濁点の落ちてくる夜
「予約してるんですって。行かせてください」
半泣きの新人君、君は年末の流通を舐めていたね?
「ばかやろ、おまえにだけジングルベル歌わせるかっ!俺は昨夜も午前様だ!」
主任がイライラするのも、わかんなくはない。あたしも飲み会は不参加だしさ。ま、独身女の集まりなんて、今日でなくても全然構わないんだけど。でもきっと新人君の彼女は、すっごく楽しみに恋人との時間を待っているに違いない。
「行かせてあげれば?とりあえず今日だけでしょ?明日二時間も早出すれば、どうにかなる」
「ありがとうございますっ!」
主任の言葉を待たずに、事務所を走り出る二十三歳。ドタキャンで彼女を泣かせたくないとか、いろいろあるんだろうなあ。主任が責めるように、あたしの顔を見る。ごめんね、あたしは最後までつきあうから。
両方の気持ちを汲めるようになっちゃったのは、まあ来た道行く道ってやつですか。キリストさんの誕生日に浮かれて、一週間前からクロゼットを掻き回してたこともあった。懐かしいっちゃ懐かしい……考えながらでも、キーボードを叩くスピードは落ちない。器用でしょ?亀の甲より年の功ってね。文句なんて並べたって、何にも片付かないもん。
こんなあたしは、世間様で言う「負け組」なんだろうか。
「夜食とるぞ。何食う?」
わーい、なんてメニューを開く若い衆たち。知らないんだろうなあ。領収書貰ってるから、会社の経費で落ちると思ってるんだろうけど、それ主任の奢りだよ。この不況の昨今、夜食代なんて会社が支給すると思ってんのかな。それを言ったら、きっと主任に叱られるけど。きっとさっきの新人君も、脅かすだけ脅かしといて、行かせてやるつもりだったに違いない。でもね、「良い人」を主張しない良い人は、わかり難いし報われないんだよ。主任、早死にしないでね。
「太田は何食う?」
「ん、卵丼。おいくら万円?」
「いらねえよ、そんなの」
「ま、そう言わないで受け取んなさいよ、老後の資金」
あたしは五百円玉を、主任のポケットにポトンと落とした。
「そんな大金、太田の老後に残しとけばいいのに。お一人様は不安だろうが」
「そっくり返してやる」
上司たって、年齢は一歳しか変わらない。男女雇用機会均等法って、我が社では形だけだもん。確かに初任給は一緒でも社員等級が上がるのは男の方が早いし、女は転勤ないし残業少ないしね。だから主任は、あたしよりも数万多く貰ってる、筈。
「ま、太田は老後まで逞しそうだけどな」
「佳人薄命って言葉、知ってる?」
「知ってるけど、それは太田には無縁の言葉だろ」
こういう軽口のやりとりは、別に嫌いじゃない。
「お、九時か。女の子は先に帰っていいぞ?お疲れ様」
まだ飲める時間だもんね、さっき今井ちゃんが彼氏に電話してたし。いそいそロッカールームに向かう女の子たちを横目で見て、あたしもそろそろ片付けようかなーと思う。
「なんで太田まで片付けてんだよ!女の子だけ!」
「あたしも女の子なんですけど」
「いけ図々しい!三十過ぎて女の子なんてどの口が!」
ちっくしょおおお!セクハラ暴言、訴えてやる!言い返そうとする前に、どさっとデスクに積まれるバウチャー。
「これ、打ってけ」
主任はそれきり、自分のデスクで作業をはじめた。しょうがないなあ、手伝ってやるか。去年は確か発注読み違えて、お正月にパニックだったんだもんね。
「主任、俺もそろそろ……」
