94、仕方ない
大浴場の工事が終わったらしい。
が、弓奈はもちろん入りにいく気はない。いつも通り自室の小さな湯船にお湯を張りお気に入りの入浴剤を投入して楽しむ日々である。もしも親友の紫乃が大きなお風呂を満喫しているようであれば弓奈の心も揺れたかも知れないが、紫乃は弓奈に気を使ってか夜に大浴場へ出掛ける様子はなかったので、弓奈のいつも通りの安全なお風呂ライフは続いていくかに思われた。
「画鋲ください」
「はい。画鋲」
「2個ください」
「はい。2個」
弓奈と紫乃は時計塔一階のホールへやって来ていた。ここは学園祭で三年生が演劇を行う会場だが本番は来週なので今日は二人の貸し切りである。彼女たちは土曜日の午後に毎週行われる掲示物の貼り替え作業をしに来たのだ。
実は小熊会長の長い説得と笑顔の脅しの結果、今年の生徒会長選挙には紫乃が立候補することになった。現在の生徒会は気まぐれな小熊会長に代わり紫乃が実質的な中心人物となっており、次期もこれが続けば学園は安定すると会長は考えたのだろう。大人気な弓奈を生徒会長に推せば大勢の生徒たちが喜び学園全体の幸福度は上がるかに思えるが、収拾がつかないばか騒ぎになって風紀が乱れないとも限らない。弓奈が紫乃を信頼していることは学園生徒の誰もが知っていることなので紫乃が会長、弓奈が副会長になればどこからも不平は上がらないはずである。自分は副会長ではなくヒラの生徒会員で十分だと弓奈は思ったが、鈴原会長の誕生には大賛成である。
「弓奈さん。やっぱり石津さんっていう表記は直したほうがいいんじゃないですか」
「え?」
生徒会メンバーも学園祭の広告ポスターを作った。『特別ゲスト・シンガーソングライター石津さん!』というものである。生徒会主催のミニコンサートは学園祭で最も注目されている催しなのでわざわざポスターなど作らなくても人は来てくれるはずのなだが、わざわざ学園のために歌いに来てくれる石津さんに何かしたいという弓奈の想いから、主にあかりちゃんの協力によってポスターは完成した。あかりちゃんは小熊会長とは違う意味で絵がうまく、彼女の想像によって少女漫画のようなキラキラした石津さんが描かれた。全く似てないがこれくらいの華やかさが今時のメディアには必要である。
「石津さんって書いちゃだめかな」
「名前はちゃんと書いたほうがいいです」
「名前かぁ・・・」
随分前に名乗ってもらったような気もするがもはや覚えていない。弓奈に言わせてみれば石津さんは石津さんであり、今更「石津陽子さん」とか「石津由佳里さん」のようなフルネームで呼ぶのには違和感がある。
「あれぇ? 倉木さんと鈴原さん」
「わ! こ、こんにちは」
突然香山先生が登場した。
「こんにちはー。舞台の下見に来たんだよぉ」
実は三年生の演劇の責任者は香山先生なのである。文化系部員は学園祭に各クラブの仕事でかかり切りなため、この演劇は必然的にスポーツ系の生徒が多く出演することになり、やはりスポーツ系の香山先生が担当させられているのだ。先生はパイプオルガンの足元にへばりついて舞台を叩いたり木の匂いをかいだりしている。いつも通りおかしな先生だが、舞台監督は生徒が受け持っているので劇の出来は心配せずとも大丈夫である。
「倉木さんたちはもうお風呂行ったぁ?」
彼女は唐突にそう訊いてきたのだった。
「大浴場ですか。まだ行ってません。紫乃ちゃんもそうだよね」
「はい。行ってないです」
「ええっ。すごぉいきれいだよぉ。行った方がいいよぉ」
魅力的な施設であることは弓奈も噂に聴いているのだが、普段から肉体を狙われている彼女がなにも自ら学園生徒達の恋の食卓に上る必要はない。自滅は弓奈の趣味ではないのだ。
「ねぇ」
「わ!」
香山先生はいつのまにか二人に接近していた。彼女の正体はくのいちなのかも知れない。
「お風呂がね、貸し切りになる時間があるんだけどぉ、教えてあげよっかぁ」
「か、貸し切りですか」
混雑を避けるため大浴場には入浴時間が細かく決められており、放課後の16時から20時半までを90分ごとに区切ってそれぞれを学年別にし週毎にローテーションしていくのである。21時以降は寮部屋からの外出を禁止されているので、普通に考えればこのシステムに貸し切り時間帯の入り込む余地など無い。
「貸し切りって・・・それ、ホントですか?」
疑う弓奈の耳元に先生は唇を寄せて囁いた。
「オトナの時間があるんだよ」
オトナの時間、つまり先生たちがお風呂を利用する時間帯である。実は21時あたりの大浴場には教員たちがこっそり入っているのである。
「でもそれって先生方がいるから貸し切りじゃありませんし・・・」
「そもそも私たちはその時間に寮から出られないです・・・」
二人が言うこともごもっともだが、運命は彼女たちを湯船から手招きしていた。なにしろこの学園の教員たちはアサガオのように時間にうるさくシェフレラのように真面目なので、生徒達に外出を禁じている時間帯に大きなお風呂を楽しみに行ける者など香山先生くらいしかいない。そして週にたった一度、日曜日のみ外出禁止時間帯は22時からなのである。
「明日の日曜日は先生自分の部屋のお風呂使うから倉木さんたちに譲ってあげるよ!」
「そ、それは・・・ありがとうございます」
香山先生は言うだけ言うとスキップしながら時計塔を去って行った。この短時間で舞台のなにを下見できたのか疑問である。
「どうしようか紫乃ちゃん」
「へ!?」
紫乃は驚いて細い肩をすくめた。
「明日の夜、行ってみる?」
「あ、あ、明日の夜ですか」
指定された時間外にお風呂に入ることは勿論いいことではないが、仮にも教師である香山先生に許可されたのだから紫乃の心も揺れた。
「今回だけでいいから、一緒に行こうよ。ひとりで行くの淋しいもん」
弓奈は秋に冷えた紫乃の小さな手をとってお願いした。弓奈はお風呂好きなのである。
「し・・・」
弓奈の手の中で紫乃の指先はポッと温まった。
「・・・仕方ないですね」




