第壱話:雨
この物語はフィクションです。作品に登場する人物、団体、事件、『刀』等は実在のものとは一切関係ありません。
霧雨に濡れる世界。
その片隅に在る、和服姿の青年が見つめる植物は、紫の小振りな花々をそぼ濡らせ、艶やかに色付いていた。
それはモノトーンな世界に唯一、色を持つモノかのように、その存在を強く誇示する。
否、青年の感性が、そう感じるさせるだけなのかも知れない。
梅雨空の下の紫陽花。
その風景に青年は目を細めた。そして、長い黒髪をうなじの辺りで一つに括ると、その感受性のままに、素材を筆でキャンバスに描き出す。あたかも水墨画を描くかの如く、下書きもなしに水彩画は瞬く間に完成して行く。
筆が速いのは、すでに作品のイメージが完全に出来上がっていたからかも知れない。この大きな社にある広場の一角は、青年にとって原風景であった。幼い頃の様々な想いの詰まった場所なのだ。
雨避けのある休憩所で、青年の創作活動は続く。
「……ほう。見事なものですなぁ」
青年の背後で声がした。
その声を、下衆で纏わりつく様な嫌な声だ、と青年は思った。
唐突に声をかけられたことには驚きはしない。何者かが、背後に近寄ってきた事は察していたからだ。
「何か?」
その人物に目線を遣らずに無感情な声で、筆を止めずに青年は訊ねた。
「失礼。先生がこちらにいらっしゃると聞きまして」
『先生』と相手を敬う言葉を用いながらも、その口調は、相手を侮蔑しているように感じさせる。やはり勘に触る、と思うと同時に、ある種の滑稽さを男に覚え、青年は薄すらと嘲笑した。
「先生?」
僅かな沈黙も待てずに、男は再び口を開いた。自分を中心に世界が回っているとでも思っているようだ。どうやら滑稽を通り過ぎ、愚かなのだろう。自分の思い通りに事が運ばないのが我慢出来ない質らしい。例えそれが、どんなに短い時間であっても。
「私は『先生』などと敬われるには、ほど遠い人間ですが? 失礼だが、どなたかと勘違いされてはいませんか?」
くだらない時間の浪費は御免被りたい。そういう意識が言葉の端々に感じとれる様、青年は故意にそう発した。
「ご冗談を。私は絵心の解る人間です。その筆の運び具合、色彩の見事さ……貴方は摂津一会先生に相違ないでしょう?」
しかし、男は動じない。面の皮まで厚いのか、それとも無神経なのか。
「確かに私は『摂津』と雅号を名乗っていますが……『一会』とは? やはりご用向きの人間とは、別人のようですね」
明かにうんざりと青年は答えた。
「いえいえ! 先生の事ですよ。失礼。『一会』は俗称でしたな。……先生の作品を求めるバイヤーが、二目とお逢い出来ないと嘆いて、貴方に付けたんですよ。一会と」
男は厭らしく笑ったのだが、背を向けた青年は当然それを目にしてはいない。それは幸いな事であろう。
「ほう」
青年――摂津はその言葉に、妙に納得して口元を緩めた。確かに自分は特定の売り手を持ってはいない。旅から旅へ、日本各地を転々としながら絵を描き、路金を得るために、その土地その土地の適当な画廊に売るだけだ。
画家として、そこそこ名が売れてきたことは知っていたが、その様な名まで命名されているとは、些か驚きであった。
「先生? お気を悪くさせましたかな?」
気を損ねさせたのは端からの事であるのに、悪びれた様子なく男は言った。
「いや。一期一会の一会とは、悪くない」
摂津は、目を瞑り微笑んだ。作品を金として見る輩がつけた割には、悪い名ではない。摂津は素直にそう思った。
「申し遅れました。私は河原剛三と申します」
気を許した、そう察してか男は間髪いれずに自己紹介を済ませた。
「河原?」
摂津はそこで初めて話しかけて来た相手を見た。
小太りで背の低い初老の男。身に付けたスーツ、装飾品はあからさまに高級感を感じさせ、鬱陶しく映る。そして、見るからに横柄そうな態度が、さらに男が話す口調通りに勘に触った。
その背後には屈強そうな、体格の良い黒い背広姿のサングラスをかけた男がいる。恐らくは護衛の人間だろう。
「……あと一人、いないが……別口か?……」
摂津は、ぽつりと独りごつ。彼が先ほど自分の背後に感じた人の気配は、三つあったのだ。
「何か?」
その摂津の独り言は、河原の耳には届かなかったようだ。
「……いえ。それで代議士先生が、私に何のご用で?」
整った顔にある涼しげな目を、改めて摂津は河原に向けた。
