3、おためごかしのロリポップ・キャンディー
3、おためごかしのロリポップ・キャンディー
「それじゃ、姫。行ってくるよ」
私がそう言って手を振ると、豊安浦姫は社の中からふんわりと会釈を返してくれた。
「行ってらっしゃいませ、麻奈さん。お気をつけて」
その声を背中で受けながら回廊を降りると、目の前に薄橙の揺らめく波面が見えてくる。これが金剛界の境界。初日に豊安浦姫の特別授業も受けたし、既に幾度か出入りもしたとはいえ、ここを通り過ぎる瞬間はいつも若干の緊張を覚えざるを得ない。
息を潜める。
――――つぷり。
伸ばした指先から、柔らかな皮膜に触れたような感触を残し、通過していく。それきり、世界は在り方を変える。正確に言うなら、見え方というべきか、感じ方というべきか。変わったのは、けれど、私のほうだ。
世界というのはいくつもの層で成り立っていて、金剛界もその層の一枚にすぎない。そのため、金剛界から降りたとはいえ私が霊体として顕現したのは、豊安浦姫が祭られている地元、玉響神社の境内であった。
馬鹿正直に百を越える石段を下りる必要は無いので、宙に浮いたまま勢い余って山から飛び出すと、街全体から発せられる情報体にぶつかり、私は思わず足を止めた。
一面に広がるのは豊かな森。それと対比するように屹立する灰色した、まるで墓石のようなオブジェ群。滲みあがる寒々しい気配に息を呑む。
まるで空から海へ飛び込んだかのように息苦しくなるような情報量。
――大丈夫、私は私。
おまじないのように唱え、街の情報体に自分自身を壊されないように補強すると、私は再び、ゆっくりと街へ向かいはじめる。
私が死んで、四日目のことだ。
《――――いて、先日発生した連続猟奇殺人事件について、続報です。事件の重要参考人とされる増田裕也の行方がわからなくなっていた問題で、警察は同容疑者を全国指名手配すると発表し――――》
アーケードの天蓋からは遮光された光が落ちてくる。真っ青な空の下で影無しの私はふらふらと落ち着きなく、道行く人々を眺めていた。
電気店の前に陳列されたテレビジョンから吐き出される悲惨なニュースの羅列。それでさえ、活気に満ちたこの場を凝らせることはできないようだった。それが県内と言わず、市内とも言わず、町内の出来事にあってさえ、無関心。
いや、そうではない。
そんなことは、関係が無いのだ。
誰も彼も自分とは無関係だと思い込んでいる。
――自分だけは大丈夫。
――そんな不幸に襲われることはない。
例え、隣を歩いているのが殺人者であったとしても、自らにその凶刃が振り下ろされるまでは遠い、遠い世界の出来事なのだ。
どこまでも内に向いた、閉ざされた世界。
そんなアーケードを行き交う人々はといえば、まさに奇奇怪怪の様相を呈しており、それは私の存在自体が物質界側から金剛界寄りになってしまったからでもあった。人の姿を逸しはしないものの、顔貌が目に見えるものですら少なく、その大半はのっぺりと白い能面のようだ。
目、鼻、口らしい窪みは窺える。
そこに、
髪だけが艶やかに生え揃う者。
爪が異様に長い者。
手足の長短が異常な者。
様々な、自分の拘りのみが歪な形で思い思いに付加された外観。
まさに百鬼夜行が如く、世は人とも呼べぬ異形に満ち溢れていた。
それを何の気なしに眺めていられるのは、それでも彼らが人間なのだと理解しているからだ。
目を凝らし『それらが人間である』という確固たる意志を持って視線を向ければ、彼らが自らに持つ自己認識は押し退けられ、本来の肉体は姿を現す。
多種多様に見える人間達、その本質はあまりにも単純としか言いようがなかった。
この、視線を向けるという行為、所謂霊体の身にとっては大層難しい技術なのだと、私は死んでから知った。初耳だった。
