒に受け取ったリストを、改めて見直してみました。するとその中の材料で一組だけ、かつて研究で開発した『紙合わせと物合わせの合体技で出来る』妖紙が作れることが判明したのです。二人は早速これを再作成してみることにしました」

 使用する妖紙は紙合わせ用にランク2突撃獣とランク5青雷鳥。物合わせ用にランク6雪地潜ゆきじむぐりとランク9霧纏きりまといだ。まず紙合わせは染士である前社長が難なく行った。

 次は物合わせに使用する血液の採取であるが、これは漉士である前副社長の役目だった。頑丈な檻に妖紙を入れて紙戻しを施し、妖魔に戻ったところで採血をする。ただ双方の妖紙とも素妖のレベルは12程度あり、一般的な医療用注射針では皮膚を貫通できない。しかし雪地潜は暑さが苦手なので、気温が二十度を超えれば抵抗も出来なくなるし、肉体も虚弱になる。一方の霧纏は元々大人しい妖魔で、皮膚が軟らかい足の付け根部分を狙って刺せばいい。こうして妖魔から採った血液を前社長が紙合わせした妖紙へ混ぜ、更に赤青の斑模様になった妖紙を加工が判明しにくくなるように赤く染め直した。

 かくして二枚の妖紙と二種の妖魔の血液を混ぜた妖紙が完成した。だが社内には折士がいないので、覚醒させて能力を確認することが出来ない。二人はただ単に己の欲求に従い、「作りたくて」この妖紙を作ったにすぎなかったのだ。リストには使用して無くなった妖紙にはX印を、採血して妖紙へ戻した物にはレ点を鉛筆でつけた。残った物に新たに作った物を加え、手元のある妖紙は十四枚となった。

 さらに二人は自分達の技術をこっそり他の者にも教えた。前社長は染士術を二人の息子達に、前副社長は漉士術を有望な若手社員に。彼らが後に会社のトップ三人となる。

 だが前社長と前副社長が犯した違法行為は、会社内部で行ったこの二点ーー妖紙の合成と紙士術の伝授だけで、それ以外の行いには手を染めなかった。他のもぐり紙士がやるような折妖の悪用や妖紙の密輸、その他犯罪行為には決して手を出さなかったのである。そのため警察からも全く怪しまれず、会社も順調に業績を伸ばしていった。

 前社長と前副社長は今から二十五年前に高齢と病気を理由に引退。前社長の長男が社長に、次男が副社長に就任した。それと同時に部長の一人が専務に昇格、新しい経営体制となった。

 ところがその八年後、大口の取引先企業の倒産をきっかけに、会社が傾き出した。会社を維持していくためには、何としても資金を調達しなければならない。だが銀行からの融資も難しくなった今、どうやって纏まった金を得ればいいのか。社長はとうとう最後の奥の手を用いる決断をした。

「実は社長はこの時既に亡くなっていた前社長から、ある『遺産』を受け継いでいたのです。それが例の十四枚の妖紙です。会社に何かあった時は、この妖紙を闇市場に売って金を調達しろ……と、言われていたそうです」

 旧陸軍から「預かった」妖紙ではあったが、もう軍自体解体されて存在しない。なればもう自分達の所有物にしてもいいのではないか……そう前社長と前副社長は考えていた。そこで会社の「遺産」として、次期経営陣に引き継がせたのである。

 もっともこれらの妖紙、出所や作成法に問題がある代物。社長も妖魔局に事情を説明し、引き取ってもらうことも検討したという。だが二束三文で譲り渡すことになるのは目に見えていた。終戦直後に父である前社長達が必死になって守ってきた妖紙、そうあっさり託す気にもなれない。かといって正規の流通ルートでは取り引きできそうになく、闇市場に流すしかなかったのだ。

 社長は妖紙を売却することを決め、とある闇ショップと接触を図った。この闇ショップ、父親の元同僚ーーつまり軍専属もぐり仲間が戦後に開いた店。今は別の人間の手に渡っていたが、他の窓口を知らない社長はここを頼るしかなかった。接触は成功し、闇ショップの経営者は買い取り希望者を闇市場で「公募」。一月ほど経った頃、そのうち何枚かを買いたいという者が現れた。

「その者というのが黒駒三兄弟でした。もぐり紙士の中では名のある一団ということで、社長もすっかり信用し、取引のために彼らを会社の事務所へ招いたのです」

 しかし黒駒三兄弟は、会社経営陣が予想もしないような暴挙に出た。事務所に入るや否や強力な折妖を覚醒させ、こともあろうか里中を人質にとって脅迫したのだ。女の命が惜しくば全ての妖紙をよこせと。経営陣の中には折士はおらず、折妖に対抗する術はない。社長は泣く泣く小馬の妖紙を除く十三枚の妖紙を黒駒三兄弟に渡した。

 実は小馬の妖紙はあまりに危険ということで、前社長もこれだけは絶対に手放すなと言い残していた。よって社長も売るつもりはなく、その存在すら闇ショップに伝えていなかったのだが、相手はこれも要求してきたのだ。何故黒駒三兄弟が小馬の妖紙のことを知っていたのかは不明だが、逆らうことも出来ずに差し出す羽目となってしまった。

「全ての妖紙を受け取ると、三兄弟は私を解放しました。でも長兄は言いました。お前達のやることなど、こっちには筒抜けだ。もしこのことを他言すれば、全員の命はないと。もう私達は泣き寝入りをするしかありませんでした。こちらも違法行為をしている以上、警察にも相談できませんから」

 結果、資金調達に失敗した会社は翌年の五月に倒産。大部分の社員は解雇され、残務処理のため会社の秘密を知る七人だけが残った。だが多額の負債が残された以上、やはり金は必要。そこで金儲けの手段を求め、ダメもとで社長が再度闇ショップに連絡を入れたところ、興味深い情報を耳にした。とある退治屋が高ランクの緑青斑猫ろくしょうはんみょうを漉いたというのだ。その妖紙は闇市場に流せば数百万は下らない代物。だが海外に密輸出すればゆうに一千万の値がつくだろうと言われていた。

「妖紙はまだその退治屋が持っているらしいとの情報を受け、社長は何とか手に入れられないかと考えるようになりました。そこで思いついたのがその娘さんを誘拐することだったのです。実行犯は動きが機敏な者がいいということで、一番若い私と次に若い社員が選ばれました。私は気が進まなかったのですが、背に腹は代えられぬと社長に説得されて仕方がなく……」

 里中と共に実行犯役に選ばれたのが、片岡修平かたおかしゅうへいだった。片岡は社長の従兄弟で片腕の側近。社長から染士術も教わっている、役職以外で唯一のもぐり紙士だった。

 八月上旬のある日、里中と片岡は退治屋の自宅近くに馬車を止めて待ち伏せし、長女を誘拐することに成功。だが子供には何の罪もない。傷つけることは勿論、怖がらせるようなことも絶対にしないように、二人は気を遣った。翌日の夜、脅迫電話を受けて親である退治屋は、緑青斑猫の妖紙を持って会社事務所へやってきた。が、退治屋ーー藍沢の思わぬ反撃を受け、ことは失敗に終わり、七人全員が逮捕されてしまったのである。

「社長は言いました。『やっぱり悪いことは出来ないなあ……。お天道様はちゃんと見ているんだなあ……』って。私達は素直に警察の取り調べに応じましたが、ただ一つだけ絶対に喋らないと誓ったことがありました。それはあの十四枚の妖紙が奪われたことです」

 里中と片岡は独り者だが、他の五人には家族がいた。もし喋れば拘束中の自分達は安全でも、家族が危ない。黒駒三兄弟が家族に危害を加えるかも知れないと思うと、怖くて誰も打ち明けらなかったのだ。家宅捜索の際に見つからないようにと、逮捕前に社長は自宅の庭の片隅にリストを埋めた。その甲斐あってリストが警察に発見されることはなかった。

 こうして逮捕された里中ら七人は裁判にかけられ、全員懲役刑となった。部長の五十嵐と日高、そして里中の三人は五年。だがもぐり紙士である社長、副社長、専務、片岡の四人は紙士法違反も重なって罪が重く、十年だった。

 里中ら三人は先に刑期を終えて出てこられたものの、五十嵐と日高はこれを機に妻と離婚、孤独の身となった。さらに副社長が持病の悪化が原因で獄中で死亡。専務も辛い獄中生活の影響で、出所して半年たらずで病死した。そして社長もつい一月前、妻の後を追うように亡くなったという。結局、誘拐事件を起こしてまで大金を手に入れようとしたのに、誰一人として幸福にはなれなかったのである。

「社長が亡くなる直前、私はあのリストを受け取りました。申し訳ないが、このことはお前達に託すと。社長の葬儀後、私達四人は集まって話し合いました。このリストにある妖紙が奪われたことを警察に話すか否かを。その時五十嵐さんが言ったんです。『自分ももう年だ。こんな秘密を抱えて死にたくはない』と……」

 もし警察に言えば、また刑務所に逆戻りしてしまうかも知れない。しかしあの悪辣なもぐりなら、妖紙を悪用しかねない。結果事件が起きて誰かが不幸になったらーーそう思うと、誰もが穏やかな気分にはなれなかった。そんな心のもやもやを捨て、すっきりした気分で死ねたらと、五十嵐が警察に出向くことになったのである。

 そして今月の九日、五十嵐は自宅近くの警察署にリストの「写し」持って行った。何かあった時に備え、リストの「原本オリジナル」は里中が保管したままだったのだが、それが後に好ましくない形で幸いするとは、この時四人の誰もが予想もしていなかった。

「警察は半信半疑だったが、とりあえず話は聞いてくれた……と、五十嵐さんが話すのを聞いて、私もほっと胸をなで下ろしました。ところがその翌々日、恐ろしいニュースが飛び込んできたんです」

 それは十一日のお昼のラジオニュースだった。五十嵐が前日の十日夜、自宅近くの路上で遺体となって発見されたのである。何かの動物に首を掻まれたことによる出血死だった。どうも銭湯に行った帰りに襲われたらしいが、襲った動物が妖魔なのか折妖なのかは不明だという。しかし十日の夜は州都市内の何処にも妖魔警報は出されていなかった。人を殺害するような高レベル妖魔が、事件現場付近に出現したとは考えにくい。

