2、お役に立たないアドミニストレータ
2、お役に立たないアドミニストレータ
思考が明転する。
私は瞬きを繰り返す。
――――夢?
口にしたはずの言葉が空回りして、思考に残滓だけを残して融解する。
発声した事実だけが残り、言葉は現実を置き去りに滑っていく。
産まれたばかりというのは、もしかしてこんな感じだろうか。
そんな他愛も無い空想を描くような気分。何もかもが億劫で、身体中の骨が抜け落ちたような倦怠感だけがそこにあって、私は虚ろに視点を操作する。
無垢羽目板の天井。そこに等間隔で備え付けられた間接照明からは柔らかな光が降り注いでいた。かすかな駆動音。風が身動ぎする気配。大きく息を吸うと涼やかな木調の香りが肺いっぱいに満ちて、私はゆっくりと呼気を吐き出した。
ここは何処だろう。
見覚えの無い景色に首を捻る。
起き上がろうとしてそれが果たせず、苦笑した。それは、四肢に力が入らない状態で起き上がろうとしたのだから、上手くいかないのも当たり前だと気づいたからだ。その代わり、視線を巡らせて周囲を観察してみることにした。
そうして、どうやらここは木造建築のようだということに気付く。
周囲は深い色合いの格子壁で、床にはまだ青々しい畳が敷かれている。私はその、おおよそ十畳ほどのスペースの端っこに寝そべっているらしい。中央より奥側には壁と同じ素材の間仕切りが二つ、等間隔に置かれている。それによって、この領域は分かたれているようだった。そして、『こちら側』と『あちら側』には明確な差があった。それは――――
「――あら。目をお覚ましになられたようですね」
紅、白、紫の衣を羽織った女性が机に向かっていたのだった。
机には硯や毛筆が幾本か並べられ、女性はそのうちの一本を手に取り、振袖を押さえつつ書き物をしていた。こちらから窺える横顔は精巧怜悧で、伏目がちに下ろされたけぶるような目許と柔らかな口元は深い慈愛を感じさせる。青磁のような肌と薄い頬、片側に纏めて流される長い黒髪は艶やかで、光を浴びてきらきらと輝きを放って見える。落ち着いた物腰は、まさしく品の良い女性を体現したかのようで、私は知らず口を半開きにして魅入っていた。
「ふふ。そう見つめられるなんて、なかなか優秀なお方ですのね」
筆を置いた女性はそう言いながら頬を緩め、首を傾げながらこちらに向き直った。
視線が交わった瞬間、咄嗟に半開きになった口を閉じた。
恥ずかしい。
私は紅潮する頬を隠そうとして、動かそうとした腕の違和感に首を捻る。視線だけで身体を確かめようと視点を下げ、そのままぐるりと視界が一回転した事実に眩暈を覚えた。
何が……?
起きたのか、呆然とする私の耳に先ほどの女性の含み笑いが届く。
「ごめんなさい。初めてここに来た人間は、皆同じように驚くものだから、おかしくて。ふふ、悪気は無いのよ、許して頂戴」
丸くした目を女性に向けると、彼女はその様子に唇を薄く、目を細めた。
「貴女、最期は覚えていらっしゃる? 覚えてなくても構いませんけれど、わたくしのお話に耳を傾けていただけますか?
