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4、おとなになれないホワイト・ネグレクト

  4、おとなになれないホワイト・ネグレクト


 月の見えない夜空に、けれど星々の明かりが微かに瞬いている。

 小高い山の中腹に位置する豊安浦姫の()玉響たまゆら神社は、神域に張り巡らされた結界によって幽かな燐光を帯び、光り輝いていた。

 地上から遠いここまでは、人口の光でさえも届くことはない。

 この地の産土神である豊安浦姫は書物に筆をしたためながら溜息をこぼした。

「わたくしとしたことが……」

 ままならない現状に、知らぬうちに焦りを抱えていたのか。

 書き上げた書を持ち上げて息を吹きかけると、それはあっという間にくるりと筒状に変わった。その口を帯で留め、豊安浦姫はそれを(やしろ)内部の結界の外側で行儀良く座る竜へ差し出す。

 青い竜は差し出された書を口で咥えると、きゅるると言葉を残してあっという間に社を出ていく。

 それを見送った豊安浦姫は物憂げに目を細めさせ、そっと己を封じる結界の表面を撫でた。境面に青い波紋を広げる結界は、けれど瞬く間に揺らぎを鎮め、変わることなくその場にあり続ける。

 己の役目を履き違えてはならない。

 表の回廊に視線を向けた豊安浦姫は、そして感傷を打ち切ると再び机に向かい、硯の墨へと筆先を落とすのだった。




 霊が死ぬとは、どういうことなのだろう。

 私は豊安浦姫の社を囲う回廊に腰掛け、異様に大きな青白い月を見上げながら呟いてみた。

 ざぁ、と風が柳を煽って、私のセーラーを揺らす。

 昼間、街中のバーで相対した化け物は物質界の理から半歩外に出た存在だった。

 完全に物質界のものであれば霊体の私には触れられない。

 完全に精神界のものであれば建物や人には触れられない。

 あの生き物がその狭間に身を置いていたからこそあの男たちは殺され、私も半死半生の傷を負わされることになったのだ。

 あの瞬間を思い出すと、魂が震える。ただそれだけで私の存在は危うくなる。

 私の最期の瞬間は、まだ死ぬということを理解していなかった。

 軽んじていた、とも言える。

 命を掛ける、なんて言葉を、容易く口にしてしまえるほどに。

 豊安浦姫の言によって最期の瞬間を思い出せられたときも、恐怖は感じた。けれどそれは、どちらかといえば絶対的な力を振るう、あの化け物に対する恐怖であり、両親の命を容易く奪い、辱めたことへの怒りがあった。

 死の間際、神である豊安浦姫によって救われ、その彼女から命の砂を取り返して欲しいとお願いされ、私はきっと、その事実に酔っていた。

 自分はきっと特別な存在なのだ、という、根拠の無い、子供染みた、妄想の産物だ。

 恨みを晴らすチャンスを貰ったのだと、安易に考えていた。

 私は弱い。

 知っていたはずのことを、忘れていた。

 怯え竦み、泣き喚いたことさえ忘却の彼方へ押し流して、何とかなると思い込み。

 その実、それをどのように為すか、考えもしていなかった。

 その結果が、これだ。

 私は膝を抱え、膝に頬をくっつける。

 私には何の力も無い。

 勇気も無い。

 知恵も無い。

 浅はかな子供のままだ。

 だから、これでよかったのだ。

 豊安浦姫にいらぬ期待を抱かせてしまった、私は悪い子だ。

 ごめんなさい、姫。

 姫の助けてくれた私が、貴女に何一つ返すことができなくて。

 何一つ、役に立てなくて。

 ごめんなさい。

 貴女の期待を裏切った、こんな愚かな私は、どうしようもない、悪い子です。

 冷たい夜風は涙をさらい、私は静かに嗚咽をかみ殺していた。




 近年、街の急速な発展に伴い、それに並行する形で玉響神社は洛陽の目を見ていた。

 参拝に訪れるのは古くからこの地に住まう少数の人間のみであって、宮司や禰宜という役職の人間であってさえも、それらは一般市民としての活動の傍ら、片手間にこなされている有様だった。

