亡霊とバッティングセンター
-元プロ野球選手、菓子名大地はバッティングセンターでもう1つの野球と出会う-
菓子名大地はプロ野球選手だった。18歳の時、ドラフト8位で千葉マリンズに内野手として指名された。以降の12年間、様々な球団を転々とし、30歳の時に戦力外通告、つまりクビを言い渡された。
解雇理由は成績不振と怪我の為。プロ11年目のシーズン途中、両アキレス腱断裂という大怪我を負った。歩行すらままならない怪我は、野球選手として致命的なものであった。怪我が治り、リハビリも終了仕掛けた初秋、球団から戦力外通告を受けた。
プロ野球の世界に未練はなかった。10年以上も身を寄せ、自分の力じゃ通用しないということがよくわかった。通算安打数60本、通算本塁打数4本はその事実を如実に物語っている。
働き盛りの年齢で解雇された菓子名は新たな職探しを始めた。幸い、兄である菓子名洋介が経営する東京のスイーツ店が人手を募集していた。弟である菓子名大地は怪我が完治した後、営業職としての再就職を果たしていた。
「菓子名スイーツ」と書かれたスポーツワゴン車を運転する菓子名は、目的の果物屋を発見した。煉瓦調の外壁を有する建物の軒下に、籠に入れられた状態で果物が売られている。外壁には「貝陣果物店」の看板が掲げられている。店の裏には無数のビニールハウスが連なっている。
「あの店だな」
独白には若干の疲労があった。東京都飯田橋から茨城県水戸市までノンストップで車を飛ばして来た為である。
元より垂れ下がった目を眠たそうに擦る。身長1メートル83センチ、体重81キロという痩躯。癖毛の黒髪が不規則に外跳ねしている。トロンと下がった目尻からはどこか子供らしさを感じ取ることができる。
兄である菓子名洋介が新しく考案したスイーツに使用する苺の仕入れ。それが弟、菓子名大地の今日の仕事であった。
「兄貴の依頼はいつも急なんだよ。金曜日の夜中に明日朝一番に茨城県にいってくれだもの。こっちの予定も考えて欲しいよな」
不満を零したものの、土曜日、日曜日に特に予定は入っていなかった。休日出勤手当も出るとあっては菓子名としても断る理由はない。それに、兄である菓子名洋介の気まぐれは今に始まったことではない。両親に相談なく大学を突然中退し、フランス人パティシエに弟子入りするような兄である。今更驚くことはない。
店近くに車を停めた菓子名は、店の前へと身を移した。ポロシャツにジーパンというラフな格好である。平日に営業先を回る際はスーツを着込む菓子名であったが、仕入れの際は比較的ラフな格好で動くことが多かった。
「あのー、すいません。先日お電話させて頂いた菓子名スイーツの菓子名ですが」
店の入口から奥に向かって声を放つ。
「はーい」
遠くから男性の声が聞こえた。
菓子名が頭上に疑問符を浮かべたのは口を開いてから20秒後であった。いつまで待っても店員が現れない。
(変だな……もう1回呼んでみるかな。いや、もう少し待ってみるか……)
手持ち無沙汰となった菓子名は店先に並べられた果物に目を走らせた。色とりどりの果物が身を寄せ合っている。表面に付着した水滴が室内光を反射し、静かに照り輝いている。水滴を纏って光る果物は宝石のようであり、8月の太陽に負けず劣らずの存在感を発揮していた。
今日仕入れる予定の苺に目に止まった。桐箱に入れられた状態で店の中央に目立つように置かれている。
「うわっ、でかいな。これが兄貴の言っていた苺か」
苺の特徴は、何と言ってもその大きさである。1つ1つが子供の拳程の大きさを誇っている。桐箱には「衝撃の大きさ、感動の甘味」と書かれたカードが添えられている。
「野球ボール位はあるぞ。こんなでかい苺を見るのは初めてだな」
まじまじと苺を眺めていると、店員らしき男性が店の奥から姿を現した。縁なし眼鏡を掛けた初老の男性である。
「菓子名さんですか?」
「あ、はい。そうです」
「すいません。ちょっと目が離せなかったものでして。わざわざ足を運んでいただいたのに申し訳ない」
こういう時は「手が離せなくて」じゃないのか? と漠然的に菓子名は思ったが、口には出さなかった。
「貝陣果物店店主、貝陣茂雄です」
「菓子名スイーツ店の菓子名大地です」
簡単な挨拶の後、名刺交換を行う。
「先日お電話させて頂いた大福用苺の仕入れに参りました」
「はい、用意してあります。V9苺は既に保冷箱に入れてあります。今から運びますね」
V9苺。それがこの巨大苺の名前らしい。
(何だか貫禄を漂わせる名前だなぁ)
1番から9番まで全く隙がない打線のような威圧感すら覚える名前である。
「うちの苺はただでかいだけじゃないですよ。酸味がちょっと強めですが、噛んでいる内にメロンにも負けない甘味が口の中に広がるんです。このV9苺なら菓子名さんが求める甘味たっぷりの苺大福にぴったりはまりますよ。よかったら1つ食べて見て下さい」
貝陣は店先のⅤ9苺を一つ手に取り、皿の上に置いた。
「何故V9苺という名前なのですか?」
「VはVentureのV、冒険という英単語から取っています。この苺は私達夫婦が何年も掛けて品種改良してきたものです。今まで誰もやってこなかった栽培方法を何度も試したので『冒険』という単語を使用したんです。9の数字は、この苺が9回の品種改良の結果、生まれたものだからです」
「成程。何というか、凄く強そうなイメージの苺ですね。苺の黄金時代って感じがします」
「私達夫婦の自信作ですから。ちょっとでも齧ればその甘味が……あれ?」
視線を落とすと、皿の上に置かれていた苺が姿を消していた。
「変だな。今ここに置いた筈なのに……」
首を傾げる貝陣に対し、菓子名は小さく頭を垂れた。
「お気持ちありがとうございます。しかし、お店の商品をいただく訳にもいきません。仕入れが終わった後に兄と一緒に実食させていただきます。まずは、仕事を終わらせてしまいましょう」
2人で交互にワゴン車に保冷箱を運び入れる。全ての箱を運び終わった時には、時計の針が午後1時を回っていた。
「それにしても、お兄さんはよくうちをご存知でしたね。いや、地元誌では取り上げられたことはありますけどね。この苺の品種改良は私と妻が独自にやってきたものですから。東京の洋菓子店の方から仕入れの話があった時は驚きました」
「兄貴は……じゃなくて、社長は全国に情報網を走らせているんです。興味深い情報があれば直接農家にまで出向いて話を聞いてもいます。今回も茨城県でユニークな苺を作っている果物屋があると聞いて飛んで来たという訳です」
「はー、東京の方は活動的ですね。今日はお兄さんと来ているんですか?」
「あー……社長は最近忙しくて。情報を手に入れた後に動くのは専ら私となっています」
菓子名は頬を指で掻いた。
菓子名洋介のアンテナ精度は高い。新作スイーツに使用できそうな素材の情報を嗅ぎ付けるや否や、速攻でアプローチを掛ける。スイーツ店の社長であり実際に厨房に入るパティシエである為、本人が直接出向く訳にはいかない。そこで弟である菓子名大地が車を走らせ現場に出向くのである。
菓子名洋介は頻繁に新情報を捉える為、必然的に菓子名大地の出動は多いのであった。
(あいつは昔から凝り性なとことろがあるからなぁ。その内フランスあたりまで買い出しにいかされたりして)
幼少の頃より兄を知る身としては、あながち冗談ではないかもと思う弟であった。
箱を運んだ為に背筋にはびっしりと汗が浮かんでいる。太陽は益々自己主張を激しくしていた。
「それにしても熱い。こういう時の外回りは菓子名さんも大変でしょう」
「いや、俺、じゃなくて私は熱さには強いんです。昔の職場で慣れているんで」
プロ野球選手時代は1軍よりも2軍時代の方が圧倒的に長かった。2軍戦はデイゲームが多い。屋根のない球場、炎天下での試合は珍しくもない。1試合でアンダーシャツを何着も着替え、何リットルも汗を流す等ザラである。そんなことを何十試合もこなしていれば嫌でも慣れてしまうものである。
「私は熱さには弱くて。そういうのは羨ましい限りです」
貝陣は懐から取り出したオレンジ色のタオルで汗を拭いた。
タオルに刺繍された模様には見覚えがあった。
(お、そのタオルは)
菓子名は心中で唸っていた。貝陣が取り出したタオルには、東京を本拠地とするプロ野球チーム、東京ジャイアントラビッツの名前が記されている。
「ラビッツのタオルですね。もしかして……野球、お好きなんですか?」
「あぁ、このタオルですね。はい。祖父の代からはうちは代々ラビッツファンでしてね。私の名前は茂雄ですが、これもラビッツ選手の名を肖ったものなんですよ」
ラビッツは全国レベルで人気のチームである。地域密着型のチームが増えてきているとは言え、年間観客動員数は12球団で1位。80年以上の歴史は、日本に存在する球団の中で最も長い。伝説的エピソードにも事欠かず、老若男女の至る層にファンが存在している。
