第拾弐話:道
銃声が響いた。
それも一つではない。立て続けに木霊する発砲音。
この広い敷地を持つ邸宅に在っても、恐らくは外部にも、その音は聞こえているはずだ。
しかし、この屋敷に面した住宅は、彼の息のかかった人間で占められている。
銃声を聞いたくらいでは、誰も警察などには通報しないだろう。
一般には知られていないが、彼らは知っているのだ。
この屋敷には、所謂、暴力団の構成員と呼ばれる輩や、憲法で違法とされる銃器類で武装した非合法の護衛兵が存在することを。
彼らが何らかの理由で、その館の主に命じられ発砲をすることがあったとしても、それは彼が何者かを制裁しているのか、始末しているだけだろうと思うはずだ。その館の主は、この国に於いて絶対的な位置に近い場所にいる権力者なのだ。
その彼が、まさか襲撃されているとは夢にも思わないだろう。
だから、それは結果として最大の不幸を招いていた。
彼を守護すべく、現れる増援は存在しないのだ。
「何をやっておるのだ!」
再び聞こえた銃声の直後、バスローブに身を包んだ小太りの初老の男は怒鳴った。
誰に我鳴ったわけではない。
その書斎にいるのは彼、河原剛三、一人なのだから。
何者かが、この屋敷に正面から侵入したとの報告が入ったのは、つい今し方のことだ。
風呂から上がり、この邸宅で囲っている愛人の部屋にでも行こうかとしていた矢先のことだった。
瞬く間に取り押さえられ、あるいは始末され、自分の元に事後報告の一報が来るはずが、未だにそれは届いてはいない。
「辰巳はどうした! そのために平井に大金を積んでいるんだろうが!」
見苦しくも、喚き散らかす。その名前の剣士は、昨夜を最後に、その姿を彼の前には見せていなかった。
「ええぃっ! 役立たず共が!」
続けて怒号し、背後を振り返る。そして、剛三は机上の書類を八つ当たりとばかりに撒き散らした。
そこには取材記者や、テレビカメラの前で見せる作り物の穏やかさや、雄弁な態度はない。
自分の思い通りにならないことに直面すると癇癪を起こす。幼児と等しい、歳不相応な幼稚な男。しかし、それこそが彼のありのままの姿だった。
「――お?」
屋敷を支配していた騒然とした空気が、変わっていたことに気がつく。
こつこつと、静かに廊下を歩く足音が聞こえたからだ。
「……ようやく終わったか、愚図どもめ! 給料の見直しを図らんとな……」
悪態をつきながらも安堵の表情を見せると、剛三はどっしりとした見るからに高価そうな革張りのソファーに腰を下ろす。
足音が止むと、替わりに扉をノックする音が静かな書斎に響いた。
「遅かったな! 入れ!」
剛三は命令口調で吐き付ける。早くも平常心を取り戻していた。椅子に踏ん反り返るその様は、それを物語っている。
ゆっくりと扉は開かれた。外気と共に、室内に入ってくる跫音。
「……遅かったか。それは済まない事をした」
その扉から、悠然と入室した青年は不敵に笑い呟いた。
現れた男の顔を見た剛三は、驚き固まる。
「き、き、貴様はっ!?」
どうにか唇を動かすと、喉から声を絞り出す。
「……一会、ではなかったな」
その通り名を自身に教えた本人に、悠々と青年は語る。
そこに立つ者の名は、摂津一会。世間には放浪の画家として認知される人物。
しかし、その手にあるのは絵筆ではない。
血に汚れた刀であった。
河原剛三が知らぬだけ。それこそが彼の本当の姿。
彼は単に画家などではない。血の滴るその妖刀『童子切安綱』を操る魔剣士、源蒼司なのだ。
「な、何をしに来た!?」
曲がりなりにも、政界という修羅の場でのし上がって来た人物なのだ。この状況にあっても、虚勢とも取れるが、だが、強気な態度は崩さない。その点はある意味、偉大なのかも知れない。
