第拾壱話:奔流
少年は渡辺詩緒と名乗った。
琴音にはその名前に心当たりはない。そして、彼に対する面識もなかった。
――それなのになぜ、あの人は私のことを知っているんだろう?
明確な答えはないが推測は出来る。それは見当違いの憶測では絶対にないと思う。
当麻と同じく、彼も兄の動向を知っているのだ。
ならば当然のように次なる疑問が浮かぶ。
――あの人とお兄ちゃんとの関係は、何?
襲撃者は兄を『魔』だと言った、だとしたら。
――あの人も滝口だとか言う人? お兄ちゃんの敵?
脳裏を過ぎるのは、認めたくはない想い。
鬼の攻撃を回避しながら、琴音は渡辺詩緒という少年について思考していた。
その魔獣の攻めは単調なものでしかない。若干のフェイントも存在しない稚攻だ。身体能力のみに頼った攻め手。すでに見切っていると言っても過言ではなかった。冷静に動きを読めば、十分に対処出来る。
琴音が避けた鬼の拳が、江戸彼岸の周りに配された縁石を砕く。だが、その威力は錯誤を許しはしないものなのだ。
――ダメ! 今は目の前に集中しなくちゃ!
一瞬の油断は取り返しのつかない事態を招く。琴音は小さく頭を振ると、意識を変える。
大人が腰掛として利用出来るほどの大きな縁石。今し方の攻撃で、そこに埋まった腕を引き抜けず、琴音の斬間のすぐ先で鬼はもがく。
絶好の好機が訪れながら、だが、琴音はその手にした少年の刀を振るえなかった。
少年に斬られた首筋の傷はすでに塞がっている。異常な回復能力をその鬼は誇っていのだ。
仕留めるのならば、一刀の元に致命傷を与える必要がある。
そう予測し、その必殺の一撃を斬り込むのに十分な隙を見つけながらも、やはり踏み込めない。
その鬼は友人だったのだ。間違いなく、自分のことを好きだと言ってくれた河原潤一なのだ。
――私、どうしたらいいの? 渡辺くん!?
焦りに似た感情を抱き、琴音はその刀の本当の担い手を窺った。
「くそぅっ!?」
癪に障る。当麻はそういう感情を剥き出しに吐きつけた。自分の目の前にいる雑兵だと見下した滝口の動きに反応しきれないのだ。
一手、二手。僅かに刃を交えただけで、その差は歴然としている。
剣の技量だけでは相手が圧倒的に上を行くのだ。
「拒絶はしないか――」
自らが振るっていた刀。その刀身を瞥見し、詩緒は呟いた。
その刀は鬼切。
鈴の剣士には一つ、危惧していることがあった。
それは自らの中に潜む、もう一つの自分に対してである。
詩緒は初めて滝口としての役目を全うした際に、大きな代償を支払っていた。
肉体的にも、精神的にも、その負債は未だ彼に影を落としている。
彼の中に巣食う、もう一人の彼は、その象徴たる存在なのだ。
それは『鬼切』という退魔の名刀にとって、正に仇敵である。即ち彼自身が、その手の刀にとって討つべき存在であるかも知れないのだ。
「――行ける」
自らに言い聞かせるように、迷いを振り払うように発すると『魔』だと認識した敵を見据える。
詩緒がこの場に現れたのは、式神を降ろす際に生じた、魔力の波動を感知したからだ。
そして、その式神で少女を襲っていたのが、眼前の剣士である。
この世ならざる力を以って、人の世に害を成す者。それこそが『魔』だ。
詩緒にとって当麻という剣士は、例えどのような存在であれ、紛うことなき『魔』に過ぎない。
「……俺を相手に試しているだと!?」
不自然な太刀行き。勝負を決する一撃を放てながらも、それをしない相手。そして、呟いた言葉。
当麻は怒りに震えていた。
三下だと見下した相手を軽くあしらうはずだった自分が、虚仮にされている。
「お前、許さない!」
下唇を強く噛む。血が滲む。
「死ねよ!」
当麻が吼えた。同時に彼はその力を全力で解放する。体中の力を搾り出す。全精神を魔力へと変換する。
八卦衆の剣士から生まれた魔力に呼応し、幾筋もの凶風が走った。
「木行の力か……」
詩緒は風の刃をかわす。
多方向に走った風は地面を覆う芝生を土ごと薙ぎ散らし、池に面した柵を破壊していた。
さらには、追って流れた新たな大気。この広場の主たる桜の老木はそれに枝々を揺らされ、切り刻まれ傷つき、悲痛の声を上げるようにざわめいた。
轟音と共に風はうなりを上げた。
そして、当麻を中心に巨大な竜巻が発生する。
「あははははっ!」
強大な魔力を発動させた八卦衆の一人は、風の大渦の中で嗤う。
「ウゴオォォォッっ!」
「何!?」