「お恥ずかしい限りですが、先程来るのが遅れてしまったのもラビッツのテレビ中継を見ていたからなんです。丁度満塁のチャンスだったものでして……」
「結果はどうでしたか?」
「残念ながら空振り三振でした。今日の相手先発投手は絶好調です。冴えに冴えた変化球、特にフォークボールが最高です。ラビッツの選手達のバットは悉く空を切っていますよ」
「今年のラビッツは満塁のチャンスで尽く凡退していますからね。近年は8月になると野手陣のバットが湿りがちです。夏バテするのか、一斉に皆の打率が下がっちゃって……どうやら今年もその傾向は継続中みたいですけど」
「今年は大丈夫ですよ。何と言っても今年は活きのいい新人野手達がレギュラーを張っていますからね。二塁手の五十嵐は22歳。レフトの白石は今年ドラフト1位指名の24歳です。2人とも体格がいいし、体力面での不安はなさそうですよ。私はね、苦手な夏場を乗り切るキーマンはこの2人だと思っているんですよ。ベテラン陣の疲れが見えてくるこの時期こそフレッシュな力が起爆剤になると思うんです」
「でも五十嵐選手は春先こそ好調でしたが、今の打率は2割7分を割ってしまっています。白石選手もホームランを20本打っていますが、以前に肘に受けたデッドボールの影響か、後半戦に入ってからホームランの量産ペースが落ちていますよ?」
「いやいやいや、心配はいりませんよ。ここ五試合の2人の打率ご存知ですか? 五十嵐選手は3割4分。白石選手は何と3割8分5厘! 特に白石選手はチャンスに強いんです。さっきの満塁のチャンスこそ凡退してしまいましたが、あれは相手チームであるスパローズの投手の調子が良すぎたからであって、決して白石選手の調子が悪い訳では……」
我に返ったように貝陣は言葉を切った。熱の入った口振りが恥ずかしかったのか、僅かに紅潮した顔に苦笑いを浮かべている。
「すいません。ラビッツのことになるとどうにも口が滑らかになってしまいまして」
「わかります。贔屓のチームになると私も語っちゃうタイプの人間なんで」
贔屓のチームを熱く語る人間を見ると何故かこちらまで嬉しい気分になるから不思議だ。野球というスポーツを愛しているが故に生まれる共感とでも言えようか。
「菓子名さんも野球、お詳しいですね。体格も立派ですし、もしかして昔、野球をやられていたのですか?」
「あっはっはっ、いや実はですね……」
白い歯を覗かせた菓子名は、壁に立て掛けてあった竹箒を手に取った。
菓子名の脳裏に自己顕示欲がもたげた。店主は野球好きである。もしかしたら眼前の男が元プロ野球選手であるという事実に気付くかもしれない。
「少しお借りしてよろしいでしょうか?」
「へ……? 構いませんけど」
不思議そうな表情を浮かべる貝陣の前で菓子名は竹箒を構えた。柄の先端をバットのクリップに見立て、両手に力を込める。左足を外側に向けたオープンスタンス打法の構え。右軸足に全体重を乗せ、左足をゆったりと上げる。上げられた左足を地面に下ろすにつれ、徐々に体重を左半身へと移していく。
左足が大地を踏みしめた瞬間、菓子名の腰がうねりを上げて回転する。半瞬遅れたタイミングで竹箒が力強く振り出された。
ビュオンという大気を切り裂く音が周囲に響き渡った。地に落ちていた落ち葉が風圧で勢いよく舞い上がる。漫画であればビリビリという効果音が走っても違和感ない程、菓子名のスイングは力強いものであった。
「嗜み程度にやっていました、野球」
フォロースイングの状態のまま、菓子名は貝陣に笑顔を向けた。
菓子名に対して貝陣は「ほー」という感心と共に拍手を向けていた。
「おおー、素晴らしいスイングです。やっぱり経験者は違うなぁ。高校球児でしたか? それとも大学? あぁ、もしかして実業団とかですか?」
「あれ?」
元プロ野球選手という事実が身バレしていない。予想外の反応であった。
「菓子名大地と言います」
「へ? 存じ上げていますが……」
「出身は千葉県。私立栄赤館高校出身。右投げ右打ち。どこでも守れる器用さと意外性のある打撃がウリ」
毎年出版されているプロ野球選手名鑑に記されたプロフィールが思わず口から零れていた。
「はぁ」
貝陣はポカンと口を開けている。突如としてプロフィールを口にし始めた男に対して、リアクションに困っているのは明らかであった。
菓子名はフォロースイング状態の姿勢を維持した。身体に巻き付いた竹箒を下ろしたのは、静止から7秒後であった。
「あー、その……昔、高校球児でした。その時にちょっとだけ野球をやってまして」
「あ、ああ、そうだったんですか」
石化の解けた果物屋店主が少し硬めの笑顔を浮かべていた。
※
目的の苺は積み終わった。後は東京に持ち帰るだけである。
菓子名は帰路への道を車で走っていた。
苦笑いと共に溜息を吐く。
「プロ通算安打数60本。やっぱり知名度なんてなきに等しだよなぁ」
相手が野球好きであった為、ちょっと自己顕示欲を覗かせてみたが、駄目であった。
菓子名大地はプロ野球選手であったが、大半を2軍で過ごしている。選手名鑑の掲載も端の端。今で尚その名前を覚えているのは相当のプロ野球マニアのみであろう。
菓子名大地は注目されることが好きである。周囲の視線を集め、人集りの中「ねぇ、あの人ってもしかして…」と呟かれるのが好きである。幼少の頃から目立ちたがり屋だった記憶がある為、菓子名大地の本質的なものなのだろうと思っていた。
もっとも、本人の希望と他者の行動が合致することは稀である。願望が理想とご都合主義の化合物である以上、それは仕方がない問題である。
だがその事実を理解して尚、「ねぇ、あの人ってもしかして……」と囁かれたいと思ってしまうのは、30年以上に及ぶ人格形成期間によって熟成された無形の醸造物である。
「どうにも俗っぽいなぁ」
そう思いつつも、1度形成された性格はそう簡単に変わるものでもないなとどこか納得していた。それが自分らしさだと思っており、どうにも菓子名自身、そういう自分を嫌いになれないのであった。
東京に向かって車を走らせ始めた菓子名は遅い昼食を取ることにした。
菓子名スイーツ店では1日1時間の自由時間が設定されている。明確な開始時間はないが、大抵の従業員は午後1時から2時の間の1時間をランチタイムとしている。
「適当にファミレスでも入るか。おっ、あったあった」
進行方向先にファミリーレストランの看板を見付けた。クルクル回る黄色い看板に向けて車を走らせる。
車を右折させようとした瞬間、菓子名の鼓膜がある音を捉えた。
カキン。
その金属音は童心を呼び起こす音であった。高校時代に何度も耳にした音。高校生になるより前、日常生活に溶け込む程耳にした音。
聞き間違える筈がない。金属バットが軟式野球ボールを捉えた時の音である。
菓子名はファミリーレストランの駐車場とは逆方向にハンドルを切った。
ファミリーレストランから道路を挟んだ場所にバッティングセンターがあった。建物には「駅南バッティングセンター」と書かれている。
菓子名は迷うことなく駅南バッティングセンターの駐車場に車を乗り入れた。
「自由時間というのは何をやっても自由だから自由時間な訳だ。何もランチの為だけに存在する訳じゃない。俺は自由を謳歌する権利を行使しただけ、と」
菓子名は笑顔を浮かべていた。ウキウキ気分で持って後部座席からマイバットケースを取り出す。
3度の飯より野球好き。それが菓子名大地である。菓子名はプロ野球選手を引退したが、野球そのものから身を引いた訳ではなかった。知己とは頻繁に野球観戦に赴き、野球に纏わる書籍も数多く閲読していた。
そして、何よりも好きなのがバッティングセンターであった。暇さえあればマイバットを片手に近所のバッティングセンターでボールを打ち返している。
営業職として様々な場所に赴く菓子名は、私的に出張を楽しんでいた。バッティングセンターは全国各地に存在する。仕事の傍ら、自由時間を利用してバッティングセンター巡りをすることが菓子名の楽しみであった。
駅南バッティングセンターの入口前に立つ。緑色のネットが空に向かって高く伸びている。バッターボックスから床、フェンスの色も同色の緑に統一されている。高いネットを有する外観はどこか打ちっぱなしのゴルフ練習場を彷彿とさせる。
扉を開けてバッティングセンター内に入る。受付用のカウンターテーブルが1つ。室内は綺麗に掃除されており、硬貨を入れて遊べるタイプのスロットマシーンが肩を並べている。入口の近くにはアイスクリームと氷が入った保冷庫が置かれている。
壁面に目を移すと同時に疑問が生まれた。
(あの短冊に書かれた数字は何だろう?)