 日の落ちた神社に人影は無い。

 夜気が渦を巻いて境内を走り去っていく。

 言い難き静寂。

 ふ、と、豊安浦姫は顔を上げ、筆を置いた。

 風の中によからぬ気配が混じりこんでいる予感がして、すぐに自身の神使(しんし)の一柱である猫を呼び寄せる。

 この猫、毛足は長く、鼻が低い、西洋のそれに似た風貌をしているが、その口角から覗く鋭い両の牙と、研ぎ澄まされ意志の強さを物語るかのような両の瞳からは、猫と言うよりも虎、あるいは獅子の如き風格を感じられた。

 気位(きぐらい)の高い神使はツンと澄ました顔で豊安浦姫の前に現れ、何か用か? とばかりに鼻を鳴らしてみせる。

「何者か、わたくしの神域に入ろうとする不届き者がいる様子。申し訳ないけれど、様子を見てきて欲しいのです。それから、表にいる麻奈さんにも社にお戻りになるよう、伝えてください」

 承った、と頷いた神使は身を翻し、社を出て行ったかと思うと、直後、間延びした悲鳴をあげながら少女が転がり込んでくる。

 伝えるだけでよかったろうに、その手間すら惜しんだ神使はその比類無き脚力で以って、まさに風が如くに山を駆け下りていく。

 瞬く間に麓へ降り立った神使の前に、見目麗しい少女が姿を現す。

 まるで妖精のような線の細く整った顔に、華奢な身体をしたこの少女は、しかし、その両手はまるで鉤爪を身につけたように鋭く尖り、赤黒い表皮を脈動させている。

 けれど、永い月日の中、魂が神格化されたこの神使にとっては少女の外見などという一分の腹の足しにもならぬ事項は眼中になく、しかし、その見た目からは想像もつかぬような脅威を感じ取って、唸り声と共に一喝した。