貴女のいるこの場所はわたくし、豊安浦姫命のお社ですの。貴女は覚えてはいらっしゃらないかもしれませんけれど、わたくしは小さな貴女を覚えているわ。この地を司る土地神を拝命していますからね。わたくしの土地の子が亡くなったなら、それはわたくしの管轄。魂魄となった貴女を引き寄せたのも、わたくし。どうかしら。ここまで、ご理解いただけて?」
ご理解いただけて? と聞かれても……。
それどころでは無い心境なのだが、有無を言わさぬ静かな迫力めいたものを感じて、辛うじて肯き返した。
それに、豊安浦姫命と名乗る女性――本人の言うところによると神様――は、満足げに一つ頷いてみせる。
「貴女の魂魄は肉体の死によって器を離れ、意識が覚醒に至ったことによってとても不安定になっています。まずは意思をしっかりと保ち、自分の姿を思い描いてください」
そう言って、豊安浦姫は瞼を伏せた。
私はといえば困惑しきりで、様々な疑問を思い浮かべながらおろおろとするばかり。
「消滅がお望みとあらば、そのままで結構」
消滅、という言葉が異様に不吉な響きを伴って聞こえ、私は慌てて両目を閉じると鏡に映った自分の姿を思い浮かべてみる。
平々凡々、黒髪童顔の少女が見慣れたセーラー服を着て瞼の裏に現れる。少女は愛嬌のある笑顔を浮かべて八重歯を見せ、くるりと一回転して浮いたスカートのふちを押さえた。
――これが、私……。
見慣れたはずの自分が、まさに目の前に立っていると思えるほどの精密さで描き出され、その事実に困惑した。
いくら想像力がある人間でも、ここまで細かく思い描ける人はいないのでは、という当惑。
それが先ほどまでの所在なさげな不安に取って代わり、心臓を真綿で包み込むような緊張が粟立った。
「上出来だわ」
豊安浦姫の声に、私は瞼を開ける。その声は何故か先ほどまでと違い、きちんと耳から私の中へ入って来た。彼女は相貌を緩め、その姿はまるで内側から光を放っているように、私の目に眩しく映るのだった。
「ここは金剛界と呼ばれる、意思の世界。この世であって、この世ではない場所。ここでは意思が何より優先され、力を持ちます。時間がありませんから、手早く説明しますね」
豊安浦姫はそう言って机の引き出しから何かを取り出し、掌に載せ掲げた。
「これは命の砂時計。本来ならこの全ての砂が落ちるそのときまで、貴女の『生』は栄光への道筋を燦然と照らし、未来という名の架け橋を作り続けたはずなのですが、大変残念なことに貴女の命の砂はある者に奪われてしまいました」
「……ある者?」
声を出して驚いた。声が出たことに、驚いた。
慌てて視線を下方に向ければ、そこには私の身体があった。小さな手、か細い腕、慣れ親しんだセーラーとエナメルのローファーが見えて、思わず安堵の溜息を吐いた。
「……説明を続けますよ。その者とは、貴女を死に追いやった張本人。覚えていますでしょう?」
死。
その言葉に引きずり出されるようにして、最期の記憶がまざまざと浮かび上がる。
悲鳴が空転して空転して喉が血で血で血が溢れかえってくる。ごぽりと粘着質な音を立てて。左右の視界がずれて、ずれて、ずれていく光景が血液で一杯になっていく。私の視覚、視覚がおかしい。おかしい、おかしくて、おかしくて、おかしくて、おかしい視覚には散らばった臓物が、
バラ、
薔薇と。
これは、そう、私の、私が、私から、はみ出して、零れ落ちて、私は、私は、誰もいない、もうここには、誰もいない。生きていない。母が死んで、父も死んで、私も死んだ。死んでしまった。
私が、そこで、死んでいる。
どうしようもなく、死んでしまっている。
私はあのとき、死んだのだ。
我に返ったとき、私は四つん這いの格好で息を荒げ、ツバを飲み込む余裕すらもなく虫の息で、心臓は弾けそうなほどに鼓動を打って、私がまだ生きていると必死に伝えていた。
噴き出した大量の汗は冷涼な空気に冷やされて、私は肺一杯に空気を取り込みながら呼吸を落ち着ける。
長らく、そうしていた気がする。
張り詰めていた気が抜けて、立ち上がろうとした私は腕が強張り、震えていることに気付く。
全て終わってしまったのだ、という無力感がしんしんと胸に染み入ってきて、私は呆然とそれを眺めるしかできない。
縮みこんでいた全身が落ち着くまで待って、私はようやく身体を起こした。
「……ご心配、おかけしました」
なんとか搾り出すと、不安そうに両手を組み合わせていた豊安浦姫は、強張った頬に僅かな笑みを浮かべた。