名前が記された短冊が壁面にびっしりと貼り付けられている。短冊には130、134、141と何かを示す数字が書かれている。
「いらっしゃいませ」
菓子名は店主と思われる男性に話し掛けた。
「あの短冊は何です?」
「あれはスピードガンで記録を残した人達の記念です」
「あ、このお店のストラックアウトはスピードガンでの計測もやっているんですね」
ストラックアウトとは12個のボールを使用し、9枚のパネルを打ち抜く競技である。元々はテレビ番組での企画として考案された競技であるが、最近はバッティングセンターでも見掛けることが多い。枚数に応じて商品や賞金がもらえる店もある。
「ええ。ストラックアウトで投げたボールは、逐一球速が記録されます。球速が130キロを超えた人に、記念としてあの短冊に名前を書いてもらっているんです」
「130キロ! 中々ハードルが高い」
プロ野球投手であれば球速130キロは珍しくないが、アマチュア野球選手であれば中々に難しい。現役の高校球児でもエースクラスの投手でなければ記録できない数字である。
「お客さんもストラックアウトやりますか?」
「商品とかあるんですか?」
「9枚全部打ち抜いたら賞金5000円です」
「いいですねぇ。魅力的ですけど、今日はバッティングしに寄ったんで」
手持ちのバットケースを叩いて見せる。
「わかりました。バッティング1ゲーム300円です。販売機で専用のバッティングメダルを購入して下さい」
「了解です」
菓子名は専用のメダルを2枚購入する。1ゲーム21球と書かれた紙が目に入った。
改めて室内を見渡す。古くから町に馴染んだバッティングセンターの中には、壁面が黄ばんでいたり、煙草の吸殻が落ちているところもある。
だが、駅南バッティングセンターを見た限り、不衛生という単語を感じ取ることはなかった。床の端まで掃除が行き届いているのが一目でわかる。
(この店は当たりかな)
内心ほくそ笑んだ菓子名は壁の短冊を再度見やった。短冊の中に見知った名前を発見することができた。
「井川啓介、東野俊太、彼等もこのバッティングセンターの客だったのか」
2人とも現役のプロ野球選手である。菓子名も実際に1軍の試合で対戦したことがある。
プロ野球選手が学生時代にバッティングセンター通いをしていたというエピソードは珍しくない。菓子名もその1人である。地元である千葉県には、高校生時代の菓子名大地の写真が飾られているバッティングセンターもある。
(かつてのライバル達との予期せぬ再会。こういう思わぬ事態もあるからバッティングセンター巡りは面白い)
展示された投手達から自分が1本もヒットを打てていない事実を棚上げし、菓子名は数秒程悦に入った。
ライバル達との会話を終えた菓子名はバッティングゲージが並ぶ通路へと身を移した。
土曜日の午後ということもあって人が多い。家族連れにカップル、小学生らしい子供達等、打者の姿も様々である。
キン、カキン、キン、キン、ガキャン。
鼓膜が断続的な金属音を捉える。
(うーん、いい。この乾いた金属音。帰って来たって感じだ。高校球児時代を思い出す)
ボールをバットで叩く音が童心を刺激するのは、バットの素材が金属の為であろう。プロ野球界では木製バットが使用される。木製では金属独特の切れ味鋭い打撃音は生まれない。その意味、この小気味よい音を堪能できるのはアマチュア野球選手だけの特権と言える。
このバッティングセンターには6つのバッティングゲージ、つまり打席がある。選べる球速は90キロから130キロであった。
(まずは130キロからいきますか)
逸る気持ちを抑えつつメダルを握り締めた菓子名であったが、
「あれ?」
ゲージは全て人で埋まっていた。
(うーん、少し待つしかないか)
こればかりは仕方ない。菓子名は椅子に座ってゲージが空くのを待つことにした。
手持ち無沙汰になったぞと思っていると、目の前のゲージが空いた。
よし、と腰を上げた瞬間、球速を示す掲示板が視界に入った。
「球速70~90」
目的の球速が打てるゲージではなかった。
(今日はチェンジアップよりもストレートの気分なんだよね)
球速は遅い方が打ち易いと思われがちだが、バッティングセンターの遅い球、特に球速80キロ前後の遅球は侮れない。機械から放たれた山なりのボールをジャストミートするのは意外と難しい。フンワリとした軌道は重力の寵愛を受けた天然の変化球である。ボールの回転が少ない為か、低めに決まるといい感じにストンと落ちてくる。
菓子名のプロでの通算三振数は81。その内7割以上の決め球が変化球であった。プロの投手が投げる変化球はとにかく凄い。よく揺れ、よく止まり、よく曲がる。
(最後まで変化球を克服できない選手生活だったなぁ)
自分の弱点に思いを馳せつつ、再度腰を下ろす。球速130キロが打てる打席は5番ゲージである。待っている間、各打席に入っている打者へと視線を送る。
「全然当たんないじゃないか。110キロなんて余裕だって言ってた癖に」
「ここの機械、投げる球が全体的に高いんだよ。だから引っ張りづらいんだ。次は絶対に当てるから」
「駄目だよ。次は僕の番って言ったじゃん!」
小学生達が高い声音で騒いでいる。その隣の打席では大学生らしき青年の姿がある。彼女と思えるショートカットの女性が、ゲージの傍で声援を送っている。
「ユウくん頑張ってー!」
彼女の声援はしかし、ユウ君には届いていないようであった。
ユウくんは1球打つ毎に首を傾げている。自分だけの世界に入っているのがわかる。どうやら自分のバッティングに納得いかないらしい。
親子連れの2人組に目を移す。先程までは小学生低学年らしき子供が打席に入っていたが、今は父親がバットを握っている。
父親は野球経験者だったのか、スイングがシャープである。投げられたボールもバットの芯で捉えており、打球にも勢いがある。
「いいかい。バッティングのコツは上から叩き付けるようにして打つことだ。パパがやったみたいにバットを振り下ろすイメージで次はやってごらん」
打撃を終えた父親が子供に打ち方を教えている。子供は短いバットを何度も振り、父親の打撃フォームを真似しようとしている。
打者達を見ていた菓子名は思わずニヤニヤしてしまう。
(フッフッフッ、皆いい感じにバッティングセンターの魔法に掛かっているなぁ)
バッティングセンターの打席には不思議な魔力が込められている。
打席に入った打者達は老若男女関係なく、ルー・ゲーリックやイチローになったような気分になる。「どんな球でも打ち返せるぜ!」という不思議な高揚感が湧き上がってくるのである。
そして、打席に入った打者達は皆「ええ格好しい」になる。カップルであれば待っている彼女に。友達同士であれば連れの友達に。家族連れであれば息子に対して。
空振りすれば顔を後ろに向け「こんなものじゃないぜ」という風に首を横に振る。打球がボテボテの凡打になれば「今日は調子が悪いなぁ」という感じで首を傾げる。
一連の現象を菓子名は「バッティングセンターの魔法」と呼んでいた。
(何とも不思議だけど、不思議だからこそ魔法なんだよな。何というか、ノーアウト満塁だと点が入らない現象とか、いい当たり程野手の正面に打球がいく現象みたいな……)
この魔法は実に不思議であり、どれだけ身構えていても掛かる時は掛かってしまうのである。
人智を超えた神秘に思いを馳せていると、5番ゲージが空いた。これ幸いとばかりに菓子名はゲージ内に身を移した。
自前のバットは金属ではなく、木製である。バッティングセンターに赴く時、菓子名はいつもこのバットを持ち込んでいる。
しかし、今回はマイバットを使用する前に金属バットを使用することにした。
(たまには童心に帰るのも悪くない。かつては俺も高校球児だった。あの時は千葉のゴジラなんて呼ばれてたっけ)
立て掛けてあるバットを手にする。先端部分の色が剥げ落ちている。グリップ部分も黒ずんでいる。中々に年季の入った品である。
メダルを投入し、右打席に構える。バットを右肩に触れる程下げたオープンスタンス。両足は肩幅よりやや広めに取る。
