98、小熊会長最後の仕事
今日は鈴原生徒会長が誕生する日である。
第191回サンキスト女学園生徒会長選挙演説会は昨年同様記念館の映画館のような大ホールで開催されるが、紫乃は「現場の下見です」などと言ってもうすでにホールへ出掛けてしまった。弓奈はちょっと寒い生徒会室でひとりぼっちである。
ひとりぼっちではあるが、彼女にはやるべきことがあった。なにしろ弓奈は今年紫乃の推薦演説を任されているのだから。去年小熊会長の推薦演説をやった弓奈にとっては二回目の登壇ということになるが、こういったものに慣れなどないので今のうちにしっかり原稿の読み直しなどをしておく必要がある。弓奈は基本的にはマジメな女なのだ。
さて、これは大したことではないのだが、目の前に紫乃の体操服がある。月曜日の早朝に生徒会室へ寄ってから教室に向かうつもりの紫乃が計画的に置いていったものだ。弓奈はテーブルの椅子に腰掛けてしばらくは原稿とにらめっこをしていたのだが、視界の傍らでコンニチハしている体操服がどうしても気になってしまった。弓奈は注意力散漫な女なのである。
「んー」
妙ないたずら心が芽吹いた。弓奈は立ち上がって遠巻きに紫乃の体操服の様子を探りながらじわりじわりと歩み寄った。普段、例えば体育の時間に紫乃の服に触れようものなら「何してるんですか? 砂の付いた手で触れないで下さい。よごれます」なんて言われて冷たい視線を向けられるに決まっているが、今ならクールな紫乃ちゃんの体操服をタッチし放題である。タッチしたからといってどうということはないのだが、隙が手をこまねいているのだからここはちょっと寄り道みたいな気分でタッチしておくのが人間として正しいあり方にちがいない。弓奈は紫乃の体操服を指先でつついてみた。
「おー・・・」
ふわふわである。洗濯済みの体操着なのだから当たり前だが、まるでほっぺのようだ。弓奈はつつくだけでは飽きたらず、手のひらを使ってぽふぽふしてみた。重力6分の1の月面でウサギと一緒におもちをついているかのようなドリーミーなふわふわ感が弓奈の手のひらをくすぐった。ついでになんだかいいにおいが香った。これは弓奈が紫乃の隣りにいる時に近頃なんとなく感じる不思議な甘い香りで、例えるならば朝一番のスズランの香りに甘味系の魔法をかけたようなトキメキのフレーバーである。弓奈は寮のコンビニ、フォカッチャドルチェで売られている洗剤を洗濯に使用しており、紫乃もその例外ではいはずだから、販売されている数種類の香り以外のものが香るはずなどないのだが、紫乃と紫乃の身につける衣服だけはちょっと特別なにおいをふりまくのだ。少なくとも弓奈にはそう感じられる。
「んー・・・」
体操着をぱふぱふしているうちに弓奈は楽しくなってきた。どうせ誰もみていないのだからはしゃいでも問題はないだろうと考えた彼女は紫乃のひょいっと持ち上げてぎゅっと抱きしめたのだった。
「紫乃ちゃ~ん♪」
本人にやったら絶交されるレベルのおふざけだと弓奈も思ったが、演説会直前のハイな気分が弓奈の頭を変にしてしまった。まあ誰かに目撃されない限りは問題のない程度のいたずらではある。
誰かに目撃されない限りは。
「動かないで!」
「わあ!」
後から思えばこの日に発生する全てのトラブルは彼女が連れて来た。生徒会室に突然飛び込んで来たその女は、明らかに手作りと思われる妙な警察官衣装を着て、おもちゃの拳銃を弓奈に向けていた。
「手をあげなさい!」
「は、はい!」
動くなと言われたばかりなのに手を上げて大丈夫なのか弓奈は心配だった。
「倉木弓奈はどこ! かくまったりしたらあなたも同罪よ!」
「ええ!」
まずあなたは一体誰だと弓奈は思った。自分が名乗るのはそのあとにしたほうが良さそうである。