「私は不吉な予感にかられました。もしかしたら五十嵐さんは殺されたんじゃないかと。でも五十嵐さんは警察以外の人にあのリストのことを話してはいません。まさか……という思いが脳裏をかすめました」

 だが里中のこの予感は不幸にも的中する。十五日の深夜一時過ぎ、突然片岡が自宅にやってきたのだ。顔色は血の気を失って真っ青、肩で激しく息をして。この真夜中、暗い夜道をひたすら走り続けて里中の許へ駆けつけたのである。よほど火急の用があると見えた。

 家に入るなり片岡は言った。つい先程日高が殺されたと。二時間ほど前、日高から片岡の自宅へ電話があったのだ。日高は震える声で言った。今、自宅の外でライオンのような猛獣の唸り声がした、と。そしてその後、バン、バンと何かがぶつかるような激しい音が聞こえてきた。「奴が体当たりをして、雨戸を打ち破ろうとしている!」という日高の泣き叫ぶ声。ものの数秒も経たないうちにガラスが砕ける音がしてーー耳をつんざくような日高の絶叫が続いた。そしていくら片岡が呼びかけても、日高が応じることはもうなかった。

 里中、五十嵐、片岡の自宅は州都市内にあったが、日高の自宅は州都市から北西に百キロ以上離れた場所にある美森みもり県の山村の外れ。都会には現れない凶悪な妖魔が出ても不思議ではなかったが、妖魔は普通家の中に押し入ってまで人を襲うことはしない。これは間違いなく折妖の仕業だ。折妖がやったということは、誰か日高殺害を命じた者がいるーー

「片岡さんは断言しました。警察内に奴らーー黒駒三兄弟の仲間がいると。リストが警察に持ち込まれたことを知り、報復に出たのだと。リストの原本を警察が手を出せない、信頼できる組織に委ねるよう、そして自分も逃げるからお前も逃げろと言い残し、片岡さんは去っていったのです」

 リストを託せるような信頼できる組織。それは妖魔局しかなかった。妖魔局は警察庁の中でも独立機関のように扱われている。その長・妖魔局長に直接渡すのが最善の策だと里中は考えた。しかし里中のような紙士でもない、しかも前科者に局長が会ってくれるはずもない。どうすればいいのかーー

「その時思い出したんです。あの藍沢さんが退治屋を引退し、今は紙士養成学校の先生をしていることを。藍沢さんに渡せば妖魔局長まで届けてくれる。でもきっと藍沢さんは私達が娘さんを誘拐したことを、今でも怒っていることでしょう。だけど翠ちゃんなら私に悪い印象を持っていないかも知れない。そこで翠ちゃん宛に手紙を出すことにしたんです」

 藍沢の自宅住所は誘拐事件時に調べてあったので、問題はなかった。だが里中が直接自宅郵便受けに手紙を投函するのは如何なものか。黒駒三兄弟がいつ何処で自分達を狙っているのかわからない。藍沢の家まで行って彼やその家族を巻き込むことだけは避けねばならないのだ。

 やむを得ず里中は郵便物という形でリストを送ることにした。だが里中は慎重だった。もし中を黒駒三兄弟の手の者に開けられたらどうするか。里中は考え抜いた末、暗号を用いることにした。以前読んだ推理小説を参考にして、手紙を暗号化。さらに犯人の手がかりとして、昔カメラの練習用に撮った三面鏡の写真がまだ残っていることを思い出し、それも三枚添えた。うち一枚はさらなるヒントにと、独楽を乗せた物にした。

 夜が明け、必要最低限の物だけ持って里中は家を出ると、まず翠宛の手紙を郵便ポストに投函した。だが相手は美森県まで追ってくるのだ。遠くに逃げても無駄だと感じた里中は、州都市内の町中を放浪することに決めた。いくら黒駒三兄弟といえど、大勢の人の目の前では折妖は使えないだろうと判断したのである。

 しかし里中はパート勤めで、何とか食べていくので精一杯の生活をしている。最初の夜は安宿に泊まれたが、すぐに金が底をつき、食べ物を買うことすらままならなくなってきた。真冬のこの時期、野宿でもしようものなら凍死してしまう。夜は繁華街を夜通し歩き、昼間はデパートの片隅のベンチに座って眠る。しかし口に出来るのは公園の飲水機の水だけ。体力は落ち、敵から逃れられてもこのままでは野垂れ死にしてしまうと感じるようになった。

「街頭テレビのニュースで、片岡さんも亡くなったことを知りました。次は私の番かと思うと、もう怖くて怖くて仕方がなかった。飢えと寒さも重なって、とにかく誰でもいいから助けて欲しかったんです」

 しかし当然のことながら、警察に助けを求めることなど出来ない。ぼーっとした頭で里中は必死に考えた。あの手紙もきっと翠の許へ届いているはず。ならば藍沢も許してくれるかも知れないーーと、最後の力を振り絞り、里中は紙士養成学校に逃げ込んだのだ。

「おかげでこうして命拾いしました。おまけにかくまって頂くなんて……本当に有り難う御座います。でももしかしたら黒駒三兄弟は、ここを嗅ぎつけてくるかも知れません。ご迷惑をかけなければいいんですが……」

「それは大丈夫じゃないか」

 改めて話を聞き終えた福原が落ち着いた口調で言った。

「私の推測だが、五十嵐さんと日高さんは自宅住所を突き止められ、襲われたんだ。片岡さんは長綱川ながつながわの河川敷で発見された。あそこは彼の自宅の近くなのかい?」

「いいえ……。片岡さんの自宅は長浜県ながはまけんとの県境に近い所にあるんです。長綱川は如月きさらぎ県との県境を流れる川ですから、随分距離があります」

「そうか……。では片岡さんはどうして見つかったのかな。まさか折妖が臭いを辿って……。いや、待てよ。あんた、昨夜も夜通し歩いていたのかい?」

「はい。昨夜は唐沢町からさわちょうの繁華街を一晩中ずっと……」

 唐沢町は州都市内でも有数の繁華街だ。極彩色のネオンが照らす町並みに、深夜営業をする飲食店が多数立ち並ぶ。日付が変わっても客足が途絶えることはない「眠らない町」である。

「そうか。昨夜の六時頃から今日の午前十時くらいまで、市内全域に大雨が降っていたな。もし折妖があんたの臭いを追っていたとしても、この雨で完全に消されてしまっただろう。仮に唐沢町まで来たことはわかっても、その先の足取りは途絶えたはず。あんたが学校へ来たことも連中には発覚しまい。大丈夫だ。この家から出ない限り、連中に見つかることはないよ」

 それを聞いて里中は顔をほころばせた。しかし油断は禁物、「敵」は何処から彼女のことを嗅ぎつけてくるかわからない。万一に備え、福原は竃乙女達に里中を守らせることにした。温厚で悪戯好きな竃乙女だが、本気を出せば侮れない相手となる。地下に潜って足を掴んで転ばせたり、バラ藪を作って行く手を遮ったりと、結構戦う術を持っているのだ。

 グリフィーナとファルシオーネは必ずや里中を守ると誓った。彼女らも悪党は大嫌いなのだ。ことに折妖を人殺しに使うことが許せなかったらしい。どんな妖魔も妖紙にされて折妖となり、人間にこき使われることに激しい嫌悪感を抱いている。ましてや自分が望まない行為を強要されるなど、真っ平御免だった。

 深夜零時をとうに過ぎ、福原は里中を残して寝室へ向かった。居間は彼女のために開けることにしたのだ。やっと暖かい布団で眠れると、里中は喜んでいた。ことに昨夜は雨で、雪になっても不思議がないほどに冷え込んだ。そんな中、震えながら傘をさして一晩中歩き回ったので、とても有り難く感じたようだ。

 布団に潜り込み、福原は考えた。ひとまず里中の身柄を預かるのはいいとして、問題はその後だ。前橋は彼女が話したことを、明日にでも妖魔局長へ報告すると言っていた。局長の要請があれば、彼女を引き渡さなければならない。もしそうなれば里中の安全は保障できるのか。気がかりだった。

 里中は会社の為に犯罪に手を染めたのであって、悪人でないことは福原もわかっていた。かつての同僚が次々と殺され、自身にもその魔の手が忍び寄っている。とにかく気の毒な人だ。その里中が亡き妻の服を纏って現れた時、福原は彼女の姿が一瞬妻と重なった。こんな思いを感じたのは本当に久し振りだーーなどと驚きを隠せない福原だった。


 里中との一件があった翌々日の二十一日、水曜日の午前十一時頃。この日仕事が休みだった塚田は、担当エリア内にある阿倍野区桃木四丁目の排ビルの屋上へやってきた。実は塚田は昨日卓に、「ちょっと話がある。手紙の配達途中でそのビルに寄るから」と言われ、待ち合わせをしていたのだ。

 排ビルは昨年の夏に借り手が全て撤退し、現在は完全に無人だ。誰でも支障なく中に入れるので、五階建てビル屋上から臨む眺望を満喫することが出来る。屋上に今いるのは塚田一人きりで、展望は独占状態。しかし、塚田はそんなものを楽しむ気にはなれなかった。冬の冷たい北風がまともに当たるし、空は今にも雨が降り出しそうな雲行きだ。しかも約束の時間になっても卓は姿を現さない。凍える手をすり合わせながら、塚田はぶつぶつと文句を言った。

「何だよ、鏑木の奴。人を勝手に呼びだしておいて。ん……?」

 塚田はふと薄暗い空を見上げた。一羽のカラスが頭上二、三メートルの所を通過していったのだ。ところがそのカラスはすぐに反転、再び塚田に向かって飛んできた。今度は顔面めがけてまっしぐらに。驚いた塚田が慌てて身を屈めると、カラスは頭を掠めるように飛び去り、屋上の柵の端に止まった。

「うわっ、何しやがる! この折妖カラスが!」

 悪態ついた塚田が足下に落ちていた小石を掴み、カラスに投げつけよとしたその時ーー

「その通り。それは折妖カラスだ」

 何処からか男の声がし、塚田の手から小石がぽろりとが落ちた。やがて屋上からビル内部へ通じる扉が開き、声の主ーー鏑木がゆっくりと姿を現した。

「だ、誰だてめえは!」

「息子が世話になっている……と、言いたいところだが」

 その台詞を聞いて塚田は相手の正体を知り、一瞬固まった。聞かれてはいけない者に聞かれてしまったのだーー自分がついうっかり発してしまった言葉を。

 鏑木は十メートルほどの距離をあけて塚田と向かい合うと、ヒューッと口笛を吹いた。すると柵に止まっていたカラスが、鏑木の左肩まで一直線に飛んできた。このカラスは鏑木が作った折妖カラスだったのである。されど流石は十五段の腕前を持つ鏑木が作った折妖。見事な出来映えで本物のカラスと見分けが全くつかない。そう、普通の者の目には。