バッティングセンターの投球マシーンにはメカニカルタイプとバーチャルタイプがある。メカニカルタイプは、剥き出しの機械そのものからボールが放たれる。バーチャルタイプは、投球マシーン前方にスクリーンが設置されている。スクリーンには投手の映像が映し出され、投手の投球フォームに合わせる形でボールが投げ放たれる。近年では映像に知名度の高いプロ野球投手が使用されることが多い。
駅南バッティングセンターの投球マシーンはメカニカルタイプである。生い茂った森林を思わせる緑色の投球マシーンが静かな振動と共に動き出す。
ネットに空いた穴からボールが発射される
空気を切り裂く音と共に白球が迫る。
(ちょっと低いか)
菓子名の繰り出したバットが白球を捉える。カキンという金属音を尾に、打球は低空軌道を描いた。実際の野球であればピッチャーライナーと言ったところであろう。
続けて2球目が投げられる。
(また低めだ)
構わずバットを出す。強引に引っ張った打球が緩やかな弧を描き、防護ネットに突き刺さった。
(今のは、レフトフライかな)
バッティングセンターの投球マシーンは店によって個性がある。機械の整備状態、投球の際のボールの網目の掛かり具合、採用している投球マシーンの種類等が個性となる。複数の個性が絡み合い、投げられるボールに高低差が付く。場合によっては左右の変化も生じる。その為、単に130キロの直球と言っても店によって性質が異なるのである。
バッティングセンター巡りを趣味とする菓子名は、機械の投手の個性を見付けることも楽しんでいた。
(この投手はボールを低めに集めてくるのが上手い。コントロール自慢の大卒5年目投手かな。学生時代は速球で鳴らしたけど、プロに入ってから制球難を治す為にフォームを改良。プロ3年目に投球フォームをオーバースローからサイドスローに変更。キレ重視の軟投派へとモデルチェンジ。打たせて取るピッチングを信条とし、今季の最終成績は8勝9敗、防御率3・72位かな……)
脳内設定を膨らませつつバットを振る。投球マシーンの擬人化、裏設定を考えてしまうのは菓子名の癖である。
機械投手の個性を掴んだ3球目以降は、打球をほぼ真芯で捉えることができた。弾丸の如き勢いを持った打球が約25メートル先のネットに突き刺さる。
結果を残せなかったとは言え、菓子名大地は元プロ野球選手。その打撃技術は1級品である。
最後のボールを打ち終わった。
(うーん、いいね。やっぱり労働の後のバッティングは気持ちがいい)
徐々にエンジンが温まってきていた。続けてプレイしようとしたが、不意に視線を感じた。
ゲージの向こう側に少年の姿があった。右手にはプレイ用のメダルがある。
(順番待ちの時は連続でやらないこと。これがバッティングセンターのマナーだからな)
ゲージを占領してはならない。バッティングセンターの打席は皆のものである。
菓子名は少年にゲージを譲った。先程父親からスイングの指導を受けていた男の子がマイバットを力強く握り締めている。
左打席に入った少年が球速90キロのボールを打ち返す。少年の体躯と比較し金属バットは長い。振り遅れたバットに打ち当たったボールが左方向へとフラフラ飛んでいく。
「父さんが言ったようにできないよ」
少年は不満そうにバットを振っている。菓子名から見ても少年のバットは、重過ぎるように見えた。
少年の打球には不規則なバックスピンが掛かっていた。前方に飛んだボールが着地と同時に後方に跳ね、3番ゲージに入っていった。
「うわっ!」
不意の乱入者にゲージ内の打者が驚きの声を上げていた。
打ったボールが別ゲージに入ることは珍しいことではない。これもバッティングセンターならではの光景と言える。
(そういえば、新人時代のバッティング練習の時は、中々マシーンを使わせてもらえなかったっけ)
プロ野球の世界は体育会系である。昔に比べればその色も薄まってきているとは言え、本質そのものが変化した訳ではない。打撃練習の時でも食事の時でも序列というものは確かにあった。特にその手の序列は打撃練習の際に顕著に現れていた。投球マシーンを優先的に使用するのはチームの主力選手。ドラフト8位指名の高卒新人野手が割って入る隙等、針の穴程も存在しなかった。
ふと、菓子名の視線が気になる看板を捉えた。
「162キロ。日本最速クラスに挑戦!」
3番ゲージの前に一際目立つ看板が貼り付けられている。
素直な驚きがあった。
(球速162キロと言えば日本最速記録じゃないか)
プロ野球投手であれば150キロ出れば豪速球。160キロ以上ともあれば、豪速球の冠に超の文字が付加される。現役のプロ野球投手の中でも160キロ以上の直球を投げられる投手は5人といないだろう。
3番ゲージから青年が出て来た。その顔には苦笑いが浮かべられている。
「いやいやいや、こんなの打てるかって。幾らなんでも速過ぎるっつーの」
「だよな。こんなクソ速い球と戦ってるんだよな。プロ野球選手ってさ」
「どーだろ。さすがにこのレベルだとプロでも苦戦するんじゃねーの?」
大学生らしい2人組が豪速球に対する感想を言い合っている。
3番ゲージが空いたことを確認した菓子名は、入れ違いにその身をゲージに滑り込ませた。
(日本最速の162キロ。打ってみたいじゃないか)
思わず頬が緩む。160キロ以上の直球を経験したことはない。どれ程凄いものなのかを体験してみたかった。
バッティングセンターによっては、このような企画が催されることもある。特に豪速球や、変化球を交えたプロ投手に挑戦系の企画が多い。
菓子名はバットケースから年代物のマイバットを取り出した。バットの素材は木製。所々に細かい傷跡が走っている。グリップ部分は特にボロボロである。塗装が全て剥がれ落ちており、本来の樹木の色が剥き出しになっている。
「160キロに挑戦とはまた豪胆じゃのう。菓子名、挑戦精神は美徳じゃが、勝算はあるのかの?」
バットを握った瞬間、若い女性の声が菓子名の耳朶に触れた。
ゲージの外へと視線を向ける。いつの間に現れたのか、通路に1人の少女の姿があった。年齢は10代後半と言ったところ。艶のある長髪が腰まで伸びている。小顔に栗鼠のような丸目が特徴的である。口元に走る不敵な笑みからはどこか老成の雰囲気を感じ取ることができる。童顔と言って差し支えない顔立ちと人生の年輪を感じさせる雰囲気が、どこが人外めいた印象を少女に与えている。
顔立ちもそうだが、少女が纏う服装もまた特徴的であった。ピンストライプの野球ユニフォームの上から、前開きの状態で赤い和服を羽織っている。服は両方ともサイズが合っていない。どう見てもブカブカである。黒のスカートがユニフォームに隠れて殆ど見えない。和服の袖部分が長過ぎる為、手全体を完全に覆い隠してしまっている。
「自信なくして挑戦なし。それに俺は300円をドブに捨てる気はさらさらないさ、千歳」
「精々恥を晒さないことじゃ。マイバット持参で空振りとあってはいい笑い者じゃからの」
「心配ご無用。ホームランだって打ってみせましょう、と」
「クックック、相変わらずお前さん、口だけは達者じゃな」
「口が達者なのは千歳だろ。勝手に苺食べやがって。あれは俺への差し入れだったんだぞ」
「店主はよかったらどうぞと言ったんじゃ。菓子名大地にどうぞとは一言も口にしてなかったからのう。それに、我は甘いものには目がない」
千歳と呼ばれた少女は小さく肩を揺らしていた。外見に見合わぬ口振りに驚く菓子名ではない。喋り方には慣れている。
と、通路の端より少年が駆けて来た。千歳は通路の真ん中に陣取っている為、全力で走る少年とぶつかってしまった。
千歳とぶつかった少年はしかし、彼女の身体をすり抜けた。少年は千歳の存在に気を払うことなく通路を駆け抜けていった。
「危ないのう。我が幽体ではなかったら怪我しているところじゃ」
「そう思うならじっとしてればいい。幽霊なら幽霊らしくフワフワ浮いているとかさ」
「菓子名、何度言えばわかるのじゃ。我は幽霊ではない。地縛霊じゃ。見よ。我にはちゃんと2本の足がある。幽霊と一括りにするでない」
千歳は不満気に口を尖らせている。
(前々から思ってたけど、地縛霊ってのは本来土地とかに取り憑くものじゃないのか?)
