第伍話:辰巳
剛は手にしていた巨大な鉞を肩に担いだ。
「柾希……手ぇ出すんじゃねぇぞ……」
そして、並び立っている少年剣士に呟くと、一歩前へと歩み出る。
「俺とこの得物が手加減出来ないことは知ってんな!? その上で喧嘩、売ったんだよなァ!? 蒼!」
剛が凄む。厳つい顔が更に威圧的に変形し、相手に殺気の篭った視線を遣る。
剛は目の前の敵を、単なる友人とは認識してはいない。
『魔』に堕ちたと宣言したその男は、剛の溺愛する妹の恋人なのだ。義弟として接してきた相手なのだ。
だから、尚、この青年の怒りは大きかった。
蒼司は何の相談もなしに行動に移したのだ。
それが自分を敵に回し、妹を捨てるという結果を招くことを理解していたにも関わらずである。
滝口の頂点にあったということで、彼の苦悩はさらに強かったのだろう。だからこそ、自分に打ち明けて欲しかった。そうすれば、少しは彼の支えになれたのではないか。
「剛……それはこちらも同じだ。……童子切の試し相手になってもらう」
剛の迫るような迫力に臆すことなく、童子切を構え、淡々と蒼司は語った。
「そんな封印されていただけの骨董品が、四天王に通用するかよ!」
巨漢の青年が吼えつつ、駆ける。隆々とした肉体が躍動する。
「四天王、坂田剛! 行くぜ!」
豪腕から繰り出される重々しい一撃。蒼司は半身捻ってその重刃を避ける。
振り下ろされた鉞は地面にめり込む。地が震える。
並みの男が相手であるのならば、この瞬間に剣士の勝利は確定していたであろう。
深々と埋まった鉞を引き抜く前に、その刀で斬り捨ててしまえばいいだけだ。
しかし、その斬撃を放つことなく、蒼司は後方へとその身を逃がす。地面を抉りながら剛の鉞は追の一撃を放つ。土砂を撒き散らし、うねりを上げ、閃く。
「蒼! どうした!? 童子切を試すんじゃねぇのかよ!?」
まるで苦にすることなく、その重い得物を軽々と扱い剛は蒼司を追った。
「力任せの戦闘はいつか身を滅ぼす、そう言ったな?」
予想されていた剛の動き。蒼司は余裕を持って語りかける。
「ほざけよ! そのナマクラで受けきれるモンならなァ!」
獣が咆哮を上げるように叫び、力任せに鉞を薙ぐ。
「……良かろう」
ぽつりと呟くと、蒼司はその刀の鍔元にある飾り――木製の桃の花をその手に掴んだ。
「蒼司!」
その動作を見た柾希が叫ぶ。
桃の木は呪術的には、聖なる木として知られる。
理想郷を指す言葉『桃源郷』や、中国の仙道で儀式に使われる『桃剣』、さらには鬼退治の英雄譚『桃太郎』など、桃の神聖さから来る言葉や逸話は数多い。
その桃の木で浄化、封印するのに適した対象に刀剣類が挙げられる。
刀剣類がもたらす災いを『刀禍』と呼称するからだ。
そして、桃の花も『桃華』なのだ。
言霊という呪的思想がある。
言葉には霊的な力が宿り、その言自体が事を成すという考え方である。
万物の名称、呼称という言葉は個を縛るもっとも短い呪であり、祝詞なのだ。『とうか』という呪を、『とうか』という同音の祝詞で浄化する。
よって、桃の花にて、この『童子切安綱』という妖刀は封じられていたのである。
制止するような柾希の声を他所に、蒼司は躊躇することなく桃華を引き千切った。
童子切の刀身から、禍々しいまでの邪気が開放される。
目覚める刀禍とは、果たして――。
指定暴力団の組事務所。その入り口付近の路地の角に隠れ、そこを張り込む男が一人。
一眼レフの使い込まれたカメラを大事に抱え、その男は武者震いを抑えていた。
「危ない橋を渡るのも、これが最後だ……」
一人ごちる。
ジャーナリストを目指し、上京し早十年。男は夢と現実のギャップに苦しみながらも、どうにかカメラマンとして生計を立てる間際まで漕ぎ着けることが叶った。
お守り代わりの首から下げたロケットを開く。
かつては彼の両親の、その馴れ初めに大きな役割を果たした古ぼけた銀のロケット。その中には、愛らしいと男が思う女性の笑顔が閉じ込められていた。
「雅子……」
この仕事が成功すれば、大手雑誌社の専属カメラマンとしての道が開けるのだ。
それが現実のものとなれば、彼女に求婚することが出来る。
「良い夜だね」
不意に背後から少年の声がして、男は驚き、振り返った。
強い癖毛の黒尽くめの服装をした少年が、そこに一人。両手は後ろに組まれているのか、正面からは窺えない。
「な、何だよ……」
男は安堵の息を吐いた。
「何をしているのかな?」
屈託なく少年は語りかける。
「……お前には関係ないだろ? 子どもはさっさと家に帰って、勉強でもしてろ」
建物の中にいる被写体に出て来られては困る。入ってかれこれ一時間余り。そろそろ会合も終わり、ターゲットは姿を現すはずである。人生のターニングポイントを男は迎えようとしているのだ。
それを邪魔されてはこれまでの苦労が水泡に帰す。男は早々と会話を打ち切るべく、あからさまに少年を邪険に扱った。
「関係あるんだよね……俺、アンタの様な蝿を払うのが仕事だから」
言葉とは裏腹に、少年は笑う。そして、背後にあった両手を体の側面に動かした。
その手にあるのは日本刀。
「ひぃ!」
男は小さく悲鳴を上げた。
「誰に殺されるのか、興味あるよね?」
変わらない表情で少年は告げる。
「俺、滝口、八卦衆の一人、って、あ!」