「えーと、失礼ですがあなたは・・・?」
おまわりさん風のおねえさんはピストルを弓奈に向けたまましゃべり出した。
「私は警視庁捜査5課、笠原美々香! 母校の風紀を乱す倉木弓奈を逮捕しに来たわ!」
日曜日は学園の歴史的建造物を見に来る一般女性も多いので、事務で許可さえ出ればこのように生徒以外の人間がうろつくこともある。
「ふ、風紀を乱したりなんてしてないと思うんですけど・・・」
「いいえ。私の調べによると、二年C1組の倉木弓奈16才は、自身の美貌を武器に学園生徒たちを色仕掛けで惑わせ、この学園の礼節を重んじる清らかな校風を破壊しようと試みているのよ! 許せないわ!」
一体どこでどのような調査をしたらそうなるのか。
「な、何かの間違いではないでしょうか・・・」
「そんなことはないわ。私が生徒会長だった頃に比べると、明らかにこの学園は乱れたわ!」
「せ、生徒会長!?」
この笠原という女性、実は二年前の卒業生であり、小熊会長の先代の生徒会長だった娘なのである。その異様なまでの校則に対する執着から教員には支持されていたが、生徒達からも大人気だったかというと疑問である。本人は生徒会職務によって充実した高校生活を送ったと自負しており、結果卒業して大学生になってもなお母校の様子を定期的に探り見守っているのである。
「小熊会長の先輩なんですかぁ・・・」
「そうよ。倉木は許さないわ」
「う・・・」
「ところであなた、随分と可愛いお顔立ちをされているけれど」
笠原さんは腰からさげた手作りの手錠をカシャカシャ揺らしながら弓奈に近づいた。
「お名前は?」
「え!」
睨まれている。笠原さんの目元には色っぽいホクロがあってちょっと素敵だがそんなものに見とれている場合ではない。自分の正体を告げるべきか告げざるべきか、弓奈は決断を迫られている。
「えーと・・・私は・・・」
どうせ生徒会室には二人しかいないのである。ここはごまかして乗り切るべきだ。
「い、一年生の津久田あかりでぇーす♪」
「津久田さんね。よろしく」
笠原さんはピストルを腰の革ポーチに収めた。弓奈はあかりちゃんがよくやるお茶目なポーズを決めたまま、背中に冷や汗を感じた。
「ねえ。あなたのお名前が津久田さんっていうことは、その体操着、あなたのじゃないってことよね」
「あ!」
全く気づいていなかったのだが、弓奈はずっと紫乃の体操服を抱いたままだったのだ。今さらゼッケンの名前を隠したところでもう遅い。
「津久田さん。もしかしてあなたもそっちの人?」
「そ、そっちってなんですか! 違いますから! ちょっとふざけてただけなんです!」
「あー、あなたも倉木弓奈に毒されたのね。不憫な子」
笠原さんは肩をすくめてため息をついた。ため息をつきたいのは弓奈のほうである。
「津久田さん。体操服でいたずらしてたこと、その鈴原さんって人に告げ口されたくなかったら私に協力しなさい」
「きょ、協力?」
「一緒に倉木弓奈を捜すのよ」
「ええ!」
面倒なことになったものである。あかりちゃんのフリをしたまま外に出るわけにいかないし、そもそも演説会のためにそろそろホールへ行かなければならないのだから。
「・・・私ちょっと用事があるっていうか・・・あはは」
「鈴原紫乃って子に言いつけるわよ」
「わあ! ですからそれ誤解ですってば!」
「いいから行くわよ」
「ええ!」
弓奈はニセおまわりさんに腕を引かれて銀杏黄葉の輝く学園の日曜日へ飛び出した。
テニスコートのそばへやって来た。
一応記念館ホールの方へ向かってはいるので弓奈は黙って笠原さんについて歩いていた。このあたりは当然テニス部員たちのテリトリーであり下手をすれば攻撃的な安斎嬢に遭遇する可能性はある。
