第四話:遭遇
昼過ぎまで降っていた雨は上がり、雨雲なき空が広がっていた。
降り続いた雨のため、数日ぶりに姿を見せた陽は、しかし、すでに暮れかかっている。
「待っててくれなくても良かったのに」
本当に申し訳なさそうに、琴音が言う。
高校総体の予選を兼ねた大会の行われた武道館。その入り口から伸びる大階段を、琴音と瑞穂は並んで下りていた。
「いいのよ。この後の約束まで時間あったし。それに琴音の国民栄誉賞への第一歩を、最後まで見たかったから」
そう冗談めかしながらも、瑞穂は伸びをして、欠伸を噛み殺す。
彼女のその言葉には、嘘が半分含まれていた。
待ち人は結局、現れなかったわけであるが、妹の晴舞台を見に来るかも知れない敵を、瑞穂は最後の一瞬まで待っていたのである。
表彰式、閉会式は確かに彼女にとっては退屈なものであったが、役目でもあったのだ。
当然、幼馴染みとして祝福したい気がないわけではなかったのだが、琴音の優勝という結果は当たり前のこととして予想していただけに、それに対するテンションが明らかに任務に比べて劣っていたのは事実であった。
「そう。それなら良かった」
しかし、瑞穂の言葉を国民栄誉賞の件はさておき、額面どおりに受け取った琴音は安堵の表情を浮かべて微笑んだ。
「……本当に今回は嫌な役回りね……」
そんな彼女の横顔を見て、うんざりと瑞穂は小さく呟く。
しかし、同時に適任であることも理解していた。
他の滝口や陰陽師に任せてしまっては、恐らく琴音は悲しむだけの結末を迎える可能性が高いのだ。
事情を、琴音の気持ちを知る自分ならば、彼女を傷つけないよう配慮して動くことが出来るかも知れない。この陰陽師の少女は、そう考えてわざわざこの仕事を引き受けたのだから。
「俺一人で十分だ」
それにそう語った、どこぞの無鉄砲で無愛想な身のほど知らずのお目付け役という側面もある。
ほんの数年前のことである。
伝承される四つの退魔の武器を扱う高位の滝口『四天王』に空位が一つあったものの、その一角を担う稀代の滝口と謳われた詩緒の兄、柾希を始めとして、現在の棟梁である平井万葉等、当時の滝口は過去に例を見ない精鋭ぞろいであった。
その頂点に君臨していた人物こそ、今回の標的でもある源蒼司なのだ。
今回の任務を一人で遂行しようなどと、自殺行為に過ぎないと瑞穂は思う。
「……あのバカ……死んでなきゃいいんだけど……」
ぽつりと待ち合わせをしている少年に愚痴る。
その少年は、滝口としての任務に対し引き際というものを知らない。例えどの様な状態に陥ろうとも、死ぬまで戦い続けるだろう。
当然、相方である滝口『あのバカ』とその標的の死闘が、上がった雨と共に終わりを迎えたことを瑞穂は関知していない。
「で、誰と待ち合わせてるの? もしかして、彼氏とか?」
呟いていた瑞穂に、琴音が興味深げに訊ねる。
「じょ、冗談! なんでアイツなんかが!」
間髪入れずに瑞穂は即答した。
「ふぅん、そうなんだ」
瑞穂の反応を見て、意味深長に琴音は笑う。
「ち、違うわよ! 本当にそんなんじゃないってば!」
「ふぅん」
琴音の疑いの眼差しが瑞穂に刺さる。
「な、何よ!?」
眼差しに耐え切れず、瑞穂は視線を琴音から外す。
「瑞穂――」
琴音はそのことについて瑞穂に追求を開始するつもりだったのだが、それは叶わなかった。
「琴音!」
背後から不意に、彼女を呼び止める男の声がしたからだった。
突然の声に瑞穂は気持ち、身構えて振り返える。
声の主は男である。標的である可能性があるのだ。
だが、その声が記憶の片隅にある蒼司のものと一致せず、また、一瞥で標的の人物でないことを判別すると、陰陽師の少女は胸を撫で下ろした。
もしこれが仮に蒼司であったのなら、自分がここに現れた大半の意味を失ってしまう。
そこに立つのは細身で長身の少年だった。
メンズ雑誌のモデルが、そのまま抜け出したような優男。
その優男が、下心が窺えるような笑顔で、やあ、と言わんばかりに左手の平を胸の高さで開いていた。