 塚田は配達先で折妖犬を見た際、近くに卓がいるとは知らずについ「折妖犬」と口走ってしまった。人目がないと思って油断したのだろう。相手にはその様な軽率な一面があるようだ。ならばこちらも同じ状況を作れば引っかかるに違いないと睨み、鏑木は罠を張った。結果、塚田はまんまと罠にはまり、鏑木が見ている側で「折妖カラス」と叫んでしまったのだ。

「塚田晃一だな? お前、周妖光が見えるんだろう?」

 問いかけられても塚田は口を真一文字に結び、何も言わなかった。卓曰く、塚田は陽気な人物で、普段の彼なら決してこんな非友好的な態度を見せない。明らかに動揺しているのだ。鏑木は相手の様子を窺いつつ、話し続けた。

「養成学校で教師を三十年以上やっているとな、見ただけで大体その人間が鬼の眼持ちかそうじゃないかはわかるんだよ。お前は明らかに鬼の眼持ちじゃないな」

 塚田は依然黙り込んだままだ。しかしこの寒さの中、額には汗がにじんでいる。

「念のため調べさせてもらったよ。お前が紙士養成学校に在籍したことがあるかをな。だがお前が入学しそうな頃の在籍者名簿を見ても、お前の名前は何処の学校にもなかった。つまりお前の妖視能力は、養成学校で身につけたものじゃないってことだ」

「……てめえ、何が言いたい」

 ようやく塚田は口を開いたが、その口調は些かぎこちがなかった。

「紙士法では養成学校以外で妖視能力を身につけることを禁じている。明らかな違法行為だな。だがお前が身につけたのは、妖視能力だけということはあるまい。紙士術も教わっているんじゃないか?」

「き、貴様何を……」

 塚田の顔がみる間に赤みを帯びてゆく。完全に逆上しているのだ。 

「そう。お前、もぐり紙士なんだろう!」

「野郎、よくも!」

 塚田が身構えるのと同時に、鏑木はピーッと鋭く口笛を吹いた。折妖カラスは鏑木の肩から勢いよく飛び立ち、鋭く尖った嘴を塚田へ向けて襲いかかった。

「へっ! そうは問屋が卸すかよ!」

 鼻先でせせら笑うと、軽い身のこなしで塚田は印を結び、虹色に光る正方形の枠を放った。枠は折妖カラスに命中、瞬時にして真っ黒い紙と化し、コンクリートの床にひらひらと落ちた。

「折解き……! 貴様、折士か!」

 相手がいきなり紙士術を使ってきたので、鏑木は面食らった。折解きとは折士術の一つで、覚醒状態の折妖を瞬時に妖紙へ戻す術のこと。折士が折妖から攻撃を受けた際に用いる、防御術の一つだ。折妖カラスは尾長鼠が素妖の低レベル折妖ではあったが、動きはそこそこ機敏だ。それにこういとも簡単に光の枠を命中させるとは。熟練した折士でなければ出来ない技だ。

「そういうことだ。さあ、今度はこっちの番だ。ことが発覚した以上、貴様を生かしておくわけにはいかねえからな!」

 塚田は懐から睡眠状態の折妖を取り出した。漆黒の猫のようだ。

「こいつはてめえの折妖カラスみたいにうすのろじゃねえ。折解きなんぞ当たらんぞ。おまけに火も吹ける。折妖なしで勝てるかどうか、試してみるんだな!」

 しかし塚田が勝ち誇ったように叫んでも、鏑木は焦る様子一つ見せない。むしろ嬉しそうだ。

「成程。ならやってみるがいい。それにしても手間が省けた。俺も出来れば痛い目には遭いたくはないしな」

「何だと?」

 余裕綽々の鏑木の態度を目にし、意表を突かれたのか塚田の動きが止まった。その背後から迫る巨大な影。翼長三メートルはあろうかという白い鷲が、鉤爪をふりかざして塚田を急襲したのだ。両腕を鷲にがっちり掴まれたうえにのしかかられ、たまらず塚田は倒れ込み、折妖を手から落としてしまった。

「阿倍野署妖魔課の者だ! 紙士法違反の現行犯で逮捕する!」

 タイミングを見計らったかのように、屋上にどやどやと数人の男性がなだれ込んできた。先頭に立つのは阿倍野署の妖魔課長・古賀健次郎こがけんじろうだ。塚田を襲った鷲は阿倍野署が所持する折妖で、古賀がビルの近くに待機させていたものだったのである。

「身柄、確保しました!」

 若い警察官が塚田に後ろ手に手錠をかけた。塚田は鬼のような形相で鏑木と古賀を睨みつけ、吠えた。

「てめえら、謀ったな!」

「そういうことになるな」

 しらっとした顔で鏑木は答えた。卓から折妖犬のことを聞き、塚田がもぐり紙士であると確信した鏑木は一計を案じた。卓に塚田を人目に付かない場所に呼び出させ、古賀にはその近くで待機してもらう。鏑木がもぐり紙士であることを指摘して塚田を挑発し、現行犯逮捕ーーという段取りだったのだ。ただ当初の予定では怒った塚田が鏑木を襲い、暴行罪で逮捕するつもりだった。しかし塚田が折士術を用いいたため、相手が凶行に及ぶ前に紙士法違反での逮捕となった。「手間が省けた」とはそういう意味だったのである。

「畜生! 鏑木、覚えておけよ! このままで済むと思うなよ!」

 手錠をかけられてもなお塚田は暴れ、恨み言を吐き続けていた。塚田はそれほど体格がいい男ではなかったが、憤怒のあまり尋常ではない力で抵抗している。三人がかりで押さえつけ、やっとの事で引かれていった。こうして屋上には鏑木と古賀、そして一人の若い警察官だけが残された。

「ご協力感謝します、鏑木さん」

 満面の笑みで頭を下げる古賀。実は古賀は以前から別の容疑で塚田をマークしており、取り調べるきっかけが欲しかったのである。

 管轄外の桐生区でおきた一件の窃盗未遂・住居侵入事件。そう、鳥勝で起きたあの事件だ。足の踏み場もないほど派手に荒らしておきながら、何も盗らずに黒い折妖猫は逃げた。その話を後で女将から直接聞いた古賀も凰香同様、あの赤い妖紙が目当てではないかと考えていた。

 鳥勝の女将は妖紙をもらったことを娘に話し、娘は更に四人の母親仲間ママともに話している。娘とその仲間は桃木町在住で、管轄内。そこで汚名返上と言わんばかりに、妖紙の拾得物事務手続きを怠ったあの若い警察官ーー今この場に古賀といる警察官が、彼女らに聞き込みを行ったのである。

 鳥勝での事件から三日後、女将の娘と二人の仲間が聞き込みに応じてくれた。しかし彼女らは口を揃えて「もう誰にもその話をしていない」と答えた。捜査が行き詰まってしまうと感じた警察官は、懸命に頼み込んだ。

「何でもいいですから、思い出して下さい。あなた達以外にも他の誰か、あの妖紙について知っている可能性はないんですか?」

「そう言われてもねえ……。あの日は私達以外外に出ている人なんか……あ、そうだ!」

 ママとも仲間の一人がぽんと手を打った。

「送迎車の待ち合わせ場所のすぐ近くに郵便局の馬車が停まっていたわね。ああ、こんな朝早くから配達大変だなあ……何て思ったわ、あの時」

「で、その時の配達していた郵便局員って誰なんです!」

 その質問に答えたのは女将の娘だった。

「私知っているわ。あの時顔を見たし、時々同じ人に荷物届けてもらっているから。塚田さんていう若い人よ」

「それでその塚田っていう人、お宅の実家があの焼鳥屋だってことは知っているんですか?」

「ええ。前に荷物配達してもらった時に話したから。桐生が岡駅前に行ったら立ち寄って……何て言った記憶があるわ」

 聞き込みを終えた警察官は、上司である古賀にすぐさま報告。だがあることが気になった古賀は、再度この警察官に女将の娘の許へ向かうように命じた。そのあることとは、塚田の件について桐生署が把握しているかどうかであったがーー

「ところで先日の郵便局員の話、失礼ですが桐生署の担当警察官には話されたんですか?」

「いいえ。だってあなたみたいにしつこく訊いてこなかったから。ちょっと話を聞いて、さっさと帰って行ったわよ」

 女将の娘が言うには、桐生署警察官の聞き込みは、形ばかりのもののように感じられたという。どうの桐生署はこの事件について積極的な捜査を行っていないようだ。それに例え塚田の情報を入手しても、あくまでも彼が「妖紙が鳥勝にある事実を知っている可能性がある」程度。桐生署が塚田を取り調べることも出来ない。第一、取り調べたところで「そんな話、知らない」と言われればそれまでだ。

 桐生署が動かない以上、怪しいと感じながらも古賀は塚田を放置せざるを得なかった。そこへ鏑木から連絡が入り、古賀は大喜びで話に乗ったのである。

「成程、そんなことがあったとは。しかし桐生署は何をやっているんですか。あの妖紙のおかげでうちの学校はとんだ迷惑を被ったのに」

 鏑木も鳥勝での事件については、武藤を通して話には聞いていた。武藤の教え子の馬渕が、もしかしたら妖紙狙いだったのでは……などと話していたことも。鳥勝は鏑木の行きつけの店。事件がどうなったのか、少なからず気になっていたのである。

「あの爆発事件の現場となった学校は桐生署の管轄ですが、学校おたくが被害届を出していませんし、周辺からも苦情は来ていませんからね。阿倍野署うちと共同捜査しようっても、乗り気じゃないんでしょう。鳥勝の事件にしても盗られた物がない以上、重要事件とは見ていないようですし……。身内のことを言うようで何ですが、警察なんてこんなもんですよ」

