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鈴蘭祭りの精霊(遭遇)

 しじまを破るは、狼の遠吠え、鵺の叫び。歪な月が天中に座し、露が大地を濡らす夜半。城門内と雖も夜行を成すもの在らば、それは夜盗か妖魔・妖鬼の類と、普通ならば、相場が決まっている。

 その夜半、城の尖塔の高窓の一つが密かに開き、カーテン、シーツ、テーブルクロス、

果ては女物の下着まで連ねた太縄に、夜着の裾をあられもなく捲上(まくりあ)げた乙女(むすめ)がぶら下がっているのを見る者があったとしたならば、何と言うであろうか。

しかしながら、その夜は平穏の限りで、夜盗の忍びも、妖魔・妖鬼の徘徊も無く、ましてや、善良な目撃者など、皆無。従って、乙女は無事、大地に降り立った。

 乙女は直ぐ様、走り出した。幾何学的に刈り込まれた樹木の小路を走り抜け、ここかしこで噴水の上がる池庭を抜ける。薄闇の中に、一定の調子で繰り出される剥き出しの足が、白く浮き立つ。

 やっと、二、三分咲きに成ったばかりの薔薇の花園を突っ切り、回遊する小川の橋を多数駆け抜け、東の果樹園に出る。そして、ある大樹の前に止まる。かなりな距離を、相当な速さで走って来たにも拘わらず、その大樹を見上げている乙女の息は、ほとんど上がっていなかった。

 乙女は、手足を樹の幹の凸凹に巧く当てがい、難無く大樹の中腹まで登る。

 幹はそこで、大きく二股に分かれていた。

 乙女は、やや太く張り出した枝と、一方の幹とに足を踏ん張り、二股のもう一方の幹を覗き込む。今にも墜落しかねない角度である。

 と、乙女が足を掛けていた枝が大きく揺れた。次の瞬間、乙女は黒い革袋を抱え、大樹の根元へと着地していた。

 乙女は、その革袋から黒の上着とズボンを取り出し、手早く着替える。短剣を腰に手挟み、革袋を肩に掛け、再び走り出す。目的地は、北の厩。

 厩に現れた乙女は、迷う事無く一頭の馬に近付き、引き出す。額に白い星のある、大きな黒馬だった。乙女は慣れた手付きで鞍を置き、馬銜(はみ)を噛ます。その間、当の黒馬も、他の馬も、当然の事と言うように、全く騒ぎ立てなかった。

 黒馬と共に厩を後にした乙女は、黒馬の耳元へ顔を寄せ、二、三語囁く。そして、軽々と黒馬に飛び乗る。と、同時に黒馬は、全速力で疾走を始めた。向かうは北西門。ラドバ海最大の港市邑‘ラドバ’へと通じる街道への門であった。

◆ ◆ ◆

 【急がにゃ遅れっちまうぜ!】

マウリイツは、共同井戸の井戸端に駆け込み、もどかしげに衣服を脱ぐ。気は焦っていたが、頭から水を何度も被り、身体中を丁寧に洗う。

【魚臭ぇじゃ、お笑いだもんな!】

 ここは、内海である‘ラドバ海’の北海への出口に位置する漁村‘ファンフェスト’。この村邑(むら)の家々は、小さな漁港を懐に抱くように海に迫った丘の斜面に、肩を寄せ合うように建っていた。その中心部に、村邑の共同井戸がある。村邑で使われる水は総て、この井戸で賄われていた。

 マウリイツは、今の今まで、今朝水揚げした魚を浜で捌いていたのだ。

 普通、魚を捌くのは、女の仕事だった。しかし、マウリイツの母は、外人(よそもの)――ラドバ海沿岸や北海西域の漁師の家の出では無い上に、身体が弱かった。そのためマウリイツは、幼い頃から、父が捕った魚を捌く仕事を受け持っていた。

無論それは、幼い子供一人で出来る仕事ではない。従って最初は、伯母達の助けが多大だった。だが、マウリイツには、子供離れした腕力と器用さがあり、仕事を始めて一年ばかりで、浜の女達に「この子が(こんが)さあ、女ん(おなごんこ)だったらさあ、(うち)嫁子(よめんご)にっちゃあ、唾付けんだけどさあ!」と、言わせる程の仕事振りと成っていた。

そして、父と共に漁に出るように成った今でも、家族に代わりの者がいないマウリイツは、そのまま浜の仕事も続けているのであった。

 短く刈上げた白金髪に、落ち着いた灰紫の瞳。長身で能く日焼けした筋骨逞しいマウリイツは、一見、二十代半ばの好青年に見える。が、しかし、能く観察すれば、その顔には、まだまだ幼さを残している。事実、マウリイツは、やっと十代後半に入ったばかり。そして今年初めて、村邑の‘青年組’から‘鈴蘭祭り’への誘いが掛かったのであった。

マウリイツは、身体を拭きながら家へと走り、飛び込む。居間へ向け‘正アルピール語’で以って、

「只今帰りました。母上様。」

声を掛けながら、階段を駆け上る。だか、全くと言っていい程、足音は響かせない。

部屋へ入るや否や、ベッドの上へ用意しておいた服を着、再び階段を音も無く駆け下りる。その間は、数呼吸間と言う早業。

マウリイツは、居間の戸口に立ち、姿勢を正す。そして、幼い弟を膝に乗せた母親に向け、丁寧に一礼し、

「父上も、程無く戻られます。私はこれより、青年組の皆と共に、レルバへ参ります。」

「そうですか。楽しんでいらっしゃい。しかしながら、余り羽目を外し過ぎませんように。‘青年組’に入ったと言う事は、貴男も、一人前と見なされたと言う事ですからね。」

「はい。それでは、行って参ります。」

マウリイツは再び丁寧に一礼し、まるで騎士が君主の前から退出するかのようにして、静かに居間の口から遠ざかる。

 田舎の漁師の母子が、この会話?!これは、一般的に見て、かなり異様である。

 そもそも、‘正アルピール語’とは、アルピール王朝――‘聖王ライレイン’の血を引く‘アルピール’を祖とする王朝。‘アルピール’は、‘聖王時代’の最後の王‘暴君ニールエリン’を打ち滅ぼした人である。その孫‘アルトテムス’が、パンゲナ大陸の中央‘アルピスト山脈’の盆地を王都と定め、祖父の偉業を記念し、‘アルピール’と名付けた国を開いた。その王朝が‘アルピール王朝’である。しかし、アルピール王朝も長年の内に衰退し、既に、六百年程前、王朝としての力を失っている。――その時代に、広く用いられた言語で、今の貴族社会における‘公用語’である。これを必須の教養とすることにより、貴族達は、国や地域を越えても、意思の疎通が出来る状態を作り出していた。と同時に、それは、貴族の貴族たる証。つまり、今の時代には、普通の庶民でこれを正確に使いこなせる者は、まず、居ない。要するに、地方の寒村の一漁師ごときが、習い得る筈の無い言葉なのである。

 この不可思議な異様さは、前にも述べたように、マウリイツの母が外人(よそびと)であるがため。家の中でと、村人の中でとは、言葉の切り替えを常に行なわなければならないマウリイツは、厄介な事であろう。だが、生まれて以来の慣れのためか、当のマウリイツには、気にしている様子は見られない。


 マウリイツは、家の外へ出た途端、猛然と走り出す。村邑の家々は、斜面に張り付くように建て込んでいる。その急勾配を駆け下る。

 目指すは、港。それも、内防波堤の先端。――そこには、レルバ行きの‘青年組’の船がいる。集合時刻は、朝二点鐘。残り時間は、後僅かである。

路地は細く、入り組んでいる。村邑外の者にとっては、完全に迷路。だが、マウリイツは迷う事は無い。港への最短コースを走る。時には、塀を軽々と飛び越え、また、防風壁の上をも走る。

港へ出たマウリイツは、内防波堤の先端へ目をやる。そこにはまだ、船が見えた。

「おーえ!」

マウリイツは大声を上げながら、防波堤を一気に駆け抜ける。

 「マウル!遅えじゃねぇか!何ぃめかしてやがったんだぜ!」

「おおよ!お前ぇが(けつ)だぞ!」

「一等初めから、ぐず()いてどうすんのさ!」

揶揄を含んだ非難の声に、マウリイツは、

「悪りぃ。悪りぃ。」

片手を拝むように額に当て、揃った白い歯を見せて笑いながら頭をひょんと下げる。

その態度と言葉遣いは、先程の母親との対話からは想像し難い程の‘北海アルピール語’の砕けた様態である。

 丘の上の鐘堂から朝の二点鐘の音が響く中、‘青年組組頭’のリヒトが、

「マウルは、事情が有んだ。お前ぇ等も能っく知っとるだろうが!それに、まだ刻内だぜ。」

「おおよ、マウル。早よう乗れ!これ以上ぐず放いとったら、潮が変わっちまうぜ!」

「済まねぇ。」

マウリイツは、岸壁から一っ跳びに船中へ。と、同時に(もやい)が解かれる。

 「マウル。お前ぇが(けつ)だったんだからさ。港外(そと)まで、お前ぇが漕げよ!」

「あいさ!」

マウリイツはさっと腕捲りをし、船尾の櫓へ就いた。

◆ ◆ ◆

 正午過ぎ、ファンフェスト村邑の青年達は、レルバの港に到着した。港は既に、大船、小船で溢れかえっている。それらの殆どが、このレルバで催される‘鈴蘭祭り’のために集まって来たラドバ海沿岸やファント半島沿岸の村々の青年達の船である。彼等は、それらの間を縫うようにして、船を最も北の埠頭の端へと着けた。

 埠頭から眺めるレルバの港は、十数の埠頭を要し、そこに繋留されている大船舶のため、港の端が見渡せない程だった。さすがにレルバは、「ラドバ海では、東のラドバか、西のレルバか。」と言われるだけの、大港市邑である。

 埠頭広場は、人波でごった返していた。特に、若者の姿が目立つ。そんな中、花籠を抱えた子供達が、若い男達に向け、

「兄ちゃん!今朝方、摘んだばかりの鈴蘭だよ!」

「これ買って!森一番の香りの鈴蘭だよ!」

手に手に‘鈴蘭の花束’を差し出しながら駆け寄る。

 花売り童達に取り囲まれ、狼狽の色を見せるマウリイツを尻目に、村邑の先輩青年達は手際良く花束を買っている。一旦青年が‘鈴蘭の花束’を手にすると、花売り童達はさっと彼から引き、即、次の青年に群がる。その離合集散振りには、目を見張るものがある。

 そもそも、‘鈴蘭祭り’とは、ゴルフィード王国の西部に位置する内海――‘ラドバ海’と、‘タトゲ海’を中心とした地域における、初夏を告げる「‘鈴蘭の花の精霊’を讃える‘宵祭り’」である。この祭りは、‘ラドバ海’沿岸においては、‘ラドバ’と‘レルバ’の二大港市邑で執り行われ、‘タトゲ海’沿岸においては、‘アイユト’と‘ファート’において行なわれる。

それは、近郷近在の村々の若者達が寄り集まる‘若者の祭り’である。平たく言えば、若者達が大っぴらに恋人探しの出来る、年に一度の機会であり、年頃の若者皆が、心待ちにしている祭りである。そして、この祭りにおいて、意中の相手が見つかれば、乙女(むすめ)青年(おとこ)に‘鈴蘭のコサージュ’を贈り、青年は乙女に‘鈴蘭の花束’を贈る習慣になっていた。

 この祭りを前に、乙女(むすめ)達は自ら森に行き、鈴蘭を摘んで思い思いのコサージュを競って作る。既に相手の有る者は、誇らしげに。まだの者は、期待と見栄で以って。

 だが、青年達は花摘みなどしない。なぜならば、この地域では、「‘花摘み’は、女子供のする事。」と見なされていたからである。では、彼等は、花束をどうやって手に入れるのか?それは、港の‘花売り童’から買うのである。既に相手が有る者は、当然として。未だの者は、これまた乙女達と違わず、期待と見栄で。

 よって、この日程、‘花売り童’の花が大量に売れる日は、他に無い。‘花売り童’達は市邑のスラムの子供達である。彼等が手にするささやかな小銭は、家計の重要な現金収入源であり、しばしば、主収入の場合がある。そのため、この日の‘花売り争い’は、必然的に激烈と化していた。

 ‘花売り童’達に囲い込まれ、身動き出来なく成っているマウリイツへ向け、花束を手にし終えた村邑の青年達から揶揄の声が飛ぶ。

「マウル!何ぃもたくそ()いてんだ!」

「まだぁここかぁ、入り口だぞ!置いてけぼり食いてぇのか?」

「まさか、お前ぇ。ぐず放いてて、金持って来んの忘れたんじゃあるめぇなあ!」

 「馬鹿放くな!持って来てらぁ!」

マウリイツは大きく怒鳴り返しながら、周囲の子供達を見渡す。そして、群がる子供達の輪から跳ね出され、涙ぐみながらも、鈴蘭の花束を必至に差し出している痩せこけた、大きな青い瞳の少女に目を留めた。

 マウリイツはやおら子供達を掻き分け、痩せこけた少女が提げている小さな花籠に手を伸ばす。と、そこに在った花束‘四、五束’総てを、大きな手でぐいっと引抜いた。一瞬、呆気に取られ、立ち竦む少女の花籠の底に、銀貨が一つ光っている。

