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95、君が選ぶ星

 

 秋雨は弓奈の傘の上を優しく踊っている。このくらいの雨ならいくら降っても平気だなと思いながら、弓奈は紫乃と一緒に二年生寮を出発した。日曜日の午後8時50分のことである。

「紫乃ちゃん、あの子たちが最後かな」

 大浴場のエントランスから出て来た一年生の背中を目で追いながら弓奈は紫乃に囁いた。二人の傘は白鳥座のアルビレオのようにぴったり寄り添っている。

「行ってみようか」

「は・・・はい」

 大浴場は明治時代に建てられた二年生寮の隣りに完成し、大英帝国風の時計塔からも近いので、同じようにレトロな魅力満載の施設になるかと思いきや、美術館のような未来的モダン建築に仕上がっていた。色彩にさえ統一感があれば何をやってもいいと考えているに違いない。

「やった! 誰もいないよ」

 ピカピカの靴箱は全部空いていた。雨も降っているこの寒い日に裸足でやって来ている生徒や、お風呂場で靴をごしごし洗っている野生派な生徒がいない限り今は間違いなく貸し切りである。二人は靴を脱ぐと、靴下をぱたぱたいわせながら脱衣所がある二階を目指した。改修というより建て直しに近い工事だったらしく、エントランスも階段も新築の香りが心地よく漂っていた。

 例えばあなたが少女の下着だったとして、最も恐れる場所は脱衣所のはずである。脱衣所は学園内で最も忘れ物が多いエリアであり、なおかつここで拾得されたものは、持ち主が名乗り出ない割合が非常に高いのである。「パンツ落ちてませんでしたかぁ?」なんてあかりちゃんタイプの女じゃない限り知らない人に言えないだろう。

「この前の学園通信にお風呂のこと詳しく書いてあったよね」

「え、あ、そうでしたね」

「ふたつのフロアに分かれてるんだっけ。露天風呂はないみたいだけど、楽しみだね!」

「は、はい・・・」

 弓奈は紫乃の前で平気で脱ぎ始めた。紫乃の気持ちなんて弓奈は知らないのだ。

 弓奈が紫乃を親友だと思っているその大根底に、紫乃が女の子に恋をしない女であるという条件がある。しかしそれは弓奈の勘違いで、本当は紫乃は弓奈のことが好きなのだ。弓奈は紫乃の前ではあらゆる警戒を解き、無邪気にその色気と美しさを彼女に振りまきまくるのだ。紫乃にとってそれは大変な幸福であると同時に大きな不幸でもあった。絶対に手の届かない憧れがショーウィンドウの中できらめいているようなものだからだ。これからもずっとこの幸福と不幸とか同居した日々は変わらない・・・紫乃はそう考えている。

 だが果たして本当にそうだろうか。

「なんか、静かだね・・・」

 弓奈は脱ぐ手を止めてそう呟いた。彼女はまだブラを外していない。

「そうですね・・・まあ誰もいないから、当然です」

 二人はすぐ隣りにいるお互いの体を見る事が出来なかった。弓奈はわざとロッカーのドアの陰に移動してから裸になってすぐにタオルを縦に抱えて体を隠した。竜美さんの前でも犬井さんの前でも平気だった裸が、紫乃の前では恥ずかしかったのだ。

「・・・先に行っててください」

「あ、うん」

 裸のまま自分を待っている弓奈に耐えかねた紫乃はそう言った。紫乃は大好きな人の前ですぐに服なんて脱げない。

「じゃあ・・・先に入ってるね」

 頬をもみじのように染めてしてもじもじする紫乃を置いて弓奈は浴場に向かうことにした。

 脱衣所の階段をぺたぺた下りると湯の国であった。浴場には二種類あり、ひとつは「花の丘の湯」。そしてもうひとつは「青い月夜の湯」だ。少々古風でメルヘン過ぎるネーミングだが学園に昔から伝わっているお風呂場の名前なので誰も文句は言えない。

 誰がやったか分からないが、まるで親の仇のように湯桶が高く積み上げられていた。その山の中段から一個だけを器用に抜き出した弓奈は、花の丘の湯のほとりのシャワーで体を洗い始めた。ピカピカのシャワーから春のようなぬくもりと湯けむりがあふれ出し、弓奈のからだをつつみこんだ。