 古賀は苦笑しつつも塚田が落としていった、睡眠状態の黒い折妖猫を拾い上げた。

「もし塚田が本当にあの赤い妖紙を盗もうとしていたのなら、こいつが全てを知っているかもしれません。ところで鏑木さんーー」

 ばつが悪そうに古賀は頭をかいた。

「この折妖猫、覚醒して折妖馴らしをかけてくれませんか? お恥ずかしい話ですが、当署のような弱小警察署には紙士は私一人しかおりません。あの白い折妖鷲も、公認ショップで作ってもらった物でして」

「わかりました。お安い御用です」

 鏑木にはわかっていた。この折妖猫、鳥勝に忍び込んだ黒猫である可能性がある。よって折妖馴らしを施し、塚田から古賀へ支配権を移してしまえば、その時のことを全て話してくれるかもしれないと。もし鳥勝への侵入を認めれば、塚田が犯人である動かぬ証拠となるのだ。

「ではそれは署へ行ってからお願いするということで。あ、そうそう。いい機会だから話しておきましょう。例の妖紙、国立妖紙研究所での詳細な分析結果が出ましたよ」

 古賀の話によれば問題の赤い妖紙、かなり古い妖紙同士を紙合わせしていることがわかった。ランク2の突撃獣、ランク5の青雷鳥、双方とも漉かれてから少なくとも五十年は経過しているという。だが実際に紙合わせや物合わせを施し、今の姿になったのはそれよりも少し新しく、四十年くらい前。これらのことは里中が話してくれた内容と一致する。

 古賀は勿論、一昨日里中が紙士養成学校の保健室で語ってくれた話のことなど知らない。先輩に当たる古賀を疑いたくはなかったが、警察組織内に内通者がいることは事実。今ここで彼に里中の話を教えるわけにはいかないことくらい、鏑木も重々わかっていた。

 リストにあった十四枚の妖紙は十七年前、黒駒三兄弟によって奪われた。この中にはあの赤い妖紙も含まれている。里中の話ではあの特殊な「組み合わせ」は、前社長が旧陸軍の研究員だった頃に独自に編み出したもの。研究成果は一切資料には残していないので、その手法は当人以外誰も知らない。現物を鑑定すれば作成法は判明するが、青雷鳥や雪地潜の妖紙といった貴重な材料を用いることから、同じ物の作成は極めて困難だ。つまり鳳太が流星号に使った妖紙は、黒駒三兄弟に奪われた物と同一ということになるのである。

 何故そんないわく付きの妖紙が、桃木町の路上に落ちていたのかは謎だ。誰かがなくした、または故意に落としたのだろう。その誰かとは黒駒三兄弟当人らか、もしくは彼らが売るか譲るかした者か。ただその行方を塚田が捜していた可能性があるということだ。

 鏑木は考えた。妖紙を捜していたのが黒駒三兄弟だったら、塚田こそ黒駒三兄弟の一人ではないか……と。塚田が落としていった黒い折妖猫は、鏑木の目には少なくとも15レベルはありそうだ。塚田は卓と学年年齢が同じ、つまり同年度生まれの二十三、四歳。この若さで15レベルの折妖の取り扱いが可能、最低でも五段相当の能力があるということは、かなりの実力者だ。鏑木の教え子の中では随一と名高い墨田仁すみだひとしでさえ、卒業時の二十四歳で初段だった。塚田は通常では考えられない早さで「昇級」していることになるが、実力を何より重んじ、年少時から英才教育を施された黒駒三兄弟なら十分にありえる。

 しかし鏑木は己の「仮説」を口に出すことはなかった。今日の捕り物の報告も含め、校長の前橋にまずは伝えなければならないと決めていたからである。


 州都市星見区ほしみく笹原台ささはらだい駅前商店街の一角に、一軒の不動産屋がある。田原たはら不動産というその店は、小規模ながらも戦後すぐにこの地で開業し、地元密着で長らく地域住民に親しまれてきた店だ。

 この日ーー二十一日の午後三時過ぎ、田原不動産のシャッターは閉まっていた。不動産屋は水曜日に休業するところが多く、この店もご多分に漏れない。しかし店内には灯りがともり、中に三人の男性がいた。一人は五十代くらいの年輩者で、白髪が半分ほど混じった見事なシルバーヘアー。彫りの深い顔に黒縁の眼鏡をかけ、すらりとした体型だが貫禄はたっぷりだ。

 残り二人は若者で、一人は中背中肉で背が高く、しなやかな体の持ち主で少し目つきが鋭い。もう一人は男性にしてはやや華奢で、一見穏やかそうに見えるが一癖ありそうな感じもする。若者の二人はどちらも二十代といったところだが、前者の方がやや年上に見えた。

 この三人、全員田原不動産の関係者だった。年輩の男性が社長で、年上に見える若者が息子で副社長。そしてもう一人の若者が社員だーーそう、表向きは。社長は店の奥に据えられた革張りの椅子にどっかと腰を下ろし、その横には副社長が、社長席の正面には社員が立っていた。

申蔵さるぞう親父。不動産屋をもう一店舗出すっていうのは、本当なのかよ」

 社員は社長に尋ねたものの、その口振りは到底上司に向けられたものとは思えなかった。だが社長ーー申蔵と呼ばれた年輩男性は、腹を立てる様子一つ見せない。

「ああ、そうだ。例の仕事の依頼料が無事届いたんでな。これを資金に来年にも店を出す予定だ」

「なら、その店の店長は誰がやるんだ? 俺か?」

 ところが社員の期待に満ちた言葉を耳にした瞬間、申蔵は眉をつり上げた。

寅次とらじ、この阿呆が! 貴様、自分の立場を弁えてものを言っているのか? お前のような未熟者に店を任せられるか!」

 いきなり怒鳴られ、社員ーー寅次はしゅんとなった。申蔵は怒気を収めたが、まだ声色には苛立ちが幾分残っている。

「確かに俺は今年いっぱいで『裏』の方の現役から退き、辰也たつやに後を任せるが、『表』の方では未だ社長だ。この店については俺がやりたいようにやる。わかったな。新店舗の店長は辰也にやらせる。頼んだぞ、辰也」

「わかったよ、親父」

 副社長ーー申蔵の息子の辰也が静かに頷いた。何だよ、辰也アニキばっかりーー寅次の顔にははっきりそう書かれていたが、社長の命令は絶対。渋々従ったものの、まだ納得がいかないことがあるようだった。

「それなら申蔵親父、俺はどうなるんだよ」

「お前は辰也に着いて新店舗の方に行け。その代わり、亥之介いのすけをこの店に呼び、俺の補佐をしてもらう。あいつは接客は上手いからな」

「亥之介が? でもあいつ、不動産業についてはど素人だぜ。この業界で必要な資格なんて何一つとっていないじゃないか。馬車に乗って荷物届けることしか能がないんだからな」

 されどその一言が、再び申蔵の怒りに火を着けた。

「余計なことを言うな! つべこべ言わずに、お前は自分に与えられた仕事をこなせ! 来年、いよいよ辰也のコルト探しが始まる。コルトが見つかればもう今までのように自由には動けなくなる。お前のコルト探しはあと四年先のことだからな。それまでしっかり辰也の補佐をしろ!」

「わかりましたよ……」

「全くお前は口ばかり達者で、今一つ役に立たないな。ところで寅次、例の妖紙のことはどうなった?」

「例の妖紙って……」

「お前がぼんやりしてカラスに盗まれた、あの妖紙だ! 俺と辰也がベイアードに行っている間にお前らが余計なことをして、警察沙汰になったそうだな!」

 申蔵に問い詰められ、寅次は詳細を白状した。実は四月下旬、寅次が阿倍野区の自宅で数枚の妖紙を陰干ししていた時、開いていた窓からカラスが侵入。巣の材料にでもしようと思ったのか、その中から「例の妖紙」を持って行ってしまったのだ。この失態に申蔵は激怒。寅次は懸命に行方を捜したものの、見つからない。

 ところが先月上旬、ひょんなことからその行方が判明したのである。どういう経緯があったかは不明だが、桐生が丘駅前にある焼鳥屋で保管されていたのだ。そこでその日のうちに折妖を用いて取り返そうとしたのだがーー

「妖紙が発見できないばかりか、折妖の姿まで見られただと! 俺は言っただろうが! 見つからないのなら、あんな得体の知れない物は放っておけと。どうしてそんな勝手なことをした!」

「俺は責任を持って、あれをどうしても取り戻したかっただけだ。それに焼鳥屋にあるって情報は、亥之介が持ってきたんだぜ。文句を言うのならあいつに言ってくれよ。情報はガセだし、捜しに行ったのは亥之介の折妖なんだからな」

「全く、どいつもこいつも……。頼りになるのは辰也だけだ」

 申蔵は煙管に火を着けると、機嫌悪そうにぶかぶかふかし始めた。

「死んだ兄貴二人は、コルト選びに失敗したな。こんな危なっかしい奴らを後継者にしおって。サツに足がついたらどうするつもりだ。まあ巳鎚みづち兄貴は辰也に折士術も仕込んでくれたからまだ許せるが、お前の親父ときたら……」

「ところで親父」

 ここで二人のやり取りを静観していた辰也が口を開いた。

「例の依頼料は間違いなくきっちり来たのか?」

「ああ。最後の小切手が一昨日ベイアードから来た。流石にあの額では一枚で送るのは難しいと思ったんだろう。ご丁寧に三枚に分けてきた。あとカジノ場での偽造支払い証明も一緒にな。カジノで儲けたことにしておけば、うるさい税務署のマルサ共も突っ込んではこんわい」

「そうか。とにかく、これであの連中とも完全に手が切れるな。あいつらときたら俺達にあれこれと要求してくるくせに、肝心の金のこととなると途端に渋い顔しやがって」

「全くだ。おかげで交渉は一ヶ月以上擦った揉んだしたわい。本当にご苦労だったな、辰也。お前が折妖を使って『交渉』してくれたおかげで、こっちに有利に話が進められた。妖紙を戻す時も上手いことやってくれた」