 ――貴様、何者か。この先は豊安浦姫の坐す御神域、かような汚らわしき身の上で領域を穢す事、罷りならん。即座に立ち去れ。

 圧倒的な敵意と共に警告を受けた少女は、しかし、その相貌が満面の気色に彩られるに至って、神使はその害意に毛を逆立てさせ、威嚇した。

「やっぱり、ここがそうなのね。丁寧に隠してあるから、気つかなかったわ」

 熱の篭った台詞を吐いた少女が神使の全身を捉え、歪な笑みを浮かべる。

 ――警告する。()ね。

 最後通牒を突きつけ、神使は頭を低く、臨戦態勢をとる。

 太い前足で地面を引っかき、闘争心をむき出しに牙を剥いた神使からにはそれだけで胆の小さな者を卒倒させうるほどの迫力に満ちていた。

 しかし、少女はその光景を目の当たりにしても顔色一つ変えず、それどころか裂けた口周りを赤い舌で嘗め回した。

「はぁぁ……でも、あなたからもおいしそうな匂いがするの」

 言葉と共に少女は裂けた口から裏返って反転した。肉襞に覆われた内側から長い触手が飛び出し、神使はそれを飛び下がりながらも太い前足で迎え撃つ。

 ――止む無し。散華を以って神罰を受けよ。

 神使の声と共に、戦闘は始まった。




 泣き疲れ、茫洋と景色を眺めていた私は、首根っこを加えられる感覚に我に返り、気付いたときには社の真ん中辺りでうつ伏せに転がっていた。

 目を丸くした豊安浦姫に「ど、ども」と声をかけ、居住まいを正した。

「え、えぇと、一体何が……?」

 その言葉に気を持ち直した豊安浦姫が表情を引き締めさせ、その身から発せられる神気に混ざる緊張を受けて私は混乱しながらも背筋を伸ばして言葉を待った。

「先ほど何者かがわたくしの神域に近づく気配を感じました」

 告げられた言葉を反芻し、困惑と共に首を傾げる。

「何者か――って。参拝者だっていないわけじゃないでしょ?」

 豊安浦姫は(かぶり)を振る。身に纏う装束がしゃなりと音を立てた。

 決然と。

「まず間違いありません。(ことわり)を外れし者です」

 呆然と、その言葉が染み入ってきて、私は魂の奥底に怯えが走ったことを感じ取る。

「麻奈さん。あれはあくまで物質界に属するもの。その気になれば貴女を捕らえることは不可能でしょう。お逃げなさい」

「お逃げなさい……って、姫は……」

「ふふ。そう不安そうになさらなくても平気ですよ。こう見えてわたくしも神の一柱、身を護る術は持ち合わせています」

 斜め下に流された視線を追って、青色の結界を目にして得心すると共に、不安が首を擡げるのを感じた。

 確か、そう……。

 彼女はこの場から出ることができないと言っていたのだ。彼女自身がこれを為したのならば、結界を消して外に出ることも可能なはず。それができないのは、彼女ではない、第三者が作ったものだから……?

 自分より力が下の者に結界を張らせるのはよい手段とは思えない。

 それならは自力で外に出ることも可能なはずである。

 だとすると、この結界は彼女より上位の存在によって張られたもののはずで、この結界を破ることが可能な敵が現れたとき、彼女の力で対抗しえるのか?

 豊安浦姫は私の不安を感じ取ってか、殊更笑顔を浮かべてみせる。

「心配せずとも、今もわたくしの神使が対応していますから、じきに事態は収束するでしょう。ただ、麻奈さんには、危険な場所にいてほしくないのです」

「でも……」

「この地に生きる者は(すべか)らく、わたくしの子のようなもの。浅慮で貴女に過ぎた重荷を背負わせてしまったことも、申し訳なく思っているのです。どうか、わたくしの想いを汲んではいただけませんか」

 私はたじろぎ、息を呑んだ。

 自身の弱さを痛感したこと。

 彼女の期待に応えられなかったこと。

 相反する思いが堂々巡りに喧々諤々、口論を発する。

 自分を助けてくれた豊安浦姫の力になりたい。けれど、弱い自分がこの場にいて何が出来るのか。むしろ、足手まとい、と邪魔になるだけかもしれない。

 私は弱い。弱い人間だ。それはよくわかった。

 たった一度の奇跡のような幸運で、自分が如何にも特別な人間であるかのように勘違いをしてしまう。

 まして、神など、比べるべくも無い、矮小な人間。

 これでいいのだ。

 私は、二度、同じ結論に至る。

「わ……かり、ました……」

 青い畳の節目節目を睨みながら私は言う。

 言った途端、心に暖かな空気が吹き込んで、ほっと息を吐いた。

 重石が取れたかのように浮き足立つ心が改めて自分の弱さと醜さを曝け出しているかのようで、いたたまれなくなった。

 目の前にいる豊安浦姫から発せられる清らかな光が眩しくて、前が向けない。

 背後に伸びた私の影が、私の弱さを嘲弄する。

 場違いな身の上である自覚が生まれ、居心地の悪さが這い回る。

 もぞもぞと落ち着きなく、彼女の優しい微笑を受ける資格すらないのだと、後ろめたく、私はすぐさまこの場を去ってしまいたい気持ちで溢れかえって、指先を握り締め、立ち上がる。

