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第弐話:琴音

 武道場は熱気に包まれていた。

 高校総体インターハイ出場への予選を兼ねたこの大会に、新しいヒロインが誕生したからだ。

 剣道女子個人戦。

 競技名は知られているものの、マイナー感のあるこの競技に新たに産まれたヒロインは、大会初参加のルーキーであった。

 スポーツでは無名に等しい学校の彼女が、次々と強豪校の猛者たちを打ち負かし、遂には決勝の舞台へと駒を進めたのだ。

 会場にいるのは、ほぼ関係者のみである。

 しかし、彼女の試合の度に、会場に人だかりが出来るのには訳があった。

 会場にいる大会参加の男子生徒のほとんどが、彼女の追っかけと化しているのだ。

 大一番。決勝戦の舞台を前に座す少女。

 幼さの残る可憐なその少女は、ゆっくりと面を被った。

「白! 源琴音(みなもと ことね)!」

 主審が少女の名前を呼ぶ。その新たなヒロインは立ち上がると、決戦の場を構成する境界線の前に立つ。そして、その足元の白線をまたぐと反対側、真正面に立つ対戦相手に向かい、一礼した。

こッとねェ〜!」

 不意に、アイドルの親衛隊の発するような低い濁声だみごえが起る。

 その声を聞き、琴音は面の下の顔を真っ赤に染めて頭を垂れた。

「もう……」

 ぽつりと呟く。しかし、頭を振って、大きく深呼吸を一つ吐くと、

「集中、集中……」

 と小声で自分に言い聞かせ、平常心を取り戻した。

 一歩一歩、ゆっくりと開始線へと足を運ぶ。三歩目、竹刀を抜きながら開始線へと至る。

 対戦相手は琴音よりも二つ年上。つまりは三年生の生徒であった。

 昨年の高校総体の覇者。今大会でも大本命とされる選手。神谷直子かみや なおこ。圧倒的な強さで、高校剣道界の女王の名を欲しいままにする剣士であった。

 中心点を挟み、三メートル弱の位置にいる神谷は琴音よりも頭二つは上背があった。それは年齢から来るものだけではない。神谷が女性では大柄な体格をしていることもあるのだが、加えて、琴音が小柄なのだ。これは対戦した相手ほとんどに言えたことなのだが、彼女は身長差という大きなハンデを払い除け、この最終戦の舞台に立ったのである。

 二人は蹲踞そんきょの姿勢へと、静かに移行する。

 琴音はもう一度、大きく息を吸い込み、そして、吐いた。

 試合開始の宣告を待つ。


 神谷の目をじっと見ながら、琴音は心地よい緊張感の中にいた。

 心臓の鼓動が聞こえる。

 外野の声は、もう、届かない。


「始め!」

 主審の声が響いた。互い、立ち上がる。

 

 一閃。


 開始された瞬間に、試合は動いた。

 甲高い裏声を発しながら、神谷は流れるような小手面を放った。昨年の総体においても、ほとんどかわされることなく彼女に勝利をもたらした連携技。相手の小手に対する打ち込みに合わせ、小手を打ち攻撃を防ぐと、すぐさま面を放つ。神谷のこの連続攻撃は見事な完成度を誇っていた。

 必殺技。そう呼べる領域にまで昇華すべく、彼女が何千、何万と毎日、反復して練習を行なった成果であった。


 二人の副審が白旗を斜め上方に上げる。続けて主審も白旗を上げる。

「胴あり! 一本!」

 そして、高らかに宣言した。


 しかし、決まったのは神谷の小手面ではなく、琴音の抜き胴だったのだ。

 琴音が初手に放った小手は、神谷の小手面を誘う囮だったのである。続けて振り下ろされた上段からの攻撃を、琴音は前方へ駆け抜け、避けると共に神谷の胴を薙ぎ払ったのだ。

 神谷の小手面が必殺技と呼ばれるものであったのなら、琴音の体裁きは神技であった。




「バロンドールと、日本の小学生くらいの差はあるでしょうね」

 湧き上がる歓声の中、琴音の試合を二階席から見ていた長い髪の少女は独り、二人の戦力差をそう評した。色素が薄いのか、色白の透き通るような肌と茶色の髪を持つその美少女は、もう勝負は決したと言わんばかりに席を立つ。