心中疑問を紡いだ菓子名であったが、スピリチュアリズムに造詣が深い訳ではない。正直、幽霊と地縛霊の違いもよくわかっていなかった。
千歳は人間ではない。幽霊、地縛霊、呼び名は色々あるが実体を持たない霊である。
プロ野球を引退した後、菓子名はバッティングセンター巡りを始めた。それに合わせてマイバットを購入したのだが、マイバット購入に合わせて千歳が付いて来た。正確に表現すれば「憑いて来た」となる。同級生の古物商から半ば無理矢理売り付けられた木製バットに千歳が憑いていたのである。
久慈封千歳。明治時代の貿易商、久慈封家の令嬢。20世紀初頭の日本。女学生時代に女性初のプロ野球選手を目指していたのだが、志半ばで病魔に倒れた、らしい。このバットは当時千歳が使用していたものであり、生前の未練で持って取り憑いている媒体とのことである。バットに取り憑いて以来、持ち主の意思に関係なく霊体となって現出していた。千歳曰く、このバットの持ち主は菓子名で3人目ということである。
どういう訳か千歳は菓子名にしか見えていない。声も菓子名にしか聞こえないようであり、余り頻繁に千歳と会話していると危ない人だと思われてしまう。
人智を超えた超常現象であるが、菓子名は余り深く考えないことにしていた。
(打席も人生も、考え方の根っこは同じだからね)
打席に入った打者の脳裏には様々な情報が溢れる。自分の調子、捕手の配球パターン、投手の持ち玉、守備シフト、ランナーの動き、カウント別の攻め方等々、1回バットを振るだけでも大量の情報を処理する必要が生じる。
(パンク寸前まで情報が溢れ返った際は、寧ろ何も考えない方が上手くいく)
ある種開き直った方が上手くことが運ぶ。その事実を菓子名は経験から既知としていた。
打者理論を人生論に応用した菓子名は、千歳の存在に関しても「そういうもの」と割り切っていた。
(悪霊の類で健康を害するとかあれば除霊を考えるけど、今のところそういうのもないからね)
バッティングセンターでバットを握った際に現れては、小言と冷やかしを紡いでいく。それ以外は、特に問題のない霊体である。わざわざ除霊の為に財布を軽くする必要もないだろう。
「では、気を取り直していきますか」
素手で木製バットを握り直す。菓子名はプロ野球選手時代からバッティンググローブを使用していない。これはプロ野球選手内でも少数派であった。イメージ上ではあるが、この方がダイレクトにバットに力を伝達できる気がしていた。
「どうじゃ、ホームランバッター? いつものように賭けはするのかの?」
「当然。俺は商品があった方が燃えるタイプなのは千歳だって知っているだろ」
「燃えるのは勝手じゃが、結果が伴う保障はないがの。賭けの条件はいつもと同じでいいかの?」
「1球でもホームランを打ったら俺の勝ち。打てなかったら俺の負け。俺が勝ったら千歳は俺の言うことを何でも1つ聞く」
「菓子名が負けた場合、我が望む本数のアイスクリンを奢る」
「それで? 何本食べたいんだ?」
「4本じゃ」
「多いな」
「今日は暑いからのぅ」
千歳は太陽に向かって掌を向けていた。僅かに両目を細めている。
「霊体でも暑さを感じるのか? ま、関係ないか。勝てばいい話だしな」
「勝てればの話じゃがな。まぁ、野球の世界で『たら』『れば』を言いだしたら皆が皆4割打者じゃがの」
千歳はシシシと人を小馬鹿にしたような笑い声を上げていた。
ホームランを打てるか否かの賭けは、バッティングセンターに立ち寄る度に行われている。そして、ほとんど千歳が勝利する。その勝率は軽く8割を超えているだろう。
フリーで打っている時はホームランも結構数出ている。が、1回限定の賭けになると途端にホームランが打てなくなってしまう。菓子名大地にはどうにも勝負弱い一面があった。プロ通算でも得点圏打率、二塁もしくは三塁に走者がいる場合の打率、が2割に満たない事実も納得というものである。
それでも毎回賭けを受けてしまうのは性格面の問題である。
(負けっぱなしってのは性に合わなくてね)
子供じみた言葉が心中で呟かれる。単純に負けず嫌いなのである。
斜め前方に吊り下げられたホームランパネルに左手を伸ばす。
「ん……ホームランパネルまで24、25メートル位かな」
バッティングセンターのホームランは、通常の球場のように100メートル近い距離を飛ばすものではない。前方に「ホームラン」と書かれたパネルが設置されている。打球がそのパネルに当たるとホームランとして認定される。ホームランとなると景品、バッティングセンターによっては賞金が出るところもある。
駅南バッティングセンターのホームランパネルは他のバッティングセンターと比較して、やや遠くに設置されている。
「改めて見ると……パネルが多いよね」
バッティングセンターによってはホームランの他に『シングルヒット』『二塁打』『三塁打』という風に複数種類のパネルを設置しているところもある。其々に点数が設けられており、蓄積した点数に応じて景品がもらえたりする。
複数パネルが設置されたバッティングセンターは菓子名にも経験がある。だが、駅南バッティングセンター程、パネル数の多いバッティングセンターを今まで見たことはなかった。
ホームランパネルが2枚。三塁打パネルが1枚。二塁打パネルが2枚。シングルヒットパネルが2枚、ライトヒット、レフトヒットが2枚ずつで合わせて4枚設置されている。
中でも菓子名の目を引いたのは、アウトパネルの存在だった。投球マシーンの丁度真上にアウトパネルが3枚。「ア」「ウ」「ト」と一文字ずつに区切られていた設置されている。
「アウト? アウトって何だ? 当たったら何がもらえるんだ?」
菓子名の疑問に答えるように、客の1人がアウトパネルの「ア」にボールを当てた。
「アウトー!」
店内に設置されたスピーカーから機械音が響き渡る。
見れば、先程父親の指導を受けていた少年が5番ゲージ内でぴょんぴょんと跳ねていた。
「当たった当たった! これでアイスクリームがもらえる!」
少年の顔には邪気のない笑顔がある。
どうやらアウトパネルに当たるとアイスクリームがもらえるらしい。
(アウトで景品というのも妙な気がするけど、お客さんが喜んでいるからいいのかな。それにしても駅南バッティングセンター、当たりパネルの数、14枚! うーん、太っ腹だなぁ)
ここまでパネル数が多いと逆に店側の方を心配してしまう。ストラックアウトでもパーフェクトで5000円もらえるのだ。もしかしたら、駅南バッティングセンター専門の賞金稼ぎが既に誕生しているかもしれない。
(おっといけない。これから戦いに赴くのに雑念ばっかりじゃ駄目だよな)
首を振って気持ちをリセットする。
機械にメダルを投入する。ゲージ内で木製バットを構える。
投球マシーンから白球が投射される。
キィンと大気を切り裂く音。鼓膜が音を捉えた半瞬後、白球が眼前にまで迫っていた。
菓子名はバットを振る。出されたバットはボールの僅か下を捉えた。真後ろに飛んだボールがゲージ内のネットに突き刺さった。
木製バットの振動がダイレクトに両手に伝わる。両手を引き剥がす程の衝撃に、思わず右手を振る。
(いったー、文字通り弾丸だな、こりゃあ)
先程打った球速130キロのボールとは次元が違う。音を置き去りにしたかのような弾丸ストレートである。
千歳がニヤニヤと笑っている。
「苦戦しそうじゃのう。どうじゃ菓子名? アウトパネルを狙ってもいいんじゃぞ?」
「冗談だろ」
アウトパネルに当たれば賭けに負けてもアイスクリームが手に入るぞということであろう。