「姫の言うとおりにします。助けてくださって、本当にありがとうございました。このご恩は……絶対忘れません」

「そんなこと……」

 言い淀んで掌を振る豊安浦姫に視線すら向けられず、私は焦燥感の命じるがまま精一杯頭を下げると、すぐさま社を出た。

「あっ……」

 背後の声に耳を塞ぎ、私は参道と正反対の山側に飛び出した。

 開けた視界がいっぱいに広がる。眼下の街の様々な光が目に痛く、鼻水を啜りながら一目散に山を下る。

 誰にも見られないし、誰にも聞こえない。

 私は大きな声を上げて泣きながら、何度も何度も溢れる涙を甲で拭った。

 生きているときには、こんな思いをしたことなんてなかった。

 辛くて泣いた。

 悲しくて泣いた。

 苦しくて泣いた。

 けれど、惨めさに泣いたことはなかった。

 両親の仇すらとれなかった。

 自分を助けてくれた人の力にもなれず、今はその恩人を見捨てようとしている。

 精神界に属する者は嘘をつくことは出来ない。それは自身のアイデンティティを放棄することと同様だから。

 豊安浦姫は、嘘はついていなかったが、全て真実を語ったわけでもなかった。

 彼女は、事態が収束するとは言ったが、あの化け物が倒されるとは言わなかった。

 彼女は、身を護る術があるとは言ったが、それであの化け物から身を護れるとは言わなかった。

 私は気付いていた。

 気付いていて、事実から目をそむけ、逃げ出したのだ。

 いくつも自分に言い訳をして、豊安浦姫の優しい言葉に縋ったのだ。

 死が恐ろしいか。

 恐ろしいに決まっている。

 誰も自分を知る人はいない。途方も無い孤独。それが永劫と続く場所にいかなければならない。恐怖。誰であろうともそこから逃れる術は無い。

 『死』の恐怖。

 一度味わったからこそ、再びそれが降りかかってくることが怖くて仕方が無い。

 私はもう、何かに立ち向かう勇気なんて持てない。

 このまま脅かされることなく穏やかに過ごし、命の砂を落としきってしまいたい。

 そうして初めて、私は真実、旅立てる。

 もう恐ろしい思いはしたくない。

 このまま、私を放っておいて。


 ふと足を止めたとき、目の前にはこじんまりとした建物があった。

「家……私の……」

 帰る人のいなくなった家は明かりが落とされ、ひっそりとその身を佇ませていた。

 たった四日前のことなのに、住む者の居ない自宅は荒廃した雰囲気を漂わせ、まるで廃墟の如くだった。

 門扉を潜ると、庭には長く伸びた雑草が生い茂り、雨ざらしの木テーブルには蔦が絡んでいた。小さな頃にはここで母とお茶をしたこともあったが、最近は庭に出たことすら数えるほどだった。

 胸に暖かな記憶がよみがえり、私は涙を拭うとさらに奥へ足を踏み入れる。

 世間では猟奇殺人の現場と認識されているであろう家屋には、外にはなかったキープアウトと記載されたテープが残されたままになっていた。

 それに一瞥を落とすと、通り抜け、リビングに足を向ける。

 リビングのガラス扉は粉々に砕け、歪んでいて、その欠片はさすがに片付けられていたのだが、床一面に残された黒く変色した血痕があの夜の惨劇を物語っていた。

「…………」

 ここで、私が死んだ。

 茫洋とした足取りで、リビングに入る。

 ここに父がいた。しゃがみこむ。最後の言葉は、なんだったのか。指先で唇に触れ、父の最後の言葉を形作る。

 まな、と掠れた声が躍り出て、止まっていたはずの涙が再び溢れた。

 しばらくそうして、再び立ち上がると、次に母の倒れていたテーブル脇まで移動する。ぐるりと室内を眺め渡し、自分の足で階段を登った。

 私の部屋は綺麗なままだった。

 あの日の朝、家を出たときのまま私を迎え入れてくれる。

 まるで、全て夢だったかのような錯覚に襲われて、私はベッドに横になった。

 本当に全てが悪い夢であったら、どんなによかったことか。

 ベッドの上、私は膝を抱えて丸くなり、そっと目を閉じた。




 少女を模した異形と対峙する豊安浦姫の神使である猫は、その見事な毛並みを真っ赤な血でしとどに濡らし、呻いた。

 ――貴様、一体、なんなのだ。

 その声には意図せぬ畏怖が混じっており、神使は身を低くして唸り声を上げる。

 神使は眷属とは違い、仕える神からその神力の一部を分け与えられている。故に神に近く、人と比べるべくも無い力を有している。

 力とはすなわち意志力であり、存在の強固さでもある。金剛界を含め、精神界に属する身として上位に位置する神使は今、確実に追い詰められていた。

 咀嚼の音は長く、淫猥な響きを齎す。

 少女は先刻一撃せしめた触手の先端を食いちぎり、神使の血液ごと口腔に放り込み、味わいながら飲み下し、その身に取り込んだ。

 微力ながら神の力の末端を吸収した少女はちぎれた触手を再生させると、先ほどと全く変わらぬ動きで触手を操って見せた。

 当初は圧倒的に優位であった神使だったが、少女は切断された身もひき潰された身も関係なく捕食し、補い、その身に蓄えた圧倒量の命の砂でもって生命力を維持し続けた。

 交戦時間が長引けばさしもの神使も疲労が蓄積し、数度と攻撃をかわし損ねてしまう。溢れ出るのは血液だが、事実血が流れているわけではない。傷ついているのは意志力であり、魂なのだ。少女は触手に付着したそれを取り込み、自分のものにすることでより強く、より強固になる。