 他の‘花売り童’達は、瞬時に一斉に散り、一人取りぽつんと残された少女が、慌てて釣銭を捜す。しかし、マウリイツは微笑みながら首を振り、仲間の元へ歩む。

 「マウル。お前ぇ、あんなんが趣味かよ!」

一人が、痩せこけた花売り少女を顎で指す。他の青年達も、少女を横目で見たり、マウリイツの顔をまじまじと見たり。皆、かなりの呆れ顔である。

「趣味?何の?」

「決まってようが!女だぜ!」

「女?女って、何の女さ?」

 「馬鹿放()くな!」

マウリイツは突然、後ろから大きく小突かれた。振り返ると、リヒトである。

「『何の女』だと!‘鈴蘭祭り’に来といて、何放いててあがる!漁明けだろうが、寝とぼけたまんまで‘祭り’に出て来るような奴ぁ、‘青年組’入り、取り消すぞ!」

「あ゛っ!!」

マウリイツは、慌てて抗弁する。

「大兄ぃ!そりゃあねぇぜ!小っこい子だぜ。見たら、弟ん事、思い出しちまってさあ。そんで……。」

 と、待ってましたとばかりに、冷やかし声が一斉に沸きあがる。

「弟?!小っこくったって、ありゃあ、間違い無く女だぜ!お前ぇ、どこん目ぇ付けてんだ!」

「おおよ!淑女(レディ)に対し、失礼千万だぜ!」

「ありゃあ、二、三年すっと、別品に成る玉だぜ!ったく!マウル。ちゃんちゃと能う見んとならんぞ!」

「マウル。お前ぇ、あんなこつしたら、二、三年後の祭りにゃ、‘鈴蘭のコサージュ’持って、一等に出迎えてくれるぜ、あの淑女(レディ)!絶対ぇに!」

「おれおれ!マウル。色男!そん時ゃ、お前ぇどうすんだ?」

 「そんなんじゃねぇってばさ!ただ、ほんとに、弟んことが……。」

マウリイツは、再び抗弁を試みる。だが、多勢に無勢。

「そっか!弟か!ほんとは、お前ぇ、そっちが趣味なんだな!」

「へぇっ!お前ぇ、そうなのかあ。」

「お前ぇの‘弟可愛がり’は、そりゃ村邑でも評判だもんな!」

「そっか!そっか!」

「だがさあ、‘祭り’には、そんな小っこい男の子は、ほとんど来ねぇぜ。」

「おっ!マウル。顔色が変わったぜ!がっかりか?」

 ファンフェスト村邑の若者達は、マウリイツを態のいいスケープゴードに仕立てて、騒ぎに騒ぎながら、市邑の中心‘春の精霊広場’へ向かった。

◆ ◆ ◆

 ‘春の精霊広場’へは、華やかな若い男女の群れが次々と集まっていた。陽気な軽快なテンポの曲が、広場一杯に響いている。

広場の中央には、巨大な‘鈴蘭の精霊’の像が設えられていた。その下では既に、胸元に誇らしげに‘鈴蘭のコサージュ’を付けた若者と、手に‘鈴蘭の花束’を持った幸せ顔の乙女(むすめ)のカップルが多数、踊りの輪を作っている。

 ファンフェスト村邑の若者達が広場に入るや否や、乙女達の群れの一つから、透けるような金髪を結い上げた乙女が一人、飛び出して来た。その乙女は、皆の冷やかしと祭りの賑わいに、船酔い時のような気分に陥っているマウリイツの横を擦り抜け、

「リヒト!」

自分より完全に頭一つ高いリヒトの首へ飛び付くように走り寄る。それから、手編みレースとリボンで飾った手の込んだ‘コサージュ’を、その大きな胸へ付けた。

「クロディーヌ。」

リヒトは‘鈴蘭の花束’を乙女に手渡し、その腕を優しく取った。

 リヒトとクロディーヌとは、一昨年前の‘鈴蘭祭り’で出会い、この夏、晴れて‘結婚’の運びと成ったのだった。つまり、リヒトには、この祭りが‘青年組’最後の祭りと成る。

 リヒトは、浮き足立ち掛けている仲間達を見回し、太い声で、

「年に一度の祭りだ。目一杯、浮かれりゃいいぜ。だがさあ、帰りの刻限だけは、忘れるな!明日の‘后の七点鐘’だぞ!遅れた野郎は、泳いで帰れ。いいな!」

そして、マウリイツへ視線を止め、

「焦るこたぁねぇぞ、マウル。お前ぇは、今年始めてなんだからな。その鈴蘭、今年は‘精霊’にやりゃいいのさ。皆、一等初めは、そうしたもんさ。」

笑って言うと、クロディーヌを腕に、中央の踊りの輪へ向けゆったりと歩き出した。

 「おおよ。焦んなよな!焦ると(かす)掴むだけだぞ、マウル。」

仲間達も、続いて口々に、初参加のマウリイツへ教訓を垂れる。

「ひろひろすんじゃねぇぞ!負け野良犬みてぇで、格好悪ぃ(だせぇ)からなあ。」

「それにさあ、焦ると大概(てぇげぇ)、女んペースに嵌っちまうからさあ。そうならんよう、気ぃ付けろよな。」

「どうだろうと、北海漁師たる(もん)、女んペースにだきゃあ、嵌るんもんじゃねぇぞ!」

「そうさな!冗談抜きで、お前ぇなら、二、三年もすりゃあ突っ立っといただけでさあ、女の方から寄って来らぁな。」

「おおさ!マウル。一等最初に、女んペースに嵌っちまうとさあ、墓場まで女ん臀に敷かれっぱなしに成っちまうぜ!そん事だきゃ、能ーっく頭ん中に叩き込んどけよ!いいな!」

そして、二人、三人と組に成り、散って行く。

 気が付いた時には、マウリイツは一人取り残されていた。今回が始めてで、‘祭り’の実態を全く知らないマウリイツは、如何に冷やかされようとも、誰かの組に付いて行くべきだった。しかしながら、さっきからの‘船酔い気分’のため、そのような気は、全く回らなかったのである。

 どこで何をしたらいいのか、さっぱり分からないマウリイツは、有ろう事か!広場を背にして大通りを歩き出していた。

◆ ◆ ◆

 大通りには、屋台や露店が所狭しと居並んでおり、家々は門毎に‘鈴蘭の精霊像’を立て、華やかな飾りを競っていた。

 ‘鈴蘭祭り’が、専ら若者の祭りだと言っても、長かった北国の冬が去り、明るい夏の到来を告げる年に一度の‘宵祭り’である。それへ、人々が寄り集って来ないはずは無い。大通りは、若い男女のみならず、多数の家族連れで賑わっていた。

 マウリイツもずっと以前、一度だけ、父親と共に来たことがあった。それも、村邑の塩漬魚をレルバの商人へ引き渡しに行った序での事で、ほんの一時を過しただけである。しかし、マウリイツにとっては、楽しい懐かしい思い出だった。

 マウリイツは、子供の玩具を並べた露店の前で足を止め、

「お袋があの調子じゃあさあ、今年も‘家族で出て来る’なんて事、無理だよな。ルイの奴も連れて来てやればよかったな。喜んだだろうにさあ。」

青年組の仲間に聞かれれば、必ずやまたも冷やかされ、リヒトには再び小突かれるであろう事を呟きながら、独楽を二つ買っていた。

 マウリイツは何時しか、大通りからも外れ、路地裏へ入り込んでいた。

 路地裏通りは、大通りとは打って変わって、閑散としている。人通りなど、ほとんど無い。それでも、所々に‘鈴蘭の精霊像’が設えられていた。とは言え、それらは大通りの物とは比べものにならない程、質素である。だが、その足元にも、‘鈴蘭の花束’が多数捧げられていた。

 所在無げに、マウリイツは、

「俺にゃ、あっちの派手派手しいのよか、こっちの方がいいぜ。」

呟きつつ、その質素な精霊像の足元へ、持っていた花束を捧げようとした。

 と、突然、後ろから突き当たられ、よろめく。突き当たった細身の男は、そのまま黙って駆け抜けようとした。

 マウリイツは振り向きざま、左手でその男の胸倉を捕らえ、グイッと引き寄せる。

「おぇ!!手前ぇ、人にぶつかっといて、謝り(まどい)もしねぇのか!この、糞っ垂れ野郎奴っ!!」

「悪かったわ。なれど、急いでいる。」

「?!」

マウリイツは胸倉を掴んだまま、祭りの装いには程遠い‘黒装束’をまじまじと見詰める。

 黒装束ではあるが、能く能く見れば、腰の線は辛うじて女。身長はあるが、亜麻色の長髪を首の後ろで引き詰めて結んだ小麦色の顔は、どう見ても十五歳そこそこの乙女(むすめ)

 マウリイツは、掴んでいた手をそっと放し、

「女かよ。手荒な事して、済まねぇ。」

「こちらこそ。」

乙女は、笑顔を返す。誰しもが、無地用件で好意を持ってしまうであろう程の‘完璧な笑顔’である。しかしながら、キラキラと光るルビーのような赤い瞳は、油断無くマウリイツを見回していた。

 マウリイツも、

【赤い瞳?!……ほんとかよ?見た事も、聞いた事もねぇぜ。こいつ、何者(なにもん)さあ?妙な格好しくさってさあ……。】

遠慮会釈無く、乙女(むすめ)を眺め回す。

 マウリイツが質問を発しようとした矢先、後方から、

「いたぞ!あそこだ!」

振り向くと、路地のずっと奥に、水夫姿の男が四、五人。その中の一人で、水夫長のように見える男の胸には、‘ゴルフィード王の旗印’の縫取りが見えた。

 マウリイツは、右手に持っていた‘鈴蘭の花束’を胸ポケットに突っ込み、横道へ向け走り出そうとしていた乙女の手首を、むんずっと掴む。

「お前ぇ!ごっとんか?!」

「ゴットン?」

「おおさ!こそ泥。空き巣。」

「無礼な!」

乙女はくるりと腕を捻り、難無くマウリイツの右腕を払う。力では無く、技の差。

 乙女は飛ぶように、横の路地へと滑り込む。マウリイツは、一瞬、唖然!―――が、即、後を追う。マウリイツとて、素早い。

 乙女と肩を並べ、走りながら、

「そんじゃさあ、何で、役人に追われてる?」

「役人?どこに役人がいるのです!」

「さっきの連中。あいつらの一人、村邑へ運上金を取りに来る役人の船が揚げている旗と同じ模様を付けてたぜ。」

「同じ模様を胸に?其方(そのほう)、あの瞬時に、あの距離で、そこまで識別出来るのですか?!」

乙女はマウリイツへ、驚きの視線をチラリと向ける。一方、マウリイツの方も、相当な速さで走りながら平気で会話をする乙女に舌を巻いていた。

 「仕事柄、遠目が利きますので。」

「其方の仕事とは?」

「漁師です。」

 マウリイツは、いつしか‘正アルピール語’となり、母親と話す時のような口調に成っていた。それは、乙女の言葉が‘正アルピール語’であったことと、乙女とは思え無い程、物怖じしない堂々とした態度の所為だった。と共に、無意識の内に、乙女の中に母親と同じ何かを感知していたのかもしれない。

 「ところで、彼等は何者ですか?それに、貴女は何故、追われているのですか?」

「彼等は、海賊王の配下。其方(そのほう)の遠目が確かならば。さすがに、北の海賊王だわ!お兄様達の方は、巧く騙してラドバの方へ向かわせることが出来たのに……。

 追われる理由は、婚姻が嫌で逃げ出して来た為。なぜかと言えば、お兄様達が無理矢理、私を海賊王に嫁がせようとしたからです。」

「正気か?!貴女の兄上達は!!結婚ってのは、女に成ってなきゃ出来ないんだぜ!!」

思わず上げたマウリイツの大声に、乙女(むすめ)は吹き出し、走りのペースが乱れる。

 乙女は、とうとう足を止め、笑いこける。

「其方は、婚姻と言うものを、何と考えているのです?」

マウリイツも足を止め、乙女の突然の変化を怪訝そうに見遣りつつ、

「男と女が一緒に成って、子供を作って家族で暮らす事……。」

「それは、それは!単純でお宜しいですこと!」

乙女は、完璧な笑顔で、

「しかし、人の事を言う前に、其方は、男に成っているのですか?」

マウリイツを見詰める。だが、ルビー色の瞳の悪戯っぽい輝きは、覆い尽くせない。マウリイツは、むっとした表情も露に、

「私は、青年組でこの祭りに来たんです!」

乙女は、全く笑顔を崩す事無く、

「しかしながら、初参加でしょう?」

 突然、マウリイツは、ばっと乙女を壁際へ押しやった。―――図星を指され、怒ったからではない。右手横の路地の奥に、‘ゴルフィード王の旗印’の縫取りを胸に付けた男と、水夫二人を認めたからである。

彼等の方もマウリイツ達を見付け、向かって来た。彼等の手には、三尺ばかりの棒が握られている。

 マウリイツは、右手横の路地へと踊り込む。速度を落とす事無く、先頭の水夫に肩からぶつかるようにして、その手の棒を力任せに捥ぎ取る。と、同時に、棒を横に薙ぎ、その顔面を狙う。棒を取られた水夫は、大きく仰け反るようにして避けた。が、たたらを踏んで数歩下がり、後続の水夫に激しくぶつかった。

 「何しゃあがる!!」

「どきゃあがれぇ!!この、糞餓鬼ゃあ!!」

水夫が怒鳴る。売り言葉に買い言葉。

「るっせぇ!!おじん()が!!何ぃ()いて(けつ)かる!!」

北海漁師は気が荒く、喧嘩っ早い。青年組に入った男が、水夫相手の喧嘩の一つや二つ、出来なくて何としよう!である。

 棒は、大船の甲板長が水夫達に喝を入れる時の棒のようだった。マウリイツは、棒を右手に持ち、左の掌へパチパチと軽く当てながら、細い路地一杯に仁王立ちに成る。

「引っ込んであがれぇ!!俺の女だ!手ぇ出すなっ!!」

マウリイツは、鋭い犬歯が白く大きく目立つ歯を剥いて笑い、凄む。その様はまるで、精悍な野獣を連想させる。

 水夫達は、じりじりと後退する。そして、路地が七本交差し、小広場に成っているところへ来た時、棒を取られた水夫が、やおら呼子を取出し吹いた。甲高い音が、路地裏一帯に響き渡る。

【やべぇぜ!】

マウリイツは、心中で舌打ちをした。が、乗り掛かった船。ここで引き下がっては、北海漁師の名折れである。

 マウリイツはばっと踏み込み、呼子を吹いている水夫の腹へ棒で突きを入れる。返す手で、隣の水夫長らしき男の右肩を強かに打つ。振り向きざま、もう一人の水夫から打ち下ろされて来る棒を、両手で支えた棒の中央で受ける。衝撃で一瞬、手の感覚が消える。しかし、それは、お互い様。互いに一歩引き、対峙して身構える。

 案の定、あちこちの路地から、バラバラと新手の水夫が駆け込んで来て、忽ち小広場は手狭と成る。マウリイツは壁を背に、棒を長く構え、相手の出方を窺う。

 腕っ節の良いマウリイツは、早くから漁師同士の喧嘩に借り出され、既に、喧嘩経験は豊富であった。よって、仮令、相手が多人数であっても、怯みはしない。左右、正面と、次々に打ち掛かって来る棒を打ち返し、跳ね返し。時には、叩き落す。