「それにしても紙解きする時のスリルはたまらなかったな。癖になりそうだ」

 楽しそうに微笑む辰也を横目で見ながら、申蔵はふーっと煙を吐いた。

「俺はもう御免だぞ、あんな恐ろしい妖魔を戻すのは。紙解きして逃げる時は、振り向く余裕すらなかったからな」

「だけど親父、向こうから苦情が来ているようだな。小馬があの場所に居着かず、州を越えて暴れているって言うぜ」

「はっ、そんなこと俺逹の知ったことか! 紙解きした小馬がどう行動するかなんて保証できるはずがなかろう。そんなにあそこにいて欲しければ、小馬に直接頼んだらどうだ? あいつと正面から向かい合うだけの度胸があればの話だがな」

 ふんと鼻を鳴らし、申蔵は煙管を置いた。

「それで親父、あいつらから盗った妖紙、後何枚残っているんだ?」

「えーと、待てよ。俺逹の代に売った物は……幽鬼と雪地潜と霧纏の三枚か。小馬も売ってあの得体の知れない妖紙は行方不明。あ、あとあれも使ったな。忍包しのびづつみの番も。だから今は七枚だ」

「そう……か。忍包は五月に蔵本町で紙解きしたんだよな。テスト用に」

 辰也が言うように二枚の忍包の妖紙は、彼らの手によって紙解きされていた。申蔵と二人の「兄」は十七年前、十四枚の妖紙を手に入れたが、鑑定した結果これらの妖紙がかなり昔に紙漉きされた物であることがわかった。

 そして今年の四月の終わり、ベイアードから小馬の妖紙の紙解きを希望する商談が舞い込んできた。本当にこんな古い物を、問題なく妖魔へ戻すことが出来るのか。経験豊富な申蔵ですらやったことがないので、正直自信がなかった。もし「本番」で小馬の妖紙を上手く戻せなかったら、せっかくの商談が水泡に帰してしまう。そこで念のため、別の妖紙でテストをしてみることになったのだ。

 このテスト用に選ばれたのが、忍包の妖紙だった。戻すのであれば怪しまれないよう、都市部に出現してもあまり違和感のない妖魔がいい。突撃獣でもよかったのだが、穏形が使える忍包の方が「面白い」ということになった。テスト地になった蔵本町は、以前本業の不動産業でトラブルがあった人物が住んでいる町。腹いせに困らせてやろうとしたわけだ。紙解きは無事成功、妖紙は妖魔となった。が、何故か超低レベル妖魔が町内で異常増殖しただけで、正体不明の妖魔が暴れて混乱したという話は、残念ながら聞かれなかったーー

「まあ小馬の時もそうだが、妖魔なんてもんは野生動物と同じで、こっちの思惑通りには動いてくれないもんだな。ところでーー」

 申蔵はむくれたまま腕を組む寅次の方へ視線を戻した。

「あいつらの始末はどうなった? まだ一人残っていたはずだ」

「あの女か、申蔵親父。見失っちまったみたいだぜ。兄貴の折妖が昨日、そんなこと言っていたからな」

「一昨日の雨で臭いが消えたか……。厄介なことになったな。だから俺は十七年前のあの時、さっさとっちまえって言ったのによ。お前の親父ーー卯門うもん兄貴は甘い奴だったからな。他言したら殺すとだけ言って立ち去っちまった」

「俺の親父の悪口はもう勘弁してくれよ」

 申蔵に頭が上がらないとはいえ、流石に寅次も頭に来たのだろう。目に角を立て、真正面から申蔵を睨みつけた。

「ああ、すまん。死人の悪口を言うのはまずいな。さて、問題はあの女をどうやって見つけるか……だな。早いとこ始末しないと、面倒なことになるやもしれん。小馬の妖紙が俺達の手に渡ったことが知られると、ベイアードでの依頼のことまで発覚しかねんからな」

「どうしてだよ。小馬は空から降って来る妖魔もんで、何処に現れても不思議じゃない。あの妖紙を紙解きした物だって、わかるはずがーー」

 首を傾げる寅次。苦々しい表情を浮かべて頬杖をつく申蔵に代わり、辰也が「弟」の質問に答えた。

「そうか、まだお前には話していなかったな。ベイアードで戻した小馬は、移動した先で一度ロックオンされたそうだ。その時に姿を現地の奴らに見られている。あれは小馬の中でも特徴のある個体だったからな。それで『身元』が割れる恐れが出てきたというわけだ」

「それ、まずいんじゃないか、兄貴……」

「ああ。だから何としてもあの女を始末して、小馬の妖紙の行方を闇に葬らなきゃならん。それで」

 辰也は申蔵の方を振り返った。

「女の行方は、あの『おっさん』に頼んで警察の情報網を使って捜したらどうだ?」

 辰也の進言に申蔵はうーんと唸った。

「そうだな。どうもそれしか手がないようだ。あの男を利用することはあまり気が進まないが、今はそんな事言ってはいられまい。飛鳥田県あすかたけん外へ逃げられたら、その手も使えなくなるからな。どれ……」

 申蔵が卓上の電話に手を伸ばそうとした時、その電話が突然鳴った。即座に申蔵が受話器を取る。

「もしもし……ん、何だあんたか。丁度よかった、今こっちから連絡しようと思っていたところだ。え……!」

 受話器の向こうから聞こえてくる話を聞き、申蔵の体が瞬時にして凍り付いた。かなりショッキングな内容のようだ。

「おい、それはどういうことだ! 何だって……。あの野郎、へましやがったな!」

 申蔵の顔がみるみるうちに怒気一色に染まって行く。まるで野獣の如く凄まじさに寅次は勿論、冷静沈着な辰也さえも愕然とするばかりだ。

 五分ほど話した後、申蔵は電話を切ったーー受話器が壊れんばかりの勢いで。全身から怒りのオーラを放つ申蔵に若い二人は声もかけられない。一分ほどの沈黙の後、申蔵はようやくぼそりと言った。

「お前ら、よく聞け。亥之介がサツに捕まった」

 「弟」の逮捕。あまりに衝撃的な事実だった。辰也は大きく息を吸い込むと、やっとのことで尋ねた。

「親父……。それは本当なのか?」

「ああ、間違いない。今日の昼前に阿倍野署にしょっぴかれたって話だ。紙士法違反の現行犯だとよ」

「紙士法違反だと……? あいつ、警察の前で何をしでかしたんだ!」

「そこまではわからん。だが亥之介がへまやらかしたのは事実だ。あいつは些か軽率なところがあった。前々から危惧はしていたが、まさかな……」

「あの亥之介をとはいえ、簡単に口は割らないとは思うが、さて……」

 ため息をつき、考え込む辰也。ここで遅れて寅次が会話に加わった。

「それで申蔵親父、亥之介をどうする? おっさんに言って助けてもらうか?」

「寅次、紙士法違反だぞ。いくら金を積んでも保釈は認められん。おまけに現行犯逮捕じゃ、どうあがいても無罪にはなるまい。それに」

 申蔵の目がぎらりと光った。

「忘れたわけじゃあるまいな、俺達の掟を。自分の不始末は自分でけりをつけるっていう」

「それじゃ亥之介は……」

 寅次の体は微かに震えていたが、申蔵はそんなことはお構いなしに平然と言ってのけた。

「心配するな。折士術なら辰也もある程度マスターしている。亥之介の分のコルトは辰也でも育成可能だ。そういうことで辰也、面倒だがコルトを二人育ててくれ」

「わかったよ。でもいくら亥之介とはいえ、こうあっさり捕まるとは……」

「そのことだがな……。おっさんの話によれば、ある野郎が警察とぐるになって亥之介を陥れたらしい」

「誰だ、その野郎は!」

 向きになって辰也が机を叩くと、申蔵は傍らに置いた煙管を手に取った。

「鏑木徹。そう今は紙士養成学校で教師をやっている、あの野郎だ!」

 そう叫ぶや申蔵は煙管を力任せに机に叩きつけ、真っ二つにへし折った。まだくすぶっていた刻み煙草が飛び散り、その欠片が頬に当たっても申蔵は熱さすら感じない。もうはらわたが煮えくり返る思いだったのだ。

「丁度いい。前々からあの野郎のことは気に食わなかったんだ。今ここで先代からの因縁に決着をつけてやる!」

 ただならぬ憎悪をたぎらせ、煙管を足で踏みにじる申蔵。その恐ろしげな様を、辰也と寅次は呆然と見詰めることしかできなかった。


 翌二十二日木曜日の午後一時過ぎ、紙士養成学校本校。いつもならこの時間、午後の実習が始まっているはずだが、校舎にも実習棟にも学生の姿はない。今月二十九日から翌年一月三日まで、紙士養成学校は年末年始の休みとなる。その日まで残り一週間となった今日から、授業は午前の講義のみとなるのだ。

 その様なわけで校内には教職員と学校関係者だけが残っており、うち役職教師は会議室に集まっていた。今日の会議は一時から始まる予定であったが、主役の鏑木が来ていない。講義の残務があって遅れているのだ。藍沢は未だ海外出張から戻っておらず、会議室にいるのは前橋、福原、武藤の三人だけだった。

 この日は朝から天気は良かったが、上空に寒気が入った影響でかなり冷え込んでいた。季節がいい時期なら校庭でスポーツを楽しむ学生もいるが、今日は皆無。会議室の窓から見える校庭の風景も、冬らしく閑散としたものだった。

 前橋は鏑木を待つ間、ずっと外を眺めていたが、ふとこんなことを言った。

「今時の学生はどうも年寄りくさくていかん。わしが学生の頃は真冬でも昼休みに外へ出て、毎日のようにサッカーをやったものだ」

「校長先生がサッカーを? 初耳ですわ」

 武藤が興味津々といった感じで尋ねると、前橋は胸を張った。

「ああ、やった。だがな……。二年生の時、わしが蹴ったボールが職員室の窓ガラスを割ってしまい、当時の教頭にこっぴどく叱られてな。以来サッカーはやっていないんだよ」

 そう言って前橋は声を出して笑った。紙士養成学校の二年当時、前橋はまだ血気盛んな十六、七歳。若気の至りといったところだろうが、今となってはいい思い出だ。

 笑いを収めると、前橋は正面の席に座る福原に声をかけた。

「ところで福原君。里中さんの様子はどうかね?」

「はい。最初はまだ黒駒三兄弟に見つかるんじゃないかと戦々恐々としていましたが、家にいれば大丈夫だと納得したようで、落ち着いてきました」

「そうか。妖魔局長とも相談して、彼女は暫く君の所で預かってもらうことにした。局長も彼女から直接話を聞きたかったようだが、外へ連れ出すのはかえって危険だからな」

 小馬の妖紙が黒駒三兄弟の手に渡ったーー手紙とリストを見た段階では、前橋と局長の推測に過ぎなかったことが、里中の話で決定的となった。小馬の妖紙がベイアードで紙解きされ、甚大なる被害が出ている。この事件に彼らが関与した可能性が出てきたのだ。