菓子名はバットを握る手に力を込めた。
(球速162キロ投手。お目に掛かれて光栄ですけど、俺は負けず嫌いでね。悪いけど勝たせてもらうよ)
投球マシーンが放った5球目、菓子名のバットがボールを真芯で捉えた。打球は糸を引いたように一直線にセンター方向へと飛んでいく。
「ほぅ、やるもんじゃ」
感心の呟きが千歳の口より溢れていた。
続いて5球目、6球目、7球目と連続でジャストミート。8球目の打球はホームランの看板のかなり近くまで接近していた。
「おぉースゲー。あとちょっとでホームランだったぞ」
「あの人球速160キロを簡単に打ち返してるよ」
「実業団か何かの選手じゃないの?」
「もしかしたら元プロ野球選手だったりして」
いつの間にか3番ゲージの前に人集りができていた。集まった人達の両目から感心と好奇の視線が絶え間なく投射されている。超が付く剛速球をポンポンと打ち返す打者が珍しいのであろう。
人に注目されるのは気持ちがいい。見られているという事実が、否が応にも気分を高揚させる。
この時、菓子名は不思議な浮遊感を味わっていた。脳内にアドレナリンが分泌されたせいか、身体のキレが増したような気さえする。
思わず白い歯が覗く。両足に体重を乗せても古傷が痛むこともない。プロ野球選手を引退してから2年間で1番、否、怪我を騙し騙しでバットを振っていたプロ晩年を含め、ここ数年間で1番いいコンディションかもしれない。
(よーしよしよし。今日の俺は何時になく絶好調だ。甲子園のバックスクリーンにだって白球を叩き込めそうだ)
球速160キロは確かに速い。とてつもなく速い。だが、投手が戦うのは打者である。スピードガンと戦っても意味はない。何程速い球であっても打たれる時は打たれる。投手が次に投げる球がストレートだとわかれば、プロの打者はほぼ確実に打ち返すことができる。プロの打者は卓越した動体視力と身体機能の持ち主である。
1流投手は球の速さで決まる訳ではない。ボールを手から離すリリースポイント、球の見え辛さ、球が放られる角度、投球までの間合い、球の緩急、ストライクゾーンの高低左右どこに投げ込むか……投球術と駆け引きで持って投手は打者を幻惑する。プロ野球の世界で1流と呼ばれる投手はその意味1流の幻術士である。
そして1流の幻術士は変化球という秘技を有している。曲がり、滑り、落ちる変化球を絡めることで、投球術という幻術は更なる奥行を獲得し、打者を煙に巻く。
(直球自慢の社会人6年目投手。高い身長、不敵な笑顔。マウンド上で打者を見下ろすようなピッチングスタイル。打者を力でねじ伏せる制圧投球が持ち味。反面、これと言った変化球を持ち合わせていない為、投球が直球主体の一辺倒に偏りがち。今季最終成績は54試合に登板して6勝6敗24セーブ、防御率3・78……)
仮想投手の裏設定がスムーズに決まっていく。
バッティングセンターによっては変化球を投げる投球マシーンも存在する。だが、眼前の社会人6年目投手の持ち玉はストレートのみである。
「来い。今ならどんなボールでもホームランにしてやれそうだ」
自信が凝縮されたエネルギーがバットに宿るのを感じた。
何故このタイミングなのかはわからない。が、理由はどうあれこのエネルギーに満たされた感覚を楽しまない手はない。
15球目を打ち返した直後、聞き慣れたアナウンサーの声を捉えた。ラジオによる野球中継である。お客の誰かが持って来たと思われるラジオがパイプ椅子の上に置かれている。
『ラビッツ8回裏の攻撃は5番五十嵐からの打順でしたが、早くもツーアウト。6回の裏にツーアウト満塁のチャンスを作りましたが無得点。その後はスパローズのエース、笹木の前に完全に抑えられています。スコアは1対0。スパローズがリードで最終回の9回を迎えています』
(へぇ、今日のスパローズの先発投手は笹木か)
笹木拓也は神宮スパローズの投手であり、球界を代表するエース投手である。球団こそ違えど、菓子名と同じく2001年ドラフト組。甲子園優勝投手として当時の野球界を大いに賑わせた。5球団競合の末、ドラフト1位で福岡ファルコンズに入団。12年間の通算成績は144勝68敗、防御率2・58という凄まじい成績を残している。3年前に選手トレードでスパローズに移籍していた。
『今日の笹木は変化球が冴え渡っています。特に彼の代名詞であるフォークのキレが素晴らしい。既に15個の三振を奪っています』
笹木は菓子名にとって思い入れのある投手である。忘れもしないプロ1年目の9月23日。菓子名大地の1軍初打席。対戦チームはファルコンズであり、その時の先発投手が笹木拓也であった。1年目から先発ローテーションを任された笹木は高卒ルーキーながら15勝しており、その年最も活躍した新人に与えられる新人王の獲得も確実視されていた。
延長11回裏。ツーアウト満塁。マリンズ1点のビハインドのシチュエーションで、代打として起用された。
一打サヨナラのシチュエーション。打者としてこれ以上燃える場面はない。
だが、ツーストライク、スリーボール。フルカウントまで粘ったが、結果は見逃し三振。笹木が放る伝家の宝刀、フォークボールに菓子名は手も足も出なかった。完全なる消失と錯覚する程、笹木の変化球はキレていた。
(フォークボール、打者の近くでストンと落下する変化球。あの時のフォークの落差は50センチ近くはあったな。後にも先にもあれ程変化量の大きい変化球はお目に掛かれなかった)
思えば、現役時代に変化球を苦手と思うようになったのは、このプロ初打席での見逃し三振が原因であったとも言える。
(あの時は完全に敗北した。だけど今の俺の調子なら、笹木の球だってライトスタンド上段に叩き込めそうだ)
20球目のボールを弾き返す。会心の当たり。綺麗な直線を描いた打球はホームランパネルに一直線。が、ほんの僅かに勢いがあり過ぎた。打球はホームランパネルの5センチメートル上のネットに打ち当たった。
「あー、おしい!」
観客達から残念そうに声が上がる。
これで残りは1球だけとなった。
(1球あれば十分だ)
投球マシーンの球筋を菓子名は見切っていた。豪速球はストライクゾーンの低め、外角低めに集まるように設定されている。
ボール半個分を身体に引き付けるようにボールを打てば、丁度ホームランパネルに打ち当たるだろう。
無論、多分に希望的な推測ではある。だが、今の瞬間、菓子名は完全にホームランのスイング軌道をイメージすることができていた。
「今回は俺の勝ちだな、千歳」
身体中を駆け巡る自信が自然と声帯を震わせていた。
「かもしれんの。じゃが……」
逆説の接続詞を紡いだ千歳が意味あり気に目を細めた。
「何程調子のいい打者でも打ち損じる時は打ち損じる。野球をやるのは、人間じゃからの」
霊感めいた言葉の真意を問う暇はなかった。
投球マシーンが最後の1球を投じた。
瞬間、菓子名は幻影を見た。
ピンストライプのユニフォームを着込んだ菓子名大地が打席に立っていた。超満員の千葉マリンスタジアム。四方から投射される照明灯により、スタジアムは昼のように明るい。マウンド上にはボールを投げ終えた笹木がいる。躍動感溢れるフォームによって帽子が宙に舞っている。
その瞬間、菓子名大地は紛れもなくプロ野球選手であった。
放たれたボールを視認する。縫い目一つ一つを視認できる程にはっきりと見えた。狙い通りのコースに直球が向かって来た。
菓子名のバットが動く。イメージ通りのスイング軌道で持って菓子名はバットを振ることができた。
(捉えた!)
