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第拾話:白馬の王子

「犯れよ、潤一! 気の済むまで犯れ! 飽きたら喰らえ!」

 当麻は生み出した式神に命令を下す。

「ウゴォオオオォッ!」

 式神。潤一であった鬼は返事のように吼えると、しかし、使役しているはずの当麻に強襲をかけていた。

「うおぃ!?」

 驚き、当麻は身を躍らせる。反応出来ないレベルではないものの、彼の予想よりも遥かに上回る脚力で鬼は迫ると、先ほどまで当麻の存在した場所に豪腕を勢い良く振るった。

「お前! 本当に使えないな!」

 当麻は空中で愚痴ると、刀を構えて着地する。滝口と鬼の間合いは再び開いた。

 その鬼は式神として降ろしたものだ。本来ならば、術者の命令に忠実に従うはずである。

「潤一、お前は死んでもバカが直らなかったのかよ……」

 自らを襲撃した鬼に辟易し、降魔術者は呟いた。

 威嚇するように低くたけると、鬼はそもそもは主従関係の存在するはずの少年を見据える。

「ちっ……式神にも成れやしないか……」

 舌打ちをして、当麻はまたも愚痴る。

 その鬼を式神として使役するのに失敗した原因は、彼の行った術式のためなのは明らかである。

 言霊による縛りと降魔。

 通常はありえない強引な論理ロジックで行使された術式を、完璧なものにするには些か彼では力量不足であったのだ。

 しかし、その原因を八卦衆の剣士は依代に押し付けていた。吐き付ける言葉がそれを如実にしている。

 お前を襲うのだ。そう宣言するかのように、当麻に鬼は吼えた。

 恐らくはこの知能のない魔獣でしかない鬼は、餌たる存在を彼だけだと認識しているのだろう。

 そう思い、当麻は鬼の視界を確認しながら、じりじりと移動を開始する。

 倒れた琴音に気付かせるために。結果としてそれで望んだ展開を迎えることが出来るはずだと、当麻は踏んでいた。



 鬼には産まれながらの純血な鬼と、人を始め後天的に別の存在から変じた鬼との二種が存在する。当然、この鬼は後者である。

 変じて堕ちた鬼の能力は個体により大きく異なるのだが、河原潤一が言霊と降魔によって変わったその鬼は、言わば獣に過ぎなかった。肉体的能力では優れているかも知れないが、言葉を解せず、本能のままに獲物を狙うだけの魔獣でしかないのだ。



 餌である少年の隙を窺う鬼。それに警戒しながら一歩一歩、移動する当麻。

 二人を結ぶ線。その直線上にうずくまる琴音が乗る。

 彼女は意識を繋ぎ止めてはいたものの、腹部を押さえ、立ち上がることも出来ずにいた。必死に呼吸を整えダメージの回復を図る。しかし、それは思いの外、深刻だった。

 鬼の口から涎が流れる。極上の獲物を見つけ、歓喜を漏らすように唸る。

「……妹さんにご執着だったもんな、潤一……さぞ美味そうに見えるだろ?」

 鬼のターゲットが自分から琴音に移ったことを感じると、当麻は嗤った。

「……妹さん。アンタの無残な死体。お兄さんはどんな気分で見るんだろうね?」

 残虐に顔を歪めると、独り言のように呟く。

 鬼は雄叫びを上げた。少女を襲うべく突進する。琴音は恐怖した。当麻は満足げに笑った。

 大型の霊長類のようなシルエットを躍動させて、鬼は跳ぶ。月のない暗い夜空に舞う。

 諦めたくはない。

 そうは思いながらも、目の前の現実を変える力は、今の自分にはないと琴音は理解していた。

 死ぬのだ。

 その恐怖は大きく彼女に圧し掛かる。

 生命の危機に際すると、人はその様を、まるで時間がゆっくりと進んでいるように感じるという。刹那であるはずの一瞬、一瞬を明確に捉え見ることが出来るという。

 琴音が見ている世界は、今、正にその状態であった。

 空間に跳躍し、自分に迫る鬼がゆっくりと近づいていた。赤みを帯びた肌が、異様に膨れた筋肉に耐え切れず、ぼろぼろに千切れた衣類から露わになっている。振り乱したざんばら髪の一本一本の毛が窺える。そこには常に服装を、髪の乱れを神経質に気にしていた友人の名残はない。

 水滴と化した涎が、幾つ粒か飛ぶ。ぎろりとしたその眼に、自らが映る。

 死をもたらす者の具現化した存在。

 その鬼こそが、琴音にとっての死神なのだろうか。

 その鬼の横に空を舞うように現れる、黒衣の美しい天使。

 彼こそが彼女を天から迎えにきた使者なのだろうか。

「え?……」

 琴音は呟く。

 否。それは彼女を迎えに来た天使などではないのだ。人間だ。黒衣の少年なのだ。

 そして、それは襲撃者――辰巳当麻ではない。服装は酷似している。その手には同じく日本刀をも携えている。

 しかし、明らかに別人だ。

 細身ながらも、鍛えられたしなやかな体のライン。美しく整った横顔。鬼を射抜くような鋭く、凛々しい眼差し。特別に手入れをしていないであろう髪も、さらさらと動きに生じた風に揺れている。