 米国政府の要請を受け、局長は解決のために藍沢を派遣した。しかし小馬を退治しただけでは、完全に事件を解決したことにはならない。和州で紙漉きされた妖紙が元凶であれば、犯人に繋がる情報を米国政府が求めてくるのは必至。故に喉から手が出るほど、局長は黒駒三兄弟に関する情報が欲しかったのだ。里中は彼らと接触したことがある唯一の人物。しかし大事な参考人を危険にさらすわけにはいかず、面会を断念したのである。

 されどベイアードで起きた事件について何も知らない福原は、そんな妖魔局の裏事情など想像できるはずもなかった。

「そうですか。それはよかった。実はーー」

 福原は素直に喜び、目を細めた。

「里中さんがいるおかげで、私も随分と助かっているんですよ。昨日も一昨日も家に帰ると食事の支度が出来ていた。本当に有り難いことです。娘達は料理を作りませんからね。こんなこと、家内が死んで以来ありませんでした」

「ほほう。彼女は独身者と聞いていたが、料理はちゃんと出来るのか」

 しかし前橋がそう訊いた途端、福原の顔つきがやや暗くなった。

「花嫁修業はきちんとしていたようですよ。ただ訳あって結婚できなかったそうです……」

 精神的にも安定してきたのか、里中は少しずつ身の上を福原に話すようになってきた。彼女の話によればまだ二十代前半だった頃、里中は社内でも気の合う片岡に好意を寄せていた。この人となら一緒になってもいいなーーなどと思っていたという。だが彼女のその思いに感づいたのだろう。片岡の口から信じられない言葉が飛び出したのだ。

「片岡さんは言ったそうです。『自分はもぐり紙士だ。何かあった時、家族に迷惑をかけることになるから、誰とも結婚はしない』と。この時里中さんは初めて彼が違法紙士だと知ったそうです。そして会社の秘密も。以来彼女は結婚はしなくてもいいから彼の側にいよう、会社ともとことん付き合っていこうと決心したとか」

 だが里中が一心に尽くしてきた倉庫会社も倒産し、事情を知る仲間も逮捕されてしまった。刑期を終えてもなお彼らとの絆を大切にしてきたが、自分を残して全員死んでしまった。しかもうち三人は殺害されて。中でも片岡の死はかなりショックだった。逃げている時はもう無我夢中だったが、ようやく安心できる場所に来て溜まっていた悲しみがどっと溢れてきたという。

「娘達の話では昨日は私がいない間、しばしば泣いていたとか。そんな彼女も過去にほんの一時だけ、幸せを感じた時があったそうです。それが藍沢君の娘さんと過ごした時。実質一日だけでしたが、片岡さんと共に家族のような雰囲気を味わえたとか。誘拐した子供とはいえ、本当に可愛かったと話していました」

「結婚して人並みの幸せが欲しかったのか。気の毒なことだな」

 と、前橋がしんみりと言ったところで、鏑木が会議室へ入ってきた。だが気分が優れないのか、その顔色は冴えない。

「遅れて申し訳ありません。では早速ですが、昨日の一件の報告をーー」

 鏑木は着席するや、昨日の塚田逮捕についての説明を始めた。今日の会議はこのことの報告が主題だったのだ。鏑木は一昨日の火曜日、前橋に卓とのやりとりについて相談し、阿倍野署の古賀に連絡。昨日は休暇をとって塚田逮捕に協力したのである。

「と……、概要は以上です。塚田が自分に向けて使おうとした黒い折妖猫が、阿倍野署で何を喋ったかは定かではありませんが、もし鳥勝に忍び込んだことを認めれば、塚田が黒駒三兄弟の一人である可能性はあります」

「成程……。思いもかけないことから、黒駒三兄弟の正体が判明するかもしれんな。ところで鏑木君、何かあったのかね? 意気消沈しているようだが」

「はい……。倅のことで少し……」

「そうだったな。相手がもぐりとはいえ、結果的に同僚を陥れてしまったのだからな」

 自分が余計なことを耳にしたばかりに、仲がよかった同僚が警察に捕まった。そんな罪悪感に苛まれ、卓は昨日も今日も仕事へ行けず、寝込んでしまったのだ。警察の家宅捜索は塚田の自宅ばかりではなく、今日の午後には阿倍野局にも入るという。職場にも迷惑をかけることとなり、卓のショックは増すばかりだ。

「お前が悪いんじゃないと自分が言い聞かせても、倅は聞く耳持ちません。とにかくどうすればいいのか……」

「気持ちがよくわかるが、困ったことだな。ん……?」

 前橋は眉尻をぴくりと動かして窓の外、校庭の方へ目をやった。その前橋に武藤が声をかける。

「あら校長先生、どうなさったんですか?」

「あ、いや……。今一瞬、外に何か殺気のようなものを感じた。どうも気のせいだったようだな」

 確かに校庭には殺気を放つような者は何もいない。低レベル妖魔の一体すら。がらんとした土のグラウンドと僅かに舞う砂塵が見えるだけだ。

 丁度その頃、会議室の真上ーー校舎屋上で、ちょっとした騒動が起きていた。午前の講義終了後「用があるから」と、鳳太が妹の凰香を屋上へ呼び出したのだ。ところが鳳太が発した言葉を聞いた途端、凰香は頭から湯気を出さんばかりの勢いで怒鳴り出した。

「何よお兄ちゃんったら! お祖母ちゃんからの仕送り、もう使っちゃったの!」

「頼むよ凰香。千円、いや五百円でいいから。な、な。この通り」

 鳳太は手を合わせて拝んだが、凰香の怒りは収まらない。祖母からの次の現金書留が届く予定が来週の月曜日、二十六日。ところがその日までまだ四日もあるのに、鳳太の持ち金は底をついてしまった。このままでは寮食以外の物は食べられないので、妹に金の無心したのである。

「何でお金無くなったのよ!」

「いや今月は昼飯、結構外で食べたから……な」

 鳳太は正直に理由を話したが、凰香は呆れて開いた口が塞がらなかった。鳳太は計画を立てて金を使うことを知らない。後先考えずに使いたいだけ使ってしまう。もし二人ともこのまま就職先が決まらず、組んでフリーの妖魔狩人をやるようになったらどうなるか。自分が財布の紐を握らなければ、とんでもないことになるーーと、そんなことを危惧しているうちに、凰香の心中にさらなる怒りがこみ上げてきた。

「全く、食事なら自分で作ればいくらでも節約できるじゃないの! 下手でも何でもいいから、料理やったみたら? そのほうがずっと安上がりよ!」

「俺の部屋には鍋とヤカンが一つずつあるだけなんだよ。作るにしてもラーメンぐらいしか……」

「まあ確かに、向井君もご飯自分で作るってタイプじゃないしね。なら向井君にお金借りれば?」

「駄目だよ。あいつは口が軽いから、そんなことしたらみんなに話しちまう」

「……もう、仕方ないわね。今回だけよ」

 凰香はとうとう根負けし、肩に掛けていた鞄から蝦蟇口を取り出そうとしたが、何気に柵向こうの眼下ーー校庭の方へ目が行った。

「え……?」

 凰香は目を丸くし、鳳太の横をすり抜けて柵際へ歩み寄った。柵越しから校庭を食い入るように見詰める妹を、鳳太は不思議そうに眺めた。

「凰香、どうした?」

「校庭に変な折妖がいるわ」

「何だって?」

 鳳太も凰香の横に並び、校庭を見下ろした。しかしいくら鳳太が目を凝らしても、折妖らしきものなど何も見えない。

「おい、いないぞ。そんなもの、何処にいるんだ?」

「いるわよ。今丁度校庭の真ん中辺りを歩いているわ。トラみたいな……でも牙が長くて口から飛び出しているわ。サーベルタイガーね」

 確かに凰香の目にははっきりと映っていた。体長三メートルほどの暗灰色のサーベルタイガーが一体、ゆっくりと校庭を歩いている様が。だが鳳太は怪訝な顔をするばかりだ。つまりーー

「お前に見えて俺に見えないってことは……。まさかその折妖、穏形を使っているのか!」

「そうみたい……。確かにあの折妖、足下にあるはずの影がないわ……。穏形を使えば光は体を通過するから、影は映らない……。間違いないわ!」

 しかも凰香には、問題の折妖の足は僅かに地表から浮いているように見えた。特殊能力の浮遊歩行を使って歩いているのだ。さらに抜き足差し足でゆっくりゆっくり進んでいる。足跡がつかぬよう、音を立てぬよう、さらに気配まで殺して。穏形を使っているとはいえ、かなり慎重だ。自分の存在を悟られぬよう、神経を使っているのだろう。とは言え妖視能力SSの凰香にはその姿は丸見えで、全く意味をなしていないのだが。

「どう見てもあの様子じゃ、忍び込もうとしているとしか思えないわ。何か盗みに来たのかしら。涼美ちゃんのバイト先に入った泥棒猫みたいに」

「凰香、そいつは間違いなく折妖なのか?」

「うん、周妖光が見えるから。言葉が喋れるような折妖なら、折妖馴らしかけて何が目的で来たのか白状もさせられるけど……。でもあれはお兄ちゃんじゃ扱えないレベルね」

「なら俺のクラスの先生にかけてもらおう。どのみちろくでもない目的でここに来たに決まっているから、遠慮はいらないな。だがそれにはあいつの姿を晒さなくっちゃ」

 折妖馴らしをかけるには、相手の頭部、即ち脳がある箇所に指先を触れさせる必要がある。そのためには最低でも首から上が見える状態にしたいが、生憎二人は穏形を打ち破る手立てを持ち合わせていない。しかし方法は他にもある。何か染料のような物を浴びせ、相手の体に色を着けて見えるようにすればいいのだ。