ジャストミートを確信した直後、異変が起きた。
突如として飛来したボールが160キロの直球に打ち当たったのである。
衝突によって直球の軌道が変わった。160キロを越える豪速球は、その速度をほとんど減退させることなく下方向への変化を見せていた。
(げっ!)
突如として超高速フォークボールが出現した。
菓子名ができたのは思い切りバットを振り切ることだけであった。
繰り出された木製バットは空を切った。ボールとの距離は60センチメートル以上も離れていた。
盛大な空振りに体勢が崩れた。両足に残った古傷が思い出したように悲鳴を上げた。踏ん張りが効かなくなった身体がグラリと傾き、その勢いで持って菓子名は仰向けにひっくり返った。
胃が裏返り、視界に緑色の天井が映し出された。
混濁した意識は、視覚ではなく聴覚によって覚醒を見た。
『ストライク! バッターアウト。エース笹木完封勝利! 最後のバッターをフォークボールで仕留めました! 試合終了、これでスパローズは6連勝、笹木も自身の連勝を9に伸ばしました!』
ラジオアナウンサーが興奮気味にゲームセットを告げていた。
突如として飛来したボールの正体がわかった。5番ゲージの少年が打ち返したボールである。レフト方向へと流し打ちされた打球が投球マシーンから放たれたボールにぶつかったのである。
狙ってできるものではない。宝くじ当選レベルの偶然としか言いようがない。
視界に千歳が割って入って来た。
「我の勝ちじゃのう」
覗き込む顔には勝ち誇った笑みがあった。
「だな」
不思議と悔しいという感情は湧かなかった。
「また負けたよ」
千歳の笑み対し菓子名も笑顔を返していた。やるだけやったさという、どこか達成感にも似た感情が心中に広がっていた。
※
菓子名は自分の車に戻った。駅南バッティングセンターの滞在時間は1時間を少しオーバーしていた。積み込まれた苺の鮮度の問題もある。そろそろ東京に向かって車を走らせなければならない。
運転席に座った菓子名は思い出し笑いを禁じ得なかった。
(まさかバッティングセンターで生涯最高の変化球を見られるとは思わなかったな)
ボール同士の衝突が天然のフォークボールを生み出した。その落差は優に60センチメートルを超える。今まで対戦してきたどの投手よりも凄い変化球であった。
ボール同士の衝突は希に起きる。打球同士の空中での衝突を2、3回であるが菓子名も体験したことがある。しかしながら、投球中の球と打球がぶつかり合うのは初めての経験であった。
自然と笑みが浮かぶ。有り得ない状況を前にすると、人は笑うしかなくなる。
(どうやら俺もバッティングセンターの魔法に掛かっていたみたいだ)
ゲージに入った時、自らが和製ルー・ゲーリックになったと思った。1シーズン50本塁打以上の大打者になった気さえしていた。魔法に掛かっている時は、どういう訳か古傷の痛みも感じなかった。
バッティングセンターの打席に立った打者は皆大打者の気分となり、ええ格好しいになる。
(俺は自分自身を格好よく見せようとしていた訳だ。千歳に対して、自分自身に対して、何よりも集まってきた観客に対して。これはあれだな、見栄って奴だ)
最後の最後で自分の悪い癖が姿を覗かせた。他者に対して必要以上に自分を大きく見せようとしていた。
魔法の存在を既知として尚、菓子名大地はその神秘から逃れられなかった。その事実こそが魔法が魔法たる所以なのだろう。
「菓子名、この世で1番美味しい食べ物は何かを知っておるか?」
助手席には千歳が座っている。小顔には満面の笑み。右手に握ったアイスクリームを美味しそうに齧っている。
「それは人から奢ってもらった食べ物じゃ。自分の懐を傷めずに胃袋を満たした時の幸福感ときたらない。その意味、このアイスクリンはどんな高級懐石料理よりも美味い。不思議じゃのぅ」
「霊体がアイスクリームを齧っているのだって十分不思議だ。物理法則を無視するなよ」
「我は霊体になって1世紀以上のベテランじゃ。霊体のまま食を嗜む等、造作もないことじゃ」
「俺から見れば十分不思議だと思うけどなぁ」
「不思議なのは、菓子名、お主じゃ」
千歳は助手席から菓子名を覗き込んだ。
「我も霊体になって長い。この1世紀近く、それこそプロ野球黎明期から色々な野球を見てきた。第1回目の日米野球。天覧試合。延長18回の死闘。オールスターゲームでの9連続奪三振。選手も然りじゃ。毎年50本以上打つホームランアーティスト。塁に出ればほぼ必ず盗塁する外野手。安打製造機の異名を誇った天才。敬遠球を無理矢理サヨナラヒットにする宇宙人のような奴もいた」
「そのメンバーの中に俺は入れそうにないね」
「同時に、じゃ。我は志半ばでプロ野球界を去った選手達を星の数程見て来た。満足な成績が残せなかった者。選手生命に関わる怪我をした者。プロ野球界を去らざるを得なかった者達の目にはどこか寂しさがあった。瞳の奥に未練の光があった。じゃが、菓子名にはそれがない。バッティングセンターでバットを振る菓子名は実に楽しそうに野球をやる。何故じゃ?」
「簡単な話だ。未練がないからだよ」
「やり尽くしたということかの?」
「というより、俺じゃ通用しないってことがよくわかった」
プロ野球の門を潜れる野球人は、子供の頃に1度は天才と呼ばれたことがある人種である。その天才達が集まる世界で結果を残せる者は本当に選ばれた一握りの者達だけである。
菓子名大地はその一握りの中に入れなかった。今にして思えば、才能を磨く努力を怠っていた面もある。そんな男が運と縁にも恵まれ、10年以上も選手をやれたのだ。十分過ぎる。これ以上を望めばバチが当たるというものである。
「それにさ。東京ドームや甲子園じゃなくたって野球はできるからね」
「草野球チームには入らないのかの?」
「両足に古傷持ちだからね。打つだけならいいけど、走ったり守ったりはまだまだ不安が残る」
「だからバッティングセンター巡りか。じゃが、打つだけ、試合に参加できないとあっては野球の楽しみも半減じゃな」
「そうでもないさ。バッティングセンターの野球は、通常の試合では体験できないいいところがある」
「それが笑顔の理由かの?」
「ん?」
「先の打席の結果は空振り三振じゃ。にもかかわらずじゃ、菓子名の顔には笑みがあった。自虐的な笑みではない。清々しい笑顔じゃった。それは、菓子名の言う『通常の試合では体験できないいいところ』と無関係ではあるまいて」
成程と菓子名は心中で首肯する。千歳の指摘は的を射ている。
プロ野球を引退した菓子名大地は、バッティングセンターで全く別の野球と遭遇した。
「バッティングセンターのいいところは、見逃しができない点だ。これはバッティングセンターの野球だけでしか味わえない」
バッティングセンターの打席において「見逃し」は存在しない。高めも低めも関係ない。どんなボールであってもバットを出すのがセオリーである。1球1球が勝負の場面において見逃し球等有り得ない。
プロ野球界に未練はない菓子名であるが、1つだけ後悔していることがある。1軍でのプロ初打席を見逃し三振で終えてしまったことである。
(あの打席、俺は相手投手の笹木に叶わないって思った。フルカウントまで粘った後のラストボール、俺はもうスイングする気はなかった。ただストライクに入らないでくれって願うだけだった)
願いは届かなかった。笹木の放ったフォークボールは外角低め一杯に決まった。ボールと判定されてもおかしくないギリギリのコースだったが、審判はストライクをコールした。チームは敗北し、菓子名大地のプロ初打席は終わった。