「はい集合ー」
聞き覚えのある透き通った声が北風の隙間に響いた。
「予定通り今日の練習はもう終了ね。みんな短い時間でよく集中してやったじゃん。一個一個の練習メニューのテーマをちゃんと意識して、それから各自の課題に真剣に向き合って今日くらい集中してやってくれれば練習時間は短くてもいつもぐらいの効果はあると思うから。明日からも集中して頑張って。そんじゃシャワー浴びたら生徒会長選挙に行くよ。今日の清掃はうちら二年生です。んじゃ、これで練習は終わりまーす。解散」
「はい!」
ライトブルーのウィンドブレーカーに身を包んだその人は紛れも無く安斎舞だった。舞は少なくても体育祭においては弓奈のライバルであり、弓奈を倉庫に閉じ込めたりしているので決してピースフルな人物とは言えない。ところがこうしてテニス部部長として彼女なりにしっかりと部員をまとめている様子を眺めていると、なんだか友達になれそうな気がしないでもない。生徒はみんなそれぞれに色んな悩みを抱えながら一生懸命学園生活を頑張っているんだと、舞の背中を見て弓奈は気づかされたのだった。
「乱れたわね」
「え?」
笠原さんは腕を組んでテニスコートを睨んでいた。
「津久田さん、見てごらんなさい。あのタオル」
「た、たおる?」
「私が生徒会長をやっていた頃はあんな風にフェンスにタオルを引っ掛けたりする生徒、いなかったわ」
実に細かい指摘である。「そんなこと別にいいんじゃないですか」と弓奈が言うより先に笠原さんはテニス部員たちに詰め寄っていた。
「そこのテニス部員! 施設利用法に関する校則の、フェンスの項目をお読みになったことがないのかしら!」
ボールバスケットを片付けていた舞が怪訝そうな顔をして出て来た。
「え、誰あんた?」
ポリスマニアの怪しいお姉さんに出会ったら誰でもこんな反応をするだろう。
「警視庁捜査5課、笠原美々香! 風紀を乱す極悪テニスクラブは私の力で潰すわ!」
「ちょ、ちょっと笠原さん・・・」
弓奈は止めに入った。舞は弓奈の存在に気づくと少し背筋を伸ばした。
「うわ、なんであんたがここにいるの。この婦警みたいな人誰だよ」
「ごめんね、ここの卒業生なんだって。ちょっと学校の見学を・・・」
「津久田さん、この部長と知り合いなのね。フェンスの取り扱いを改めないと廃部にすると伝えてくださる?」
「津久田さんって誰だよ」
「わあ! 舞さんなんでもないよ! 練習おつかれさま! 笠原さん、もう行きましょう」
弓奈はピストルを構える笠原さんをなんとか引っ張ってテニスコートを離れた。あとで舞さんに謝っておこうと弓奈は思った。
「あのー笠原さん・・・」
「なに? 倉木の居場所に心当たりでも?」
笠原さんは銀杏並木にはみ出した山茶花の葉をぶちぶちとむしりながら歩いていた。
「いえ、私そろそろ重要な用事がありますので・・・」
「逃げるの? あなたやっぱり倉木の情報を持ってるのね。こっそり倉木に報告して学園から逃がすつもりでしょ!」
「ち、ちがいます!」
あと20分で選挙演説会が始まる。学園生徒たちも続々と記念館ホールに向かっているというのにいつまでも笠原さんと一緒にいるわけにはいかない。
「そういえばさっきから女の子たちがあっちに向かって歩いてるけど今日はなにかあるのかしら」
地球の自転に合わせてさすらっているだけですなどと誤摩化そうかと思ったが、いずれバレる気がしたので諦めて説明することにした。
「あ、えーと・・・生徒会長選挙です」
「生徒会長選挙!?」
さすがは元生徒会長、このイベントには大きな反応を示した。
「どうしてそんな大事なことを黙ってたのよ津久田さん! 倉木は必ずそこに来るわ! 会場へ行きましょう!」