 その手にした刀が、見事な軌道を描いた。

 その軌道が無駄のない、理想的な太刀筋であることが琴音には理解出来る。

 左手首にある小さな銀色の鈴が、微かな音色を奏でていた。

 振られた少年の刃に首筋を裂かれ、鬼が苦痛の叫びを上げた中で、琴音は確かにその澄んだ音を耳にしていた。

 そして、少女は知った。


 この世には、本当に、白馬の王子が実在したのだ、と。



 それが渡辺詩緒と源琴音の出会いであった。








「……蒼司。僕はもう、君を許すことも、行かせることも出来ない……」

 頭部を失った友人の亡骸をゆっくりと地面に寝かせると、ぽつりと柾希は言った。

 確かに童子切の呪が未知のものであり、強大だったことは蒼司にとっても誤算だったのかも知れない。

 しかし、起こってしまった惨劇は、最早、彼が一人の滝口として見逃すことの出来ない事態を招いていた。

 仲間を失った怒りを静かに秘めて、柾希は立ち上がる。その視線をゆっくりと無二の親友に向ける。

「……柾希。この事態は確かに私の望んだものではない。……だが――」

 柾希と対峙する蒼司。

「遅かれ早かれ、訪れるべき事だったのだ……」

 言いながら、再び童子切を構える。

「……君は本気だったんだね……」

 寂しく笑顔を見せ、柾希はその刀を抜いた。

 その刀の名は鬼切。

 かつては彼の先祖である英雄、渡辺綱わたなべのつなの愛刀。

 元は髭切ひげきりの号を冠してしたが、彼の英雄が一条戻橋いちじょうもどりばしで酒呑童子の腹心、茨木童子いばらきどうじの腕を一刀の元に切断したとされ、その際に名を鬼切と改められた源氏の宝具。

 その名もまた言霊を帯びていた。

 鬼切の名は祝詞として『魔』を相手する際に、絶大の切れ味を誇る。

 伝承は、歴史は、強力な力をその名刀に与えたのだ。

 柾希は鬼切をゆっくりと左八相に構える。

「……四天王、渡辺柾希。……僕が君を討つ」

 そして、悲しげに力なく呟くと、しかし、突風の如く、速く激しく駆けた。

 剣光が閃く。一足にして放たれる四段突き。それは正に神技であった。蒼司はその突きを払おうなどとはしない。紙一重に身を逃がす。いつものようにゆとりを持ってそうした訳ではない。そこでかわすことが精一杯だっただけだ。

 彼は知っている。剣速は相手が上手だということを。だから払うなどという行為は行わない。その直後に訪れる敗北が、死という結果が容易に予測出来るからだ。

 逃げた蒼司を鬼切は追う。無拍子に放たれた追の斬撃。それとて神速。捨てで振られた刃ではない。

 刃音が響く。

 鬼切を止めたのは童子切安綱。鬼を斬ったという同じ経緯を持ちながら、対となる道を歩んだ神剣だった。

 互いが互いを最強の剣士だと認める者同士の目線が交わる。

「柾希。私はいつかお前と命を懸けて立会いたいと思っていた……」

 童子切に力を込め、蒼司が呟く。

 力では童子切の剣士が勝る。じりじりとその刃は鬼切の剣士に迫る。だが、彼に恐れや迷いはない。

 柾希は瞬間、力を緩めると、その身を半身ずらす。同時に、鬼切の刀身で童子切を流し、刀を返す。薙ぐ。

 蒼司は地面を滑走するかのように低く短く移動すると、それをやり過ごした。そして、片足を軸にし、身を捻り相手へと正面を向く。その勢いを乗せ、手にした妖刀を走らせる。

 回避動作から反転、虚を付き、瞬時に放った反撃の一手。よもやあの姿勢から構え放ったとは思えぬ、剣速、太刀ゆき。それは確実に敵を断つことの叶うものだった。必殺の一手である。