現役を退いた後、先輩投手に言われたことがある。
「初打席のラストボール、あの球がボールと判定されていれば菓子名の野球人生も変わっていたかもしれない」
(或いはそうかもしれない)
プロ入り初打席の結果によって未来を左右された選手は間々いる。踏み出した最初の一歩で躓いた記憶は早々に払拭できるものではない。その記憶をバネにするか、しこりとなるかは当人の捕らえ方次第である。
菓子名は後者であった。
初打席での見逃し三振以降、菓子名は「失敗しない野球」をするようになった。野球が団体競技である以上、戦術面的には正しい判断と言える。だが、菓子名における「失敗しない野球」は戦術面以上に心理面の問題であった。
「プロ初打席で見逃し三振の結果に終わった時、俺はこの世界じゃ生きていけないなと思ってしまった。見逃し三振の記憶は選手生活中ずっと俺の心の底に沈殿しててさ。打席に入ると何かのきっかけでぶわっと舞い上がるんだ。その状態になった俺はさ、打者としては駄目だったな。ひたすらに相手のミスを望むようになるんだよ。『何かがきっかけで暴投してくれ』『ボール球になってくれって』思うようになってた」
挑戦も冒険もせず、相手のミスを待つ受動的な構え。それは結局、自分自身に対する信用の欠如に他ならない。
野球の試合では打球を前に飛ばせば何かが起きる可能性がある。ゴロであればイレギュラーバウンド。フライであれば風に流され、野手の間にポトリと落ちるかもしれない。
前に飛ばさずとも、バットを振れば何かが起きる可能性もある。スイングがきっかけで捕手がボールを取り零すかもしれない。その場合であれば振り逃げ(三振の際のボールを捕手が正しく捕球できなかった場合、打者は一塁への進塁を試みることができる)にも挑戦できる。その意味において、打者にとってのスイングは可能性に対する挑戦の証である。自分自身の力を信じられた者のみがバットを振ることができる。
例えバットが空を切ったとしても、挑戦したという結果は残る。
「結局俺は、自分自身の力を信じることができなかったんだよ」
それでも尚「失敗しない野球」を極める道は残されていた。野球は失敗のスポーツと言われる。打率3割を超える打者は1流打者と言われる。1流と呼ばれる打者であっても10回に7回は凡打か三振に終わる。どれだけ努力を重ねても、打席では約7割が失敗に終わる。であれば、失敗の回数を減らすことで自身の成績向上へと繋げることもできる。
菓子名はやや自虐的な笑みを浮かべた。
「でもさ、そういうのは、俺が好きな野球とはちょっと違ったんだよね。バッティングセンターに通うようになってから思い出したんだよ。アウトでも気持ちのいいアウトがあるってことをね」
「独特な感性じゃの。それはどんなアウトじゃ?」
「挑戦した結果のアウトさ。自分の力を信じてバットを繰り出した結果としてのアウト。見逃し三振ではなくて、空振り三振だ」
鼓膜を金属バットの音が叩く。視線の先には14枚の当たりパネルが設置されたバッティングセンターがある。
「ここのバッティングセンター風に言えば、いいアウトってのはアイスクリームがもらえるアウトとなるかな」
相手の変化球に無理矢理食らい付いていく。凄まじい豪速球であっても思い切りバットを振り抜く。やるだけやった結果が失敗であったとしても、その後に食べるアイスクリームは美味かった。野球少年時代の菓子名の記憶である。
挑戦の結果としてのアウトは、自分自身に対する信頼を起源としている。
何程困難な時であっても自らを信じ、挑戦を選ぶ。野球感というより、菓子名大地の人生観である。
菓子名はプロ野球選手時代に自らの人生観を体現できなかった。相手投手の自滅を待つ姿勢は、挑戦とは程遠い。
プロ野球は結果が全ての世界である。過程を如何に脚色しようともアウトという結果に変わりはない。綺麗な三振よりも崩れた姿勢から放たれるポテンヒットに価値がある。
「いいアウトがあるっていう考えを持つ俺は、プロ野球選手に向いてなかったんだろうな」
戦力外通告という形で幕を閉じたプロ野球選手としてのキャリア。その事実があって尚、思考パターンと行動基準の根底に「野球」の単語がある。菓子名は野球が好きだった。好き。行動の基準を定めるに、これ以上説得力のある言葉はない。
「バッティングセンターの野球に見逃しはないんだ。投じられたボールを打者は必ず打ち返す。当たらなかったとしても、絶対にバットを出す。それってさ、常に挑戦の姿勢でバットを振っているってことなんだ。少なくとも俺は、そう感じる訳」
空振り三振はあっても、見逃し三振は存在しない。その事実が菓子名の少年時代の記憶を呼び起こす。どんなボールにも我武者羅にバットを出し、豪快に空振り三振し続けた日々。純然たる好意で持ってのみ野球を行った記憶である。
「誰もが原点に帰れる場所ってのがあると思うんだよね。基本に立ち返るっていうのかな、その意味では調子を崩した時の打者と似ているかな」
打者を続けていると、何打席もヒットが出ない時期が必ず訪れる。蓄積した疲労と結果の出ない焦燥に、バッティングフォームが崩れる為である。調子を落とした打者は基本に立ち返る。調子のいい時の自分のバッティングフォームを意識し、自然体で持ってボールを打ち返す。すると、フォームが好調時のものに徐々に戻っていくのである。
「原点に立ち返る場所ってのが、菓子名大地の場合はバッティングセンターだったって訳」
「やっぱりお前は変わっているの。野球人が原点や初心、童心に立ち返る場所と言えば母校や球場であろうに」
千歳はアイスの棒を咥えた状態で呆れの表情を作っている。
菓子名は肩を竦めた。そう言われても事実なのだから仕方がない。それに、考えようによってはいいことである。全国の都道府県に少なくとも1箇所は原点に立ち返れる場所があるのだ。その事実は、精神の健康面から見てもプラスである。
「我はプロ野球の試合が好きじゃ。1流選手同士のぶつかり合いは我を興奮させる。身体能力、反射神経、思考と駆け引き。全てが極限に研ぎ澄まされた1級品の生きた芸術じゃ」
「成程。それで大打者の面影の残る俺に取り憑いた、と」
「プロ通算4本塁打の男のどこが大打者じゃ。貴様の打棒等、我から見ればリトルリーグレベルじゃて」
懐疑の視線と共にアイスの当たり棒が向けられる。
「じゃがのぅ、我はリトルリーグの試合を見るのも好きじゃ。邪気なく、ただ純粋に野球を楽しんでいる者達を見るのは楽しいものじゃ。プロ野球の試合では決して見ることの叶わぬ一面じゃからのぅ」
「それはつまり、俺が子供だって言いたいの?」
「そう聞こえないのだとしたら、我の言い方が悪いのであろうな。まぁ、たまには貴様のような奇異な野球人に取り憑くのも悪くない。こうやってアイスクリンも奢ってもらえるしの。お、当たりじゃ」
千歳は口に咥えたアイス棒を手に取った。アイスの棒には「ホームラン」と書かれている。千歳が好むアイス銘柄には当たり判定があり、当たりが出ると店頭でもう1本同じアイスがもらえる。当たり棒にはホームランの文字が印字されている。
「これで通算5本目のホームランじゃ。菓子名の通算ホームラン数を超えてしまったのぅ」
「ほっとけ」
菓子名は自然と白い歯を覗かせていた。
誰かと野球の話をするのは楽しいものである。
改めて自分のルーツは野球にあるんだなという事実を再確認した。
「帰りに高校野球の試合を見てから帰るかな」
「賛成じゃ」
同意の首肯を視界に捉えた菓子名は「そうこなくては」と言わんばかりに勢いよく車のキーを回した。