 かぽん。


 髪を泳ぐ湯しぶきの中で、弓奈は自分の二つほど隣りのシャワーに湯桶の音とともに紫乃がやってきた気配を感じた。目を閉じたまま弓奈は紫乃の姿を想像した。

 いつもクールでかっこいい紫乃ちゃん。背は少しだけ小さいがとっても頼りになる彼女に弓奈は時々甘えたくなる。あの控えめな胸にぎゅっと抱きついて冷ややかな言葉を頭から浴びせて欲しくなるのだ。だが、今日の紫乃ちゃんはなんだかとても可愛い。スズランのように可憐で小動物のように愛くるしい今日の紫乃ちゃんを、自分の腕の中でぎゅっとしてしまいたい衝動に弓奈は駆られていた。人が嫌がることをしないという仲良しこよしの基本に逆らう自分のいたずら心を恥じながら髪を洗っていたら、気づいたら三回もトリートメントをしていた。

「先、お風呂浸かってるから」

 弓奈はわざとそっぽを向きながら紫乃にそう言って湯船へ向かった。

 花の丘の湯は照明も壁面も全てヒヨコ色で、お湯こそ透明だがまるでコーンスープの世界に迷い込んだかのようなエリアである。弓奈は湯船のはじっこにゆっくりと浸かった。

「はぁ~」

 足を伸ばしても腕を広げてもぶつからない広い広いお風呂である。花畑の日だまりに抱かれたような全身がとろけるリラックスの境地である。湯けむりの中に浮かぶのは淡い色遣いで作られたモザイク壁画だ。このお風呂の名前に合わせて美術部のメンバーが協力して作成したらしいこの大きな壁画には、菜の花色の丘が地平まで描かれている。この場所に窓を付けたら丁度こんな風景が見えるのかもしれないと弓奈は不意に思った。なにしろこの方向には鈴原家の白い洋館と、あの爽やかな風が吹く丘が広がっているはずなのだから。


 ちゃぷ。


 弓奈の背後でみなもが揺れた。紫乃がこっちに来るどきどきに備え弓奈はシャワーの音が途切れる瞬間に警戒し耳を澄ましていたはずなのだが、お風呂場があまりに広いためにそもそもシャワーの音が聞こえていなかったのだ。

「紫乃ちゃん。あったかいよ」

 紫乃はなにも言わずに後ろから弓奈に迫り、一人分あいだを空けて横に並んだ。弓奈は横目でこっそり彼女の様子を探ってみた。髪を上げた紫乃が菜の花の色の湯けむりに包まれている。花みたいな人だなと弓奈は思った。

「ね、ねえ紫乃ちゃん」

「・・・はい」

「いい湯だね」

「そ・・・そうですね」

 ちょっぴり幸せな緊張感に耐えかねた弓奈は、目の前に広がる丘に話題を逃がすことにした。

「この丘ってさ、紫乃ちゃんの家の裏に広がってる丘だよね」

 紫乃はそう言われるまで壁画の存在にすら気づいていなかったようで、顔をあげるとやや目を細めながら丘を見渡した。

「そうですね。あの丘みたいです」

「この丘って、ずっと越えていったらどこに着くんだろ」

「・・・さあ」

「行ってみたいなぁ」

 地図があればどこにたどり着くのか一目瞭然だが弓奈はこういった冒険心をそそられるものにもときめく女である。

「まあ・・・暇があれば一緒に行ってあげてもいいです」

「え、ほんと!? 自転車とかで?」

「ハイ。暇だったらですけど」

 二人は一瞬だけ目が合ったが、紫乃はすぐに目をそらし自分の足をぎゅっと抱くように座り直した。弓奈も彼女と同じ格好をしてみると、胸とひざのあいだのお湯に自分の顔がぼんやり映って見えた。16才の乙女の顔である。

「紫乃ちゃん。あっちも試してみよっか」

「あ、あっち!?」

 紫乃がお湯の中でビクッと跳ねた。

「なんだっけ。えーと、青い月夜の湯」

「あ・・・なるほど。はい。行きましょう」

 もうひとつのお風呂は花の丘の湯とだいぶ雰囲気が異なり、生徒達はもっぱらこの湯のことを「日本初のお風呂プラネタリウム」と呼んでいる。はっきり言って全く日本初ではないのだが乙女たちには新鮮すぎる感動がそこには溢れていた。

「わー・・・」

 青い月夜の湯の天井は水滴が溜まらぬ加工を施された半球であり、その広い全面に無数の星がきらめいていた。

「すっごい・・・学園通信の写真の百倍くらい奇麗・・・」

「あれは白黒でしたからね・・・」

 ここを設計した人はプラネタリウムに見とれる十代の乙女心をよく理解しているので、足元にはつまずき得る段差が一切なく、まるで砂浜のようになだらかに湯船へと続いている。真ん中はそこそこ深いのでサラダボウルのような形の湯船だ。