「ええ!」
会場に行きたいのはやまやまだが、笠原さんと一緒で行くことは問題である。なにしろ弓奈はあかりちゃんのフリをしているのだから。
「いいから行くわよ! かならず倉木を見つけてこらしめてやるわ!」
「わあ!」
抵抗虚しく弓奈は笠原さんに背中をぼんぼん押されてホールへ向かった。
推薦演説のある弓奈は当然ホールの裏口を目指して記念館の通路を歩いていたが、笠原さんは一般生徒と同じように表からホールに入ってしまった。
「あ、笠原さん・・・」
「なにしてるの津久田さん。早く入るわよ」
「う・・・」
学園生徒ばかりが集まっているホールに突然おまわりさんがやってきたのだから目立たないわけがない。しかし笠原さんはそんなことおかまい無しに生徒の顔を覗いて回った。
「あなた前髪が長過ぎてひどい顔よ」
「えっ」
「あなたは座席の腰掛け方を考え直さないと退学になるわよ。どうして膝と膝の間に1センチも隙間があいているの?」
「え・・・」
「ちょ、ちょっと笠原さん!」
ルールを守ることは大事なことかもしれないが、ここまでやってしまうとただのいじわるである。
「笠原さん・・・私ちょっと舞台裏のほうに行ってきますけど、おとなしくしてて下さいね」
「あ、津久田さん生徒会員なのね。私も行くわ。マイクを借りて呼びかければすぐに倉木が見つかるもの」
「だ、だめです!」
「うるさいわね。いいから早く行くわよ」
「ええ!」
二人は広い広いホールの階段通路を舞台手前まで下り、関係者以外立ち入り禁止の舞台裏に入った。そこでは原稿を抱えた紫乃が首を長くして待っていた。
「あ、遅いです。すぐに始めますよ、ゆみ・・・」
「はい! 了解です! すぐ準備しまーす!」
危うく笠原さんの前で名前を呼ばれるところだった。
「あれ、ところでこの人は誰ですか。関係者以外は入っちゃだめです」
「あ・・・紫乃ちゃんこの人はね、学園の卒業生で元生徒会長の笠原さん。ちょっと学園の見学中だって」
「元生徒会長さんでしたか。お会いできて光栄です。私は今回生徒会長に立候補した鈴原紫乃と申します」
紫乃は笠原さんに頭を下げたが、笠原さんのほうは紫乃の頭を見下ろしたまま肩をすくめただけだった。
「あらあら、あなたみたいな器の小さそうな子が立候補してるの? あ。小さいのは器だけじゃなさそうね」
あまりの無礼さに紫乃は言葉を失ったが、やがて胸を押さえ、おまけに背伸びもして激怒した。
「んんー! なんなんですかあなたは!」
「あら、この程度で腹を立てるようじゃ生徒会長になるのは諦めたほうがいいわ。あなたには無理よ」
笠原さんは革靴についた砂をカーペットの上でパタパタはたきながら紫乃の目を見ることもしない。おそらく靴の汚れをカーペットの上ではらってはいけないという校則がこの学園には無いのである。
「と、とにかく紫乃ちゃん。そろそろ時間だから始めたほうがいいんじゃないかな」
自分の心の準備は万全と言えない状況だったが、ここで喧嘩されたくないので弓奈はそう提案した。選挙演説会が始まれば一番最初の仕事は弓奈による推薦演説なので彼女は緊張はもちろんしている。
「始めたいんですが、まだ司会が到着してないんです」
時計を見ながら紫乃が言う。
「あ、司会って紫乃ちゃんじゃないんだっけ」
去年は小熊会長が再選をかけて立候補をしていたので紫乃が司会をやったが、今年は紫乃が立候補をしているので別の人間を使う必要があったのだ。
「あ、やっと来ました」
紫乃の指差した先に姿を現した少女・・・それは津久田あかりちゃんであった。
「お姉さまぁ! 紫乃先輩! おまたせしましたぁ! 私緊張しちゃって胸がドキドキ弥生土器!」