「凰香、お前は奴を見張っていろ。俺はペンキか何か探してくる」

 鳳太は急ぎ屋上から校舎の中へ戻ったが、そう都合よく使える物が見つかるはずもない。ペンキがありそうな二階の資材庫は、施錠されていて学生は中へ立ち入れない。体育館横の倉庫にライン引き用の消石灰があるが、ここからでは遠いし校庭に出なくてはならない。他に何かいい物はなかったかと鳳太が記憶を探っていると、三階廊下の片隅に設置された「ある物」が目に入った。

「お、いい物あるじゃないか。こいつ使えるな」

 鳳太はそれを設置場所から外して手にすると、凰香の許へ戻った。凰香が言うには折妖サーベルタイガーは鳳太達がいる場所から見て斜め右下、一階会議室を目指しているようだ。しかし真正面ばかりに注意が行き、屋上いる二人に全く気付いていない。自分の姿が見られているとは露とも知らず、周囲を警戒していないのだ。

 二人は屋上から会議室の真上、三階の折士クラス上組の教室へ向かった。屋上から「ある物」の中身を撒くには、柵が邪魔な上に距離があって浴びせにくい。かといって一階まで行って直接挑むのは無謀だし、二階へ降りるのも危険だ。相手の跳躍力をもってすれば、二階まで楽に飛び移ることができるだろう。

 教室へ入った二人は姿勢を低くし、折妖サーベルタイガーが来ると思われる地点の真上の窓際まですり寄った。

「凰香、奴がこの真下に来たら合図しろ。こいつをぶちかましてやる」

 鳳太は「ある物」の安全ピンを外すと右手でノズルをとり、左手でレバーを握った。これでいつでも発射オーケーだ。

 一方折妖サーベルタイガーといえば、相変わらず前方ばかりを見ているようだった。それでも念には念を入れ、凰香はそっと窓から顔を出し、下を覗いた。絶好のタイミングで折妖サーベルタイガーが、会議室のすぐ前まで来ている。凰香は囁くように鳳太に告げた。

「お兄ちゃん、今よ! あいつが真下にいる!」

「よっしゃーっ! これでも食らえ!」

 鳳太はノズルをまっすぐ下へ向け、レバーを握る手に思い切り力を入れた。途端にノズルから薄紅色の粉末が猛烈な勢いで噴射され、折妖サーベルタイガーを直撃した。そう、鳳太が見つけた「ある物」とは消火器だったのだ。

 鳳太の快心の一撃は相手にとって完全な不意打ちだった。消火剤を頭上からまともに浴びてしまい、折妖サーベルタイガーは目をやられてのたうち回った。上半身に消火剤がまとわりつき、その恐ろしげな姿が露わとなる。

「キャーッ! 外に猛獣が!」

 会議室内に武藤の悲鳴が響いた。前橋と福原も外で何が起こったのか、理解できず呆然とするばかり。しかし鏑木は相手の正体が折妖であることを瞬時に見抜き、蒼白となった。こんな見るからに凶悪そうな折妖が目の前にまで接近していたのに、全く気付かなかったとは!

 おぞましい声で吠えて七転八倒、折妖サーベルタイガーは暴れ回った。振り回した前足が会議室の窓に接触してガラスにひびが入り、すぐ横のサツキの植え込みがなぎ払われる。この状態ではいくら熟練折士である鏑木でも、折妖馴らしなどかけることは出来ないし、第一危険だ。これはまずいと感じた鳳太は、空になった消火器の容器を両手で高々と持ち上げた。

「ついでにこいつもくれてやらあ!」

 折妖サーベルタイガーめがけ、力任せに鳳太は消火器の容器を放り投げた。ゴン、という鈍い音を立てて容器は頭部に命中。折妖サーベルタイガーはぴたりと動きを止め、低いい唸り声をもらしてその場にばったり倒れた。土煙がもわっと上がり、消火剤がかからなかった下半身が少しずつ見えてきた。意識を失い、穏形が解けたのである。

「何ということだ……! 先程の殺気はこいつのものだったのか!」

 今し方感じた気配が気のせいなどではないと知り、立ち尽くす前橋。鏑木がすかさず窓の方へ駆け寄った。

「と、とにかく様子を見てきます!」

 窓枠を飛び越え、鏑木は折妖サーベルタイガーへ慎重に近付いた。相手は気絶しており、ぴくりとも動かない。一体何が起こったのか。呆気にとられる鏑木の頭上から、聞き覚えのある声が降ってきた。

「先生! 奴がひっくり返っているうちに早く折妖馴らしを!」

 見上げる鏑木の視線の先には、鳳太と凰香がいた。二人とも三階の教室から手を振っている。

「砂川! これはお前達の仕業か!」

「そうでーす。今から下に行って説明しまーす」

 鳳太は凰香と共に三階から鏑木の許へ下りてきた。またこいつ何かしでかしたのかーー鏑木は眉をひそめ、怒鳴りつけようと身構えた。ところが鳳太の得意満面な態度を目にし、「組長モード」を改めた。

「……で、お前こいつに何をしたって?」

「先生、こいつ学校に忍び込もうとしたんですよ! 早く折妖馴らしかけて、何しに来たのか吐かせて下さい」

「何だと?」

「詳しいことは妹から。おい、凰香。先生に説明しろ」

 兄の鼻高々な態度が癪に障ったが、少し頬を膨らませただけで凰香は何も言わなかった。そこへ前橋ら三人やまだ校内に残っていた他の教職員も現場に駆けつけた。ところがその時、折妖サーベルタイガーの口が僅かに動き、鏑木ははっとなった。

「これはいかん! 目を覚ましかけている!」

 今は人が周囲に大勢集まっている。また暴れられては厄介だ。鏑木は急ぎ相手の額に右手の人差し指と中指を押し当てた。

「汝を縛りし鎖を解き、今、我が新しき鎖をかける」

 一瞬折妖サーベルタイガーは目を見開いたが、瞼がすぐに下りた。折妖馴らしが効いた直後、また意識を失ったのだ。ふうと鏑木は額の汗を拭った。

 こうして安全が確保されたところで、改めて凰香が事情を説明した。相手が穏形を使い、足跡もつけず音も立てず、気配まで消して密かに侵入しようとしたことーーこれらを知って教職員達は驚きを隠せなかった。

 そして同時に疑問も生じた。一体この折妖は何故校内へ忍び込もうとしたのか、と。折妖の上顎からは剣の如く鋭い二本の牙が突き出ており、一噛みで致命傷を与えられそうだ。爪も鋭く、人間の皮膚など容易に切り裂けるだろう。筋肉も見るからにしなやかで、機敏に動けそうだ。鳥勝に盗みに入った折妖猫とは比べものにならないほど、殺傷能力が高い折妖なのである。

「何をしにきたのかは、こいつが全て喋ってくれるでしょう。この折妖のレベルは17、妖紙は紙合わせをした物を使用したと思われますが、知能は高そうです」

 前橋にそう説明し、鏑木は後ろに横たわる折妖サーベルタイガーをちらりと見た。折士は折妖のレベル判定はできるが、折妖に何の妖紙が使われているのかまではわからない。素妖の種類や特殊能力など、詳細を知りたければ折解きをして妖紙へ戻し、染士に鑑定してもらうしかないが、それでは覚醒時の記憶が全て失われてしまう。ここへ入るよう命じた者は誰なのか、その目的は何なのか。これらの謎を知りたくば、折妖の姿を維持するしかないのである。

「こいつが目を覚まし次第、すぐにでも『尋問』を始めましょう。ところで」

 鏑木は鳳太と凰香を向いた。

「二人ともでかしたな。特に妹の方はよくやった。お前が見つけなければ、こいつは何をしでかしていたかわからん。こいつの命令者もまさか穏形を見破れるSSがいるとは思ってもみなかったんだろう。ん……どうした、砂川?」

 突然鳳太がくたくたと地面に膝とついた。先程までのしたり顔は何処へやら、やたらと情けない顔をしている。

「先生、腹が減って死にそうです。力が入りません」

 文無し鳳太はまだ昼食をとっていない。派手なアクションが空腹状態に拍車をかけた。それでも気が張っている時は大丈夫だったが、折妖に折妖馴らしがかけられて緊張感が解けた途端、大人しかった腹の虫が目を覚ましたのである。

「そうかそうか。ならちょっと待ってな」

 苦笑を浮かべて鏑木はいったん校舎の中へ入ると、間もなく手に小さな包みを持って戻ってきた。

「そら、これやるから食っていいぞ」

 鏑木からその包みを受け取ると、鳳太は一礼して躍り上がった。

 ーーうひょーっ、これカブさんの愛妻弁当だあ!

 鳳太が手にした物は、まさしく鏑木の弁当だったのだ。授業は午前中で終わりだが、午後から会議があることがわかっていたので、鏑木は妻に弁当を用意してもらった。しかし残務に追われて食べている暇はなく、手元に残したままだったのである。

 無邪気な鳳太は大喜びしたが、気配り屋の凰香はやはり気になったようだ。

「いいんですか、鏑木先生。お昼召し上がっていないんでしょう?」

「構わんさ。俺も飯を食べている場合じゃないからな。それよりお前達、もう寮へ戻れ。後のことは教職員がやるからな」

 穏やかではあったが、鏑木の口調には有無を言わさぬものが少なからず感じられた。鳳太はともかく凰香はそれを敏感に察知し、にこにこする兄の手を引っ張って現場から立ち去った。

 校庭から見て校舎の反対側ーー東側へ回り、寮食堂の側まで来ると凰香は鳳太を睨みつけた。

「お兄ちゃんったら、恥ずかしくないの! 先生に食べ物ねだるような真似して!」

「いいだろう、カブさんがくれるっていうんだから。有り難く頂戴しても」

「もう……。お弁当箱、ちゃんと洗って返すのよ!」

 呆れ果てて凰香はこれ以上説教をする気も失せたようだった。しかし凰香は心配だった。あの折妖サーベルタイガーが何の目的で校内へ侵入したかが。

 ーーお兄ちゃんが言うように、ろくでもない目的であることは間違いないわ。でもあんな怖そうな折妖をどうして……。

 凰香の心は不安な気持ちで一杯だった。折妖トーナメント戦以来、紙士養成学校やその周辺では不穏な出来事が幾つも起きている。先週の土曜日に翠へ届けられた手紙の件もその一つだ。