彼の背後には、無愛想面をした少年が一人。
この優男について歩くのが不満だと、明らかに態度に現れている。
癖の強い黒髪、黒一色の服装。
瑞穂の気を引いたのは、むしろこの少年だった。
佇まいや、格好が相方の少年に酷似しているのだ。
だから、直感で理解した。
この少年は『こちらの世界』の人間だと。
「河原くん」
黒衣の少年に気を取られる瑞穂をよそに、琴音が優男の方に声をかけた。
「今日の大会、大活躍だったね。応援してたよ」
二人の少女に歩み寄りながら、優男がウインクして微笑む。
「応援してくれてたんだ。ありがとう」
琴音は笑顔を作ると、素直に礼を述べた。
「礼なんていらないさ。僕が琴音を応援したかっただけだからさ。それよりも、決勝の相手はチャンピオンだったんだろ? 本当に凄いよ! おめでとう」
いかにも感心したような口調で感想を述べると、次に優男は琴音の隣に並ぶ瑞穂に視線を送った。
瑞穂は警戒するように黒衣の少年を見ていたのだが、その視線を感じ、優男へと注意を移した。その視線に強い情欲を察知したのだ。
瑞穂はこういう勘が鋭い少女である。否、瑞穂はこういう感情を感じ取れる鋭い陰陽師である、と表現する方が正確であろう。
人の感情というものも陰陽道の思想、陰陽五行に配されるのだ。瑞穂は五行の力を通常の状態で感じ、行使できる有能な陰陽師なのである。よって、人の感情を五行として感知することがままある。特にこういう類の邪な感情は感知し易いのだ。
「君は? 琴音の友達? スタイルも抜群だし、凄くカワイイね」
瑞穂を足元から順に全身を見て、優男は言う。
「どうも……」
褒め言葉なのだろうが、しかし、隠された感情を知る瑞穂はそれだけしか返さなかった。
「……誰? このキモいの?」
琴音の耳元に顔をやり、小声で瑞穂は訊ねる。
「はは。照れちゃって。本当にかわいいよ。君、シャイなんだね。僕、河原潤一。琴音のクラスメイト。よろしく」
琴音の答えを待つことなく優男は自ら名乗ると、瑞穂に右手を差し出す。
しかし、瑞穂は握手を求めた潤一の右手を無視した。彼の内にある欲情を知れば、当然といえば当然の行為である。
琴音は非礼にあたるその行為にうろたえた。だが、それを見なかったことにすると、瑞穂は後方に控えるように存在する少年について訊ねた。
「それより、後ろのあの人は、貴方のご友人かしら?」
「え!? アイツ!?」
やり場のないままの右手を宙に置いたまま、潤一は驚きの声を上げた。
自分よりも連れ合いに瑞穂の気が向けられていたのが余程、衝撃が強かったのか、潤一の表情が強張る。
「あ。そうね! 紹介し合わないとね! 彼女は私の幼馴染みで、賀茂瑞穂さん。そちらの方は、河原くんのお友達?」
場を取り繕い、空気を変えるように、極めて明るく琴音は瑞穂を紹介した。
「あ、ああ。オイ、お前」
琴音の発言を受けて、偉そうに潤一は後半に控える黒衣の少年を呼んだ。
「何?」
気だるそうに少年は返事をすると、階段を数段下りて三人に近付く。
「お前に紹介な」
見下すように潤一はその少年に言う。
「こちらが源琴音さん」
「はじめまして。よろしくね」
潤一が琴音を紹介し、琴音が挨拶と共に頭を下げるも、少年は無反応だった。呆然と琴音を見るだけだ。
「で、こちらが賀茂瑞穂さん」
しかし、瑞穂の名前を聞いた瞬間、少年はぴくりと眉を動かした。瑞穂はそれを見逃さなかった。
「どうも……どこかで逢ったことがあったかしら?」
出会いの挨拶にしては冷淡な物言いで、含みを持たせて瑞穂は微笑んだ。
「いや。初見だよ……『賀茂』さん」
少年は瑞穂の名字を妙に強調し、彼女の言葉を否定する。
「俺、辰巳当麻……」
そして、ぶっきらぼうに自己紹介をした。
「『辰巳』くんね……」
瑞穂は当麻がしたように、彼の名字を強調し復唱する。
名前を聞いても心当たりはない人物であった。しかし、この辰巳当麻と名乗った少年は自分の名前に反応したのだ。
