第参話:童子切
童子切安綱。
伯耆国大原安綱(ほうきのくに おおはら やすつな)という平安時代の刀工が平安中期に打った太刀である。
この刀は安綱の最高傑作であり、『天下五剣』――最も優れた五本の日本刀、の一つに数えられる、言わば名刀中の名刀であった。
そして、この名刀は退魔の刀でもある。
源氏の英雄の一人、源頼光が、かつて大江山に住んだとされる鬼の王の一人『酒呑童子』の首を刎ねた刀なのだ。
故に、この名刀は『童子切』の号を冠するのである。
童子切安綱は滝口たちが代々、宝具とし保管し、そして、封印してきた刀であった。
『魔』を斬った刀には、その『魔』の穢れが残る。通常はその穢れを祓い浄化させるのだが、ときにその残滓が祓いきれず、強力な呪として刀に残ることがあるのだ。
呪の残った刀は、あるものは所有者に仇なし、あるものは新たな『魔』を呼ぶ、産む。
災いをもたらす刀、妖刀へと変じるのである。
封印されてきた童子切安綱という名刀。
鬼の王の呪いは祓いきれるものではなく、その名刀を妖刀へと変じさせたのだ。
「……どうしても行くのかい?」
線の細い、いつもは優しげな雰囲気に包まれたこの少年の顔には今、厳しい表情が浮かんでいる。
その少年こそ、稀代の滝口と謳われる渡辺柾希であった。
問いかけた一言に、柾希の思いが、これまでの共に死線を潜り抜けて来た絆が籠められていた。
その言葉を受けて、蒼司は少しだけ微笑んだ。
「……ああ。後戻りは出来ない」
だが、そう返答し、戦友であり親友の呼び掛けを拒絶する。
「考え直せ! 蒼! お前の考えは解らんこともない! しかし、その考えを貫けば、お前は『魔』になっちまうんだぞ!?」
蒼司の前に立ちはだかる、もう一人の男、巨漢の青年が叫ぶ。
「覚悟の上だ」
「……それじゃあ、妹はどうなる?……飛鳥はお前を待ってるんだぞ!?」
巨漢の青年は、目から涙を零した。厳つい顔に似合わず、この男は三人のなかで一番に情に厚く、涙もろい。直情型の人間なのだ。その筋骨隆々とした肉体が戦慄いていた。
「……もう遅い……私はすでに、お前たちの言う『魔』に堕ちている……」
目を伏せて蒼司は言った。そして、手にした刀を抜き放つ。その鍔元に桃の木で彫られた、小さな桃の花が飾りのように吊られている。
その桃の花こそ、封印の証であった。
「……柾希、剛……四天王としての役目を果たせ……棟梁としての最後の命令だ……」
「っ! その刀っ!? 獅子王じゃねぇ!? 蒼! てめぇ!」
巨漢の青年――剛が吠える。
「童子切!?……蒼司、君は……」
柾希には、封印されていた童子切安綱を奪うという暴挙に、彼の真意が理解出来た気がした。
緑の映える紫陽花の葉。溜った雫がその表面を流れた。
雨は未だ止まず。
水を含んだ砂利を蹴る音が静かな境内に響く。
そこを殺陣の舞台とする二人の剣士。その少年の黒衣も、青年の和服も、霧雨にしっとりと濡れていた。
「その程度か? 柾希の弟?」
蒼司は童子切の切っ先を突き出しながら、相対する黒衣の少年を嘲笑う。繰り出されたその突きは、稲妻の如く鋭く激しい一撃であった。
「くっ!」
詩緒は、バランスを取ることを捨て、背面から地面に倒れることでその一撃を寸前のところでかわした。
背が地に着くや転がり、追撃を回避するべく逃げる。
「……あの程度を楽に回避出来ぬのならば、私には勝てんぞ?」
追撃をかけずに詩緒が立ち上がるのを待つと、蒼司は口元を歪めた。
「余裕だな……なるほど。先代の棟梁だけのことはある……」
詩緒が呟く。自身にも余力のあるような発言。しかし、その実、少年にそれはない。
棟梁とは、日本各地に散る滝口たちを統べる者のことである。『滝口』渡辺詩緒が狙うのは、『元滝口』源蒼司。それもその頂点に君臨した者であったのだ。
「……お前がまだ未熟なだけだ。柾希ならば弾き、返し手を放っていたさ」
その話には触れさせぬ。そういう意志が働いたのか、蒼司は言葉を放ちながら仕掛けた。
渡辺詩緒という滝口は、現役の滝口の中ではトップクラスの戦闘能力を有する少年である。突出した状況把握、反射、反応能力により、敵の動きを察知し、その動きに対応して最善のリアクションを起こす。後の先の戦い方を得意とする剣士である。
しかし、その彼をしても、蒼司の動きに対応することは困難であった。
雨に生じる音さえも巧みにフェイントに使い、虚へ虚へと動くその体捌きもさることながら、攻撃の動作を読むのにもっとも適した気配――殺気がほとんど発生しないのだ。
攻撃の刹那だけに僅かに感じ取れるその気配を頼りに、ぎりぎりのところで詩緒は回避動作に移る。