というのも、視界というのは網膜に映る反射光の集合体を脳が処理してそのように見えるわけで、その両方が存在しない霊体には、基本的に視界というものが存在しない。理解できるのはそこに存在している者の意思というべきか、精神だけなのだ。自分の持つそのものに対する認識と、それ自体が放出する自己認識が混ざり合って届けられた意思の集合体によって、それらは識別される。
ただし、死んだ直後は受肉時の肉体操作に精神が慣れているがために、受け取った情報を自分の意思がそれっぽく取り繕ってくれる。けれど、霊体になってしばらくすれば、今度は精神が霊体であることに慣れてくるため、顔を動かしても視界が着いてこない、という事態さえ起こりうるようになるらしい。自分の肉体も意思によって固定できていなければ、起こりうる事態は、より、悲惨である。
私はただ、巡り合わせが良かったとしか言いようが無かった。
物思いに耽りながら宙空を泳いでいると、アーケードの向こう側から一際目鼻の整った少女がやってくるのが見えて、私は考え事をやめて少女を注視した。
そして、思わず息を呑む。
「いた……」
声には、まさか、という響きが混ざる。
豊安浦姫の言は確かに理に適っているようだった。
命の砂を奪う以上、砂時計に穴でも開いていなければ補うことは不可能だ、と。
淑やかに歩く少女に不審な点は見られない。
百人に聞けば百人が美少女だと言うだろう姿形は、けれど、それは、もはや、完璧を通り越して、吐き気すら催すような異常が滲み出ている。
少女は、外面と自己認識が寸文の狂いも無く、僅かな誤差も無く、全くの同一なのだった。
そんなこと、有り得ない。
人間である限り。
作り物めいた少女は、観察を続ける私には気付かない様子でアーケードを進んでいく。時折立ち止まって周囲を眺める少女の後をついていくと、彼女はアーケードを抜け、駅前の大きなフラワーロードを南へと向かうようだった。
風に煽られる長い黒髪から、きらきら、輝くものが僅かに流れて宙に解けていく。
通り過ぎていく人々は、まるで夜光灯に群がる羽虫のように視線を吸い寄せられ、誰もが足を止めて振り返っている。窪んだ口が縦に引き伸ばされ、実に滑稽だ。
確かに、思わず二度見してしまうような美貌だと、私も思う。
けれど、彼らの琴線に引っ掛かっているのは美貌だけではないだろう。
彼女の身体から洩れているのは、命の砂と呼ばれる、生命の源泉。
短き一生を生き足掻く人間の魂に刷り込まれた、本能ともいうべき渇望によって、彼らは彼女の存在に気付かされているのだ。
それが意図したものであろうと、なかろうと、結果的にはそれが、撒餌として十分機能していた。
そう、それは例えば、今まさに彼女に声をかけている、二人組みの軽薄そうな男のような、格好の獲物に対して。
男達は馴れ馴れしく彼女の肩に触れながらお決まりの文句を口ずさみ、ここではない何処かへ誘おうとしている。
安直過ぎるその行動に私は溜息をついて、その背中を追う。
彼らは、なんとも思わないのだろうか。
人形めいた異質の美貌を持つ少女が、まるで釣り合いの取れていない自分達に従順につき従っていることに。
「まぁ、そこまで回る頭があれば、こんな馬鹿ことしでかしたりしないか……」
人通りの多い大通りを脇に逸れた三人は、そのまま小径を進んで路地脇の階段を下ると、一軒の店へと入っていく。
周囲を見回してその場所の位置を再確認した後、私がその店のドアをすり抜けると、その内部は洒落たバーのようだった。
とはいえ、こんな昼間から開いているようなバーなどない。店内は半数以上の明かりが落とされ、薄ぼんやり、閑散としている。
あの三人組は何処に行ったのかと周囲を見渡してみれば、どうやら個室に入ったらしい。一箇所、半開きになったそこに身を躍らせてみれば、たった十数秒しか目を離していないというのにも関わらず、少女は半裸という有様だった。
癖の無い艶やかな黒髪は扇状に広がり、しみ一つ無いほっそりとした手足は投げ出され、真紅のフレアスカートが膝下までずり下げられている。