 長引けば長引くほど優位性は失われ、加速度的に神使は追い詰められる。

 少女の相貌は気色に塗れ、引き攣ったような声をあげて喝采した。

「ふ、ふふ。ふ。やっぱりぃ、じかにたべるとぉ、おおいぃしいいわぁ……とぉっても、あまぁいのぉ。あまぁい」

 陶酔の声をあげる少女。あらぬ方向を向いて吐息を洩らし、ぐるりと首を回したかと思うと、瞳孔を細めて神使を見やる。そこに浮かぶのは最早敵意と呼べるものですらない。

 神使は、今や、カトラリーを握る狼の前に配膳された、哀れな子羊なのだった。

 それでも、神使は引くに引けぬ。近年、信仰心の薄れによって豊安浦姫の力は大幅に衰えている。それも、多くいた神使や眷属を維持することすら危ういほどに。

 神使や眷属は自ら信仰を集めることは困難である。だから、通常は信奉する神に力を分け与えてもらって、存在を維持することになる。

 最悪、神社さえあれば豊安浦姫は消滅を逃れえるだろう。けれど、それは、あくまで存在を維持していられるというだけの、骨と皮だけのやせ衰えた姿。彼女を信奉する者として、それはあまりにも耐え難いことだ。

 元より気位は高い性質(たち)だが、そうでもせねば豊安浦姫は気遣いに心を砕くだろう。

 だからこそ、護らねばならないのだ。

 彼女を。

 豊安浦姫を。

 気迫と共に咆哮を上げ、恐怖という罅の入った心を繋ぎ止める。

 もはや怯えの入り込む一部の隙も無い。

 神使は力強く跳躍し、少女に襲い掛かる。

 迎え撃つように振るわれる触手を噛み砕き、前足で殴打し、爪で引き裂く。

 だが、それでも片手の指で足りぬ触手を操る少女の攻撃を防ぎきることなど、もとより不可能だった。

 振るわれる触手を避けようともせず腹部を刺し貫かれた神使は、しかし、その一拍の(のち)、強靭な前足の一撃で少女の肉体を打ち砕いてみせた。

 ――嗚呼……

 脳裏に浮かぶのは、あの穏やかな日々。

 春麗らか、己の背を撫ぜる豊安浦姫の手の感触を思い返した神使の猫は、神敵が細かな肉片と粉砕される様を目に、細かな霧と溶け、消えた。




 背の高いビルディングの隙間から見上げた空は、モノクロームの世界に射した唯一の彩のようだった。

 痛い。苦しい。辛い。ひもじい。

 たくさんの重石を抱えている私には、その空はあまりにも遠すぎて、夢見ることは愚かなことだと首を振った。

 この街は蟻に溢れている。整列された雑然を内包して、人々はただ定められた目的地に歩を進めるだけの蟻。この群れに紛れてしまえば、私は独りではない気がして。人が当たり前に甘受できる優しさを、こんな私にも分けてもらえる気がして。

 取り残される私。置いてけぼり。青い空。青い点滅。交差点が流れ始める。

 わたあめみたいな白い雲、ぷかり。

 おいしそうだなぁ。おなかすいたなぁ。つかれちゃったなぁ。しにたくないなぁ。




「……死にたくない」

 ひび割れた声。ガラスを爪で引っかくような高音が聞こえてきて、豊安浦姫は顔を上げると外の様子を窺った。

 神社の入口に設けられた朱鳥居の外側で、少女の面影を残す化け物が、周囲に張られた結界に爪を立てている。

 キリキリと音を立てる様は、まるで結界の悲鳴のようだ。

「来ましたか……」

 豊安浦姫はやおら立ち上がり、少女を見据えた。

 下半身を潰れさせた少女はまるでナメクジのような姿で、血液で赤く染まった身体を拭おうともせず、長い爪で結界を引っ掻いている。その表情にはまぎれも無い恐怖が張り巡らされ、ひき潰された下半身からはごぽり、こぽりと、絶えず泡が立っては弾け、血液を散らす。満身創痍であった。法外な扱いをした命の砂が極端に目減りし、それによって、臨界した彼女の体内が再生と崩壊を繰り返しているのだ。