「ねえ紫乃ちゃん」

「・・・はい?」

 二人はお湯にとっぷりと体を沈めて語り出した。やっぱり二人は少しだけ離れている。

「ベテルギウスっていう大きな星があってさ」

「は、はい」

「今にも爆発しそうなんだって。太陽とも比べ物にならないくらい大きい星なのに、爆発するんだよ。星の寿命だってさ」

 紫乃はお湯に灯る青い月明かりをぼんやり眺めながら大好きな弓奈の温かい声に耳を傾けた。

「でもさ、地球から見たベテルギウスが今にも爆発しそうってことは、本物のベテルギウスはもう爆発してるのかもしれないよね。何百光年も離れてるんだから」

 確かに600光年離れた星は600年前の姿が見えているのでなるほどと納得した紫乃は心の中でうなずいた。

「あ、あれっ・・・ちがったかも・・・」

「い、いや! 合ってます! 大丈夫です!」

 時々弓奈は自信をなくす。

「合ってるかな」

「はい。・・・離れてるっていうだけで本当の姿が見えないんですね」

「うん。私たちが思ってる以上に光はゆっくり進んでるのかもしれないね」

 紫乃は満点の星を湯船から見上げながら、時間の流れももっとゆっくりになればいいのにと思った。

「紫乃ちゃん」

「はい」

「もうちょっと、近づいていいかな」

「・・・え」

 弓奈は自分が切り出した星の話題がいつのまにか距離感の話になっていることに気づき、二人の間に空いたこの妙な隙間を埋めてみようと試みたのだ。これができれば今自分が抱いている不可解なドキドキが気のせいであることを証明できると思ったのだ。

「はい・・・」

「いい? じゃ、寄っちゃおっと」

 弓奈はちゃぷちゃぷとお湯をかき分けて紫乃に寄り添った。肩が触れ合わないぎりぎりの距離である。紫乃の心臓が大慌てで駆け出したとこは言うまでもない。二人はお互いに相手の顔すら見ていないが、心は二人静のように向き合っていた。

「紫乃ちゃんは・・・」

「は、はい・・・」

「・・・どの星が好き?」

 弓奈は内に向かって渦を巻いていく意識を外へ持って行こうとした。自分の胸の高鳴りが収まらなかったことに動揺をしたからだ。

「私はね・・・あれが好き!」

 弓奈は天井を指さして、わざと笑顔をつくった。ところがこんなにたくさんの星が瞬いているのだから、指を差してもらってもどれが好きなのか紫乃には分からなかった。

「・・・どの星を言っているのか分からないです」

「なんとなくだけどね、あれが一番奇麗」

 紫乃は少しだけ胸が痛んだ。まるでこの星のきらめきのひとつひとつがこの世界に暮らす命であり、弓奈がその中から自分の愛の居場所を見つけたかのように感じられたからだ。いつか弓奈だって恋をする。それが自分と彼女とを分つことになると紫乃は思い恐れているのだ。

 一方弓奈のほうは別の問題を抱えて困っていた。夏に姉妹校へ行ってしばらく紫乃と離れてからというもの、紫乃に嫌われそうな妙ないたずら心に囚われたり、頭の中が彼女のことでいっぱいになって他のことを忘れたりすることがある。より深い友情と呼べばいい話だが、なぜかこの症状にはいつだって罪悪感がつきまとっていた。家のキッチンにある棚の一番奥にしまわれた来客用のお菓子を母に見つからぬようこっそり食べてしまう時のような、甘いけれど胸が苦しくなる罪悪感である。

 とにかく、二人だけの時間、二人だけの星空に今までは吹かなかった風が吹き始めたことは確かである。

「紫乃ちゃんはどれが好き? 指さして」

 そう言われて紫乃はお湯の中で手のひらをきゅっと閉じた。私はあなたが好きです・・・そう言ってしまって、弓奈のほっぺを指でさせたらどんなに幸せかと紫乃は思った。どうしていいか困った紫乃は弓奈の横顔をそっと見上げた。

 弓奈のほうも紫乃がどの星を指さすか気になっていたので紫乃の横顔を見つめていた。

 つまり目が合ったのだ。

 なんて奇麗な目をしているんだろう・・・青い宇宙の真ん中で、見つめ合った二人は奇しくも同じことを考えていた。

 

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