「いいえ、良いのです。わたくしこそ、浅慮でした。お許しください」
悲しげに目を伏せる豊安浦姫に私は言葉を返す気力もなく、首を振った。
豊安浦姫は部屋に置かれた間仕切りのすぐ傍から半歩下がり、頭を下げる。
「わたくしは今、この場内から出ることは叶いません。貴女に、お願いがあるのです」
「……お願い?」
それが何なのか考えようとして、脳裏に別のことが浮かんだ。
倒れ臥す母と頽れた父の姿。
ハッとして私は顔を上げる。
「そうだ、私のお母さんとお父さんは……っ!?」
思わず豊安浦姫に詰め寄ろうとしたところで、彼女はパッと身を起こし、顔を上げた。そこに浮かんだ表情を見て、私は膝を落とした。
鎮痛そうな表情を浮かべながら、けれどしっかりと私に視線を向けて彼女は口にする。
「貴女のお母様とお父様は、砂時計を砕かれ……中の命の砂も全て奪われてしまいました。もう、どうすることもできません。貴女の砂時計が完全に砕かれる前にこちらに招けたことは、本当に幸運だったのです」
私がここにいるのなら、父や母だってここにいてもおかしくはない。
そんな甘い考えは、容易く捨て去られてしまった。
項垂れる私に、豊安浦姫は殊更優しい声音で話しかけてくる。
「お願いというのは、奪われた命の砂を取り戻してほしいのです。あの、理を外れし者から」
言葉からは秘められた強い意思が感じられた。
定められた寿命を司る、命の砂時計。
役目を終えるのではなく、破壊され、奪われる。
生命の尊厳を損なう非道に対する憤りが、そこには篭められているようだった。
それが、空虚になった私の心に染み込んで、壊れかけた私の砂時計の皹から抜け落ちていくかのように通り過ぎた。
私は、独りだ。
「……嫌」
豊安浦姫が身体を強張らせたのがわかる。この金剛界は意思の世界。強い意思は本人から放出され、それは周囲にも影響を与えている。けれど、豊安浦姫の悲哀も、憂慮も、決意も、覚悟も、私には響かない。
私は壊れた鐘だ。
「……もう、嫌。嫌なの。嫌なのよっ! みんな死んじゃった。もう何も無いの。無いのよ、何も。何も残ってないの、私には。空っぽなの」
顔を擡げ、豊安浦姫を見ると、彼女は頬を引き攣らせて仰け反った。私は掌に爪が食い込むほどに拳を握り締め、豊安浦姫に駆け寄るとそのまま拳を振り下ろした。
拳が間仕切りの真上に到達した直後、そこから青白い火花が飛び散って鈍い音を立てた。豊安浦姫は小さく悲鳴をあげ、後方に倒れこむ。
膜のようなものに広がった波紋に歯軋りをして、私はなおも拳を振り上げる。
どうして。
どうして、どうして、どうしてどうしてどうして、どうして?
「どうして、私なのよ! おかしいじゃない!! あなた、神様なんでしょ!? 返して。返してよ! お父さんとお母さん、返しなさいよ!! 私を家に帰して!」
咆哮する私に、豊安浦姫は震えながら土下座した。
ごめんなさい、ごめんなさい、と。
繰り返す彼女の姿に、私の苛立ちは一層募るばかりだった。
「謝るくらいなら元に戻して! 私がどんな思いをしたのか、知りもしないくせに! 無責任に人に押し付けないでよ!! なんで私なの。なんで私なのよ!
他にも一杯いるじゃない。あ、あんな、あんなのにころ殺されて、死んだのよ! 私は、もうたくさん! もう関わりたくない! 放っておいて!!」
激昂混じりに振り下ろした拳が一際大きな火花を散らし、弾かれた勢いで私はうつぶせに倒れ、そのまま泣いた。
どうしようもない理不尽に泣いた。
声を上げて泣いて、泣いて、泣き疲れて身体を起こすと、豊安浦姫は未だ床に伏せたまますすり泣いていた。
豊安浦姫は幸運だと言った。
私がこうしてここにいられるのは、幸運だったと。
幸運ではなかった父と母は、一体どうなるのか。
私だって、本当はわかってるのだ。亡くなった者は戻らない。細く息を吐いて亡くなった祖母を見て、人の死というものを受け入れていたつもりだった。
こんなもの、酷い、ただの、子供の八つ当たりだ。
「……顔を上げてよ、豊安浦姫様」
豊安浦姫はゆっくりと身体を起こすと、赤くなった目元を隠すように掌を翳し、俯き加減にこちらを見た。
泣き腫らした顔は酷いもので、とても最初に見た威厳ある神様の風情ではなかった。
もっとも、同じように泣いた自分もおそらく大差はないのだろうが。
「ごめん、言い過ぎたよ。謝る」
豊安浦姫はゆるゆると頭を振って、
「いいえ、いいえ……」
と、また目尻に涙を滲ませた。