いや。見下げた愚か者だな。
そう言わんばかりに、来訪者は嘲笑う。
「……絵を売りに来た、とでも言うと思うか?」
蒼司は呟くと、柄を握った拳をこめかみの横に置いた。そして、童子切を右斜め前へと振り下ろす。
傘の水滴を払うように、刀身から朱が散る。
血振りをしたのだ。すでに幾人もの人間の血を、今宵の妖刀は吸っていた。
「な、何だと!? わ、儂を脅す気か!? 童!」
侮蔑の笑みに、刀を振るう姿に剛三は激怒するも、腰は引けていた。
「だ、誰か居らぬのか!? ここに侵入者がおるぞ!」
続けて叫ぶ。
だが、反応はない。
「抵抗しなくば見逃した、が……残念だな。護衛は斬らせてもらった」
ゆっくりと、その身を剛三に近づかせながら、剣士は告げる。
がたり、と大型のソファーが大きな音を立ててフロアに倒れた。
尻餅をつき、権力者は襲撃者を見上げる。
「か、か、金ならいくらでもやる! だ、誰だ!? 誰に頼まれたんだ!? そ、そいつの倍は出そう!」
河原剛三の表情は、ついに恐怖に張り付いていた。
裸の王様は、自身の置かれた状況を、漸く把握出来たようだ。
この手の輩は最後は決まって、こう命乞いをする。命は金銭でやり取りの利くものだと理解しているらしい。例え、自身のモノだとしても。
無様にも慄き、腰を抜かし、それでも必死に両手で体を後ろに逃がしながら剛三は懇願する。
「……お前によって『魔』に堕とされ、私が解放した人間に、だ……私はただ、その遺志を汲んだだけのこと……」
解放とは、その堕ちた苦しみからの解放を指していた。つまりは、彼が抹殺したのだ。
「……お前が振りかざす権力は、産まれるはずのない『魔』を次々と産み出す……」
剛三の目の前で足を止めると、襲撃者は彼を見下した。
冷淡な視線が、館の主を刺す。
「わ、儂が何をしたというのだ!?」
殺人示唆。昨夜、カメラマンを一人、始末させておきながら。さらには偽証、偽造、横領、強要、恐喝。数え上げれば切りがないほどの、自分のこれまでの悪行の数々を棚に上げ、厚かましくも糾合する。
ごつん、と剛三の後頭部に衝撃が走った。
終には、壁へと到達したのだ。これで最早、逃げ場はない。
それでもその身を壁へとへばり付かせ、少しでも、襲撃者から逃れようとする。
「……お前こそが元凶。私に定義させれば――」
言いながら、蒼司は逆手に柄を握り直す。それは凶刃を突き下ろすため。
「ひ、ひいっ!?」
恐怖が極まる。剛三自身、これまで幾人のその表情を満足げに哂って来たことか。
因果応報。そして、それが自身に還って来ただけのこと。
「――人の身でありながら、貴様は紛れもなく『魔』そのものだ……」
躊躇することなく。剛三の心臓を目掛け、蒼司は童子切を突き立てた。
断末魔の叫びが、室内に反響する。
その瞬間を、どれだけの人間が望んで来たのだろうか。
「……安らかに眠れ……」
呟いた言葉は彼に向けられたものではない。
蒼司はここにはいない何者かの冥福を、静かに祈っていた。
二人の鬼を斬った名刀を振るう剣士の死闘は、思いがけず訪れた。
無二の親友の命を奪うこと。
その決意を胸に、斬り込んだ少年の体に異変が起こったのだ。
突如、苦しそうに咳き込むと、喀血とも吐血とも判別のつかない赤を、柾希は零した。
口から吐かれた、夥しい大量の血液が地面を濡らす。
「柾希!」
蒼司は叫ぶ。そして、駆けつけようとした彼を制したのは、他でもなく柾希であった。
「来るな!」
「……柾希!?」
「来ないでくれ……君は僕の敵になったんだ。そうだろう? 蒼司……」
鬼切を杖代わりにその身を支え、倒れることを拒むと柾希は微笑んだ。
唯、寂しげに微笑み、蒼司を見詰める。
「……いつからだ?」
拒絶され、ただ立ち尽くすのみの少年は訊ねていた。