滝口の少年は上体を後方に反らし、薙がれた凶刃を避けた。
「……もっとも、それが叶うのも、童子切と切り結べる刀あってのことだが……故に聞こう」
薄っすらと余裕の笑みを湛えたまま、蒼司は言葉を続けた。
そう。詩緒は一度も童子切とは切り結んではいなかったのだ。
切り結べば、あるいは反撃の一手を放てるのかも知れない。それこそ彼の得意とするスタイルなのだから。
日本刀は折れず、曲がらず非常に優れていると評される。しかし、それは刀剣というカテゴリーでの評価にすぎない。武器全般で見ると、日本刀は決して耐久力に優れた武器ではないのだ。刀身同士で打ち合えば、刃こぼれなどは当然のように起こる。実際に、古来、この国の合戦に於いて、刀は補助武器でしかない。主武器としては些か耐久性に欠けるのである。
詩緒はその最悪のケースを想定しているのだ。
童子切安綱という名刀は、妖刀となり、さらにその切味を異常なレベルにまでに高めている。そして、それを振るうのは滝口の頂点にかつてあり、柾希と双壁を成した達人である。
明らかな力量の差があれば。
この二つにかかれば、詩緒の刀は切り結んだ瞬間に、折られる可能性が高いのだ。
事実、過去にこの男が刀ごと切り捨てた滝口は数人いる。詩緒の使う刀は彼らと同じ、滝口付きの刀工の打ったものに過ぎない。
「柾希の愛刀をなぜ使わない?」
問いながら振られる刃は、一撃必殺の業である。おおよその相手に、それと共に問いかけたところで、答えを聞けるものではない。
果たして何人の剣士がその刃をかわし、受け止め、返答を遣ることが叶うだろうか。
「お前は何故、獅子王を捨てた?」
獅子王とは滝口の棟梁がその証として受け継ぐ名刀である。袈裟に振られた童子切を避け、返答を送る資格を得ながらも詩緒は自らの疑問を聞く。
「マイペースな男だな」
まるで平時のように、蒼司は呆れた口調で呟いた。
「答えろ、蒼司。お前はなぜ滝口を捨てた?」
詩緒が無名の刀を振るう。金属の刃同士ぶつかり合う音が響いた。蒼司はそれを童子切で受け止めたのである。
二人の剣士が、力を込め、鍔迫り合いを演じる。間近に顔を付き合わせる。
「……今の貴様に返す答えなぞない……それに訊ねているのは私だ!」
力は蒼司が勝る。徐々に童子切の美しい刃文が詩緒の顔に迫り来る。
「兄の愛刀は俺の扱いきれるものじゃない!」
突如、詩緒が身を引く。力を込めて詩緒を押している蒼司は、勢い余り、前のめりに体勢を崩すはずであった。
「認可が必要か?」
しかし、蒼司はその詩緒の行動を読んでいた。多少、重心を崩しながらも冷静に呟き、刃を流れるように走らせる。
「ちぃ!」
詩緒が呻く。
「ならば、私がその認可をくだそう!」
蒼司が吠える。童子切は詩緒を真っ二つに割るべく、縦に振られる。勢い良く刃風が生じる。
「どの口がほざく!」
過去、詩緒は兄に全てにおいて勝ったことはない。剣術に至っては、その差をまざまざと感じるばかりであった。この敵のそれは、兄と互角、あるいは時間が許した分、上を行くかも知れない。
しかし、詩緒は覚悟を決した。己の力量を信じ、童子切を受け止めるべく反応する。防御に動く太刀筋を完全に看破されなければ、折られることはないはずである。
詩緒は刀を童子切に向けて走らせる。果たして――。
刃音が木霊した。
詩緒の無名の刀は折られることなく、童子切をその刀身で止めていた。
「……柾希の呪縛を祓えたか?」
目前で我が刃を止める親友であった男の弟に、微笑みながら、ぽつりと蒼司は言った。
「何!?」
詩緒が驚きの声を漏らす。
次の瞬間、和服姿の剣士は、黒衣の少年に膝を見舞った。
「ぐっ!」
詩緒の鳩尾に蒼司の膝がのめり込む。
「……油断をするな」
蒼司は諭すように言い、続け様に童子切で空を裂く。
閃く白刃。
追って、響く金属音。
詩緒は童子切の刃を、再びその手の無名の刀で受け止めていた。
「……なるほど。やはりそれが、お前の実力のようだな……」
満足そうに笑いながら蒼司は呟いた。
「お前は……!?」
詩緒は敵である、『魔』であるはずの、その男を見る。
雨は止んでいた。
剣劇もその瞬間に、不意に終わりを迎えていた。
「……鬼切を手にしろ。詩緒」
蒼司は静かに、そう告げた。
<刀解説>
童子切安綱:国宝。実在する刀です。実物は東京国立博物館が所有。歴史上、数々の有名人物(秀吉、家康等)が所有していますが、作中の設定ではこちらはダミーってことにしています。また『妖刀』類の設定は当然、僕の妄想の産物ですので本気にしないで下さい…。
獅子王:源頼政が鵺退治をした際に褒美として賜った名刀。