「さて……なんて声をかけようかな?」

 歩きながら、呟く。

 その背後で、二度目の歓声が起こった。




「完敗よ。よく私の小手面をかわせたわね」

 試合後に、神谷は琴音にそう話しかけてきた。女生徒に控室として解放された、柔道場でのことである。

「え? あ、はい! ……準決勝で神谷先輩の試合、見させてもらいましたので……」

 照れながら琴音は答えた。

「え? あの一試合で?」

 神谷は驚きを隠せずにいた。確かに、その試合で神谷は小手面を放ちはした。しかし、一度だけである。

「はい……って、何かおかしいですか?」

 開いたままの口。ぽかんとした表情の神谷を見て、琴音は恐る恐る訊ねた。

「……あ、あなた中学の公式戦には出ていないわよね?」

「はい……」

 不自然な発言をしてしまったのかな、と琴音は不安げに答える。

「……わ、私の小手面がそれほど稚拙な技だと言いたい訳!? 一度見ただけで見切れるとでも言いたいの!?」

 神谷は突如、怒鳴り散らした。琴音には理解出来ないことであっただろうが、それは彼女の剣道に賭けた、これまでの人生を侮辱するとも取れる言葉だったのだ。

「え、いえ、ち、違います!」

 琴音は慌てて、取り繕うとするが、上手く言葉を紡げなかった。

「彼女は天才なんですよ」

 不意に横から声がした。二人の少女剣士がそちらを振り向く。

 そこに立つのは、先ほど二階席で観戦していた少女だった。

「はぁ!?」

「瑞穂!?」

 神谷が素っ頓狂すっとんきょうな声を上げ、琴音はどうしてここにいるの、と続かんばかりに彼女の名前を口にする。

「初めまして。私、鳳翔ほうしょう高校の賀茂瑞穂(かも みずほ)と言います」

 瑞穂はそう自己紹介をすると、深々と神谷に頭を下げた。

「神谷先輩。加納一二三(かのう ひふみ)範士(はんし)をご存じですか?」

 そして、上体を起こすと、瑞穂は神谷に語りかけた。

「え? ええ……」

 範士とは、現代剣道界における最高位の称号のことである。突然に出たお偉いさんの名前に、神谷は目を丸くした。

「彼女は先生の秘蔵っ子なんですよ。幼い頃から先生の厳しい指導を受け、ついに許しを得て、今日、デビューしたんです……」

 出任せ話。根も葉もない話。事実無根の話である。

「ちょっと……瑞穂?」

 何か言いたげな琴音を、瑞穂は目で制し、続ける。

「……彼女は行く行くは、国民栄誉賞を受賞る少女なんですよ! それが加納範士と彼女の目標なんです!」

 瑞穂は神谷に力説した。

「……どこの柔道漫画の話よ?」

 琴音はその説明の一部始終を聞くと、ため息を吐き、右手で額を押さえながら呟いた。

 誰が、そんな話を信じるんだろう。琴音は心底そう思う。

「なるほど。琴音さん……貴方も私と同じ、剣道に青春を賭けた人だったのね……!」

 目を輝かせながら、神谷は瑞穂から琴音へと視線を動かした。信じる者はいたのだ。彼女の目の前に。

「は、はぁ……」

 どう反応していいのか解らずに、あやふやな返事を琴音は返した。

「私たちはこれから永遠のライバルよ。いつか、もっと大きな大会の決勝で戦いましょう!」

 神谷は右手を差し出した。

「は、はぁ……」

 とりあえず、琴音も右手を差し出し、神谷と握手を交した。



 しばらくの談笑の後に神谷は、後輩を待たせているから、と告げると二人を残して立ち去った。

「単純……もとい、爽やかな人ね」

 琴音の冷ややかな視線を感じ、彼女の背中を見送っていた瑞穂は呟いた。

「……どういうつもりよ、瑞穂?」

 げんなりと、琴音は瑞穂に訊ねた。

「あれ? ナイスフォローだったと思ったんだけど?」

「……どこをどう解釈すれば、そうなるの?」

「結果かな?」

 瑞穂が満面の笑みで答えた。

「もう、いい……」

 その笑顔に何も言えず、琴音はもう一度、ため息を吐いた。

 遠くで歓声が聞こえる。プログラムに大きな狂いがなければ、琴音と神谷が戦った舞台で、男子個人の決勝が行なわれているはずである。

「で、どうして突然、大会に参加したの? ……やっぱり、お兄さん?」

 短い沈黙の後、先ほどと打って変わって真剣な眼差しで瑞穂は話を切り出した。

「……うん」

 ぽつり溢して、琴音は小さく頷く。

「……私の名前が、どんなメディアにでもいいから、出ることがあったら、連絡、くれるかな?……って……」

 続けて、淋しそうに呟いた。琴音の兄、蒼司は数年前に家を出たきり、行方知れずになっているのだ。

「そう……」

 瑞穂にはそう返すことしか出来なかった。琴音は世界の裏を知らないのだ。滝口のことも、瑞穂のもうひとつの顔、陰陽師のことも。

 そして、『魔』のことも。

 『魔』とは、この世ならざる悪しき存在。この世ならざる力を使い、人の世に害を成す者たち。

 滝口という退魔武士が、陰陽師という退魔術士が討つべき敵である。

 探し続ける兄が、その『魔』であることを琴音は知らない。

 瑞穂がこの場所を訪れたのは、幼馴染である彼女の試合を見に来たからだけではない。蒼司が妹の前に現れる可能性を考慮してのことであった。

 相方である滝口は、今頃、彼が幼い頃に修行をした場所にいるはずである。いや、正確には彼らが修行した、と表現すべきであろう。

 琴音が高校剣道レベルで桁外れに強いのは、彼女が裏の世界を知らないだけで、滝口としての修練を兄と積んでいたからなのだ。

「……近くにいるのよ……」

 ぽつり、瑞穂は小さく呟く。

「え?」

 琴音が聞き直す。

「ん? 近くにいたらいいね、って言ったのよ」

 偽りの笑顔を見せる。その言葉は瑞穂の本心ではなかった。近くにいたら、接触してしまえば、瑞穂は蒼司と戦わねばならないのだから。

「うん」

 琴音が微笑み、頷いた。瑞穂は彼女の気持ちを知っているから、その笑顔に、心が痛んだ。






<サッカー用語解説>

バロンドール:欧州年間最優秀選手に贈られる賞。そのシーズン中に世界で一番サッカーが上手かった人、と解釈してもらっても良いかと。

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