 しかしながら、この水夫達は、マウリイツが今まで遣り合ってきた喧嘩相手達とは少々異なっていた。彼等の動きは、「喧嘩慣れしている。」と言うよりも「戦い慣れている。」と言った方が正しい。彼等の打ち込みは、各々勝手に滅多矢鱈では無く、完全に連携が取れていた。それも、指揮者がいるというのでは無いのに。


 何時しか、マウリイツは壁から引き離され、完全に取囲まれていた。

「こちらへ!」

左手の路地から、良く通る澄んだ声が掛かった。あの乙女(むすめ)である。乙女は逃げ出すどころか、ここまで付いて来ていたのである。

「バッキャロウが!!」

マウリイツが怒鳴り声を上げるのと、乙女が手を複雑に組み合せ、分からない言葉を唱えるのが、同時だった。

「伏せて!」

乙女はマウリイツに叫び、小広場の中央へ両掌を向ける。

 マウリイツは反射的に、地面に伏せた。その頭上を握り拳大の光球が飛び、小広場中央で弾ける。と、小広場は、鮮烈な白い閃光に包まれた。

 「こちらよ!早く!」

乙女の声。マウリイツはがばっと起き上がり、乙女の姿を求める。だが、視界が白くぼやけ、判然としない。目を擦ろうとするマウリイツの腕を、乙女が引く。マウリイツは右手に持っていた棒を路地の壁に当てながら、目を閉じたまま乙女の誘導で走る。

 しばらく走り、乙女は止まった。

マウリイツは、そっと目を開いた。眼前に乙女の顔があり、マウリイツは慌てて二、三歩跳び下がる。そして、恐る恐る辺りを見回した。目は、普段と変わらず見えていた。

乙女は、クスリと笑い、

「大丈夫です。あれは、単なる『幻惑(めくらまし)』ですから。直撃でもしない限り、大事無くてよ。」

それでも、乙女の声には安堵の声がほの見えた。だが、マウリイツは、乙女との間合いを詰めようとはせず、

「単なる、目晦まし?さっきのが……。と言う事は、貴女は、女魔法使い…なのか?」

胡散臭そうに、その顔を見遣った。

「魔法使い?!まさか!あれくらいは、嗜みの内だわ。」

「嗜み?魔法が?!」

「そうよ。一般教養の一つでしょう。」

乙女(むすめ)は「当然の事を。」と言った口調で言う。

しかしながら、漁師の村邑に、‘漁師の子’として生まれ育った者には、貴族の「一般教養」など、全くの無縁の存在。もし、取り立てて学ぶべき事があるとすれば、生業に関する実学のみである。

「イッ、パン…キョ……今日?用????」

困惑顔のマウリイツへ、乙女は肩へ掛けていた革袋から、小さな冊子を取出し、

「一般、教養。つまり、普通の、知識。誰でも知っているような、知識。それらの一つ、と言うことだわ。魔法も、極簡単な物ならば、誰にでも扱えてよ。」

と、差し出した。

「魔法が?!……誰にでも?」

マウリイツは、疑いの籠もった視線で乙女を見続ける。

 マウリイツの疑念は、尤もであった。それこそ、一般民である庶民にとって〈魔法〉とは、預かり知らぬ空恐ろしいもの。かつ、それを成す‘魔法使い’‘魔道士’などと言われる人々は、‘尊敬’と共に‘恐怖’の対象であった。とは言え、一般庶民が普通に接することが出来るのは、怪しげな‘恋占い’や‘呪詛’を成す‘似非魔法使い’か、〈魔法〉を用いるのはほんの少しで、‘薬草学’や‘医学’の心得を専らとしている‘自称魔法使い’が殆どであった。

 根が生えたように動こうとしないマウリイツに、乙女の方から近寄り、

「そうよ。誰にでもよ。これを見たら、其方(そのほう)にでも、簡単に出来てよ。」

再び、その胸元に冊子を差し出す。しかし、マウリイツは、手を出そうとしなかった。そして、その冊子をしげしげと眺め、

「実に、奇妙な‘鈴蘭の精霊’ですね。」

「?!」

乙女は思わず、マウリイツの顔をまじまじと見詰める。

「ですから、これ、が、です。」

マウリイツは、そろっと冊子の表紙中央を指し示す。

 そこには、金銀朱青緑で鮮やかに彩色された八角形の幾何学模様があり、その中央に怪獣が描かれていた。その怪獣たるや、顔は牡鹿。胴と脚は獅子。尾は竜。肩には鷲のような羽根が生え、その先端には五本の爪が付いている。かつ、多岐に別れた牡鹿の角先は、鈴蘭のようなベル型になっていた。

 乙女(むすめ)は、ころころと明るい声を立てて笑い出した。

「これが、鈴蘭の精霊?!どこから、どのようにして、そのような奇抜な発想が出て来るのです?」

マウリイツは自信無げに、ぽつぽつと、

「その、鈴蘭を…頭に、飾っていますので……。今日見た‘精霊像’は、皆、頭に鈴蘭の花を飾ってましたから……。」

「成る程ねぇ……。そうでしたわ。今日は、年に一度の‘鈴蘭祭り’の宵……でしたわね。」

乙女は、マウリイツがどぎまぎするような笑顔をマウリイツへ向け、

「これは、私の母方の紋章。聖獣‘カーナック’を意匠化したものですわ。」

それから、乙女はついっとマウリイツと肩を並べ、

「これには、簡単な魔法の〈呪文(ルーン)〉と〈印〉が書いてあります。」

冊子を開く。そして、マウリイツの反応を窺うような視線で、

「ところで、其方(そのほう)は、普通の文字――‘アルピール文字’は、読めるのでしょう?」

「少しだけならば。」

「少しだけ?」

乙女はページを数枚めくり、

「ここを読んでみて下さい。」

マウリイツを促した。

 その口調は物柔らかで優しかった。だが、雰囲気は有無を言わせぬ命令の感があり、マウリイツは我知らず、気押されたように読み始めていた。

 数ページ読んだ後、

「上出来!それだけ読めるのでしたら、其方の言う少しは、完全に謙遜の部類ですね。」

乙女は満足そうに微笑み、

「それでは、こちらへ戻り、これ。」

最初のページを開いた。

 それは、表だった。左の枠内には、全く見たことが無い文字。中央の枠には、マウリイツにも読める文字。が、しかし、それらは‘音の羅列’としか思えない代物で、意味など何も解せ無い。そして、右の枠には、色々と指を絡ませた手の絵が、幾つも並んでいた。

 乙女(むすめ)は、その表を左から順に指し示しながら、

「これが、通常‘ルーン’と呼ばれる‘魔法文字’による‘呪文’。‘呪文’自体を‘ルーン’と言う事もありますから、会話においては、前後関係で区別しないといけませんわね。そして、これが、その発音。それからこれが、それに対応する〈印〉です。

この表は、私が作りましたのよ!私の傅育官をしていた魔道師は、一つ一つ丸暗記させるやり方で教えてくれましたの。ですけど、こうして種類別に分けて表にした方が、分かり易いでしょう?」

「う、うーん。」

煮え切らない返事をするマウリイツへ、乙女は更に何ページかめくり、

「これが、さっき使った『光幻惑』よ。ここを読んでみて。」

表の第一段目の中枠を読ます。

 「そうそう!それで良いわ。次は〈印〉。こうやって、親指をこちらにして……。」

乙女は、ゆっくりと自分で〈印〉を組んで見せつつ、マウリイツにもそれを真似させる。

 「上手!上手!実際に使う場合は、〈印〉を組んで、〈呪文〉を唱えます。そして、目標に向け放つ。それだけの事です。簡単でしょう!」

乙女は、にこやかに微笑む。だが、マウリイツには、全く返答が出来ない。

 マウリイツは、困惑顔で、

「貴女は、一体、何者なのですか?」

乙女は暫し、マウリイツの顔をじっと見詰めた後、

「私は、オズマルドのティルティウスの息女(むすめ)エカティナ。ティナと呼んでいいわ。」

「??????で、ティナ。」

マウリイツは困惑顔のまま、小さく呟く。

 乙女に名乗りを挙げられても、マウリイツには、その意味が全く分からなかった。寒漁村の一漁師でしかない彼は、生まれてこの方、‘世界地図’などと言うものは、一度たりとも目にしたことが無い。その上、‘オズマルド’と言う国名――実はこの時、マウリイツには、「それが‘国名’である。」と言う事すら、理解出来ていなかった。――を聞くのは、これが生まれて初めてだった。そんな彼に、遥か遠く離れた異国の王家の事など分からないのは、当然である。

 ‘オズマルド’とは、ウラキシア大陸のカラク砂漠以西、ウラキシア海以南の西南部ほぼ全域を支配する大国‘オズマルド王国’のことである。そして、‘ティルティウス’とは、‘ウラキシアの覇王’と称せられた先代オズマルド王の名だった。つまり、エカティナは、‘オズマルド王国の王女’と言う事である。

 ただただ、頭を捻り続けるマウリイツへ向け、エカティナは、

「で、其方(そのほう)は、役者ですか?」

「役者?!…何で?……漁師ですよ、私は。ファンフェスト村邑の。」

マウリイツは、今度はきょとんとしてエカティナを見遣る。

「一見、普通の庶民に見えるのに、文字が読めますでしょう。そして、さっきからの完璧な‘正アルピール語’の言葉遣いや、態度の変化を見ていると……。」

エカティナは、ちょっと肩を竦め、

「以前一度、そう言った、とても面白い方々が揃った旅芸人の一座に出会ったことがありましたから。」

「‘言葉遣い’ですか。それは、母の所為です。母の言葉遣いが、こんな風ですので。母は、外人(よそもの)ですから。」

外人(よそもの)?何処の御方ですの?」

「何処と言われても……。母は、‘海揚り’なもので……。」

「海揚り?……とは?」

「親父の―――えっと、父の、網に掛かって揚がって来たんです、海中から。ですから、村邑内の者は、『海竜王宮の女官だったんだろう。』って言うんですが、母は、以前の事は何も覚えておりませんでして……。」

「そうですか……。」

エカティナは、改めてマウリイツの全身を眺め回し、

「それで、其方の名は?」

「あっ!ご無礼致しました!マウリイツです。マウルと呼んで下さい。」

マウリイツは慌てて頭を下げた。

 エカティナは、チラッと自分の姿を見遣りつつ、

「『しぁがれぇ』や『()く』は少々頂けないけど、この様な所で、この様な格好(なり)で、余りに丁寧な物言いでは、何だか可笑しいわ。普通の言葉遣いにして。」

「普通の、言葉?」

「そうよ。一般の‘友達言葉’がいいわ。」

マウリイツは、困惑の表情も露に、

「一般の、友達、言葉……です…か?」

「ええ、そうよ。そうして頂戴。」

エカティナの指示慣れた口調に、マウリイツは反駁も出来ず、

「出来るだけ、そのように……。」

と、応える。

 しかし、マウリイツにとって‘友達言葉’とは、エカティナが「少々頂けない。」と言った種類のものであり、エカティナの言う‘一般の友達言葉’がどのようなものなのか、全く分からなかった。

 マウリイツは、突っかかり突っかかりしながら、

「あ、あの、ところで、この後、どの様……ええっと、どうする気、なんだ、い?あれだけ大勢…に、追われて、い、いるの……。」

「そんなに硬く成らないで!それこそ、可笑しい!自然体。自然体。」

エカティナは、ぷっと吹き出し、マウリイツの肩をぱっと押した。そして、

「マウルよう!時にゃぁ、しぁがったり、()いても構わねぇぞ!」

腕を大きく組み、反り返った。その変化に、マウリイツは、一瞬、目を剥く。が、直ぐに、

「ティナ。君こそ、役者だぜ!」

ニヤニヤとエカティナを眺め回した。エカティナは更に芝居掛かった態で、

「私が居りました所では、日々、演技を磨いておりませんと、生きて行けませんのよ。オホホホホ!」

マウリイツもわざとらしく首を横に振りながら、大きく肩を竦め、

「毎日、芝居をしていなければならない所とは、一体どのようなところでございましょうや?小生如き瑣末の者には、全く分かり兼ねる所にございますよのう!」

それから、真顔に戻り、

「実の所、これから、どうするつもりなんですか?」

 「パーレル島の北へ、船が来ているの。迎えのね。だから、港で船を調達して、そこまで行かなければならないの。」

「パーレル島の北へ船?迎えの?…でも、君を追っているのは、‘海賊王’とやらの、手下なんだろ。海賊相手なのに、何でわざわざ海へ出るんだ?‘海’ってのは、それこそ、(やっこ)さん等の手の内だろうに。」

「迎えの船は、‘南の海賊王国’の船なの。そして、追手は、‘北の海賊王国’の者。だから、良い訳。」

「???」

マウリイツは、訝しげな視線をエカティナへ向ける。

 ‘南の海賊王国’とは、中南海の大島アルカートを拠点に、西南海、中南海沿岸に多数の属国を従える‘アルカート王国’の別称であり、‘北の海賊王国’とは、北海沿岸ほぼ全域を支配する‘ゴルフィード王国’の別称である。ただし、この別称が貴族社会で用いられる場合は、多分に侮蔑的意味合いを孕む事がある呼称であった。

 「‘北の海賊’が‘南の海賊’を襲ったりすれば、‘南の海賊王’と‘北の海賊王’同士の全面対決は必至。それは、‘海賊王’同士として、お互いにバカバカしいだけですもの。だから。」

しかし、まだ、マウリイツは怪訝そうな顔のままである。

「北と南の‘海賊王’の力は、互角。今、争いを始めれば、決着の付かない泥沼の戦いに成る事が目に見えているわ。つまり、それは、第三者を益するだけ。これって、とってもバカバカしいでしょ?お互いに。」

マウリイツは、難しそうな声で唸りながら腕組みをし、

「何だか能くは分からないけど、君は、余程、海賊付いてるんだなあ!」

「お父様のお母様。つまり、私のおばあ様は、南の海賊王国の出ですもの。」

「はあ?君の、おばあさんが、海賊の一党?!」

結局、マウリイツは、エカティナの正体がますます分からなくなってしまった。実は、マウリイツは、自分が生まれ育った国‘ゴルフィード王国’の別名が‘北の海賊王国’であり、その王の別称が‘北の海賊王’と言う事すら、知らなかったのである。よって、エカティナの祖母が、‘アルカート王国の王家の出身である’と言ったのだと言うことなど、理解の外の事であった。

