96、平熱だ
「ケーキがないならパンでもいいわよ」
素が王族っぽい小熊会長の巻き髪がさらにロイヤルな輝きを増していた。弓奈は演劇に一切縁がない人生を送ってきたが、スポットライトを集めて舞台を18世紀のヴェルサイユに変える先輩たちの姿を眺めていると非常に胸が高鳴る。
「パンもないなら私は朝食抜きで構わないわ」
随分謙虚な王妃様である。卒業制作「フィナンシエの香り」は脚本から舞台演出まですべて生徒たちの手によって作りあげられる。もし来年自分たちがこのような演劇をやることになったなら、自分は照明係がいいと弓奈は思った。彼女は前年度の卒業式以来他人にスポットライトを当てる作業をとても気に入っている。
「弓奈さん。そろそろ時間ですよ」
隣りの席から紫乃のささやきが聞こえた。暗いので顔は見えない。
「あ、そうだった。行ってくるね」
「気をつけてくださいね」
「はーい」
弓奈は紫乃の細い肩をつんつんと優しくつついてから時計塔ホールを抜け出した。
まだ午前10時前だというのに早くも学園祭は大盛り上がりだった。ストールと呼ばれる屋台があちこちに小さな商店街を成して並んでいたり、体育祭と勘違いしているような元気な生徒たちがウサギのバルーンを押し売りして回ったりしている。弓奈はサインを求めてくる中学生の子たちを巧みに回避していくつもりだったが出来ず、学園を出るまでに1時間近く掛かってしまった。色紙やTシャツくらいまでなら平気だが、左おっぱいの上半分に直接サインを書いて下さいなどと言ってシャツを半脱ぎする子などもいて大変なのである。
「よし」
あまりよくはないがともかく弓奈は自由になった。弓奈はこれからバスに乗って石津さんをお迎えに行くのである。シンガーソングライター石津さんの出番は学園祭も佳境の午後2時。音響設備の設置は普段体育館を使用している心優しきバレー部員たちの協力によって早朝に完了したため、ちょっとだけだが小熊会長の演劇も見ることができた。バレー部には感謝状を書かなくてはならない。
駅前でバスを下りた弓奈は一応ドーナツ屋を覗いて石津さんがいないことを確認してから彼女のアパートへ向かった。柿の実も頬を染めてしまうほど、今日の空は青く澄んでいた。
アパートの窓が珍しく閉まっている。もう約束した時間なので留守ではないはずだが、寒さに強いと評判の薄着ねえさんの部屋が防寒対策をしていることに違和感を覚えないでもない。弓奈は例のごとく声帯を駆使したインターフォンで石津さんを呼ぶことにした。
「ピンポーン」
返事がない。先週弓奈は石津さんのアパートに電話をかけさせてもらい、今日の予定の詳細を連絡したのだが、その時は別段変わった様子はなく後輩たちに歌を贈ることが楽しみで仕方がないという熱い想いを受話器越しに弓奈に長々と語ってくれたものである。そんな彼女が今日の約束を忘れているとは考えにくい。
「ピンポーン。石津さん、いますか」
「・・・おお、弓奈くんか。 もうそんな時間か。入ってくれ」
「ん?」
弓奈はなにやらイヤな予感がした。いつもと石津さんの声が違うのだ。
「お邪魔します。お迎えにきたんですけど」
「・・・よし。待っていたぞ・・・すぐに準備を・・・する・・・」
「い、石津さん!?」
石津さんが寝込んでいた。明らかに風邪を引いたガラガラ声であり、マスクをしておでこにタオルをのせている。
「石津さん! お風邪なんですか!」
よりにもよって今日風邪を引いているだなんて信じ難い状況である。弓奈は足元に転がっているフライパンにつまずきながらベッドの石津さんに駆け寄った。
「いや・・・これは違うんだ。健康だ。ちょっと体がうずいているだけだ。武者震いというやつか」
「で、でもどう見てもその格好、風邪じゃないんですか・・・」
ちょうどその時石津さんのわきに挟まっていた体温計がぴーぴー鳴いた。