しまったと弓奈は思った。笠原さんの前に本物の津久田さんとニセモノの津久田さんが揃ってしまった。「このうるさい人は誰かしら?」と笠原さんはさっそく弓奈に訊いてきた。弓奈は非常階段の脇まで笠原さんを引っ張って来てから小声で答えた。
「ええと、あの人は生徒会をよく手伝ってくれる後輩の子です。今回の選挙が終われば学級委員からの選出ってことで正規の生徒会員になる予定なんですよ」
「後輩って。あなた一年生でしょ?」
「あ! えーと、私は春から生徒会やってるので、そういう意味で後輩です。ど、同級生ですよ。えへ♪」
あぶないところだった。
「笠原さんでしたっけ。ここにいても構いませんけど、私たちの仕事の邪魔はしないで下さい」
「わかってるわよ。おちびちゃん」
紫乃はムッとしたが、関わってはいけないと悟ったのか大人しくあかりにマイクを渡した。
「・・・それじゃ、頑張ってきて下さい」
「はい!」
あかりはステージ脇の演台に駆けていった。
「ただいまより! あ、みなさん静粛にお願いしますぅ! ただいまより、第191回サンキスト女学園生徒会長選挙演説会を開催いたしっまーす!」
ちょっと異色な雰囲気の司会にホールは大盛り上がりだ。実は近頃あかりちゃんは少しばかり有名人であり、そのつかみどころのない乙女っぷりから様々な層から人気がある。
「えーっと、私は去年の選挙を見てないのでよくわからないのですが、ちょっとややこしい事態があったみたいですね」
会場の二、三年生がどっと笑い出した。昨年は弓奈の困った顔を見たいがために深夜まで続くエンドレス選挙となったのだ。
「今年は再発防止、ひいては私たちの睡眠時間確保のためにちょっとだけ投票方法を変更しましたので先に連絡しておきまーす! 立候補者の信任投票なので、反対の人は白紙、賛成の人はマルを書いて箱に入れてもらうことになりましたぁ!」
YESかNOの投票にすれば一回で決まるわけである。なぜ去年にこの方式を導入しなかったのか、弓奈にはこれが非常に疑問である。
「それではさっそく演説にまいります!」
舞台裏で待機していた弓奈はビクっとした。すぐそばで笠原さんが聞き耳をたてているので自分の名前が呼ばれる前にステージに出て行かないと面倒なことになる。
「立候補した二年C1組の鈴原紫乃さんを推薦する、同じく二年C1・・・」
「はーい!」
弓奈は舞台に飛び出した。生徒たちはキャーキャー言いながらいっせいに弓奈に向けてカメラのフラッシュを焚いた。
「はい、えー、鈴原紫乃さんを推薦する、私です。どうもこんにちは!」
弓奈のことをしらない生徒などこの学園にいないので自分の名前を出さなくても大丈夫だった。弓奈はポケットから原稿を出し、練習通りとまではいかないものの、自分が最も信頼する紫乃ちゃんについて熱く語ることができた。
「すばらしい演説をありがとうございましたぁ! はぁん! とっても素敵でしたぁ!続いては立候補者演説です。鈴原紫乃さんお願いしまーす!」
ステージを下りる弓奈とステージに上がる紫乃は一瞬だけ目を会わせて心を通わせた。ありがとうございました弓奈さん、がんばってね紫乃ちゃん、そんな言葉が二人の心の中だけに響き合った。
「津久田さん。あなた随分人気だったわね。女神様ぁ〜とか呼ばれてなかった?」
「え!」
舞台裏に戻ると笠原さんが怖い顔をして待っていた。
「き、気のせいだと思いますよー」
「最前列で二人くらい倒れてたけど、あれなにかしら」
「ひ、貧血かもしれませんね。もしくは一時的なあれです、起立性低血圧ってやつです」
「みなさん座ってるけど?」
「あ、ほら見て下さい笠原さん。次期生徒会長の演説が始まりますよ。き、聴きましょうー」