鬼が痛みの咆哮を上げる。鎌鼬により体の至る部位に裂傷が開き、気流に従い血が舞い飛ぶ。
対して、疑問を口にしながらも、琴音はその感覚で迫り来る風の刃を次々と回避していた。
極限に集中したは意識は感覚的に不可視の刃を感知させている。知識としてそれを知らないだけで、兄との修練によって習得していた超常的な知覚能力は確かに働いているのだ。
常識の範疇から逸したレベルのその戦闘は、彼女が潜在的に内包していた能力を、飛躍的に覚醒させていた。
「ちっ!」
予想もしなかった敵の力に、詩緒は舌打ちする。
刀に対して自信がなかったとはいえ、勝負を急がなかった自身の落ち度を痛感していた。
「俺に本気を出させたんだ! 誇れよ! 雑兵!」
轟音に掻き消され、相手に聞き取られることのない言葉。だが、当麻は勝ち誇る。自身を中心とした風の激流は、さらに勢いを増しながら、その範囲を拡大していく。後は風に巻かれ、襤褸屑のように命を散らす敵を、そこから哂うだけだ。
風の向こう側。詩緒は琴音を見た。
広場の奥側に位置する彼女に、満足な逃げ場はない。
「……斬るしかない、か……」
意を決し、詩緒は鬼切を構えた。
人の意思は力を秘めている。それも非常に強力な力を、である。だからこそ、鬼を始めとするの『魔』という違う存在に人は変じることが叶うのだ。
だが、その力はなにも悪しき方向にのみ有効なものではない。
或いは、その力の行き着く先は『魔法』と呼ばれる領域にさえ届くのだ。
魔術とは理論、法則に則り行使される力。対して、魔法とは言わば『奇跡』そのものだ。そこには理論も、法則も存在しない。在り得ない結果を、ただ単純に導き出すだけの力。だからこそ、それは奇跡と言われる。
人はそれを潜在的には持っているのだ。ただ魔法というレベルで、意志の力を行使する術を、才覚を多くの人間が有していないだけだ。
斬鉄。達人がその技量を以って、刀で鉄を斬ることが叶うように。
万物とて、さらには魂体とて、斬れない道理はない。
風という、自然の力もまた然り。
意思の力の一端。斬る、という意思の力が働きさえすれば、それとて斬れる存在なのだ。
刀は斬る(その)ための武器なのだから。
何よりも滝口という武士にとって、それは『魂』と同義である。
象徴なのだ。『武士の魂』たる刀に、彼らはその意志の力を乗せ易い。逆説的には、大なり小なりその力を行使できる武人だからこそ、滝口を継げるのだ。
時代錯誤ではない。故に現代という科学社会においても、滝口は刀を振るうのだ。
百に一つでも。
その刃に完全と意志の力を乗せることが成功すれば、凡刀とて断てぬものはない。
そして、詩緒の手にある『鬼切』は退魔の名刀。並みの刀よりも、遥かに担い手の意識の力に応じるはずである。
ならば、巨大な竜巻とて、斬れぬはずはない。後は自身の意志の力の問題。
少女を救うには、自らの信念――『魔』から人を護ることを、貫くには、最早、斬るより道はないのだ。
迷いなく。詩緒は心静かに巨大な風の奔流を読んだ。
唯、断つべき処を探す。
「竜巻を刀ごときで断つっていうの!? お前、バカだよ! 無理だね! そんなことが出来る人間がいるものかよ!」
その様を、風の渦の中央で当麻は嘲けた。
「また無茶をしようとするわね――」
不意に、詩緒のすぐ背後で少女の声がする。
「確かにアンタならやれそうでもあるけど……リスクが高いのも事実よ。こういう時のために私が同行す(い)るんじゃないの?」
少女は寄り添うように、刀を構える少年に並んだ。
「……遅かったな」
声の主に視線を遣ること無く、詩緒は呟く。
「はい?」
それに少女の整った顔に浮かんだ表情が、凝固する。
「……どの口? どの口が、そんなフザケたことぬかしてるの!? 私の記憶が正常なら、アンタの方が丸一日の遅刻でしょうが!」
そして、引き攣った笑みを湛えながら、少女は早口に捲くし立てた。
「戯言は後で言え」
しかし、淡々と詩緒は応じる。後で一人で勝手にほざいていろ。返しに放ったその一言は、そういう意志を孕んだ言葉であった。
状況が切羽詰まっていることも理解できる。
「……どうにもやりきれないわね……」
しかし、眉間を細い指で押さえ、少女は零した。
同時に、彼の発言の意も汲んでいた。
彼女は、少年が非難や苦情を受け付けない性質であると、悲しい位に知っている。
「……そりゃ、事情は聞いたけどさ……でも、大体、それを説明したのが本人じゃなくて、敵対者だって、どういうことなのよ……」