男はその台詞を最後まで待たずに、背を向けて逃げ出していた。
「……せっかく、決めようと思ったのに……」
その背中を見ながら少年はぼやき、刀身を引き抜く。
「……風よ、裂け……」
そして、続けて呟くと、その刀を袈裟に振った。
その刃に、風切り音と共に、鎌鼬が生じる。
少年から一区画先にあった男の体が血飛沫を上げる。
断末魔の叫びはない。男は即死だったのである。
少年はゆっくりと男の亡骸に歩み寄った。
足元、血の池の広がるアスファルト。肩から斜めに切断され、二つに切り分けられた死体が、そこに転がる。
「……話を最後まで聞こうよ? 俺、辰巳当麻」
しゃがみ込み、人間だった肉塊に黒衣の少年は名乗った。
久方ぶりの月夜。
もう一人の滝口の少年は、そのままの姿勢で、それを見上げる。
「さて……彼女は餌に食いついてくれるかな?」
目を細め、当麻はまた笑った。
深夜近い駅前の大通り、スクランブル交差点。そこに面したファッションビル。
営業自体は終了しているものの、その壁面に設置された大きな看板は煌々と照らされていた。看板を飾るのは、今が旬のカリスマモデル。
その下。
看板でポーズを決めるモデルに劣らない美貌とスタイルを持つ少女は、不意に自然界にありえない氣の流れを感じた。
「……木行の氣の流れ?」
少女が僅かに感じたその氣の流れは、彼女ら陰陽師が扱う秘術、五行のものに酷似していた。
「……まさか……辰巳?」
この街に存在する、世界の闇を知る者。相方の少年と、標的の蒼司は単に剣士である。五行の類は使えない。残るは彼女が知る唯一の不確定人物。
「……可能性、高いわね……」
瑞穂は呟いた。
万物の根源たる『太極』。
太極は『陰』と『陽』の二元を生ずる。
二元は、五行の内の『土行』を除く、『水行』『金行』『木行』『火行』、即ち、太陰、少陰、少陽、太陽の四象を産み出す。
陰陽師が使う五行の秘術は、このそれぞれの分野に働きかけ変化を起こすものだ。
しかし、その四象は、さらに八つに細分化できるのである。
それが『八卦』と呼ばれるものなのだ。
「……辰巳は卦名で巽……方位は東南、対応する事象は『風』……」
風は五行では、木行が司る自然界の力である。それは彼女が感じた氣に、まさしく一致している。
「……私を誘ってるのかしら?」
そう言うと、瑞穂は時計を見た。
「……あのバカ……本当に死んでるんじゃないでしょうね……」
どう見ても、約束の時間はとうに過ぎている。
「……! 木行の行使者が辰巳だとして、相手は誰よ?!」
今のところ瑞穂に考えることのできる対戦カードは二通り。辰巳対詩緒、もしくは蒼司である。
どちらにしても、当たり、だ。
「世話の焼ける!」
瑞穂の中では、詩緒がその相手だと想定されたらしい。
言うや陰陽師の少女は、氣の流れ来た方向へと駆け出した。
「……遊撃の滝口として、役目を全うするだけのお前には、まだ感じられない変化かも知れんが……」
遊撃とは特定の守護地域を持たず、各地を転々としながら『魔』を狩ることを任務とする滝口のことである。
蒼司は柾希の愛刀を使うように詩緒に言うと、そう言葉を続けた。
「平井万葉という女は、滝口という組織を私物化しようとしている」
平井万葉。この源蒼司が棟梁であったとき、四天王の一角を担った人物。そして、現棟梁の女性滝口。
「戯言を」
詩緒は無表情に呟いた。
「……信じる、信じないはお前が好きに判断すればいいだけだ……しかし、私は滝口を敵とは認識していない。だからこそ、事実を語っている」
そう言うと、蒼司は詩緒の刀と切り結ばれていた童子切から力を抜き、その刀身を鞘へと納めた。
「……俺から見ればお前は敵だ」
自らに背を向けた蒼司に詩緒は、そう放ちながらも斬りかかりはしない。
「……だろうな。しかし、お前はまだ私の敵ではない」
「らしいな。だが、いずれお前を脅かす敵になる」
「……その時は、降りかかる火の粉を払わせてもらおう」
顔だけで背後を振り返り、蒼司は薄く笑った。
「……そのためにも柾希の刀を持て、詩緒。力量を見れば、お前は十分に鬼切を帯刀する権利はある。それに、平井に悪用されれば柾希も浮かばれまい」
四天王の扱う武器は世襲制ではない。その時代、その時代の優れた滝口たちが継承していくものである。
通例として、後継者が見つかるまでは、形見として遺族が保管しているので詩緒の手元にあるのだ。
その言葉をかけると、蒼司は再び顔を正面に向けた。
「……なにより、私を止めるには必要な力だ」
そして、『魔』である青年はぽつりと呟いた。
詩緒は独り、蒼司と刀を交えた境内に残っていた。敵として戦った青年画家の姿はすでにない。
彼の人物が座っていた、円柱状の石の椅子に腰を下ろし、滝口の少年は時間の経過を忘れて思案していた。
左手首にある小さな銀色の鈴を、ただ眺め続けながら。
柾希はこれを『笑顔のカタチ』と言った。
それは詩緒にとって、兄の形見であり、決意の凝り固まったものであり、人としての絆を紡ぐものである。
夜風が優しく、その鈴を鳴らした。
まるで少年に何かを語りかけるように、微かに奏でる。
風が走り去った。
静寂が辺りを包む。
「……解った」
詩緒は小さく呟いた。
そして、鈴の剣士は立ち上がると、その場に背を向けた。