 しかし、蒼司の狙いは牽制に過ぎない。この一撃が勝負を決するものになるなど夢にも思いもしない。相手は唯一、自分と互角かそれ以上と認めた滝口なのだ。

 彼の予想通りに、放ったれた一撃を柾希は舞うように避ける。それも紙一重に、返し手を放つ構えを作りながら。

 だが、それを撃つことなく、稀代の滝口と謳われる少年は鬼切を正眼に構え直した。

 不用意な一手は、自らの身を滅ぼす。

 柾希とて、相手がいつでもその命を奪うに十分な斬り返しを放てる者だと理解しているのだ。

 二人の剣士を包む、殺気の立ち込める、互いの友の血が臭う空間。

「……僕は今でも……今でも、君と真剣で斬り合うことなど、したくはないよ……」

 柾希が零した言葉。

「……最早、信じる道が違うのだ。ならば……ならば争うより他になかろう……」

 己の信念に従う道を選んだ少年も、釣られ寂しく微笑む。

「そして、私を止められるのは柾希。お前だけだ」

 続けた言葉は本心。

 両者、斬間は僅か先。

「……君は僕に残酷な決意をさせる……」

 憂いの表情で柾希は返す。そして、その表情のままに、鬼切の剣士は仕掛けた。







「グアアッツ!」

 後方へと大きく跳躍すると、首を裂かれた鬼は怒りを吼える。

「浅かったか……」

 それでも冷静に、琴音の前に立つ詩緒は呟いた。

「お前、何者だよ? 滝口か?」

 嫌悪を隠そうともせずに、当麻は少年に吐き付ける。

 その問いかけを無視し、詩緒は刀を地面に突き立てると、背にしている竹刀袋を括る紐を解き降ろした。

「源琴音だな?」

 続けて脱いだ黒いライダースジャケットを、名前を口にした少女へと差し出す。

「……え?」

 少年に告げられた自分の名前。それは少年に見惚れてしまっていた琴音を、我に帰した。状況や何もかもを忘却させ、琴音はただ少年を見つめていたのだ。

 少女は慌てて露になっていた肌を隠すと、少年の差し出した上着を受け取った。

「あ、ありがとう、ございます……」

 琴音はお礼を口にしながらも、顔を真っ赤に染め、視線を反らす。

「だから、お前は何者なんだよ!?」

 無視をされていた当麻が怒鳴った。

「……御託が必要なら、さっさと言え」

 そこでようやく、詩緒は当麻の相手をした。ゆっくりと彼へと振り返える。

「なんだと!?」

 八卦の剣士は眉間に皺を寄せ、怒りの双眸で睨む。

「……お前が何者なのかなど、俺には関係ない。お前が何なのかは、俺の中ではっきりとしている。だが、お前が俺を斬るのに理由付けが必要なら、さっさと言えと言っている」

 その眼力に少年は動じることはない。ただ、鬼を斬ったときと同じ目を当麻へと向ける。

「……会話にならないヤツだな……イカレたヤツだか、アホなのか?」

 蔑み、当麻は哂う。

 周囲に鬼の雄叫びが響いた。それは反撃の狼煙となる。

「……そうだった。お前の敵は俺の他にもう一匹いるよ? 防人さきもりだか、遊撃ゆうげきだか知らないけど……雑兵おまえには無理な状況じゃないの?」

 厭らしく八卦の滝口は語る。

 鬼が強襲すべく、地面を駆けた。

「……源琴音。それを使えるな?」

 自らが突き立てた刀を一瞥し、詩緒は後方の少女に訊ねた。

 こくり、と琴音は頷く。呼吸は整っていた。腹部に痛みは感じるが、動くことは出来る。

 なにより、少年の足を引っ張ることが、琴音にはどうしても我慢出来なかった。その理由をなんとなく、彼女は感じていた。明確に意識しつつある好意。それがその正体だろう。

 跳躍した鬼が、二人のいた場所に降り立つ。彼ら踏み潰すべく、巨躯を活かした攻撃。その一撃に地が震える。

 二人は同時にそれぞれの方向に跳んでをそれ避けていた。

 地に刺さっていた詩緒の刀を手に、鬼を少女は見据える。意識を集中させる。大会の時よりも数段上の意識の集中。かつて兄と修練した時のように、強く、しかし冷静に敵を捉える。

 竹刀袋から新たな刀を抜き放ち、詩緒は当麻に迫っていた。

「……教えてやる」

 八卦の剣士との距離を縮めながら、白馬の王子は口を開く。

「何をだよ?」

 同じ滝口であるのならば、八卦衆エリートたる自分が負けるはずはない。根拠のない、それでも絶対的な自信を覗かせ当麻は刀を構えた。

 しかし、知りえない。彼こそが自分を赤子のようにあしらった剣士が認めた滝口であることを。

 そして、童子切すら知らなかった彼には気付けない。詩緒の持つ刀が、それに勝るとも劣らない見事な業物であることが。

 だが、詩緒とて気付いていない。左手首で奏でる小さな銀色の鈴と同じく、その刀に柾希の想いが託されていることを。

 柾希の愛刀。彼の形見。彼の遺志。鬼切それを詩緒は初めて構える。

「渡辺詩緒。お前を殺す人間の名だ――」

 新たに誕生した鬼切の剣士は、その名を『魔』と認識した相手に告げた。




<用語解説>

防人さきもり:特定の地域を守護することを目的とした滝口のこと。

遊撃ゆうげき:日本各地を転々としながら『魔』を狩ることを目的とした滝口のこと。作品主人公・詩緒はこの遊撃の滝口。

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