「じにたく、ないのぉ……」

 神使との?がりは切れてしまった。命を賭して、理を外れし者をあそこまで追い詰めたのだ。

 だが、しかし、しかし。

 豊安浦姫には、あれほどまで死に瀕した存在が相手であっても、それを打ち滅ぼせるほどの力は有していない。

 頼みの綱となる結界は、けれど、突き立てられる爪にひびを入れられ、それは神社の周囲を覆う結界全域へと瞬く間に広がって、一拍のち、破砕音と共に細かく砕け散り、涙のように降りそそいだ。

「あはぁぁ……」

 少女は結果内に満ちる神気に身を焼かれ、黒い煙を上げつつもそれを胸いっぱいに吸い込んだ。

 体内に走る激痛に恍惚の笑みを浮かべながら、少しずつ、神気を吸収していく。

 ごく薄いものではあるが、自らの神気を奪われる光景にさしもの豊安浦姫も顔を歪め、口角を引き絞った。

「愚かな。ここはわたくしの神域ぞ。おぬしのような邪悪な悪食に侵して良い場ではない」

 告げた声に反応を示した少女は、視線を落とし、豊安浦姫に目を向ける。

 そしてゆっくり、ゆっくりと蠕動しつつ近寄っていく。少女の這った後は青い輝きが失われ、粘稠な輝きを放つ体液で赤黒く染まり、小さな草々は枯れ朽ち果てた。

 おぞましく醜怪な少女は引き攣るような笑い声をあげながら迫ってくる。

 その身がいよいよ社まで迫ると、社に張られた木板は生気を失い、乾き、ひび割れて黒ずみ、青々しかった畳は日に焼けたように変色し、ささくれ立った。

 見上げるような高さの少女が社の戸を踏み砕き目の前に立ち塞がっても、豊安浦姫は毅然とした態度を崩すことなく、背筋を伸ばしたまま少女を睨み上げた。

「わたくしの忠告を無視するのですね。しかし、これ以上は無駄なこと。諦めて引き下がりなさい。さもなくば逃れえぬ滅びが待ち受けると知りなさい」

「……死にたくなぁい、死にたくないのぉ」

「そう。なら……」

「だから、お腹いっぱい、いぃっぱぁい、食べたいのぉぉ」

 少女は言葉と同時に両手を振り上げる。長く伸びた触手が鞭のようにしなり、うなるような速さで豊安浦姫へと打ちかかった。

 けれど、それは、彼女の周囲を囲うように張られた青い結界によって防がれる。

 少女はまるで理解できぬように首を左右に傾げながら幾度となく触手を振るい、その度に結界に阻まれ、苛立ちを顕にした。

「おなかすいた。おなかすいた。おなかすいたおなかすいたおなかすいたのよおなかがおなかがすいてすいてすすすいてぇてすいてしししんじゃうぅぅぅしんじゃうのぉぉぉっ!! しにたくないししにたくなぁいのたたすけたすててててぇぇくれたってぇいいじゃないのよぉぉぉ! どうしてぇ? どぉしてたすけてくれないのぉぉ? しにたくない、しにたくないのに、しにたくないのにぃぃ、しにたくないだけなのにぃぃ、そそれれれっれだけなのにぃ――――」

 もはや言語として成り立たない言葉の羅列を吐き出しながら狂ったように触手を結界へと打ち据える少女が何度も何度も何度も、まるで、幼子がだだをこねるかのように発狂の呈を示し、そして、唐突に動きを止める。