先刻までの殺気に満ちた空気は、辺りにはない。
「……いつから、だろうね……」
そこにいるのは単に二人の少年。
互いが、互いを心底、必要としたはずの友人。
否。互いにそれを過去のものとは認識していない。
今も。そして。
「……蒼司……君は僕に斬られるつもりだったんだろう?……」
血に汚れた顔を拭うこともせずに、弱々しく柾希は呟いた。
封印されていた童子切安綱を奪ったことは、そのためのお膳立てなのだと柾希は確信している。
彼がその気になっただけなのならば、そんな一本の刀に頼ることはしないだろう。
一人、奔出すれば良かっただけのはずである。
その意思を決するだけの精神力も、それを実行に移せる技量も、彼が十分に有していることを誰よりも知っているのだ。
だから、解る。彼の真意が。
源蒼司という少年は、完全なる『魔』に堕ちる前に、誰かに止められることを望んだのだ。
「柾希……」
蒼司はただ、彼の名前を口にすることしか出来なかった。
「……ごめん。見ての通り、僕は無力だ……君の力には、なれないみたいなんだ……」
柾希は力なく項垂れる。
その足元。自らの血で地面を染めた赤。そこに無色の雫が跳ねた。
口にした言葉と共に、流れた涙。
今の柾希に叶うのは、ただ、それだけ。
想いを伝えることのみ。
想いに応えたくとも。悲壮の決意で戦いに望もうにも。肉体という束縛は彼を抑圧し阻むのだ。
ひとつ。
ふたつ。
呼応したかの様に、空から落ち始めた雨粒。
それは誰の心模様。
雨の匂いが強くした。
血の臭いを消し、死の在るその空間を浄化するように。
静かに、静かに雨は降りしきる。
蒼司は天を仰いだ。
灰色の厚い雨雲がそこには広がる。
「……私は……」
徐に呟いた言葉。
「……私の道を往く――」
それは新たな決意。ここで終わらせるはずだった道を、先まで歩んで往く覚悟。
雨に打たれながら。蒼司は童子切を鞘へと納刀する。
その瞬間、それは確かに、彼の愛刀となった。
「――だから、柾希。お前はいつか、私を止めに来い」
そして、続けて力強く、語りかける。
童子切安綱。それは今、二人を繋ぐ絆となる。
「……蒼司」
柾希は顔を上げ、親友を見上げた。
「私を止められるのは、お前しかいない」
その視線の先の親友は頷き、薄っすらと笑う。
「……君は厳しいな……」
雨が濡らす微笑み。
そこには体に反し、弱さや脆さはない。
それはいつもの柾希が湛える、やさしく他者を包み込むような笑顔だった。
「また会おう。その時こそ、雌雄を決する時だ」
微笑みに返し、そして、蒼司はゆっくりと親友に背を向ける。
彼には、それが今生の別れになるとは思わず。思えず。
荊棘の道の果て。その場所に、いつか、この親友が立ち塞がると確信して疑わずに。
しかし、その背を見送りながら柾希は自分の体のことを悟っていた。
「蒼司! 聞いて欲しい……もし――」
だから、気がつけば、友人が踏み出した足を制していた。
降り出した雨は、当分、止みそうになかった。
「あれから四年、か……」
窓から見える空は、厚い雲に覆われていた。
あの日の雲に似ている。
言葉を独りごちた青年は、そんな錯覚さえ感じていた。
「――『もし……僕が無理だったとしても、君を止める者は確かにいるよ』……だったな……」
最後に聞いた、親友の声を反芻する。
今まさに、この場に迫っているであろう、柾希の言葉が示した人物。
確証はないが、確信している。
あの少年こそがそうなのだと。
「……『僕の意思を継ぐ者。僕を超える者』か。……柾希。果たして、それが真実か……今宵こそ、見極めさせてもらおう」
蒼司は凶行の舞台に一人、残っていた。
渡辺詩緒。
その待ち人は、未だ現れてはいなかった。