 未だ頭を捻り続けているマウリイツへ、エカティナは、

「先ずは、港まで行って見なければね。」

と、声を掛け、歩き始めた。なかなかの歩速である。マウリイツは慌てて追いかけ、

「でも、港なんて処は、一等初めに張ってるとこじゃないのか?」

「そうだと思うけど、一応様子を確かめて見ないと、次の手は、考えられないでしょう。船も必要だし。」

「まっ、そう言われりゃ、そうだよな。」

マウリイツは口を閉じ、並んで歩く。だが、心の中では、

【何で俺ゃ、こんな珍奇な女に付いて歩く事に成っちまったんだ?‘鈴蘭祭り’の宵だって言うのにさあ……。何でだぜ……。】

と、頻りにぼやいていた。

◆ ◆ ◆

 マウリイツとエカティナは、路地裏伝いに港へ出た。

 そこは、埠頭広場の南の端、北の灯台が丁度、北西に見える場所だった。埠頭広場は今も、青年達とそれに群がる‘花売り童’で渦巻いていた。

 雑踏の中に踏み出し、背伸びをするようにして港全体を見渡したマウリイツは、

「取り立てて、それらしいのってのは、見当たらないぜ。けど、これだけの船と人だからさあ……。」

路地陰に居るエカティナを振り返った。

と、その時、

「いたぞ!あそこだ!あの、銀色頭!」

右手後方から切迫した声が上がった。マウリイツは、その方向へさっと体を向ける。

 一町半ばかり向うの路地の曲がり角から、右腕を肩から吊った水夫が覗いている。胸には、三角巾の陰から例の模様が半分見える。疑い無く、先刻の水夫長である。

 「やべぇぜ!!居た!」

マウリイツは路地裏に飛び込み、エカティナと共に再び走る。

「お前の髪は、確かに目立つわ。」

エカティナが視線を、マウリイツの頭にちらりと流し、

「その手の色の髪は、肖像画で一人、見たことがあるだけだわ。お前の親族には、他にもいるの?」

「いない。でも、君の瞳の色だって、変わってるぜ。」

「そうよ。変わってるわ。これも、お前と同じ。肖像画で一人、見たことがあるだけだわ。しかし、瞳の色は、遠目には判別出来なくてよ!」

マウリイツは、ややむっとして、

「悪かったな!俺の髪が妙な色で。だが、生れ付きなんだ!しゃあねぇだろうが!」

エカティナは、いともあっさりと、

「そうよね。この事態は、私の不注意からだわ。」

と、言うと黙ってしまった。

 マウリイツは、何と無く居心地が悪くなり、

「で、追い付かれないように、何処へ逃げるんですか?」

「追いつかれる事よりも、遮られる事の方が問題よ!この様な場合、隠れていそうな場所全体に展開するのが定石でしょ。」

「ん?そりゃ、‘追込み漁’みたいにって、事か?」

「追込み漁?!」

エカティナの声が厳しくなる。

「追い込まれたら、それこそ、事だわ!」

 エカティナの言葉が終わるか、終わらないか、前方に人影が現れた。

「いたぞ!」

 マウリイツとエカティナは、最近の横路地へと飛び込む。

 その先は、路地の交差の小広場だった。運悪くそこで、港から追って来た連中と鉢合わせと成る。

 マウリイツは、さっと棒を小脇に抱えるように構え、走りのスピードの勢いで一人に突きを入れる。次いで、体を落とし、隣の一人の脛を後ろから払う。と、そこへ、腕を吊った男が、棒を振り下ろして来た。

 マウリイツは立ち上がりながら、大きく払う。片手で振り下ろされたそれは、意外にも強力な一撃だった。マウリイツは、思わず体を反らす。

【此奴、左利きかよ?!】

手吊り男は、マウリイツの一瞬の怯みを逃す事無く、上段より打ち込んで来た。マウリイツは両手で棒をしっかりと握り、何とか支える。そして、力の押し合い。

 マウリイツは、じりじりと壁際まで押しやられる。

【糞ったれ!!】

マウリイツは、心中で悪態を吐きながら、背を壁に預け、両足で思いっ切り手吊り男の腹を蹴る。

 男は、背中から地面に転がる。マウリイツは踏み込み、全身の力を込めて男へ打ち込む。と、手吊り男は、転がった勢いのままくるりと回転し、立ち上がりながらそれを、綺麗に受け流した。

 その動きは、優美と言える程しなやか。片手を吊っている者の動きとは、到底思えない。

【すんげぇ強ぇぜ!!こんな奴、今まで、見た事も聞いた事もねぇぞ!!】

マウリイツは心底、舌を巻いた。そして、自分の現状を忘れ果て、尊敬の眼差しで男を見詰める。

 男は、カールした赤毛の短髪。潮焼けした引き締まった顔。茶色の瞳の奥に、親父のような微笑を浮かべていた。

 一方、エカティナは?と言えば、追手に対し尻込みするどころか、腰の短剣を抜き放ち、マウリイツ同様に飛び掛っていた。

 エカティナの行動に、一瞬度肝を抜かれた水夫の一人の股間を蹴り上げ、その隣の水夫の右の二の腕に、逆手に握った短剣を突き刺す。エカティナは、その水夫が取り落とした棒をさっと左手で拾うや、短剣を順手に持ち替え、棒と短剣を大きく振り回す。その動きは、剣舞のように美しい二刀流だった。

 水夫達は、相手が女。それも、自分達の王の花嫁に成るはずの女のため、思い切って打ち掛かることなど出来ない。それをいいことに、エカティナは棒を振り回しながら、マウリイツへ駆け寄る。そして、手吊り男に暫し見入っていたマウリイツの背へ、自分の背をどんっとぶつけるように合わせた。

 マウリイツは、はっとしたようにエカティナに視線を散らし、

「淑女の一般教養ってやつには、撃剣も入っているのか?」

エカティナは、声も鋭く、

「マウル!お前まで、女は護られてだけ居ろって言うの!」

マウリイツは眉目を釣り上げたエカティナの顔をチラッと見、ニヤッと笑うと、

「いいえ!女だろうが、男だろうが、相棒は強いに越した事は無いです。こんな場合は、特に!」

エカティナは、左手に持っていた棒をマウリイツへ押し付けながら、小声で、

「では、相棒として、そっちへの道を開いて。」

と、顎で横の路地を指す

 「あいさ!」

マウリイツは小さく頷くと、棒の一本を左手に持ち、もう一本を手吊り男の顔面へ向け投げ付ける。男は、さっと打ち払う。その間隙を衝いて横の路地方向に跳び、その辺りの水夫を二、三人、目一杯叩き伏せながら、横の路地へと走り込む。

 マウリイツには、エカティナが何をしようとしているのか、直ぐに察しが付いた。エカティナはまた、魔法を使おうとしており、マウリイツは妨げにならないようにこの路地へ逃げ込まなければならないのだ。

 マウリイツが路地へ入るや否や、後方で閃光が走る。しかしながら、今度は、マウリイツは目が眩むような事は無かった。

 「行くわよ!」

エカティナの声に、マウリイツは再び走り出す。そして、隣に並んだエカティナの顔を窺うように見遣り、

「しかし、ティナ。これじゃ、少々どっちへ逃げたって、同じ事の繰り返しじゃねぇのか?」

「では、どうすれば良いって言うの?」

「それは……。」

 マウリイツは、暫しの沈黙の後、少し改まった口調で、

「中央広場の踊りの中へ紛れ込んだら、少なくとも、撃剣の立ち回りだけは、しなくて済むんじゃないんですか?事情が飲み込めなくて、能くは、分からないんですが、‘北の海賊王’って人も、男なら、逃げ出した花嫁を衆目の中で、大勢の手下に追い掛け回させる、なんてのは、格好のいい話じゃないですからねぇ。」

「確かに。唯単に、男としての格好だけではなく、王としての威信の問題と成るわね。だから、今だって官憲を動かして無いどころか、秘密にしてるわ。」

「王としての威信?何が?……官憲?で、秘密?……何だぜ、そりゃ?何で、役人なんかの事が出て来るんだ?海賊だろ?海賊。だったら、役人なんぞ、関係ねぇだろうに。」

‘北の海賊王’のことも、エカティナのことも、どうも判然と分からないマウリイツは、しきりに頭を捻っている。エカティナは、その顔を横目で見遣り、クスリと笑って、

「兎に角、お前の提案は、良い線を行っているわ。今夜一晩は、この窮地を凌げるでしょうね。次の手は、その間に考える。ねっ!」

言うが早いか、踊りの音楽の方向へと路を取った。

◆ ◆ ◆

 そこは、‘港大通り’より二本南側の通りと‘中央広場’から放射状に伸びる小通りの一つが交わって、楕円状の中広場を形作っている所だった。

 その変形ロータリーの真中には、純白の衣装を着けた‘鈴蘭の精霊像’が、にこやかな微笑を浮かべて立っている。その前へ、‘精霊像’の白とは正反対の‘黒の長衣’に‘黒のフード’を目深に被った男が、楕円広場を埋め尽くす数の水夫を従え、立っていた。

 その黒衣姿は、マウリイツには全く見慣れないと言うより、初めて目にするものだった。だが、マウリイツの中では、動物的勘が警戒の唸り声を激しく発していた。

 マウリイツは、黒衣の男を見極めようと目を凝らす。しかし、頭の上から足の先まで、フードと長衣に覆い尽くされ、全く何も分からない。唯一、胸の前に組まれた皺だらけの手から、老人であろうと推測された。また、指には、数個の仰々しい指輪が光っており、相当の金持ちか、高位の身分の者だろうことも窺えた。

 黒衣の男は、太く張りのある声で、

「姫。続けて〈術〉を使われましたので、動きが追い易うございました。」

手の皺からは、想像だに出来ない程、若々しい声だった。

 マウリイツは、身を強張らせているエカティナの耳元へ、

「ティナ。あの黒尽くめの奴は、何だ?」

「北の海賊王の魔道師。ラーインヨシュフ魔道士会における、超一級の魔道師よ。」

「魔道師?!あれが……。」

マウリイツは、ごくりと大きく喉を鳴らし、まじまじと黒衣の男を見詰める。

 ‘魔道師’とは、‘魔道士’と呼ばれる‘正当な魔法使い’の中の最高位の者。その数は、‘魔道士’中でも、ほんの一握り。「小国ならば、一国に一人、居るか居ないか。」と言われている。よって、一般庶民にとっては、国王や御領主様と同様に、全くの‘雲上人’であった。

 心臓が張り裂けそうな緊張の数呼吸の後、マウリイツは、つつつっとエカティナから離れ、手にしていた棒を無造作に黒衣の男の前へ転がす。それから、大きくぺこぺこと頭を下げつつ、上目遣いに黒衣の男を見遣り、

「おらぁ、ラドバ海の漁師でさあ。初めて青年組ぃ入れてもろうて、初めて祭りに来たんでさあ。そんで、仲間とはぐれて、うろをついとったら、ここん女とぶつかってさあ。おらぁ、ここん女たぁ、関係ぇねぇ。おらぁもう、ごたごたぁ、御免だぁな。そんだからさあ……。」

 「マウル!」

エカティナが、怒った猫のような唸り声を上げる。そして、ルビーのような瞳を更に赤く燃え立たせ、突き刺すような視線でマウリイツを凝視する。が、マウリイツは、エカティナことなど全く眼中に無し、と言った態で、

「おらぁ、広場で踊ってる仲間んとこへ戻りてぇ。このまんまじゃ、仲間ん、笑いもんにされちまうさな。おねげぇでさあ、仲間んとこ、行かしてくれぇなあ。」

 マウリイツの懸命の懇願に対し、魔道師はゆっくりとした口調で、

「何処の、村邑の、漁師じゃ?」

マウリイツは、フードの奥からの、ヒリヒリとするような視線を感じながら、

「へぇ、ファンフェストでさあ。」

揉手をしながら答える。

「ファンフェスト。なれば、村邑長(むらおさ)は、ヤルレヒトであったな。」

「へぇ、前は。まだまだお元気だけどんも、『歳じゃ。』っちゅうてさあ。そんでもって、今ぁ、息子のベルレヒト(おさ)でさあ。」

「然様か。」

魔道師は、マウリイツに視線を止めたまま、

「道を開けてやりなさい。」

と、命じた。水夫達は何の躊躇いも見せず、さっと脇に寄る。

 中央広場への小通りが、一直線に開いた。だが、マウリイツは、直ぐに駆け出そうとはせず、

「どうも、済まんこって……。」

左手で頭の前を掻き掻き、脇に退けた水夫達にひょこひょこ頭を下げる。そして、そのままもう一度、魔道師の方へ向き、右手も額にまで挙げ、両手を合わせて拝むように深々と頭を下げて、

「お有難うごぜぇました。」

 俯いた途端、マウリイツは〈印〉を組む。ついさっき、エカティナから教わったばかりの『幻惑』の〈印〉である。がばっと身を起こし、有らん限りの大声で〈呪文〉を叫び、両掌を魔道師へ向け開く。

 くるりっと踵を返し、

「来い!!早く!!」

瞳を丸々と見開き、硬直したように立ち尽くすエカティナの手首をばっと引っ掴み、脱兎の如く駆け出す。

 と、同時に、

「伏せよ!!」

魔道師の緊迫した命令が飛び、〈呪文〉を唱える声が続く。

 地を揺るがすような爆音と共に、強烈な風圧が背後から叩き付ける。

 が、マウリイツは一気に、中央広場への小通りを駆け抜ける。エカティナも、やや引き擦られぎみになりながらも走り抜く。

◆ ◆ ◆

 時は夕刻に近付き、今や踊りの輪は、八重九重に重なり、中央広場を圧倒していた。それでもなお、あぶれた男女が多数、その外縁に屯している。西方の隅の‘水瓶を捧げ持った女’の小噴水の池の周りも、その一つだった。