何を言っても無駄なんだろう。そう思いながらも、続けて愚痴りはするものの、やはり、この一件は先の一言で詩緒の中では決着したのだと、瑞穂は悟った。
事実、そのぼやきに返ってくる言葉はない。
「急げ!」
それどころか、遅刻した張本人に急かされる始末。
「煩いわね! 言われなくともやるわよ!」
喚くと、少女――賀茂瑞穂は右手人差し指と中指を空間に指し示した。その二つ指先で、そこに晴明桔梗を描いて行く。
晴明桔梗。それはセーマンと呼ばれることもある陰陽道の代表的呪術図形、五芒星である。これは陰陽五行の相生・相剋の理を示す図形なのだ。
彼の偉大なる陰陽師『安倍晴明』の家紋でもある、その五芒星。その頂点は、それぞれ五行の一つ一つを示しており、正に陰陽五行の象徴たる形象なのである。
多くの陰陽師はこれを魔力行使のスイッチとして利用する。
通常の感覚から五行の力を感知し、行使する状態に体を移行する起点である。
しかし、加茂瑞穂という陰陽師にとっての晴明桔梗はスイッチではない。
彼女が八卦衆から危険視される要因、そして、稀代の陰陽師と呼ばれる所以。それは彼女が意識せずとも五行の力を感知し行使できる特異な陰陽師だからなのである。
瑞穂にとってのそれは、魔力増幅なのだ。
「金行を以って木行を剋す! 散!」
並みの陰陽師が束になろうとも練り出すことの出来ないほどの、強力な魔力の籠められた力ある言葉が宣言される。それは五行相剋の理に働きかける呪文。
木行の力の一つたる風の力は、辺りに存在する金行の力に相殺されて行く。
刹那として、風の奔流は完全に消滅していた。
唐突に訪れた静寂。凪いだ大気。
そこにはすでに、広場に君臨し荒ぶった暴君の姿はなく、地面や老木に痕跡を残すのみだ。
「――! 賀茂! お前!」
その中央にいた当麻は、怒りを露に自らの力をものの見事に無力化させた瑞穂の姿を認めると、睨んだ。だが、言葉の勢いに反して、彼の体は悲鳴を上げている。
先ほどの風の力の行使は、彼の全魔力を利用したものなのだ。苦しそうに肩で息をしながらの姿には、威厳も何もない。
「あら? いつから呼び捨てに変わったのかしら? ……無様ね……余程、余裕がないのね」
その様を見て取り、瑞穂は挑発する様に微笑んだ。
「……アンタには、お世話になったわね……お礼をしてあげるから、覚悟してなさい」
そして、婉然にではあるが、威圧的にそう続ける。
「瑞穂!?」
当麻を挟んだ向こうで、こちらを窺った琴音が驚きの声を上げた。直後、鬼が彼女を強襲するのだが、琴音はそれを鮮やかに回避する。
「琴音、ごめん! 事情は後で説明するから!」
幼馴染に謝罪の言葉を送ると、詩緒にちらりと視線を遣った。
「標的がアンタを待ってるわ。河原邸だってよ……ここは私に任せて、行って」
真剣な面持ちで、昨夜出会った青年からの伝言を伝える。
「了解した」
詩緒は短く返答すると、陰陽師の少女に背を向けた。
「詩緒!」
直後、駆け出した少年を、慌てて瑞穂は声を張り、制止した。
顔だけで振り返った少年と目が合う。
「……死なないでよ」
源蒼司は最強の『魔』。それが彼女の結論だった。
あれだけの邪気を放つ童子切安綱を自在に操り、その剣術も無双と呼べるほどの達人なのだ。
彼の元に一人、少年を送り出すことは、彼を死地へと送り出すこととほぼ同義であることを理解している。
だが、詩緒も、蒼司も、再びまみえる事を望んでいるのだ。
「……俺は役目を全うする。ただ、それだけだ」
告げると、鬼切を手に詩緒は目的の場所へと赴いた。ただ、正面を見据えながら。
瑞穂の耳から、間を置かず、彼の足音は消えた。
不意に風が走る。
それは対象を切り裂く鎌鼬であった。
木行の氣を感知し、その動きを読むと、瑞穂は風の刃の軌道を避けて艶やかに舞う。
「……相方にお別れの時間をやったんだ。感謝してよね?」
不可視の刃が流れ来た先。振った刀を構え直した当麻は、にやりと嗤った。
「冗談。体力の回復を図ってただけでしょうが。そっちが感謝なさい。その時間を与えてやったんだから――十分なハンデでしょ?」
回避動作に乱れた、長い茶色の髪を背中に流すと、陰陽師の少女は上着から呪符を取り出し構える。
「何を!?」
眉間に皺を寄せて、当麻は凄む。
「熱くなるとあっさりと終わらせるわよ? まあ、どう足掻いても、術者としての格の違いを教えてあげるだけだけど――」
瑞穂は不敵に微笑んだ。その表情は妖しくも美しかった。