紫乃はマイクを持ってスポットライトの中に立っていた。学園祭の日、彼女の妹は体育館のステージで同じようにスポットライトを受けていたが今度は自分の番である。16年間、胸の中で育んできた自分自身を紫乃はこの演説にぶつけるのだ。
「第191代生徒会長に立候補いたしました、二年生の鈴原紫乃です」
自己紹介をしただけで拍手が起こった。学園一のアイドル弓奈が最も信頼している紫乃は、生徒たちにとっても尊敬の的である。弓奈の一番そばにいる紫乃が非常に硬派な少女であることが、生徒たちをいつだって安心させた。公正な立場を保つ清廉潔白なボディーガードとして弓奈を守っている彼女は、弓奈を狙う生徒たちにとってはお邪魔な壁に他ならないが、それでも誰にも肩入れすることなく全ての生徒に対して等しく接してくれるので学園でとても愛されているのだ。
「・・・そして、無力な私を支えてくれたのは同じ生徒会の仲間の存在でした。よりよい学校を作っていくために必要なものを気づかせてくれた仲間たち。これは一人でじっと生徒手帳を読み込んでいても得られない大切な力だと思っています。本当に感謝しています」
紫乃の演説はとても素直なものだった。それが学園長の娘として学園に幼い頃から親しんできた彼女が、その生徒会長になるに際し出した答えなのである。今日くらいはクールなかっこよさよりも誠実さを素直に出したいと思ったのだ。
「わるいことを指摘するだけでなく、いいことをいいとはっきり述べて、お互いの長所を伸ばす手助けをし合う空気を作ること、これは簡単に達成できるほど単純な課題ではありませんが、それでも私たち学園生徒全員が協力すればきっと手にすることができるものだと思っています」
生徒会長になるという紫乃の決意の固さに弓奈の胸は震えた。紫乃ちゃんは自分が学園長先生の娘だからという理由ではなく、大好きな学園をより良いものにしていこうと心から思っている、弓奈にもそれが伝わったのだ。
「乱れたわね」
「え?」
弓奈が止めるより早く、笠原さんはおもちゃの手錠をカシャカシャいわせてステージに乱入してしまった。
「はーい。ちょっといいかしら」
突然おまわりさん風のおねえさんが登場し、紫乃のマイクを奪ってしゃべり出したのでホールはどよめいた。もちろん紫乃は抵抗したが、笠原さんに頭を手で軽く押さえつけられてしまい、腕をぶんぶん振り回してネコパンチしても彼女に届かなかった。
「私は第188代生徒会長だった笠原美々香よ。三年生のみなさん、お久しぶりですわね」
そう、現在の三年生は笠原元会長を知っているのだ。
「私が卒業してから、この学園は乱れたわ。もう笑っちゃうくらいだわ!」
紫乃の必死のパンチが笠原さんの体に全く届かない。
「先輩を敬わない。施設の使い方は乱雑。清掃も適当。そしてなによりも! 校則をないがしろにする発言!」
「な、ないがしろになんてしてないです!」
紫乃は叫んだが、笠原さんに鼻で笑われた。
「長所を伸ばし合う雰囲気づくりですってね。それ、どうやって実行するつもり? ここで呼びかければそれが自然に始まるとでも考えているのかしら」
紫乃は笠原さんを睨んだまま唇を噛み締める。ホールの空気は一気に重苦しくなった。
「ふん。黙っちゃって。あなたみたいな甘い考えを持った人間が学園を壊していくってこと分かってないみたいね。幸せなお嬢ちゃま。いい? 社会を作るのは法。学校を作るのは校則なのよ。何かを変えたけれな社会構造的方略をとらなきゃだめ。ひとりひとりの力を信じているような呑気な人に生徒会長の資格なんてないわ!」
笠原さんは嫌味な笑みを挟んでから紫乃にとどめを刺した。
「そんなことも分からないおばかのくせに、甘えてるんじゃないわよ」
「うっ・・・」