 エカティナは、池の縁にもたれるように座り込み、

「しかし、其方(そのほう)は……。」

少し赤く成った手首を擦りながら、マウリイツをじっと見上げた。まだ、肩で大きく息をしている。一方、マウリイツの息は平常に戻っており、

「済まない。痛かったか?」

「これは、大事無いわ。でも、其方は、矢張り役者ね!『敵を欺くには、味方から。』と言うけれど、私も、完全に騙されたわ。」

エカティナは、感心したように微笑みかけた。だが、マウリイツはやや当惑顔で、

「味方を?!何でだ?親父は、疑似餌(ルアー)造りの時、『相手を騙す時は、相手が騙されるようにしなきゃいけねぇ。』って言ったぞ。」

呟く。エカティナは、クスッと笑い、

「成る程。『漁師の兵法』と言うものもあるのね!」

「漁師の、へ?……平方???」

マウリイツは、ますますの当惑顔。

 エカティナは、ちょっと肩を竦めた後、

「それより、マウル。魔法のことなど知らないって言うのは、嘘だったのね。さっきの『火炎球』!あの様に物凄いのは、初めて!私の魔道師だって、あの様なのは、無理だわ。でも、お前って、思いっ切り無茶をする性質(たち)なのね。それこそ、相手が彼―――‘北の海賊王の魔道師’で無かったならば、私達まで巻き込まれていたわよ!本当に、危ないったらないわ!」

非難の籠もった目をマウリイツに向けた。しかしながら、マウリイツは、「心外だ!」と言う表情も露に、

「否!俺は、さっきのさっきまで、本当に知らなかったんだぞ!あれは、君が、さっき教えてくれた魔法(ぶん)だぞ!それ以外は、俺は全く知らないんだぜ!」

「‘さっき教えた分’って、まさか、『光幻惑』のこと?あれの、何処が?!」

エカティナは大きく息を呑み、まじまじとマウリイツを見詰める。

 余りの見詰められ方に、マウリイツは気後れしたように、

「そりゃ、一度教わった切りだからさあ、どこか間違ったかもしれないけどさあ……。でも、俺は、そのつもりで……。」

エカティナは、眉間に少し皺を寄せ、

「ならば、先ず、その〈印〉を結んで見せて。」

マウリイツは黙ったまま、心許無げに〈印〉を結ぶ。

 「間違ってないわ。それ、『光幻惑』の〈印〉よ。それじゃ、〈呪文(ルーン)〉の方は?」

マウリイツは両腕をだらりと体側に下げ、ブツブツと小声で言う。

 「それも、完璧に合ってる……。」

エカティナはますます眉を寄せ、

「本当に、さっきは、その通りをしたの?」

「の、つもり、だったんだけど……。」

マウリイツは、完全に自信喪失顔。

 エカティナは、再び大きく肩を竦めた。そして、マウリイツの顔をちらりと横目で見、投遣りな口調で以って、

「『(すぐ)き白金の髪は、天鬼王の申し子。直き漆黒の髪は、妖魔王の申し子。』と言うから、〈相力(ちから)〉の入り方が、普通とはまるで違っていたんでしょうね、あれは。『光幻惑』も、『火炎球』も、‘光を発する球が弾ける術’と言う事では、同じなんでしょうよ!」

マウリイツは、困惑の真っ只中であったにも拘わらず、その言い方にカチンと来て、

「『天鬼王の申し子』ってのは、何なんだぜ!そんじゃさあ、その‘赤い目’は、何なんだよ!」

「『幻魔王の申し子』だそうよ。」

エカティナは、最初に見せた完璧な笑顔でマウリイツを見返す。

 マウリイツは視線を反らせ、ふーっと息を抜き、

「本当のところ、『光何とか』と『火炎何とか』とは、どう違うんだ?それと、さっきは、何が起こってしまったんだ?

 おっと!それよか、奴等、追って来ないのか?」

辺りをきょろきょろと見回す。

「ここ、祭りの群衆へ混ざっていれば、追っては来られないわ。最前、お前が言った理由でね。男の沽券に関わるんでしょ!」

エカティナは、またもクスッと笑い、

「そして、彼もまた、迂闊には〈術〉を掛けては来られないわよ。何せ、‘天鬼王の申し子’と‘幻魔王の申し子’の‘ペア’なのですもの!」

悪戯っぽく眉を上げた。それからさっと立ち上がると、マウリイツを促し、踊りの輪の縁を廻るように歩き始めた。

 歩きながら、エカティナは、

「『光幻惑』は、光の球を弾けさせる事によって起こす〈目晦ましの術〉。『火炎球』と言うのは、〈攻撃魔法〉とか〈破壊魔法〉とか呼ばれる種類の〈術〉で、〈目晦ましの術〉などとは、比較に成らない程、高度な〈術〉。曲りなりにでも出来るように成るのは、普通、‘銀の魔道士’以上に成ってからだわ。

だから、『光幻惑』の〈術〉で以って『火炎球』を生じたなどと言うのは、私にも訳が分からないわ。でも私は、其方(そのほう)の〈相力(ちから)〉が大きかった為ではないかと思うわ。冗談抜きでね。」

「俺、能く分かんねえから、思いっ切り大声で喚いちまったもんなあ。」

マウリイツはが独言のように呟く。

「声の大きさでは無く、お前の本質的〈相力〉の大きさの事よ。」

「本質的?????」

マウリイツは、「理解不能。」と言った顔をエカティナに向ける。

しかし、エカティナは、そんなマウリイツの様子を無視し、

「あの時、彼。‘北の海賊王の魔道師’が使ったのは、幸いにも、『分散(ちらし)』と『防御結界(まもり)』だった。もしこれが、この市邑中では無く、私が一緒に居なかったならば、彼は、『反転』若しくは『迎撃閃光槍』を発しているわ。そう成っていたら、あの『火炎球』よ!こっちに相当強力な『防御結界』を張るだけの〈術力〉と〈相力〉が無かったら、完全におだぶつ。〈攻撃魔法〉とは、そう言った代物なの。分かった?」

 「やっぱ、魔法っておっかねぇ……。」

マウリイツはゴクリと唾を飲み込んだ。が、ふっと小首を傾げ、ぼそっと、

「でもさあ、あれって、そんなにでかかったのか?」

「ちょっと!マウル!お前、自分の放った〈術〉の見極めも出来ていなかったの?!」

エカティナが、またしても目を剥く。

「見極め?って、そりゃ何だ?何せ、あの人数に、魔道師!だろ。即行でずらかっとかないとさあ。魔道師なんて、聞いただけでびびっちまってて、他の事なんか、全然!」

「それじゃ、魔道師に向けて〈術〉を放つなどと言う発想、怖気付いている人の、何処から出て来る訳?」

エカティナの鋭い視線に、マウリイツは首を竦め、

「俺、‘猫騙し’ぐらいのつもりで……。何せ俺、魔法の事、全然分からねぇから、そんな難しい事なんて考えてなくてさあ……。」

「猫、騙し?」

「ああ。浜で魚を捌いてると、猫がくすね(こっとん)に来るんだよな。『(ねら)ってるな。』って思ったら、猫の目の前で、『パチン!』て、大きく手を叩いてびっくりさせて、さっさと魚を躱す。でないと、魚を取られるか、手を引掻かれるかのどっちかに成っちまうからさあ。で、その『パチン!』が、猫騙し。」

「彼が、こそ泥猫?!…幾ら彼の事を知らないからと言っても、矢張り、なかなかの発想だわ!引掻かれなくて幸いでした。」

エカティナは、呆れ顔で小さく首を振る。マウリイツは腕組みをし、

「そっか。やっぱ、無茶だよな。俺も、一等最初から、無茶だとは、思ってたんだけどさあ……。」

エカティナはマウリイツの顔を横目で見遣りながら、再び小さく首を振った。


 中央広場を一周し終えて、エカティナは、

「ところで、マウル。ここの周りに立って居る‘鈴蘭の精霊像’の中では、あれが、一番出来が良いと思わなくって?」

やおら、前方の‘精霊像’を指差した。

「えっ?!はあ、まあ……。うん。」

 マウリイツの同意は、心許無い代物だった。だが、エカティナは、つかつかとその‘精霊像’の方へ向かう。マウリイツは、慌てて追いながら、

「ティナ。それが、どうかしたのか?」

「あら、だって私。この格好じゃ、余りにも異質でしょ。だから。」

「だからって、おい!まさか、‘精霊像’の服を引っぺがそうってのは……。」

「馬鹿おっしゃい!誰がその様な事、するものですか!其方の発想は、本当に可笑しいわよ!マウル。」

 エカティナは、指差した‘精霊像’が門にある家の脇路地へ、つうーっと入って行った。そして、目を閉じ、〈印〉を組むと、口の中で〈呪文〉を唱えていたが、

「あの、お部屋のようね。マウル、暫し待っていて。序でに、人を近付けさせないように見張ってらっしゃい。」

「ん?!何やる気だ!」

嫌な予感に眉を寄せるマウリイツの前で、エカティナは、再び〈印〉を結び〈呪文〉を唱える。

 と、エカティナの身体が、風に舞う羽毛のように、ふわりと宙に浮く。

「おえ!ティナ!そりゃ、やっぱ、泥棒(ごっとん)じゃねぇかよ!」

マウリイツは、下からわめく。

「人聞きの悪いこと、言わないで!お買い物をするだけよ!代金は置いて置くんですもの。」

 エカティナは、五階にある造りの良い出窓の前、その空中にぴたりと止まる。そして、右手の指先で空に文字を描き、出窓を指差す。出窓は音も無く全開し、エカティナはすっと中へ踏み込む。

 結局、下のマウリイツは、成す術も無く、ぽかーんとだらしなく口を開けて見詰めているだけだった。

 「あんなんに泥棒(ごっとん)に来られちゃ、どう仕様もねぇぜ!ったく!……だがさあ、何で、俺が、泥棒(ごっとん)の片棒担いで見張りなんぞせにゃ、なんねぇんだぜ!」

マウリイツは腕組みをし、剥くれ面で壁に凭れ掛かる。

「考えてみりゃ、出逢ってからずっと、ティナのペースに嵌りっぱなしじゃねぇのか?」

マウリイツは、別れ際の仲間達の忠告を思い出す。

「『焦ると、女のペースに嵌っちまう。』だと!俺ぁ、焦ってなんぞいねぇぞ!……いや、やっぱあん時、びっくら()いて、焦っちまったかなあ……。『女のペースに嵌っちまうと、墓場まで女の(けつ)に敷かれっぱなしに成っちまうぞ。』か!……まっ、俺がさあ、この訳の分かんねぇ女と、結婚する(いっしょんなる)ってこたぁ、無ぇもんな。絶対ぇに!!だったらさ、どうでもいい(こった)たぜ。そんな(こた)ぁさあ。」

 ぶつぶつと独言を言っていたマウリイツの後ろで、突然、艶やかな声がした。

「お待たせ致しまして。」

マウリイツは、慌てて振り向く。

 そこには、濃紺を基調としたシックなドレスを着た乙女が、典雅に裾を持ち上げ、腰を屈めて微笑んでいた。軽く結い上げられた亜麻色の髪は、銀細工の大きな髪留めで止められている。身に付けている飾りは、初めから付けていたピアスと細いネックレスのみ。だが、しかし、まるで‘鈴蘭の精霊’が降り立ったのかと錯覚しそうな程、匂い立つ姿たった。赤い瞳が無ければ、さっきまでのエカティナと‘同一人物である’とは、到底信じられない変貌振りである。

 マウリイツは、思わず、

「ティ、ティナ……。詐欺かよ?!」

「無礼にも、程が在りましてよ!‘泥棒’呼ばわりの次は、‘詐欺師’呼ばわりですか?」

エカティナは、さっと眉を吊り上げる。そんな怒りの表情までが、神々しい程、様に成っている。

「い、いえ、そういう意味では……。余りに、見違える程、お美しいので……。」

マウリイツの砕けていた言葉が、自然と丁寧に成る。

「それは、有難う。お世辞であっても、礼を言いましてよ。年頃の乙女(むすめ)として。」

エカティナは、またしても完璧な笑顔で微笑む。

「お、お世辞ではなく……、その……。」

完全に圧倒されてどきまぎしているマウリイツの腕を、エカティナはさっと取り、

「エスコートするのが、殿方の勤めでしてよ。それに、折角の‘鈴蘭祭りの宵’ですもの。踊りに加わりましょう!」

「は、はいっ!」

マウリイツは、何とも要領の悪い気一本(きっぽ)の返事をすると、踊りの輪へ向けてぎこちなく歩き出した。

◆ ◆ ◆

 夜に入ると、中央広場や大通りに面した家々は当然のこと、ちょっとした通りに面した家の窓と言う窓から、きらびやかな飾りを付けた‘竿灯’が提げられ、レルバの市邑は、市邑全体が巨大な蛍のように輝き始める。そして、中央広場の踊りは、夜半過ぎても衰えを見せないのが常だった。

 夜半には未だ時間があったが、マウリイツとエカティナは、踊りの輪から抜け出していた。しかし、踊りの輪を抜け、‘竿灯’の影が織り成す光の路の中、肩を寄せ合いそぞろ歩いている若い男女は、何も、二人だけではない。彼等の行動も、他の数多くの二人連れ達と同様、屋台で並んで買い食いをしたり、夜店の品を手に取ったり。つまり、彼等は、‘鈴蘭の精霊祭りの若い男女達’に、完全に溶け込んでいたのである。