 静止する。

 恐怖に身を強張らせた豊安浦姫も突然のことに呆気に取られ、少女を恐る恐る見上げた。

 まるで焦点の合っていない瞳。

 ぼんやり、と形容されるような様子で、呟く。

「ただそれだけも許されない?」

 少女はぐるりと反転する。

 その背には安っぽいビニール傘が一本、突き立てられていた。

 巨体に隠れ、見えない何者かが大きな声をあげる。

「とっとと姫から離れろ! このナメクジ女!!」

 その声から正体を即座に悟り、豊安浦姫は名状し難い感情で胸を詰まらせたのだった。




 私が思い直して豊安浦姫の元へ舞い戻ったとき、彼女は今まさに化け物に襲い掛かられていて、咄嗟にコンビニの透明ビニール傘を作って突き立てたのだ。

 何か武器になりそうなもの、と考えたとき、適度に長く、鋭く尖っていて、かつ良く利用していてイメージし易いものとして咄嗟に浮かんだのが傘だった。

 振り返った少女が、静かにこちらを見下ろす。

 何処を向いているのかわからない、何を考えているのかわからない、無機質で、透明な表情をして、茫洋と周囲を視界に入れている。

 夢遊病者のようにふらふらと、不確かな仕草で触手を動かして身体に刺さった傘を引き抜く。それを口に運ぼうとしたところで、私は咄嗟にその傘を消した。

 失われた傘を掴んでいた部位を食い千切った少女が、ゆっくりと顎を動かし、咀嚼する。

 奇妙な静寂の中、少女が食事をこなす音だけが聞こえる。

 私は口を半開きにして、その光景を見上げていた。

 ごくり。

 と音がして、少女が自分自身を飲み下す。

 シン、と静まり返る。

 一切の音が廃され、空気がピンと張って、身動(みじろ)ぎも躊躇われる異質の空間に成り果てる。

 時が止まったのか。

 自失していたのはどれほどの時間か、私はふいに我に返って少女と距離を取る。

 再び意志力で傘を作り出して、それをまっすぐ少女に向けた。

「死にたくない死にたくないって、うるさいよ! そんなの、誰だって死にたくないに決まってるじゃない!! でも、私は死んだ。お父さんもお母さんも死んだ! 死にたくないって言ったあんたに殺されて、死んだんだ! あんたに殺されたんだ!!」

「……ちが、う」

 少女が声を震わせる。

 か細いその声が、私に火をつけた。

 胸が張り裂けそうな激情が湧き上がってくる。

「なに、が……違うって、言うのよ……馬鹿にしないでよ」

「ち、ちが……わたしは、ちがう……死にたくないだけ、それだけなの」

「ふざけんな!!」

 私は滑るように飛び掛り、傘を振り上げる。

 それを見た少女は我に返って、怯えたように触手を横薙ぎに振り回した。驚異的な速度で迫るそれを感じ、私は咄嗟に傘の先端を向ける。傘は触手を容易く貫き、けれど勢いは殺せず、傘もろとも直撃を受けた。

 弾き飛ばされた私は駆け抜ける激痛に歯を食いしばって耐え、意識を集中してぶつかりそうになる壁をすり抜ける。地面を転がりながら触手に刺さったままであろう傘を消し、手元に作り直すと、すぐ立ち上がった。

 社からゆっくりと這い出てくる少女は、先ほどまでと打って変わって、おかしな様子も怯えた様子もなかった。

 食欲に飢えた意思だけが、そこには横たわっていた。

「わたし、おなかいっぱいたべる。しなない。それだけ。あまぁいの、いっぱい、いぃっぱぁい食べるのぉぉ!!」

 少女は全身を使って跳ね上がり、跳躍する。私はまさか飛ぶとは思いもせず、一瞬傘を反射的に身構えつつ、思い直して横に飛びのいてそれを避けた。あんなものを受ければ、まず間違いなく押し潰されてぺしゃんこになってしまう。周囲は大きく揺れるが、霊体の私には聊かの影響も無い。傘を突き立てようと駆け寄りかけ、少女の下半身が、まるで尻尾を振るうようにして迫ってくるのに驚愕し、慌てて走って逃げた。