「な、何度ですか」
「んー、平熱だ」
「ホントですか?」
弓奈は体温計の液晶を覗き込んだ。
「さっ! 38度もあるじゃないですかぁ! どこが平熱なんですか!」
弓奈は不意に川沿いでギターを弾いていたあの日の石津さんの背中を思い出した。きっと学園祭のためにあの寒い場所で毎日のように歌を練習していたに違いないのだ。石津さんは着たいんだか脱ぎたいんだかよく分からないはだけたパジャマ姿のまま体を起こし、同じくベッドの上で寝ていたギターとヴァイオリンをそれぞれケースに詰め始めた。ふらふらである。
「今日は・・・楽しみだ」
弓奈は言葉を無くしていたが、石津さんが小さなせきをしたところで、急に感情があふれ出した。
「石津さん! ごめんなさぁい! こんなに無理させてしまって・・・!」
「ど、どうしたんだ・・・私なら平気だ」
もちろん平気なわけがない。
「私、すごく気軽に頼んじゃって・・・でもまさか、こんなにご迷惑をおかけしてるなんて思わなかったから! ごめんなさい!」
石津さんの背中に顔を伏せて弓奈は涙を流した。石津さんはボロボロになった楽譜をカバンに詰めようとしていたが、弓奈が泣いていることに気づいてすぐに振り向いた。
「いや、どう言っていいのか。弓奈くんは何もわるいことをしてない」
「・・・いいえ。わるいことをしました。・・・ごめんなさい」
「そんなことはない。私は元気なんだ。さあ・・・学園祭へ行こう」
石津さんのガラガラ声はとても優しく、髪を撫でてくれた熱っぽい手はいつもよりずっとやわらかだった。
「石津さん・・・」
しばらくして弓奈は口を開いた。
「今日はどうか・・・ゆっくり休んで下さい」
くらくらする頭の中でそれを聞いた石津さんは、観念したようにため息をついて微笑んだ。
「本当にすまない弓奈くん・・・どうやらそうしたほうがいいみたいだ」
「・・・はい」
青空を駆ける北風がかたかたと窓を揺らした。
「でも・・・これだけは聞いてほしい」
「・・・はい?」
石津さんは弓奈の頬を優しく撫でて顔を上げさせ、目を見ながらゆっくりしゃべってくれた。
「私は・・・こんなにも歌を歌いに行くのを楽しみに思ったのは久しぶりだったんだ。君が学園祭の話を私に持ってきてくれた日から・・・私の毎日は昔のように輝いた。寝ても覚めても、あの懐かしい体育館のステージで歌を歌っている自分の姿を想像しては胸が熱くなった・・・。だからちょっと・・・無理をしすぎてしまったのかもしれない」
石津さんにとってあの学園は本当に大切な思い出が詰まった場所であり、そこで歌を歌うことが彼女にとってどれほど嬉しいことなのか、弓奈にもそれがひしひしと伝わってきた。
「だから、君は胸を張って欲しい。私に歌う喜びを思い出させてくれたんだから。しかし私は・・・君と君の友達とそして来てくれるはずだったお客の期待を裏切ってしまったのだから、謝らなくてはならない・・・本当に、すまなかった」
弓奈は首を大きく横に振った。
「学園祭は私がなんとかします。きっと大丈夫です。だから、またいつか機会があったときは、必ずまたここに来ますので・・・」
「うん。その時はまたぜひ、私に歌を歌わせてほしい」
「はい・・・!」
弓奈は今日の夜か遅くても明日には必ずお見舞いにくる約束をして石津さんのアパートを去った。学園祭最大の目玉になっているゲストコーナーの歌手が当日に風邪で寝込むなんておそらく学園始まって以来の大問題であり、今弓奈の肩にはかつてないほど大きなの責任がどっしりと乗っかっている。一刻も早く学園へ帰って仲間たちの肩を借りなければならない。果たしてこの危機をどのように乗り切ればいいのか、弓奈はなかなかバスが来ないバス停の周りをうろうろしながら頭を痛めた。
駅前の時計台の針は丁度正午を指していた。