「ああ、悪かったな。新婚なのに、こんな時間まで仕事させて。明日も頼むな」
十時を過ぎて、フロアの中には私と主任だけになった。みんな、さすがに今日は早いなあ。
「太田も、本当は帰りたかったか?」
デスクトップのモニタの向こうから、急に声がする。
「ん、いいよ。別に、予定もないしね」
「そうだな、老後の資金稼がなくちゃなんないし」
なんかもう、一言多すぎる男だわ。
「こんな日に夜中まで残業するようじゃ、誘う男も……」
「超余計なお世話!主任も夜中まで残業して、彼女はどうしたのよ!」
主任は、社外に可愛い彼女がいた筈だ。見たもの、一緒に歩いてるの。やっぱりああいうカワイイ系がいいんだよねって、がっかりした自分がショックだった。なんとなく主任とは、軽口を叩きながらずうっと一緒に仕事してくんだって決めてて、それは彼に恋人がいても変わらないことだったのに。
いいの、どうせ負け組なんだから。男の三十四歳と、女の三十三歳って全然違う。若い男より頼り甲斐があるなんてプラスポイントが加算される男と、子供を産むんなら焦んなくちゃなんて時間制限かけられる女。やだやだ、頭の中は肉体的に若い頃よりも柔軟になってるっていうのに。
「……別れた」
「へ?やっぱり?」
「どういう意味だ!」
「いや、年上に憧れる女が実情見て男の幼さに幻滅することは、ままあるからね」
当てずっぽうは、どうやらアタリだったらしい。主任は私のデスクまで、回転椅子を引っ張ってきた。
「俺、幼いか?もっと大人だと思ってたとか言われてもなあ……」
「残業中に身の上相談なんてはじめないで!一刻も早く帰ろうと頑張ってるのに!」
「帰ったって、ケーキひとつあるわけじゃなし」
「ケーキくらい、買って帰るもん」
「コンビニスイーツだろ、シングルベルが」
「お互い様でしょう」
雑談してる場合じゃないっての。早く片付けて帰ろうよ。
「冷たいな、太田は。傷心の男の話くらい、聴いてやろうって気は……」
「ない。あたしゃ老後の心配しなきゃならない、お一人様だから」
話をぶった切って、処理したバウチャーをとんとん揃えた。
「みんな帰っちゃったんだし、あたしも帰る。主任も疲れたからメンタル弱くなってるのよ。もう、帰ろ?」
PCの電源をとっとと落として、ついでに主任のPCも落としてやった。
会社を出れば、もう十一時近いってのに街はまだ華やかだ。きらきらのライトアップの下は、腕を組んだカップルと酔っ払い軍団。それぞれみんな、ちょっとずつ浮ついてる。
「太田ぁ」
「何でしょう?」
信号待ちで主任はいきなり、びっくりするような声を出した。
「今日なあ、人事からプレゼント貰ってなあ」
「昇級の内示?それとも」
言いかけて、あっと気がついた。内示って言ってるのに、主任の声は頼りない。
「転勤?」
「ん。まあ、三年で本社に戻れるし、昇級もあるけど」
信号が変わり、一緒に歩き出す。口に出したことでリアルが迫ってきたのか、主任は唇をきゅっと結んだ。
「いつ?」
「年明けに辞令が出て、二月から任地。ま、サラリーマンだからな」
主任の恋人がカワイイ系だと知った時よりも、もっと重いものが頭の上に落ちてきた。
どこからか聞こえてくる、ジングルベルの音楽。なんだか自分の感情が、急に現実から乖離していく。会社に行けば、主任の席にいるはずの顔。それが残り一ヶ月でなくなってしまうの?