「ナメクジじゃなかったのかっ」

 あんな動きはナメクジには不可能だろう。触手は触覚だとしても、爪が生えている辺りにも無理がある。

 距離を取った私は悪態をつき、再び傘を少女に向ける。

 少女は身体中から煙を噴出しつつ、忌々しげに咆哮を上げ、触手を振るう。

 私は唸りをあげるそれに身構え、けれど、しかし、触手は私に到達する前に消えた。

「え」

 間抜けな声をあげた私の目の前で、半ばから断ち切られた触手が煙となって散る。

 直後、ナメクジのような巨躯の少女はその胸辺りから斜めに切り裂かれ、その下半身は赤い霧状になり、風に流されて見えなくなった。

 残されたのは少女の上半身と、片方の触手だけだ。それが無残に転がり、切断面から血の泡を吐き出させるも、そこから何かが産まれることは無い。

 呆然とした私を一人残し、戦いは唐突に、その終わりを告げた。

 私は困惑しつつ、警戒に傘を握り締めたまま少女に近寄った。

 すぐ傍に寄って片膝をつくと、少女は虚空に向けた視線を寄せて、仄かに微笑んだ。

 消え入りそうな、儚い笑顔だった。

「まま」

 囁くような声を出して、彼女は腕からつながった触手を持ち上げる。私は少し戸惑いながらも傘を消し、先端についた手を握り返す。

 少女の頭部が危うげに揺れた。

「もう、わがまま、いわない、から。いいこ、なるから。いかないで」

 その言葉に、私は、静かに指先に力を込める。

 今、言葉にならない全ての感情が、その指先を通じて少女に伝わればいいと、祈りを込めた。

 私は、何かを間違えていたのかもしれない、とそう思った。

 とても大切なことを忘れていたのだ、と。

 万感の思いを込めて、手を握り締める。

「あったかい」

 少女は瞼を下ろし、溜息にも似た声と同時に消えてしまった。

 私は先ほどまで確かにそこにあった少女の残滓を手の中に探した。

 けれど、それは何処にも見当たらず、変わりに、少女が横たわっていた場所に金の輝きを見た。

 小さな、時計。命の、砂時計。

 それには無数のひびが入り、絶え間なく命の砂が漏れ零れていた。

 私は、豊安浦姫の願いを聞いたあの瞬間から全てを誤っていたのだと、そのことにようやく気付けたのだった。


 命の砂時計を見下ろし、放心状態になっていた私の肩を、誰かが叩いた。

 とても億劫な気持ちになりながらそちらを見ると、紫色の着物を羽織った女性が立っていた。眉が太く、勇ましい顔つきを破顔させ、荒々しく私の頭を撫で回す。

「な、なに? だれ、ですか?」

 なんとなし、着物を見ると豊安浦姫を思い出してつい丁寧な物言いになってしまう。

 私の頭に掌を置いた女性は最後に二度頭を軽く叩くと、豊安浦姫の社のほうへ足を向けながら言った。

「お嬢ちゃん、姫を護ってくれてあんがとね」

 ひらひらと手を振って歩み去る女性の後姿を、私は目を丸くして見送った。

 そして、急に得心して、「あぁ」と声を漏らす。

 つまりあの人が豊安浦姫の周囲に結界を張った張本人で、少女を倒してしまったのも彼女だったのだ。

 なるほど、確かに、身を護る術があるのなら、いずれ援軍がやってきてそれを倒してくれるという、そういう寸法だったわけだ。

「なんなの、それ」

 私のあの覚悟と決意は一体……。

 私は疲れ果てた身体を投げ出し、境内で大の字に寝そべった。

 深い藍色の空には灰色の雲が浮かび、ゆっくりと東へ流れていく。

「麻奈さんっ」

 遠くから豊安浦姫の声が聞こえてきて、私は首だけ起こしてそちらを見た。

 着物の裾をたくしあげた豊安浦姫が走り寄ってくるという異様な光景に、私は苦笑いを浮かべ、再び地面に頭を預けた。

 あー、もう、なんだかなぁ。

 けれど、なんだか、こんな疲労感も悪くはないな、なーんてことを思うのだった。





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