1、御呼びにならないナイトオブミザリィ
1、御呼びにならないナイトオブミザリィ
一目見て、後悔した。
見なければ良かった、と心底後悔した。
それは、シクシクと蝕むように広がる血液の上で倒れ臥す母親と、黒いスラックスを半ばから不自然に撓ませた父親の姿。その父親はほうほうのていの有様で、リビングの戸口へと手を伸ばしている。
今日は、私の誕生日だったのに。赤く染まったドアの向こうは、現実的なはずの白い潰れたケーキが異物めいて見える。
ガラス扉一枚を隔てた『あちら側』と『こちら側』は、まるで別世界のようで、私は擦り寄ってくる冷気に思わず身を振るわせた。
父親は辛うじて這い上がり、なんとか戸口の取っ手を掴む。視線が遭った。引き攣るような表情を浮かべた父親は掴んだ手を離し、崩れ落ち、それでも分厚い眼鏡の奥にいっぱいの雫を溜め込みながら昏い口腔を広げる。
麻奈、と。
その声は、けれど別世界であるこちら側へ届くことはなかった。
瞬きほどの時間、刹那の後、私が再び父親の姿を認識したときにはもう既にそこに父親はおらず、そこにあったのは四つに切り分けられた、父親だったもの。
バラ薔薇、ガラス扉に薄く紅を引きながら崩れる肉の塊の上に、ソレはいた。
一目見て『人体模型みたい』と、私は思った。
背中を丸めた赤黒いソレが、鋭利で長い爪を使って父親の残滓を摘み上げ、味わうように咀嚼する様子がここからはっきりと見える。
まるで、まるで現実味の無い。
両手に下げ持っていた学生鞄が指から滑り落ちた。
さして大きくは無いはずの音が、乾ききった地面に染み入る水滴のように世界に滲む。
左右に首を傾げながら耳元まで裂けた口を動かしていたソレが、長い耳を立てる。首を伸ばしながら薄いガラス扉越しにこちらを観察する様がはっきりと見えて、その瞳孔がツィ、と細まる様に恐怖を覚えた。
――逃げないと。
何をするべきかわかっているはずなのに、まるで私の心だけが別人の体へ乗り移ってしまったかのように現実味が無い。これはいったい、いつ見ている悪夢だ。いや、悪夢でもいい。悪夢でいい。だから、お願い。夢なら覚めて。
眼は目の前で模った悪夢そのものの一挙手一挙動すら見逃さないように見開かれ、喉は呼吸することすら恐れている。
逃げるべきだ。
何においても、全てを捨て去ってでも、逃げ出すべきだ。
わかっているのに、指一本も動かすことが出来なかった。
まるで、目の前の存在から僅かでも視線を逸らした途端、逃れ得ぬ死が待ち受けていると言わんばかりに。
咀嚼を終えたソレが何かを吐き出した。
――見ちゃだめだ。
けれど心の裡とは無関係に、操られたように首が動き始める。
――見るな。
警鐘が声高に心臓を叩く。
頭に響く、嘆くような鼓動。
朦朧とする。
――嫌……
首の骨が軋む音が胎内に産声を上げる。
ぎ、ぎぎぃ。
悲鳴のような、泣き声のような音。
床に崩れた父親の姿が視界の端に映りこむ。
――やめて。
噎せ返るような情報力が視覚をおかしくさせる。
ぎ、ぎぃ、ぎ、ぎ、ぎ、ぎぎ……ぎぃぃ。
内臓がキリキリと捩れるような恐怖。
抗い難い圧力に、首を縦に振らされている。
確認しなければ、という強迫観念。
心臓が神経を捻じ切るような疼痛を訴えてくる。
――やめ……――――
視界に入り込んだのは、何かの欠片だ。
乳白色の表面にぬるりとした粘液が塗りたくられて、蛍光灯の光を浴びてケラケラ哄笑をあげ、輝いて見える。
表面はなめらかそうで、しかし大小穿ったような孔と荒く掘り出された岩のような断面が覗いている。
それが何なのか、束の間気がつかなかった。
受け入れ難い光景を越える拒絶描写を脳が受け付けない。真っ白な空白。けれど、音もなく吸い寄せられるように凝視していると、ふと視線が合ったような気がした。
その昏い孔が眼球を損なった、落ち窪んだ眼窩であると察した瞬間、背筋から首筋にかけて冷たいものが走った。
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ…………………………!!
気づいたときには搾り出すようにして金切り声を上げていた。喉が切り裂けるのも躊躇わぬ、まさしく絶叫。自らの上げる劈くような悲鳴に鼓膜が震える。胎内が裏返るような不快感すら嘔吐せんばかりに声を上げて、急激な酸素欠乏で真っ赤に染まる視界の中、白い頭蓋だけが冷徹な視線を投げかけてくる。
なぜ、俺が死ななければいけなかった。
どうして、お前が生きている。
声なき声が網膜を食い破って脳内を陵辱する。
そんな中、一際明瞭な破砕音が耳に届く。
――――ずる。
ガラスの割れる音。
肺の空気を振り絞ってなお発していた悲鳴は最早音もなく、ただ慟哭を洩らすだけの機械のようで、血泡を吐き出していた私はまるで穴の開いた風船のように萎んだ。
絞る喉が失われ、気管に空気と血が流れ込む。
息が詰まることはなかった。
左の眼球に両親を屠殺した化け物が斜めに映りこむ。
――――ずるり、と。
左右の瞳に映る景色が、乖離し、乖離して、乖離してゆき…………
暗転。
ブラックアウト。
消失。
音が消えた。
瞼の裏に残ったのは、床に引き伸ばされた両親、そして、赤黒い、汚らわしい、忌まわしい、呪わしい、化け物の姿。
嗚呼。人とは、こんなにも容易く死んでしまうのか……。