まさに艶姿。
その彼女に覆いかぶさる男の背中には、薄明かりの中にあって見事なまでの、真っ赤な、真っ赤な花――が咲いていた。
しん、と、時が止まったかのような空間の中、顔半分を個室に突っ込んだ体勢の私の前で、男に咲いた花が萎えしぼみ、そこから鮮血が溢れ出して、彼は少女の横に転がった。
事切れていた。
不快感に眉をひそめる。
発狂したような、乙女の如き甲高い悲鳴をあげて踵を返す、もう一人の男。少女は糸に吊り上げられる人形のような仕草で起き上がると、倍以上に膨張した腕を鞭のようにしゃなりと奮って、逃げ出す男を三つに切り分けた。
血が霧のように噴出し、個室は瞬く間に赤く染まる。
生きていれば吐き気を催すだろう濃密な香りが充満する室内で、少女は下半身を崩してこよりのように細くし、倒れ臥す男達の体内を弄り始める。
そこには何の感情も浮かんではいない。
顔を形成する部位が、まさしく顔であるとは限らないとはいえ、その光景にぞっとした。
私は、私を殺したこの化け物から、命の砂を取り返さなければいけない……。
そんなの、無理だ。
私は凍りつく。
男達の身体から引き抜かれた触手の先端には、金色に輝く砂時計が握られている。
命の砂時計。
既に無いはずの心臓がキュウと縮み上がるような恐怖が降りかかる。
硬直した私の目の前で、引きずり出された砂時計が吊り上げられ、少女は耳元まで裂けるようにして大きく開けた口にそれを放り込む。
甲高い破砕音を響かせながら咀嚼する音。
一噛みごとに命の砂が、まるで鮮血が噴き出すように、ぞろりと長い牙の隙間から溢れ散る。
やがて少女はそれを飲み下し、陶酔の声を上げた。
「はぁぁぁ……」
熱っぽい息を吐きながら身を振るわせた少女が、一拍の後、小首を傾げ、私に視線を向ける。
未だ美貌を残したままの顔面上部、はめ込まれた瞳に張り付いた瞳孔が、爬虫類のソレのようにぎゅうと細まった。
「あ……」
かすれた声が、自然と漏れる。
あの夜と同じだ。
雰囲気に呑まれ動けない私に、少女は向き直り、
「あはぁ」舌なめずり「でざぁと」
指呼を広げた触手が霞み、次の瞬間には顔面に衝撃が走っていた。触手の当たった壁が轟音と共に吹き飛び、私は錐揉みしつつ対角線上の壁に叩きつけられる。
全身が切り刻まれるような痛みが走る。
激痛に息が詰まって、視界が明滅を繰り返す。
床に転がった私の視線の先にぼたり、ぼたりと血が落ち、広がっていく。
「あ……あぁ……」
違う、これは違う。
違う違う違う……私はもう死んでる。血なんて出ない。私の想像だ。これは違う。
勝手に震え始める指先に力を込め、呟くように繰り返すと目の前の血液はゆっくりと薄れて消えた。
実際に血が流れ出たわけでもないのに青褪めた顔を持ち上げると、壁面が全て崩れ落ちた個室から僅かに少女の面影を残す化け物が這い出てくるところだった。
「ふ、ふふ、ふふ、ふ……」
篭った響きの笑い声を立てる少女は、先ほど私を打撃したほうの触手を齧っていた。繊維のちぎれる音を響かせながら先端を食いちぎり、咀嚼音を奏でる様は淫靡でありながらぞっとするおぞましさを感じさせる。
死なない。私は死なない。もう死んでる。大丈夫。立てる。立つんだよ。ほら。立たなきゃ、何も出来ない。
震えそうになる足に力を込めて立ち上がった私の前に、恍惚の表情を浮かべた少女が立ち塞がった。
「かみぃ、かかかみぃさまぁの……ここれがかみさまのぉ、あじぃ、なのぉねぇ……かみぃ、かみさま、かみ、かみ、さ、おおいし、おいしぃいいいのぉぉ」
何処から声を出しているのか、少女は咀嚼を繰り返しながら言う。
私はたまらず息を吸って後退した。
背中越し、ひんやり。アスファルトの壁が。壁が。
この化け物、私の霊体にごく薄く付着した――豊安浦姫から滲んだ神性の移り香のようなものを味わっているのだ。
怖い。恐ろしい。理解できない。