「やだ」
自分の口からこぼれた言葉が、まるで他人の言葉みたいだ。
「主任がいなくなっちゃったら、誰が受発注の管理するの?」
「そりゃ、後任が。太田が舵とってやって」
「月末締めの時、知らん顔して夜食用意してくれたりする?」
「俺の価値は、そこかよ」
ライトアップを背に、苦笑した顔が映る。もう、駅に着いてしまった。
「身軽な独身だからな、俺は。連れて行きたい女はいるけど」
さっき彼女と別れたって話を聞いたばかりなのに、連れて行きたい女って言葉に、ちょっと頭に血が戻る。
「ついて来いって言えないの?」
「何年か前に、断られてんだ。今は問題なさそうだから、再チャレンジしたいってとこ」
主任は少し、肩を竦めた。
「再チャレンジねえ……そのわりには、彼女と別れたばっかりだったり?」
「ああ、全然別のタイプなら、切り替えられると思ったんだけどな。やっぱり俺は、若い女の子可愛がるってのには向かないらしい」
「わかり難いんだよ、主任の気の遣いかた」
「口に出さんでも汲んでくれるヤツが、手近にいたからな」
パスケースを改札にかざすと、街の喧騒が遠くなる。年末の華やぎは、残業の中に埋没する。そうか、転勤か。彼女と歩いているのを見るよりも、席にいなくなるってことが想像できない。あり得ることを考えなかったあたしは、お一人様同士の軽口も、おしまいになるのか。
「再チャレンジ、がんばってみれば?お疲れ様」
振ろうとした手をいきなり掴まれて、思わずたたらを踏む。
「何?遅いからもう、相談になんか乗らないわよ」
「いや、これから再チャレンジするから、つきあえ」
「女口説きに行くのにまで、つきあうか!残業手当割り増されたってごめんだね!」
主任は一瞬きょとんとして、それから笑い出した。
「忘れてんのか、もう何年も前だもんなあ。お前もあの頃、男がいたみたいだしな」
言われてやっと思い出す、何年か前の今日の風景。まだ役職のなかった主任と、やっぱり年末のドタバタの残業の中だった。
なあ、納会の日にふたりで打ち上げしねえ?
寒いから、外飲み億劫だもん。実家に帰る準備もしなくちゃだし。
ただそれだけの会話だった、と思う。あれって、もしかしてデートのお誘いだったの?確かに、あの頃には恋人がいて、残業中に大文句言ってた覚えがある。だから、それのお疲れさん会だとばっかり……
「え――――っ!あたしぃ?」
無言で頷く主任の手は、まだあたしの手を握っている。ちょっとちょっと!これってどういうシチュエーションなの?
「人事からのプレゼントは、嬉しいもんじゃなかったからな。でも、奇跡が起こってもいい日なんだろ?」
主任の目は、あたしが思ってたよりも遥かにマジだ。お一人様、負け組にこの気迫。
「すぐについて来いなんて、言わない。でも、前向きに検討しましょう程度の返事をくれ」
「ま……前向き、に、検討……」
「しろよ?来年もシングルベルなんて、御免だからな」
それって、検討だけじゃないじゃん!来年一緒にいろって言ってるじゃん!
でも、そうすれば主任が不在になった部署とか、主任の恋人のこととか、気にしなくてよくなるんだな。熱烈に好きー!ってわけじゃないのに、ずっと一緒にいるつもりになっていた人。
「濁点、つけられるように努力します」
「おう!」
やっとあたしの手を離した主任は、上に向かって拳を持ち上げた。
「プレゼント、しかと受け取った!」
酔っ払いだらけの深夜の駅、もう振り向いてみる人もいない。
ま、いいか。負け組が妥協したわけじゃないぞ、良い人なのは保証つき。これも奇跡の夜のプレゼントかしらん。そろそろあたしも、シングルベルに濁点つけたくなったとこ。
出遅れたお一人様に、赤いお鼻のルドルフ君が曳いてきた橇に乗せてきたものは、これからはじまる恋の予感。それも粋ってもんじゃないの。
ホームに入ってきた電車の中から主任に手を振りながら、あたしの耳にはやっと音楽が流れはじめた。
じんぐるべーる じんぐるべーる じんぐるおーるざうぇーい
その時になってはじめて、これは橇遊びの歌だったなと気がついた。でも、橇遊びもひとりじゃつまらないものね。
だから濁点をつけることに同意したのは、実はやぶさかでないのだ。
fin.