 敷布の山の中から、刺繍の施してある赤い薄手の物を手に取って見ているエカティナの耳元へ、マウリイツは、

「この後、本気で、どうするつもりなんですか?」

囁いた。エカティナは、手にしていた敷布を買い求めながら、

「あの通りを向うへ向かって行っている人達は、何処へ、何をしに行っているの?」

北東方向に伸びる小通りへ、一組、また一組、と入って行くカップルの方へ視線を向けた。

「あれは、北の灯台の北側にある小さな入り江への道でしょう。その入り江には、‘貸舟’が置いてあって、それを借りて海へ出る連中もいると聞いてます。」

「海へ……。舟って、どのような?それに、何をしに海に出るの?」

マウリイツは当惑顔に成り、口の中でもごもごと、

「どんな舟かと言われても、今回が始めてで、まだ見たことが無いんで……。何をと言われても、俺……。向こう隣のジフなんかは、去年、島に上がって……。」

「島へ上がる?と、言う事は、その舟は、沖の島の方まで行ける様な舟だと言う事ね。」

「いえ、ちょっとその辺り廻って来るだけの、ボートのような物だと聞いてます。本当に、見たことが無いんで……。」

「いいわ。先ずは、行って見ましょう!」

「?!」

マウリイツは、ぎょっとした顔でエカティナを見遣る。エカティナは、マウリイツにもたれ込むように寄り添い、耳元で、

「パーレル島の北へ、船が待っていると言ったでしょう。」

「パーレル島まで?!そりゃ、ラドバ海の真中まで出るって言うのと同じですよ!あそこに在るのは、小舟だと……。」

「行って見ないと分からないわよ。それにお前は、ラドバ海の漁師。なれば、ラドバ海は己の庭のようなものでしょ!何とかして。さっ、行きましょう。」

エカティナは、マウリイツの身体を押すようにして歩き出した。

◆ ◆ ◆


 ‘北の灯台’と‘前の小島’の間は、小さな光で溢れていた。それは、若い男女達が漕ぎ出した舟が燈すカンテラの灯りだった。それらは、微風に揺らめく蝋燭の炎のように揺れつつ、何処と無く幻想的な趣を見せていた。

 エカティナは、光の揺らめく入り江を見詰め、うっとりとした声で、

「通りの竿灯とは、また異なった美しさがあるわね。」

一方、マウリイツは腕組みをし、ぐっと入り江を見渡しながら、

「やっぱ、‘前の小島’より外へ出てる(やつ)なんて、無いぜ。ジフが上がったって島も、‘前の小島’なんですから。」

「マウル。お前って、ムードが無いわねぇ……。」

エカティナが咎めるような視線をマウリイツに向ける。だが、マウリイツは物ともせず、

「魔導師を筆頭に、あれだけの人数に追われている時に、ムードも糞も無いでしょう!そちらの発想の方が、俺のなんかより、余程(よっぽど)可笑しいんじゃないんですか?」

「それは、そうだけど……。」

エカティナは、軽く肩を竦め、

「それじゃ、マウル。お前、‘前の小島’の外、ラドバ海の真中まで出られるような舟を探して頂戴。他の人達が出ていようが出て居まいが、迎えの船の所まで行き着かなければならないことには、変わりがないのですからね。」

「外へ出られる、舟ねぇ……。」

マウリイツは、入り江に並んでいる小舟を見回しながら首を捻る。

「マウル。お前、今更、怖気付いたの?魔導師に対し、あれだけの事をしておいて。」

「否!乗りかかった船だぜ!海の男が放り出したりはしねぇぜ。ただ、ここの舟じゃ、到底、駄目だってことさ。最低、帆が張れなきゃさあ。」

マウリイツはくるりと踵を返し、入り江の側の集落に向かった。


 そこは、小さな家が十軒ばかり密集した小集落だった。網などの干してある様子から、その生業は漁師と知れる。

 夜半近いこの時刻、当然ながら、どの家も戸を閉ざしている。マウリイツは振り返り、後ろに付いて来ているエカティナへ、

「ティナ。君は、魔法で、中の様子が探れるんだろう。さっき、泥棒に入った(ごっとんした)時、やってただろ?」

「泥棒扱いは止めて!」

エカティナは苦笑しながらも、

「で、何を、探りたい訳?」

「家の中に、適当な人。つまり、船を借りる交渉の出来そうな人が、居るかどうか。何せさあ、今日は、祭りの宵だからさあ……。」

「分かったわ。」

 エカティナは目を閉じ、〈印〉を結び〈呪文〉を唱える。暫くして、目を開けると、

「本当に、皆、出払うのね!祭りの宵って。」

驚きの声を上げた。

「誰も居ないのか?」

「いいえ。居ることは、居るわ。そこの家には。」

エカティナは、一軒の家を指差し、

「でも、年寄りと小さな子供だけだわ。」

「年寄りと子供……。まっ、いっか。」

マウリイツは呟くと、その家の前に立った。

 戸を叩き、何度か呼ばわった後、やっと、戸が開いた。

「済みません。夜分遅くに。」

頭を下げたマウリイツの前に出て来たのは、四、五歳くらいの男の子だった。マウリイツは、先般、弟のために夜店で買った独楽の一つを懐から取り出し、男の子の手に握らせながら、

「御免な、坊主。起こしちまってさあ。これ、やるからさあ、じいちゃん呼んで来てくれねぇかなあ。」

男の子は、ちょっと独楽とマウリイツの顔を見比べていたが、独楽を握ったまま、黙って奥へ引っ込んだ。

 家の中で人が動く物音がし、灯が点る。

「何じゃ。こんな夜更けに。」

不機嫌なだみ声に向け、マウリイツは最敬礼をする。

「済みません。本当に。どうしても、船がお借りしたくて。」

戸口に覗いた老人は、マウリイツとエカティナを交互に見ながら、

「舟なら、入り江にあろうが。」

 マウリイツは、一気に、

「俺、ファンフェストの漁師で、マウリイツ。あっちは、市邑のお嬢さんで、『前の小島の外へ出たい。ラドバ海の漁師なら、自分の庭のようなものでしょう。』って、言うんだ。で、俺。ラドバ海の漁師として、どうしても。ラドバ海の漁師の誼で、どうか、船貸してやって下せぇ。お願ぇします!」

と、言い、深々と頭を下げる。

「儂ぁ、もう隠居さな。勝手に、船をどうこうは出来ん。」

「そこを、何とか、頼んまさぁ!」

 エカティナもマウリイツの横に並び、

「ラドバ海の漁師さん達って、北海漁師の中でも、最高に‘船達者’と聞いてましてよ。お代のことなら、お幾らでもお払いしますわ。お願いします。」

と、例の完璧な笑顔を老人に向ける。

 老人は、暫くマウリイツとエカティナを交互に見ていたが、

「儂の道楽用の‘釣り舟’ならのう。先ずは、舟を見るじゃて。」

カンテラを手に、外へ出た。

◆ ◆ ◆

 「どうじゃ?」

小舟を手際良く点検するマウリイツを、じっと眺めていた老人が声を掛けた。

「いい舟だぜ!小さいからって‘道楽の釣り舟’にしとくなんざぁ、勿体ねぇぞ!じいさん。」

老人は、ふっと笑みを浮かべ、

「こやつぁ、儂が初めて持った舟さな。儂はこやつを、ちび助。さっき、出た子よ。

ああ、そうじゃ。さっきは、あいつに独楽を有難な。礼もまだ、自分ではよう言わんような奴でのう。ったく、困ったもんじゃて。

で、あいつぁ、儂の一等下の孫じゃで。こやつぁ、あれに、譲ろうと思ってのう。」

「そんな大事な舟、借りていいのか?」

「ええともさ。お前ぇなら大丈夫さな。」

老人は、マウリイツの肩をポンポンと叩く。そして、ちらりっとエカティナへ視線を走らせ、小声で、

「じゃがな。あの女は‘漁師の女房’にゃ向かねぇぞ。」

マウリイツも小声に成り、

「俺も、その気は全くねぇさ。女は、働き者の漁師の娘が一等だぜ!

実は俺、今年初めて‘青年組’入りしてさ。で以って、ちょっとした行き掛かりで、引くに引け無く成っちまってさあ……。」

老人はニヤッと笑い、

「まだ若けぇんだ。焦るこたぁ無ぇぞ。来年が、あるある。」

再び、マウリイツの肩を叩き、

「勝気そうに見えても、市邑のお嬢様ってのは、舟に一足入れただけで、船酔いでひっくら返るようなのもいるからな。まっ、気ぃ付けてやるこったな!儂ぁ、そろそろ返るぞ。ちび助一人じゃからな。」

と、カンテラを取った。

「待った!まだ、借り賃のことがさあ……。」

「いいさな。明日の夕までに、ちゃんと返してくれりゃよ。そんからさあ、若いの!‘ラドバ海漁師の名折れ’に成るような事だけは、するんじゃねぇぞ!」

老人は、またもニヤッと笑うと、さっと背を向け、すたすたと戻って行った。


 マウリイツは、舫を解きながら、船の中程に座っているエカティナを見遣り、

「ところで、ティナ。君は、船酔いする方じゃないですよね?」

「船酔いですって?私は今までに、何度も船に乗ったこと、有ってよ。それに、私の血の四分の一は、‘南の海賊王の血’なんですからね!」

「それは、失礼致しました。」

マウリイツは、ひょいっと肩を竦める。そして、口の中で、

「けどさあ、大船舶(おおぶね)小舟(こぶね)とじゃ、大分(でぇぶん)違うと思うんだけどさあ。」

と、呟いていた。

◆ ◆ ◆

 マウリイツは、‘前の小島’を回り切るまで櫓を漕ぎ、その後は、帆を揚げた。陸からの夜風を受け、舟は暗い海を滑るように走り始めた。激しく波を切る振動が、舟底から直に身体に響く。

 「マウル。この様に小さな舟で、本当に、パーレル島の向うまで行けるの?」

エカティナが、ちらりと舟尾で舵を握るマウリイツを振り返った。

「この舟だったら、ラドバ海の何処へだって大丈夫さ。北海へだって出られますよ。」

「北海へ?!こんな小舟で……。」

「漁師の船ってのは、多かれ少なかれ、こんなもんですよ。それに、今は、こんな小舟の方がいいと思いますよ。」

「なぜ?」

「先ず、目立たないから、見つかりにくいでしょ。海賊達に。」

「魔導師が居るわ。もう既に、私達の位置は把握されている、と思った方がいいわよ。」

「魔導師にだろ。ここは、海の上。追って来るには、船でないと駄目だぜ。船を操るのは、水夫。魔導師は、水夫なんかやらないだろ?」

「それは、そうだけど……」

「だったら、最終的にこの舟を見付けて寄せて来るのは、水夫だから、目立たないに越したことはないでしょう?」

「そうとも言えるわね。」

「それと、こんな小舟だと、パーレビ島の西岩礁帯を抜けられる。今の時刻からだと、巧い具合に潮に乗れるから早いですよ。そして、追って来ても、どうせ、魔導師なんぞまで乗せてる船となると、大きいに決まってるだろ。だったら、岩礁帯は抜けられない。と、すれば、追い付かれっこない。と、思ったんですけど……。」

「マウル。さすがに其方のお庭ね!ラドバ海は。それから、其方は、なかなかの戦術家だわ。漁師じゃなくて、海賊にも成れそうよ。」

「海賊?!‘海賊’との関わりは、今回だけで勘弁して貰いたいですよ。」

マウリイツは、ぼそっと言った。


 月明かりがあるとは言え、黒一色にしか見えなかった海の前方に、白く薄っすらと見える処が現れた。パーレル島の西岩礁帯に当って砕け散る波飛沫である。

 マウリイツは、それに向け真っ直ぐに舵を取る。が、突然、

「馬鹿な!」

叫び声を上げ、舵を大きく切った。裏帆を打つと同時にブームを回転させる。舟は急反転し、激しく傾ぐ。が、即、立ち直る。

 「何事なの?!」

エカティナの上擦った声に、マウリイツは、思わず知らず、

「流れが狂ってやがんだぜ!魔王が小便放った(しょんべんひった)みてぇな気違ぇざたさな!」

北海漁師の卑語(スラング)を口走る。

 「?!」

後方を振り返ったエカティナの目に、海面の異様な窪みが飛び込んで来た。それは、巨大な擂鉢のような渦だった。

「彼だわ!‘北の海賊王の魔導師’が居るのよ!近くに!さっきから〈気〉の具合が変だとは、感じていたのだけど……。」

エカティナは、さっと〈印〉を結び、〈呪文〉を唱える。

 突如として、船が三隻、右舷前方十二、三町ばかりの所に黒々と出現した。三本檣の巨大艦である。マウリイツが生まれて初めて間近で見る‘大軍艦’だった。

 「な、何でぇ?!」

「彼の、『幻惑(めくらまし)』の〈術〉だわ。それも、高度な!それに嵌っていたのよ。」

「そんじゃさ、あの流れも魔導師(そいつ)ん所為だってのかよ?!」

 マウリイツの上げた驚きの声に被さるように、横手から突風が襲いかかる。マウリイツは慌てて、帆の向きを変える。だが、風は、それをからかうかのように小舟の周りで旋廻する。

 「風も、流れも、勝手放題かよ!魔道師ってぇのは妖怪変化(ばけもん)だせ!!このっ、糞っ垂れ野郎が!!」

マウリイツは悪態を吐きながら手早く帆を畳み、櫓を取る。

 魔導師の〈術〉が造り出す海流と、マウリイツの櫓の力の押し合いが始まる。

 激しく揺れる舟の中央で、〈印〉を結び〈呪文〉を唱え続けていたエカティナが、

「これでは、駄目だわ!彼の〈術〉を止めさせない限りは。」

叫び、マウリイツの元へ這い寄って来た。

「マウル!彼に、『火の矢』を放って!」

「俺ぁ、矢なんぞ持ってねぇぜ!」

「違うわ!〈攻撃魔法〉のよ!今、教えるから。」

「攻撃?魔法?!――そりゃ、難しくって、おっかねぇ奴だろうが!何で、俺が?!出来っこねぇぜ。ったく!君がやれよ!」

「私の〈相力(ちから)〉では、彼には到底、歯が立たないのよ。〈攻撃魔法〉は。其方ならやれる!さっ!覚えて!簡単な〈印〉と〈呪文〉なんだから!」

エカティナは櫓にしがみつき、マウリイツを櫓から引き離す。

 「簡単たってさあ、さっきみたいなことが起きちまったら……。」

マウリイツは躊躇う。

「大丈夫よ。相手が、彼なんだから。それこそ、さっきと同じよ。大事無いわ。」

「さっきと同じったって、ここぁ、海の上だぞ!船にゃ、水夫だって大勢居る筈だぜ。」

「海賊王配下の、生え抜きのね!万一、海に落ちるような事があっても、泳げない筈がないでしょ!それに、彼に何とか出来ない訳が無いわ。いざとなれば、旗艦も向うにいるのよ!あれには、他の魔道士達もいる筈だわ。」