こんなもの、無理だ。
あまりにも、浅はかだった。
そんなこと、わかりきっていたはずなのにどうして、どうして私は、ノコノコとコレの前に出てきてしまったのか。
最早少女は輪郭すらその面影は薄く、赤黒く脈を打つ下半身は肉の塊のようで、分厚いそれのおかげで見上げるような巨躯になっていた。
発露される熱量のせいで体面がゆらゆらと揺れているように見える。
まるでなめくじの身体から人を模した醜悪なオブジェが生えているようだ。
これを悪夢と呼ばずして何を悪夢と呼ぶのか。
震えながら見つめる先でブツブツと繰り返していた少女が、その爬虫類染みた目でぎょろりと私の全身を捉える。
ゾッ、と全身が粟立った。
咄嗟に身をかがめた私の頭上すれすれを分厚い触手が通過し、アスファルト製の壁面を容易く打ち砕く。
私を衝き動かしたのは攻撃するという意思などではなかった。
そこにあったのは、ただの、食欲。
神の残滓を味わいたい、というだけの意思。
私のことなど、意にも介さない。
「……?」
不思議そうに首を擡げる少女。
私は素早く立ち上がり、わき目も振らずにただ駆けた。
肉体に縛られない身体は、私の意思を汲み取ってあっという間に出口へと到達する。そのまま戸をすり抜けようとし、けれど、それが悪手だったとすぐさま悟ることになった。
薙ぎ払うように振るわれた触手が私の側面を捉え、全身が軋むような衝撃を受け、弾き飛ばされながらも私は辛うじて身体を丸めて受身を取ろうとした。
「ぐっ」
なりふり構わず走っていたせいでまともに痛打を受けて涙がにじむ。直後、壁に激突した私に少女が追撃を振るい、壁から剥がれ落ちかけていた私は再び縫いとめられることになった。
いいい痛くない痛くない痛く痛く、いたいたいたいた、痛たたたた!?
さすがにこの状況だと自己暗示すらままならなかった。
肉の触手を通じて私の精神を攻め滅ぼし、屈服させんとする意思が直接捻りこまれ、それは全身を貫くような激痛となって私の意識を消し飛ばそうとする。
絶え間なく走る激痛に、私の精神が見る見る間に磨り減っていく。
全感覚が赤と白で明滅し、思考は痛みだけに塗りつぶされる。
消える。
消えてしまう。
私の中から私の意識が駆逐され、散り散りになって、消える。
死ではない、消滅。
私が消える。
嫌だ。
嫌。
しかし、私を襲っていた暴力的な意思は唐突に圧力が減じさせ、けれど私は生前の姿形すら保つことが出来ないまま丸く床に転がった。
「消えちゃう、だめ、ああぶないぃぃ」
消滅ではなく捕食が目的だったことを思い出した少女は辛うじて思いとどまり、高価な飴細工のお菓子に触れるような、そんな慎重な手つきで、長い触手の爪先を操って私を摘み上げようとする。
その意思は零度を伴って発露され、それを浴びた私は硬直しながらも、ただこの場から逃げることだけを願った。
そして、
ふ、と。
浮遊感に包まれ、私は泡を食って周囲の意思を拾おうと感覚を研ぎ澄ませた。
上方にあった食欲の塊がその意思を一気に転じさせ、暴力的なもので満たされるに至って状況を察し、自分がまだ人としての意識が残っている事実に気付かされた。
周囲を探ってみれば、周りは一面硬い岩盤であることがわかる。
バーの床から地中へ抜けたのだ。
安堵が精神いっぱいに広がる。
いくら金剛界に半歩足を踏み入れているとはいえ、物質界に縛られたままのあの化け物では壁を通り抜けることは出来ないだろう。
初めから壁の中へ逃げていればよかった。
霊体である自分には、わざわざ遠い出口を経由する必要性などなかったのだ。
最早疲労で考え事すらままならない。
磨り減った意志を振り絞り、私はバーの周囲を大きく迂回すると上空へと飛び上がる。そして風に流されるように浮かびながら豊安浦姫の下へ逃げ帰るのだった。
それは間違いだったのだと、深夜になってから漸く気付くこととなった。