瑞穂は現代日本で五指に入る陰陽師である。
この少年はその自分を知っているのだ。この少年が同じ世界に生きる人間であるという瑞穂の考えは、確信に変わった。
「そうだ! 瑞穂も当麻が気になってるみたいだしさ、四人でどこか遊びに行こうか?」
二人の間の不穏な空気をどう読んでの提案かは解らないが、潤一はそう言いながら、琴音と瑞穂の肩を抱いた。
「ごめんなさい。今日は疲れてるから」
「この後、待ち合わせてるから」
琴音はさりげなく、その手から逃げ、瑞穂は嫌悪を示し、その手を払い除ける。
「ちぇ」
潤一はつまらなさそうに舌打ちをした。
「あ! いけない! もうこんな時間だよ!?」
ちらりと琴音は時計に目をやると、少し大袈裟に焦りながら瑞穂に話しかけた。
「待ち合わせまで、もう余裕ないよ?」
そして、続ける。どうやら琴音もこの場を早々に逃れる口実を作りたいようだ。
「あ! 本当!」
正直なところ瑞穂は、いい加減、この潤一という男にキレてやろうと思い始めたところだったのだが、琴音の今後の学校生活のことも考え、その言葉に乗った。
「ごめん、河原くん。じゃあ、また学校でね」
琴音が潤一に、別れの挨拶を切り出す。
「残念だけど、予定があるならしょうがないね。じゃあ、気をつけて」
引き際は心得てはいるらしい。潤一は意外にあっさりとそう言うと二人に手を振った。
しつこく食い下がることを予想していた瑞穂は、肩透かしを食らうも、一礼をして、早々に階段を下り始める。
「うん。今日はありがとう。河原くんも気をつけて」
琴音はひらひらと手を振り返す。そして、瑞穂を追った。
「お前のせいだぞ。今日こそは琴音を落とす予定だったのに……」
手を振り琴音と瑞穂を見送っていた潤一は、二人の姿が遠のくと当麻をきつい口調で責めた。
どこをどう解釈すればそのような結論に至るのかは解らないが、彼の理論ではそうなるらしい。
父親に似て、唯我独尊なところがありありと窺える。
「朝まで一緒にいた女がいるだろ? なんでわざわざ別の女に手を出す必要があるんだよ?」
当麻は潤一の友人ではない。彼の父親の雇った人間である。今はボディガードとしての潤一についているだけなのだ。
「くだらないこと聞くなよ……アイツは用済み。一度、股を開いた女なんて、もう性処理道具でしかないさ」
潤一は口端を歪める。
「それに琴音は間違いなく処女だぜ。遊び甲斐があるだろ? なんなら俺がヤッた後に回してやろうか? 調教する面白さを教えてやるぜ?」
そして、そう言葉を続けると下品に笑った。
「……くだらね」
冷ややかに当麻は呟く。
「あ! 瑞穂だっけ? アイツのが好みか?」
「……『賀茂』? いや、興味があるだけだよ……」
ぽつりと当麻は口にした。
「じゃ、俺の依頼も受けないか? 報酬はあの女で」
にやけ面で潤一が提案する。
「……君の親に頼んで、部下のヤクザ者にでも拉致らせるつもり?」
「馬鹿だな……あんな女、俺の魅力で楽に口説けるさ」
根拠のない自信を、潤一は見せて嗤った。
「……今夜は剛三さんからの仕事があるんだよね」
河原剛三。その国会議員こそ、当麻のクライアントであった。
「明日でいいさ……作戦があるんだよ。名付けて『白馬の王子様』作戦さ」
ネーミングからして、さぞ底の知れたお粗末な作戦なのだろう。当麻はそう思って、それを顔に出すが、潤一は理解しない。ようようと作戦について語り出す。
「式神、だっけ? お前の使う化け物。あれでさ、琴音を襲うんだよ――」
「それを君が助ける、って?」
作戦の概要を当麻が引き継ぎ言う。やはり底の浅い陳腐な作戦だ、と当麻は鼻で笑った。
「わかってるじゃん! よろしく頼むぜ『八卦衆』の辰巳さんよ」
当麻の背中を二、三回叩きながら仰々しく宣う潤一の言葉は、むしろ、人を小馬鹿にする様にしか聞こえない。
八卦衆という世界の裏の顔を持つ少年は、このクライアントの愚息に呆れ笑いを送った。