エカティナは、左舷前方を指差す。

 確かに、パーレル島の南に、うっすらと大船舶の影が見える。

 が、なおも、マウリイツは、

「それこそ、万一、こっちが巻き込まれるような事に成ったら、君が……。」

「私?!私は、大事無いわ。仮にも、‘海賊王の花嫁’よ!彼等は、私にはかすり傷の一つもさせられないのだから。」

「そうかあ!それでかあ!」

マウリイツは腕を組み、妙に感心する。

 エカティナは、業を煮やしたように、

「マウル!其方は、彼に良い様にされっ放しで、平気なの!矢の一本も報いようとは思わないの!」

「否!そうと分かりゃ、やるぜ!!‘ラドバ海の漁師’の名に賭けて!!」

マウリイツは犬歯の目立つ白い歯を見せ、野獣のように笑った。


 先程の遣り取りと、マウリイツが『火の矢』の〈印〉と〈呪文〉を教わっている間に、舟は流され、三隻の船との距離は既に、四町弱と成っていた。

 「魔導師の居る船は、どれだ?」

「中央の船よ。『火の矢』の〈誘導〉は、私がするわ。」

「よっしゃ!俺に任せとけって!」

マウリイツは、やおら櫓を取り、舟を流れに乗せ、中央の船に向け漕ぎ寄せる。

 「何する気?!マウル!」

妖怪変化(ばけもん)の魔導師に、火の矢一本、射掛けたって糞にもなんねぇぜ!船をやるんだぜ!船を!」

「船を?!待って!!マウル!!それは、無駄よ!船には〈宝珠〉が在って〈結界〉が在るわ!軍船――特に‘北の海賊王’の軍船の〈結界〉は、完璧よ!」

「ああ、知ってるぜ。それは。船は、どんな小舟だって、御守りの‘護符’が入ってらぁ。この舟だってそうさ。檣の下に。そいつに火を点けてやるのさ!」

「違うのよ、マウル!〈宝珠〉は、‘御守りの護符’などとは、全く違う物なの!それも、あれは、‘北の海賊王の軍船’よ!それを、破壊しょうだなんて!!」

 エカティナが驚愕の声で抗議を挙げる中、マウリイツは小舟を、中央の船とその右手の船の間へ漕ぎ入れ、舳尾を二隻の舷側に対し垂直に置く。そして、櫓を手早く船内に引き込みながら、

「ティナ。君の‘一般教養’とか言うものの中には、泳ぎも入ってるんだろ?南の海賊王の親戚なんだからさあ!もしもって時のために、そのビラビラした服は脱げるようにして、真中で伏せてろ!」

「冗談じゃないわよ!私、こんな冷たい海で泳ぐ気はないわ!私にだって『防御結界』ぐらいは張れてよ!」

エカティナは憤然とその場に座り込み、〈印〉を結び〈呪文〉を唱え始めた。

マウリイツは中央の船に向け、すっくと立ち、〈印〉を結び大音声に〈呪文〉を唱える。まるで、その動きを完全に把握しているかのように、中央の船から、水夫達が次々に海中に飛び込む。

マウリイツは、中央の船の舷側のど真中――中央檣の基底部へ向け『火の矢』を放つ。と、同時に、舟尾に振り向き様、もう一隻の船の舷側のど真中へも!

大音響と共に、大きな水柱が立て続けに二本、立ち上がり、海面は時ならぬ三角波を撒き散らす。

エカティナの『防御結界』が功を奏したためか、小舟は暫し余波に揉まれただけで、再び吹き始めた通常の陸風に帆を揚げ、正常な海流に乗り、走り出す。

マウリイツは左手で舵を取り、右手を拝むように額に当て、後方の海面に向き、

「済まねぇ!悪ぃ!」

頭を深々と下げる。漁師として海に育ったマウリイツは、このような状況下であっても、海上に浮かぶ者達をそのまま残して舟を進める事に、抵抗を感じていた。

 残りの一隻は、既に海上の水夫達の救助を開始している。マウリイツは、ややほっとして体を戻した。

 と、右舷側方の空中に人影。

「なっ!!何にさ?!ありゃあ!!」

「彼――‘北の海賊王の魔導師’よ。」

エカティナは低く一言答え、再び〈印〉を組み〈呪文〉を唱え始める。

 マウリイツには、エカティナが何の魔法を始めているのか、全く分からなかった。だが、咄嗟に、足で舵を押さえ、魔導師へ向け『火の矢』を放つ。

 瞬時、頭上が真昼の明るさに輝き、爆発的下降風が吹き付ける。エカティナは思わず舟底に伏せ、マウリイツは帆留めのロープを切り払い、ブームと舵を渾身の力で支える。

 舟はなんとか転覆を免れ、パーレル島の西岩礁帯が目の前に迫る。

 「ティナ!舵を押さえておいてくれ。このままで。」

マウリイツは舵をエカティナに握らせ、はためく帆を捕らえると、予備ロープでブームへ取り付ける。信じられない程の手早さである。

 「いいぜ、ティナ。帆はやられて無い。これで、岩礁帯は抜けられるぜ。」

マウリイツはエカティナの隣に座し、舵を取りながら笑う。エカティナには、筋骨逞しいマウリイツの身体がより大きくなったように思え、暫し黙って見詰める。


 「ところで、マウル。貴男、水夫達には頭を下げていたけれど、意外と、容赦が無いのね。」

「容赦が無い?何の?」

「さっきの『火の矢』よ。彼に対する。」

「あれ以外、俺にやれるこたぁ、無かったぜ!大鮫に襲われた時は、生きるか死ぬかなんだぜ。ほんのちょっとの躊躇いが、命取り。徹底的にやらなきゃ、こっちがやられるってもんだぜ。」

「そう!彼、‘猫’から‘大鮫’に昇格させてもらえた訳!」

エカティナは大きく溜息をつく。マウリイツは語気を荒げ、

「何さ!その言い方!ありぁ、間違い無く‘妖怪変化(ばけもん)’だぜ!あんだけの爆発に、水飛沫一つ被らずに、空中に浮いてあがったんだぞ!!」

「そうね。確かに彼は、怪物だわ。」

エカティナはあっさりと同意し、

「貴男の、あの『火の矢』と、私のを躱して……。」

舟尾上空を指差す。

「っ!!!」

見遣ったマウリイツは、声も無く息を呑む。

 何時しか白み始めた空を背景に、黒衣の人影が浮いている。その様は、マウリイツに「外洋航行中に疫病の発生した船舶の最上部檣に止まりに来る。」と聞く‘牽魂鬼’を連想させた。

 蒼白に成って見詰め続けるマウリイツへ、エカティナが、

「大丈夫だわ。彼も感心して、‘怪物(かいぶつ)’を眺めているだけですもの。」

意味有り気な笑みを向ける。マウリイツはぎこちなく首を回し、怪訝そうに、

「化け物を?眺める?」

「そう言うこと!」

エカティナは、クスクス笑いながら、

「もうこれで、彼等も追って来ないわ。彼等にも、私達が何処へ向っているかは、もう能く分かっているでしょうからね。それに、何と言っても、怪物にこれ以上軍船を沈められては大変ですもの!」

 マウリイツは、小首を捻る。だが、舟は既に岩礁帯に突入しており、マウリイツはそのまま黙って操船に集中した。


 マウリイツは小白波の砕ける中、複雑な子刺子模様を縫うように小舟を走破させ、パーレル島の北へ出た。エカティナが言うように、追手の船が来る様子は全く無かった。

 左舷前方に、帆を畳み停泊している大船舶(おおぶね)が、朝日を浴びて浮かび上がって見える。

「あれか?迎えってのは?」

「ええそうよ。」

エカティナは、その船へ向け舵を切ろうとするマウリイツの腕に、自分の片手を掛け、

「先ずは、島の、その浜へ向けて。」

パーレル島の北東端の浜を指差す。

「ん?」

「あそこ、上陸出来るのでしょう?」

「そりゃ、出来るぜ。あの浜は良い湧き水が出るんで、能く寄ってる。でもさあ、何でだ?」

不審そうに覗き込むマウリイツの視線に、エカティナは、ちょっと目を伏せ、

「この様な時刻に行くと、船の賄長を困らせることになるといけないから。朝餉ぐらいは済ませてからの方が良いでしょう。」

「はあ?」

マウリイツは大きく首を捻り、ますますエカティナの顔を覗き込む。エカティナは顔を上げ、

「だからね、マウル。貴男とあそこで、お食事にしようかと思いましたの。折角、‘鈴蘭祭り’に行き当たったんですもの。準備はちゃんとしてあるのよ。」

舟底中央を指差し、微笑む。

 そこへは、夜店で買った籐製のバスケットと赤い敷布が在った。

「何?!ティナ!君はあそこで、色々と買い込んでいたとは思ったけどさあ、弁当を……。あんな時に、よくも、よくも……。」

マウリイツは呆気に取られた様な顔で、まじまじとエカティナを見詰め、

「君は、人のする事をとやかく言うけどさあ。君の発想も、相当なもんだぜ!」

しかし、エカティナは、マウリイツのそんな態度と言を無視し、

「貴男は、あれだけ働いて、お(なか)が空いてないの?」

微笑み続ける。

 確かにマウリイツは、空腹だった。昨日は朝から忙しく、朝食らしい朝食は取らずじまいで出て来ていたのである。そしてその後は、屋台で少し買い食いをしただけだった。

 マウリイツは、ぼそっと呟くように、

「減ってるさ。悪鬼の胃袋並に。」

と、言うと、舟首を浜へ向け転じた。

◆ ◆ ◆

 マウリイツは、自分でも「これは、少々格好悪い。」と思いつつも、エカティナが次々と差し出す食べ物をガツガツと平らげていた。エカティナは始め、申し訳ばかりに食べただけで、マウリイツの食べる様子を満足げな笑みを湛えて眺めていた。

 バスケットの中が殆ど空に成った時、エカティナは、

「ところで、マウル。私の〈真名〉は、『チャクトラーニ』って言うのよ。貴男のは?」

「?!」

マウリイツは食べるのを止め、エカティナの顔を思わずまじまじと見詰めた。

 それもその筈で、〈真名〉は、家族か、余程親しい間柄でなければ、明かされる事が無い‘個人にとって大切な事柄’だからである。

 エカティナな、例の完璧な笑顔でマウリイツを見詰め返し、

「ねぇ、教えて!マウル。私のは、教えてあげたんですもの。」

と、促す。マウリイツは、エカティナの視線に抗し切れず、口の中で、

「君のと似てるんだよなあ。何だかさあ……。」

ブツブツ言った後、

「チャクラージ。」

「『チャクラージ』……。本当にね。何だかとても似た感じだわ……。」

エカティナは呟き、何かを考え込むように黙り込んだ。

 マウリイツは、その顔を不思議そうに暫く見詰めていたが、

「でさあ、ティナ。ほんとのところ、奴等――海賊王の手下は、なぜ、もう追って来ないんだ?俺達こんなとこでさ、のほほーんとしてるのにさあ。」

「?」

エカティナは、マウリイツへ驚いたような視線を向け、

「それは、前に言った通りよ。」

「‘北’と‘南’の海賊同士が遣り合ったら、互いに損だって事だろ。」

「そうよ、ちゃんと分かってるじゃないの。何か他に、不審な事でもあるの?」

「不審な事って言う程、大袈裟な事じゃないんだけどさあ。あの(ふね)、何時から、あそこへ泊まってんだ?昨日朝、俺達が祭りに行くのにここを通った時には、あそこにいたぜ。」

マウリイツは、海上に停泊している大船を指し示した。

「能く見てるのね!」

「能く見るも何も、あれだけでかい大船だぜ!それも、ラドバ海域(このへん)どころか、北海じゃ見かけたことが無い‘三角帆(ラティーン)’の大船だぞ。気が付かない方が、どうかしてんじゃねぇか?」

「そう言われれば、そうよね。確かに、目立つわね。」

「だろう。だったら、‘北’の奴等だって、とっくの昔に分かってたんじゃないのか?君を迎えに‘南の海賊’が来てるって事をさあ。でさ、だったら何で、‘南’の奴の方が、君をさっさと迎えに来ないんだ?君と‘北’のやつ等が訳の分からない‘追いかけっこ’なんかおっぱじめる前に。」

「そうね。分かってたでしょうね、完全に。」

エカティナは頷く。

「でもね、彼等――‘南’側が、私を迎えに来ると言う事はねぇ。マウル、ちょっと能く考えてみて。『‘北の海賊’が‘南の海賊’に手が出せない。』と言う事は、その逆も同様に言えると言う事なのよ。その上、ここは‘北の海賊’の制海域。‘南の海賊’にとっては、より不利なのよ。」

今度はエカティナが大船を指差し、

「だから、私が、あそこまで辿り着かなければならなかった訳。分かった?」

「そっかあ!こりゃ、蟹籠を何処のポイントへ沈めるかみてぇに、難しい問題ぜ!」

マウリイツは腕組みをし、感心したように唸る。が、ふっと、小首を傾げ、

「だったらさあ、やっぱ。こんなとこで、のほほーんとしてらんねぇんじゃねぇのかなあ……。」

呟く。エカティナは、クスクスと笑いながら、

「それは、‘力の均衡’が破られたからよ。それにね、結婚を嫌がって‘男でもなかなかしないような脱走を単身敢行する女’を、自分達の王の妃に迎えるのは、考えものでしょう。」

「力の均衡が、破られた?何時、どうやってだ?それにさ、考えもんなら、一等最初から追って来なけりゃいいんじゃないのか?」

マウリイツは、ますますの不審顔。

 「‘力の均衡’については、貴男が現れたからよ!マウル。」

「俺が?!……へぇ?どうして、俺なんかの事で?」

エカティナは、マウリイツへ視線を真っ直ぐに向け、

「マウル。貴男は、正真正銘の‘天鬼王の申し子’だからよ。貴男だったら、習いさえすれば、『大山破砕球』だって使えると思うわよ。」

「大……??…球?何だ、それ?まさか、それ、攻撃魔法か?」

「そうよ。‘攻撃魔法’の一つで、(いにしえ)の聖王ライレインが戦ったと言う魔物が用いた〈術〉の事よ。」

「古の魔物?!俺が?俺が、魔法のこと、知らねぇからって、おちょくるのもてぇげぇにしろよな!!」

マウリイツは腕組みをしたまま、ぷいっと横へ向いた。

 エカティナは微苦笑を浮かべ、その横顔を見詰める。だが、直ぐに、

「‘考えもの’の方はね。」

と、話題を変えた。

「幾ら考えものでも、王の命令よ。それに対し、無下に『止めましょう。』とは言えないでしょう。貴男達漁師だって、運上金のための水揚げ量が決められているんじゃないの?そのため、、場合によっては時化の時にも、村邑長(むらおさ)の命令で、漁に出なければならない事って有るんじゃないの?」