河原剛三。何かと黒い噂の絶えない国会議員である。そういう背景を含め、現職議員ではかなり知名度の高い男だ。
「ここは私の地元ですから。その地元で、先生が名画を描かれた。……芸術を愛する人間が、それを欲するのは当然の感情でしょう?」
河原は再び、厭らしく笑う。
「名画? この絵の事ですか?」
その言葉に、摂津は訝しげに問い返した。
「はい」
川原は大袈裟に頷いてみせる。
「しかし、まだ完成もしていない絵ですが?」
「いえいえ。十分に見事な作品です」
そう言うなり河原は、オイ、と小声で背後の男を呼ぶ。
サングラスの男は、背広の内ポケットから紙切れを一枚取り出し、二人に歩み寄る。そして、仰々(ぎょうぎょう)しく摂津にお辞儀するとそれを差し出した。
それは金額欄が無記入の小切手だった。
「いかがですかな?」
河原は、満足げに顔を歪める。
摂津は男の手から小切手を取ると、微笑んだ。
それを見た河原の顔が、さらに醜くく崩れる。
しかし、それは刹那、驚愕の表情に変わった。
「なっ! 貴様っ!」
次の瞬間、摂津はその紙を二つに裂いたのだ。
「……どうやら貴方は私の知ってる噂通り、本当に下衆だったようだ」
冷ややかに蔑み、青年画家は嗤う。
「貴様! 儂を愚弄するか!」
河原の怒鳴り声と共に、護衛の男が身構える。だが、それ以上は動けずにいた。
摂津という青年画家に気圧されたのだ。
「貴方は芸術を金でしか見れない貧しい人間だ。お引取りを」
静かに、しかし、威圧的な何かを目の前の二人の男に突きつけ、摂津は言い放った。
「くっ! 覚えておれ、若僧! 儂を怒らせた事を死ぬほど後悔させてやる!」
川原は喚き、踵を返してその場を離れた。煮えきらない怒りが、その背中に窺える。護衛の男も暫しの後に、そそくさと河原に続いた。
「来たか……」
去り行く男たちとすれ違いに、傘も差さずに一人の少年がこちらに向かって来るのを、その視界に確認すると摂津は呟いた。
彼の察知した、もう一人の気配である。
その少年が先ほどまで川原の居た場所に立った。黒衣の少年。彼は黒一色の服装に身を包んでいた。
「……いつかこの地に現れると思っていた」
創り物、そう見紛うほどに美しい顔立ちのその少年が口を開く。
「生憎と人物画は描かぬのだが……モデルにでもなりに来たか、少年?」
摂津とて十分に美形とされる容姿をしているのだが、この少年の前にそれは霞む。
「……源蒼司だな?」
黒衣の少年は摂津の発言を無視し、無表情に訊ねた。左手には竹刀袋を持ち、その手首に小さい銀色の鈴が在った。
摂津一会――源蒼司には見覚えのある鈴だった。その鈴は無二の親友が宝物としていた物だ。
「……柾希の弟か……」
青年が、かつてのその親友の名を小さく溢す。その名の人物は、すでに他界していた。
「仇を討ちに来たのか?」
言いながら蒼司は立ち上がる。そして、キャンバスに立て掛けてあった、黒衣の少年の手にある物と良く似た細長い包みに手を伸ばした。
かの人物の直接的な死因、その発端に蒼司は深く関与していた。仇敵として目されるに十分な心的外傷を、故人に与えたのだ。
言葉の文でなく、事実、その心的外傷こそが柾希という人物を殺したのだから。
「……関係ない。俺はお前を――『魔』を殺しに来ただけだ」
少年は竹刀袋の紐を解きながら、それを否定した。
竹刀袋の中から放たれたものは、その名が示す物ではない。この国の産み出した、芸術品の域にまで達した武器、刀だ。
「なるほど……私情を捨て、ただ滝口の役目を全うする、と言うことか……強いな、柾希の弟」
蒼司も同じく、その手にある包みから刀を引き抜く。
「……だが、お前に私を止められる力はあるのか?」
小切先。小乱れながら、直刃の刃文。蒼司の手にする刀は古雅な作風の見事すぎる業物であった。
「――童子切安綱。お前の無名の刀では役不足だぞ」
冷ややかな光を放つ刃と同じ類の眼光を、少年に『魔』と呼ばれた青年画家は湛える。
「……止めるさ。だから、俺は滝口を継いでいる」
屈強な男の動作を封じた蒼司の鋭い氣に怯まずに、少年は殺気の篭った真っ直ぐな視線を送りながら呟いた。
ゆっくりと二人の剣士は身構える。
「ほう……では手並みを拝見しよう」
蒼司は口元を歪めた。
雨は未だ、辺りを濡らし続けている。
「――渡辺詩緒。お前を殺す人間の名だ」
黒衣の少年は静かに凛と告げ、そして、地を蹴った。