紫乃がステージに手をついてへたり込んでしまった。このホールに集まった生徒達も、一体どうしてよいか分からずうなだれた。
だが、弓奈だけは違った。
「頭にきた・・・」
弓奈は笠原さんをじっと睨みつけたまま静かに舞台へ上がった。弓奈はキレると人が変わるという噂が生徒たちの間に時折流れるが、一年生のほとんどがそれを信じなかった。だが、去年の体育祭で一度本気モードの弓奈を見た事がある生徒はこの話に納得したという。
「笠原さん・・・あなた今、紫乃ちゃんをバカにしたんですか?」
笠原さんはなにも言わずに横目で弓奈を見ている。
「あなたのおっしゃる通り、私は・・・常識がなくて、適当なところもたくさんあるし、自分の友達とかに甘えた生き方をしているかもしれない。・・・ばかにされたって仕方ありません」
弓奈はぎゅっと拳を握って言った。
「でも! 紫乃ちゃんをばかにすることだけは許しません!! 紫乃ちゃんはいつだって仕事に一生懸命で! 私や仲間の幸せを真剣に考えてくれます!! あなたみたいなデリカシーのない規則マニアに、たった数十分でおばか認定されるほど、紫乃ちゃんはうすっぺらい女じゃありませんから!!!」
「体操着・・・」
「え?」
突然笠原さんはほくそ笑みながら小さい声で呟いた。
「体操着のこと、言っちゃおっかなぁ」
「うっ!」
弓奈は急に追いつめられた。弱みを握られていることをすっかり忘れていたのだ。こんな卑怯な一手で屈してしまうのは悔しかったがどうすることもできず、弓奈は紫乃の隣りにへたり込んだ。笠原さんはマイクをくるくる回した声高く笑った。
『あらあら。盛り上がっているところ申し訳ないんだけど、私も先輩にご挨拶してよろしいかしら』
急に、学園生徒であれば誰もが聴いたことがある優美な声がスピーカーから聞こえてきた。
「誰? 名乗りなさい」
笠原さんは腰に手をあてたままキョロキョロした。するとホールの最上部の放送室の扉が開いて、その人が現れた。
「お久しぶりですわ、笠原元会長」
「あなた・・・小熊アンナね」
小熊会長は次代の生徒会長が誕生する選挙を去年と同様放送室でお茶をしながら見守っていたらしい。
「光栄ですわぁ。私が生徒会長を辞める日に、私の先代の会長にお会い出来るなんて」
小熊会長はいつも通りの美しい笑顔のまま客席の階段を下りてくる。
「ようやく話が分かる人間に出会えたわ。もうこの学園は乱れた少女ばかりで、あなたが会長を辞めたらすぐに秩序が崩壊するわよ」
小熊会長は笠原さんの言葉にただ優しく微笑むばかりである。
「あなたの選挙演説はすごかったわね。今でもよく覚えているわ。あなたの破天荒な振る舞いは嫌いだったけど、あなたは頭がいいから規則を守る術はよく理解していたわね。その点はとても評価しているのよ」
小熊会長はブロンドヘアを揺らしながらゆっくりゆっくり階段をおりてくる。
「でも、お土産だかなんだか知らないけれど、生徒会室にものを置きすぎよ。お茶は女性の大切なたしなみだけれど、ぬいぐるみなんていらないわ。不必要なものは今日じゅうに捨てておきなさいね」
小熊会長はステージのすぐ手前までやってきた。
「それからこの二人、立候補演説も推薦演説もまるでなってないわ。いいのは顔だけじゃない。中身が全然無いわ。もっとまともな、おバカじゃない立候補者を探してから会長を決め直したほうがいいわよ」
小熊会長はステージに上った。そして笠原さんに歩み寄り、微笑みを向けたまま黙り込んだのだった。笠原さんも先程から小熊会長がしゃべらないことを不思議に思い、彼女の心を覗こうとじっと瞳を見つめた。張りつめた緊張感と静寂がホールを重く縛り付けた。
どのくらいの時間が流れただろうか。数千人の沈黙を破ったのは、小熊会長の笑い声だった。