 実はその翌日の日曜日、凰香は翠と会って藍沢の海外出張に関する情報を彼女に教えたことを、渡辺と土井に伝えた。たまたま不在だっただけで、翠はこの二人にも会おうとしていた。寮母は翠からの電話をとっている。例え凰香が黙っていても、二人が寮母から話を聞けば発覚してしまう。だからこそ隠さず教えたのだが、流石に手紙の件は話せなかった。

 翠が凰香達に会いたがっていたのは、父親である藍沢のことが心配だったからという、あくまでも個人的な理由によるもの。しかし「おばさんからの手紙」の件は事件性が高い。よって翠も凰香が妖紙リストに目を通したことを、前橋には伏せると話していた。凰香までも事件に巻き込むわけにはいかないと言って。

 されどリストにあった小馬の妖紙のことが、凰香の脳裏から離れることはなかった。「紺の小馬退治録」にも記載がなかったその行方。それを何故「おばさん」が手に入れたのか。さらに妖紙は三兄弟に奪われたと言うが、一体何処へ行き、どうなったのか……。

 頭の中で様々な疑問と思いがぐるぐると渦を巻いて回り、凰香は軽い目眩を覚えた。一方、鳳太は妹の異変に気付くことなく、自室のある二寮へ帰って行く。

 ーーお弁当のことしか頭にない今のお兄ちゃんには、何を言っても無駄。本当、呑気でいいわ。

 兄の背中を見ながら、凰香は思った。しかし鳳太も凰香が考えるほど脳天気ではなかった。妹には決して話さないと誓ったある事実を隠していたからだ。藍沢の海外出張の本当の目的が、小馬退治の手伝いであることを。けれど互いに抱えた秘密が、まさか一本の線で繋がっていようとは。この時、兄妹のどちらも夢にも思っていなかった。


 兄妹が去った後、数分経っても折妖サーベルタイガーの意識は戻らなかった。このまま放置しておけば、学生や野次馬が集まってくるかもしれない。そこで鏑木がいったん折妖を睡眠状態にし、実習棟一階へ運んだ後、再度覚醒させた。 

 折妖サーベルタイガーが目を覚ましたのは、それから十分ほどが経過した頃だった。折妖サーベルタイガーは立ち上がると、ゆっくりと自分の周囲を取り囲む人間達を見渡した。完全に鏑木の折妖馴らしが効いているので、暴れるようなことはもうしない。睡眠状態になった時に体に付着した消火剤もとれているので、精神的にも落ち着いているようだ。

「よし。そのまま座れ」

 鏑木が真正面に立って命じると、折妖サーベルタイガーは素直に後ろ足を折り、床に座った。 

「早速だが、お前に訊きたいことが幾つかある。まず何故ここーー紙士養成学校に姿を消して入り込もうとした?」

 質問する新たな主ーー鏑木を瞬きもせず、まじまじと見詰めた後、折妖サーベルタイガーは逆に訊き返してきた。

「アンタ、鏑木徹ダナ?」

「そうだ。俺の名を知っているのか?」

「アア、知ッテイル。俺ハアンタヲ殺スヨウニ前ノ主カラ命ジラレテイタ。ココヘ来タノモソレガ目的ダ」

「な……!」

 余りに衝撃的な事実に鏑木は言葉を失い、教職員の間から悲鳴にも似たどよめきが起こった。まさかそんな恐ろしい目的でやってきたとは、誰も想像すらしていなかったのだ。

 もしも凰香が折妖サーベルタイガーを見つけていなければ、どうなっていたか。姿が見えない相手に急襲され、鏑木は確実に命を落としていたはずだ。それに会議室内にいた他の三人も、無事で済んだかどうか。折妖は命令者の命を忠実に実行しようとするので、まずは鏑木を狙う。だがもしも命令者から「刃向かうようなら他の奴も始末しろ」と言われていたらーー

 流石の鏑木も身の毛がよだつ思いだったが、気を奮い立たせて尋問を続けた。

「では誰が俺を殺すように命じた?」

「申蔵。前ノ主ノ一人ダ」

「申蔵……? そんな奴、俺は知らないが……」

「当然ダナ。アンタハ申蔵ニ会ッタコトモナイシ、見タコトモナイ」

「そんな見ず知らずの奴が、どうして俺の命を狙う?」

「アンタガ亥之介ヲハメタカラダ」

 またしても聞き覚えのない名が出てきたので、鏑木は口ごもった。しかし「はめた」人物なら覚えはあった。

「もしや亥之介とは、塚田晃一のことか?」

「ソノ名ハ俺ハ知ラン。主達ノ間デハ亥之介ト呼バレテイタ」

 これ以上亥之介に関することを尋ねても無駄のようだ。鏑木は質問の内容を変えることにした。

「お前、今主と言ったな。主が複数いたようだが、申蔵以外に誰がいた?」

「辰也。申蔵ノ息子ダ。俺ヲ作ッタ男ダ」

「辰也は折士なのか?」

「イヤ……本当ハ漉士ダガ、折士術モマスターシテイル。亥之介ニハ劣ルガ、ソコソコ折士術ハ使エルナ」

 この折妖サーベルタイガーの話から、新たな事実が二つ判明した。辰也が漉士でありながら折士術もマスターしていること。そして亥之介が折士であることだ。塚田は折士だったので、亥之介と同一人物である可能性は高い。だが鏑木にとって前者も重要な情報だった。

 紙士養成学校に在籍歴がある者は、再入学することは出来ない。また学生はどんなに素質に恵まれていても、複数のクラスを掛け持ちすることは出来ない。つまり国家資格を持つ正規の紙士は漉士なら漉士術、折士なら折士術といった具合に、単一の紙士術しか修得していないのである。一人の紙士が漉士術も折士術も駆使できることは、通常では考えられない。

 だが辰也は漉士でありながら折士術も使える。これは辰也が正規の紙士ではない、即ちもぐりであることを意味しているのだ。しかも17レベルであるこの折妖サーベルタイガーを作成可能ということは、折士として少なくとも七段相当の実力があるということ。メインではない術でもそこまで習得しているとは、もう紙士として天才と言える域に達している。そんな男が相手方にいるとはーー鏑木は正直恐ろしくなった。

 しかしまだ訊きたいことは残っている。鏑木はさらに尋ねた。

「申蔵、亥之介、辰也。この三人以外にもその一団のメンバーはいるのか?」

「アア、アト一人イル。寅次トイウ染士ガ。俺ノ知ッテイル範囲デハ、コノ四人ダナ」

「辰也が漉士兼折士、亥之介が折士、寅次が染士。では申蔵は?」

「漉士ダ。申蔵ガ辰也ニ漉士術ヲ教エタ」

「では残り二人は誰に紙士術を教わった?」

「ソレゾレノ父親カラダ。モットモソノ二人ノ父親ハ死ンデイルガ」

「そうか。ではメンバー四人の容姿と年齢を教えてもらおう」

 折妖サーベルタイガーは四人の容姿は説明できたが、詳しい年齢はわからなかった。ただ申蔵は白髪がかなり混じっているところから、壮年期は過ぎていると思われた。残る三人は若者で、最年長は辰也。次いで寅次、亥之介という順になる。ちなみに亥之介の容姿は塚田と一致したので、この両者が同一人物である可能性は更に高くなった。

 成程……と鏑木が思った時、前橋が前へ出てきた。

「鏑木君。その四人はわしの考えが正しければ黒駒三兄弟だ。申蔵が年長者で、残り三人が若世代。間違いないだろう」

「校長……。何故そうだと断言できるんですか?」

「黒駒三兄弟には代々干支にちなんだ名前を付ける慣わしがある。もっとももぐりとなってからは本名としては使えず、『裏の通り名』になっているらしいがな……」

 黒駒三兄弟と聞いて鏑木ら三人の役職教師は納得したが、他の教師にとって初めて耳にする名前だった。そこで前橋が有名なもぐり紙士団であることを説明した。

 この後、鏑木は最も重要な質問に入った。

「奴らのアジトは何処にある?」

「俺ハ人間ノ言ウ地名ウンヌンハワカランカラ、口デ説明ハ出来ン。ココニ自力デ来ラレタノモ、前ニ一度連レラレテ来タコトガアッタカラダ。ダガ案内ナラ出来ル」

「よし、わかった。いずれそこには案内してもらおう。今はひとまず眠れ」

 鏑木は折妖サーベルタイガーの肩に触れ、折妖睡眠の術をかけた。折妖サーベルタイガーは小さ折紙の状態へ戻り、鏑木の懐へ収まった。

 こうして折妖の尋問が終了し、前橋ら役職四人を除く教師は実習棟から立ち去った。殺人未遂事件にも発展しかねない重要事項であるが故に、どうするかは彼らが協議して判断するのだ。

「校長。ここは警察に連絡を」

 福原は進言したが、前橋は何故か渋い表情を見せた。

「いや、この件は妖魔局に直接報告しよう。桐生署の腰の重さがどうにも気になる。折妖トーナメント戦の時といい、焼鳥屋の泥棒の時といい、あまりに積極性に欠ける。単なる怠慢なのか、それ以外に理由があるのかは知らぬが、またなおざりにされてはたまらん」

 前橋の台詞には不満や苛立ちが多分に含まれていた。折妖トーナメント戦の一件についても進展があったのか、捜査状況についてまるで報告がない。鳥勝の窃盗未遂・住居侵入事件についても、女将の娘達の聴取も実に中途半端なものだった。本当に捜査する気があるのかと、愚痴もこぼしたくなる。

「今すぐにわしが局長に連絡をする。奴らがことの失敗に感づく前に動き出さなくては、逃げられてしまうからな」

 前橋は駆け足で実習棟から出て行ったが、入れ替わるようにして電話交換手の女性が入ってきた。交換手は鏑木の方へ真っ直ぐ駆け寄って来る。自席の電話をいくら鳴らしても出ないので、わざわざ探しに来たようだ。

「鏑木主任、お電話が入っています。阿倍野署の古賀警部からです」

「古賀さんが? わかった、今行く」

 鏑木は急ぎ職員室の自席へ戻り、受話器を取った。古賀の酷く動揺した声が聞こえてくる。その内容たるや、鏑木を驚愕させるには十分だった。

 電話を切ると鏑木は職員室を出て、真っ直ぐ校長室へ向かった。重要なことを前橋へ伝えなければならない。つい先程、阿倍野署でおきた事件を。看視の隙をつき、塚田が阿倍野署の留置場内で首を吊って死んだことを。

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