「まさかあ!」

マウリイツは腕組みを解き、エカティナへ驚きの表情を向け、

「‘運上金’ってやつは、決まってるんだと思うけどさあ。村邑長命令で、漁に出たりはしないぜ。その日、漁に出る出ないは、自分で決めるもんだぜ。当り前ぇだろうが!ましてや時化の時に、何で、自分と自分の船を沈めるような真似、誰が、何と言おうが、出来るかってんだよ!!ティナ。君の発想は、やっぱ、可笑しいぜ!ったく!!」

 エカティナは、感心したように、

「ラドバ海の漁師って、‘一国一城の主’なのね!だから、誇り高いのね!」

「はあ?一国……一、ジョウの主?何だ、それ?漁師が、何だって?」

怪訝な顔を見せるマウリイツに、エカティナは、またもクスリと笑い、

「小さくても、『船の船長は、船長。』ってことよ。」

「ラドバ海だけじゃないぞ。北海漁師は、皆そうさ。皆、‘船持ち’だぜ。」

「それだから、‘北の海賊王’が強いのね。部下達の士気が、他所とは全く違うもの。とても素敵だわ!彼がもう少し若くて、この様な状況下では無かったら、婚姻を結びたいぐらいだわ。」

 「何ぃ?!何で、‘漁師’と‘海賊’が、関係あるのさ?!それにさあ!君は、結婚が嫌で逃げ出して来たんだろ!何でそれが、婚姻を結びたいに成るんだぜ!!ったく!!」

マウリイツは目を剥き、噛み付くようにエカティナを見遣る。しかし、エカティナは悠然と、

「『北の海賊王がもう少し若くて、このような状況下でなければ。』と言ったでしょう。確かに彼は、並居る兄弟・従兄弟達を排除して王に成った、素晴しい‘覇王’よ。でも、彼と私は、歳の差が二十歳以上もあるのよ。うっかりすれば、親子だわ!そして、‘後継ぎ’のことを考えるとね。彼のようにして王に成った覇王の‘次代’は、余程の体制を整えておかないと危ういものよ。」

マウリイツは胡散臭そうに、

「おえ、ちょっとさあ。『並居る兄弟・従兄弟達を排除して』ってのは、どう言う具合にだよ?」

口を挟む。エカティナは事も無げに、

「殆どの場合、誅殺よね。」

「……殺?てこたぁ、兄弟皆殺しに、したって事かよ?」

「単純に表現すれば、そう言う事に成るかしら。」

「兄弟皆殺しにしたような奴の、どこが、素晴しいんだ?!ティナ!君の発想は、やっぱ

絶対に可笑しいぜ!否!間違い無く、狂ってる!!」

マウリイツは、異様な代物を見るかのように、エカティナを見据える。

 エカティナは口元に笑みを浮かべ、マウリイツの視線をじっと見返しながら、

「幾ら『狂っている。』と言われようとも、それが、現実なの。生き抜くためのね。マウル。貴男だって、魚を取って殺して、生きているでしょう。同じ事よ。」

「同じ?!どこが……。」

マウリイツは、絶句する。それに向け、畳み掛けるようにエカティナは、

「マウル。事の序でだから、貴男が驚く事をもう一つ、教えておくわ。

 私の兄達と姉達は、皆、腹違いなの。その彼等が協力して、私の母と弟を殺したのよ。母の父――私の祖父の所領が故に。長兄に至っては、お父様殺しの嫌疑も囁かれているわ。

 そして今、また、私の母方の祖父の所領のために、彼等は一致協力して私を‘北の海賊王’に嫁がせようとした。それが、さっきも言った『このような状況下』よ。

 私、‘祖父の所領’を継ぐわ。何としてもね。それこそ、兄弟皆殺しにしてでも。そうすれば、‘北の海賊王’とも、対等に成るわ。もし、その時、再び婚姻話があれば、考え直してもいいわね。‘対等な者同士’としてならば。女だからと言って、私は、お母様のように、男の言いなりには成らないわ。絶対に、成らない!」

 マウリイツは、エカティナの大地を焼き尽くしそうなまでに燃える赤い瞳に、一言も発する事が出来ず、ただただ、見詰めていた。

 暫しの沈黙の後、エカティナは表情を和らげ、

「話は変わるけど、マウル。貴男、下降風が起きた時、帆を止めていたロープを切ったわよね。ナイフを持っていたの?」

問うた。マウリイツは、ほっとしたように、

「持ってる。漁師は皆、持ってるぜ。これは、十歳に成った日に、親父に貰ったのさ。すんごく切れが良くって、刃こぼれ一つしない。いいナイフ(やつ)さ!」

マウリイツは、腰の辺りからふいっとナイフを取り出した。

 それは、‘ナイフ’と言うより‘刀子(とうす)’だった。全体の造りは質素だが、見るからに質感があり、‘漁師のナイフ’には、到底思えない代物である。

 「その様な物を持っているのに、どうして海賊王の手下達との遣り合いの時に、使わなかったの?」

「喧嘩に大事な生業のナイフを使う馬鹿が居るもんか!ゴロツキじゃあるめぇし!俺は、漁師だぜ!」

マウリイツは、「何を言うか!」と言うようにエカティナを睨んだ。

「成る程。生業ね……。そうなのよね。そうでなくてはいけないのよね。‘生業を成す者’が在ってこその‘王’。忘れないようにしなくてはね。有難う、マウル。」

エカティナは笑みを浮かべ、マウリイツを見返した。

 突然、礼を言われたマウリイツは、訝しげな表情と成る。エカティナはそれに向け、更に微笑みかけながら、

「さっ、マウル。そろそろ、本来の目的地へ行きましょうか。」

腰を上げた。

◆ ◆ ◆

 停泊する大船が間近になり、マウリイツはエカティナに、

「ボートを下ろしてもらった方がいいんじゃないのか。この舟じゃ、檣が邪魔で椅子が吊り難いぜ。」

エカティナは怪訝そうに、

「椅子を吊る?」

「沖へ泊まってる大船の場合、艦長や淑女(レディー)は『椅子を吊って乗り降りする。』って聞いてたんだけど、違うのか?」

「そうなの。知らなかったわ。私、今まで港でしか乗降したことがなかったから。でも今はいいわ。このまま寄せて。縄梯子をおろして貰うから。その方が、面倒が無いですもの。」

「縄梯子?!大船の舷側を登るんだぞ!淑女(レディー)がすることかよ!淑女(レディー)が!」

「女だって、登る事が出来れば登ってもいいでしょ!そう言う風に、男と言う者は、『女は何も出来ない。』と思っているんだから!」

エカティナの憤然とした声に、マウリイツは、

「そういう意味じゃないんだけどさあ……。」

溜息混じりに、エカティナのドレス姿を横目で見遣った。

 結局、マウリイツは舟を大船の横へ、ぴたりと着けた。それでもなお、マウリイツは、

「ティナ。君は確か、魔法で空中へ浮かべたよな。縄梯子は止めて、魔法で、飛び上がった方がいいんじゃないのか。」

エカティナは肩を竦め、

「出来ればそうしてもいいんだけど、今は疲れてて、魔法を使うのは、限界。マウル、貴男は本当に怪物よね!全く衰えが観得ないんですもの。」

「衰え???」

 エカティナは、眉を寄せ小首を傾げるマウリイツの顔に、楽しげな笑みを向け、

「マウル。貴男も上がらない?お礼もしたいし、私の首席魔導師にも紹介したいわ。」

「魔導師?!」

マウリイツは一瞬、嫌そうな顰めっ面に成る。だが、直ぐに笑顔に成って、

「俺は、礼なんかいらない。そんな積もりは無かったんだから。ただの行掛かりさ。それに、この舟、返さないとさあ。じいさんの大事な舟なんだぜ。それと、刻限に遅れると、俺、村邑まで泳いで帰らにゃならねぇことになっちまうんだぞ!」

エカティナは、赤い瞳を悪戯っぽく輝かせながら、

「あらそうなの?貴男だったら、ラドバ海を泳ぎ切りそうだけど。」

「冗談じゃねぇぜ!」

マウリイツは、膨れっ面でエカティナを睨んだ。

 「姫様!」

大船の舷側の上から声が掛かり、縄梯子が下ろされる。エカティナは、

「マウル。冗談は抜きにして、これ。」

革袋の中から小さい袋を取り出して、マウリイツの手に押し付ける。マウリイツは、顔を顰め、

「何だぜ!これ!俺は、いらねぇって言っただろ!」

「貴男にじゃないわよ!マウル。あのおじいさん。この舟の持主へよ。」

「じいさんも、借り賃はいらねぇって言ってたんだぜ。」

「大事な舟なんでしょ、これ。あれだけの中を酷使されたのよ!この舟。どこかに傷でも入っていたら、貴男。どうする積もりなの?これは、その時の修理代。」

「そう言われりゃ、そうだぜ。」

マウリイツは、袋を握った。

 「これは、貴男に。今日の記念よ。」

「記念?!こりゃ、魔法の……。」

マウリイツは、エカティナが押し付けてきた冊子に目を剥いた。

 それは正しく、マウリイツが‘鈴蘭の精霊像’と勘違いした文様の付いた、エカティナ作成の‘魔法対照表’の冊子だった。

 エカティナは、マウリイツに返却の暇を与える事無く、縄梯子に取り付き、

「貴男は迂闊にも、魔法の出来る私に〈真名〉を明かしてしまったのよ!」

と、言い残し、登り出した。マウリイツは固まったように、冊子を見詰めたまま、

「えっ?君だって教えてくれたじゃないか、ティナ。」

「だから、それで能く、学習なさい!」

「何?!そりゃ、どう言う意味だ?」

慌てて上を見上げたマウリイツは、目の遣り場に――困らなかった。

 大きく手繰り上げたドレスの裾を肩に掛け上げ、身軽に登って行くエカティナの下半身は、何と!最初に着ていた黒装束に包まれていた。

 「あれの上へ着込んでたのかよ!あん時、やけに早く出て来たとは思ったけどさあ……。

やっぱ、あいつぁ、女じゃねぇぜ!女の感覚じゃねぇ!!絶対(ぜってぇ)に!!」

マウリイツは、押し付けられた冊子のことも忘れ、上をじっと見上げたまま呟く。

 エカティナが船端をヒラリと飛ぶように船内に消えるのを見て、マウリイツはやっと手元に視線を戻した。マウリイツは、‘鈴蘭の精霊像’と間違えた文様を眺めながら苦笑を漏らす。

 再び視線を上げかけ、ふと、胸元のポケットの鈴蘭が目に入った。

「完全に、忘れてたぜ。そもそも、こいつを‘精霊像’へ捧げようとしてたら……。だったよなあ。」

マウリイツは、それを取り出す。全体に痛んでいるが、中には、未だ、綺麗なままの花もあった。

マウリイツは、花束の一つを縛っていた紐を解き、全体をぐっと縛る。そして、

「鈴蘭の精霊に!」

との声と共に、投げ上げる。

 どのような力と技で投げたのか、鈴蘭の束は真っ直ぐ、垂直に大船の舷側に沿って伸び上がる。と、白い腕が船端から現れ、さっと掴む。

 エカティナの良く通る声だけが、

「マウル!今日のところは、‘借り’に、しとくわね!」

と、降りて来た。

「借りも何もねぇぞ!‘鈴蘭祭りの宵’の行き掛かりだぜ!」

マウリイツは叫び返し、舟をさっと大船の舷側から離し、舟首をレルバへと向けた。

◆ ◆ ◆

 初夏の北海。それは、唯一、北海が穏やかな顔を見せる時である。沿岸の漁師達は、朝早くから競って漁に出ている。

 と或る船。船尾で舵を取る父親が、左舷の息子の背中へ向け、

「おえ!マウル。一昨日は、誰に、花束をやったんだ?」

「精霊に。」

「で、とこの、どんな精霊像だ?」

「鹿頭に鈴蘭の角ぅ生やした精霊さな。」

「そりゃまた、相当に変わった‘精霊像’だな。どこに在ったんだ?」

「人通りの無い路地裏でぶつかった奴さ。」

「路地裏?!ハハッ!まっ、いいさな。お前ぇにゃ、一等最初の‘宵祭り’だ。何れ、いいお姫様に出会えて、それもいい思い出に成らぁな。」

「え゛ーっ?!お姫様ぁ!!」

マウリイツは、思わず知らず、奇声を発していた。

 【ティナ……。】

マウリイツは、エカティナの燃え盛る炎のような赤い瞳を反射的に思い出していた。

【あれで、‘お姫様’なんだぜ!あいつ!冗談きついぜ。ったく!絶対ぇ、あれは……。】

半ば憧れ、半ば呆れの心持の中、一昨日の夜の出来事が、まるで遠い昔の思い出話のようにマウリイツの脳裏を過ぎる。

 「親父。俺ぁ、漁師の娘っ子がいいぜ。働き(もん)のさあ。言ったって、漁師は、生業が一等大事だもんな。そっさ!絶対ぇに!!」

マウリイツは、一人で納得したように大きく頷く。

「おえおえ、マウル!お前ぇ、その歳で、夢がねぇなあ。夢が!若い時にゃ、皆、自分のお姫様を探しに、祭りに出向くもんだぞ!」

延縄の巻取り機を回し始めた息子が振り返り、

「そんでもさあ、親父。親子二代して、‘海竜王んとこの女’を引き上げるなんてこたぁ、土台無ぇぜ!」

白い歯を見せて笑う。そして、その心中では、

【そうさ。土台無ぇことだぜ。ティナにまた会えるなんてこたぁ。あれは、‘鈴蘭祭りの宵の夢’さ。そう言う事さな。俺にとっちぁ、何たって、初の‘宵祭り’だしな!】

と、自分自身に言い聞かせていた。

 父親は、息子の側にやって来て、

「否!お前ぇなら、‘海竜王の娘’を、釣り上げるかも知れねぇぞ!マウル!」

息子の肩をポンと叩き、延縄の引き上げを手伝い始める。

 海は、静かにうねりながら、初夏の朝の日差しをきらきらと照り返していた。



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