「おほほほ♪」
彼女がよくやるお嬢様らしい笑いである。指先をしなやかに伸ばした右手を口元に当てながら彼女は笑い続けた。笠原さんは初めこそ戸惑っていたがやがて緊張感から開放され、小熊会長と同じようにお嬢様笑いを始めた。
その時である。
ピシャンという鋭い音に続いて笠原さんが舞台に倒れ込んだ。弓奈たちを初め生徒らは自分の目を疑った。なんと小熊会長が右の手のひらの表側を使って容赦のない鋭いビンタを食らわしたのだった。大衆の前で頬を思い切りはたかれた笠原さんのプライドは粉々である。小熊会長は真顔になって笠原さんから目を反らしそのままなにも言わず舞台裏へ消えていった。笠原さんはなにも言えずに頬を押さえながら目を丸くして演壇の脇に尻餅をついていた。
「笠原さん」
弓奈と紫乃は目の前で腰を抜かしている彼女に、声を合わせて告げた。
「帰って下さい!」
「ひいいっ!」
笠原さんは頬を押さえながら転げるようにステージを下りると、ホールの非常口からドタバタと姿を消した。
大歓声が沸き起こったのはその直後である。学園にやってきた大きな危機を小熊会長が救ってくれたのだ。
「皆さん聴いて下さい」
舞台裏からいつもの優雅な微笑みを咲かせた小熊会長がマイクを持って出て来た。
「少しいろいろありましたが、演説会を続けます。選挙の日に演説を二度していいという校則はありませんが、学園の平和と生徒たちの幸せのためならば規則は必ずしも守られるべきものではありません。大切なものは、構造そのものではなく、環境を作り出すひとりひとりの心です。それがわたくし小熊アンナが仲間たちとともに二年間生徒会長として仕事をして出した答えです」
ホールに降り注ぐ拍手の中で弓奈と紫乃は手を取り合って飛び跳ねた。これが小熊会長が生徒会長としての最後の仕事となった。彼女は鈴原会長の誕生と同時に生徒会を引退したのだから。
およそ2週間後、生徒会室にあかりが飛び込んで来た。
「みなさん見て下さーい!」
弓奈と紫乃、そして遊びに来ていた雪乃は彼女に注目した。ちなみにあかりはもう立派な生徒会員である。
「あの笠原さんから手紙が届いてました! びっくりしました! 今では反省しています、とても恥ずかしいことをしました、ですって!」
衣装デザイン学科の女子大生、笠原美々香は学園に手紙をよこしていた。生徒のことを想って始まったはずの校則へのこだわりがいつのまにか一人歩きをして周りが見えなくなっていた、小熊さんからの一撃で目が覚めた、今ではとても感謝していますといった内容である。不思議な縁もあるものだ。
「でもこれ、どうしてあかりさんの寮部屋に届いていたんですか」
紫乃がそう疑問に思うのも当然だが、笠原さんは弓奈のことを最後まで一年生の津久田あかりだと誤解していたのだから仕方がない。
「さ、さあどうしてだろうねぇ・・・」
すっとぼける弓奈の背後で、紅茶を傾けながら油絵を描いていたあの人が上品に笑った。
「小熊会長。あなたはもう引退されたのに、どうしていつまでもこの部屋をアトリエ代わりに使ってるんですか」
小熊アンナは紫乃にウィンクして答えた。
「あらぁ、細かいことは気にしちゃだめよ。それから、私は小熊会長じゃなくて小熊先輩よ、鈴原会長さん」
「まあ・・・いるのは自由ですが、じゃましないで下さいね」
紫乃も今回のことは小熊先輩にとても感謝しているのだ。今の紫乃は小熊先輩を心から尊敬していおり、出会った頃の様子からは想像もできないレベルである。
「あら優しい♪ ずっと居座っちゃうわ」
12月の風鳴りを曇りガラスの外に聴きながら、笑顔の咲く生徒会室に流れる時間は春のように穏やかだった。




