86、歌手の横顔
弓奈が寮の自室で料理の本を読んでいると、誰かが扉をノックしてきた。
「はーい」
長かった夏休みが終わって二学期が始まり、その最初の日曜日である。紫乃ちゃんあたりの真面目な生徒はこういったお昼前から勉強をしているに違いないので、やってきたのはおそらく小熊会長かあかりちゃんである。
「ん?」
二年生寮の部屋の扉には覗き穴がついているが、それを覗く限り部屋を訪れたのは人間ではなく大きな魚である。
「雪乃ちゃん」
「弓奈」
ドアを開けると雪乃ちゃんはばぶっと抱きついてきた。彼女はバニウオのぬいぐるみをいつも持ち歩いている。
「紫乃ちゃんの部屋は隣りだけど」
「おねえちゃん、勉強してる」
さすがだなぁと弓奈は思った。ぜひ次回のテストでは弓奈の代わりに総合一位になって欲しいものである。弓奈は雪乃ちゃんのために20秒で完成するアイスココアを作ってあげた。
「夏休みはどうだった?」
京都から帰ってきた弓奈はすでに雪乃ちゃんに会ってお土産を渡したりしているが、こうして二人きりでおしゃべりするのは久しぶりである。雪乃ちゃんはこの夏でちょっとだけ身長が伸びた印象だ。
「ヴァイオリン」
「ん、ヴァイオリン?」
雪乃ちゃんは小動物のようにストローをはむはむしている。弓奈はベッドに腰掛けて彼女のさらさらな髪を指で梳かした。雪乃ちゃんは顔だけでなく髪質まで紫乃ちゃんに似ている。
「ヴァイオリンのおねえさん」
「ヴァイオリンのおねえさん?」
「いた」
「いたんだ。それって学校?」
「おんがくひつ」
「音楽室かぁ。一緒に遊んでもらえたのかな」
「一緒に楽器した」
「そっかぁ! よかったねぇ!」
雪乃ちゃんには年相応に年長や年少の感覚があまりないのに、その彼女がわざわざ「おねえさん」と言ったのであるから、もしかしたら弓奈よりも年上の女性に出会ったのかもしれない。
「ん、ヴァイオリン!?」
とんでもないことを思い出した弓奈はベッドを飛び降りて冷蔵庫を開けた。
「あちゃー・・・」
冷蔵庫の一番奥、桃色のビニール袋に収まっていたのは、石津さんに渡すつもりだった京都のお土産である。お店で「期間限定ドーナツ味の生八ツ橋」というちょっとフツウじゃない商品を見つけてしまった弓奈は、もうこれは石津さんにあげるしかないと思い、迷わずこれを買ってきたのだが、サンキスト女学園に戻ってからすっかり石津さんのことを忘れており、死角となっている冷蔵庫の最上段など九月になるまで見てもいなかったのである。
「消費期限は・・・」
8月で切れている。
「どうしよっかなぁ・・・」
「なに?」
雪乃ちゃんは弓奈の隣りにしゃがんだ。彼女のフリフリのスカートは紫乃ちゃんのお下がりらしい。
「ドーナツ好きの知り合いにあげようと思ってたのに、もうだめだね」
「だね」
「あ、雪乃ちゃんが音楽室で会ったおねえさんってさ、こんな顔じゃなかったでしょ?」
弓奈は死神のような暗い顔をしてみせた。
「ちがう」
「だよねぇ・・・その人もヴァイオリンがすごく上手なんだけど、あんまり学園には来ない人だから」
弓奈は立ち上がってお財布の中身を確認した。彼女のお財布は夏休みのせいですっかり空っぽである。なにか代わりになるようなものをデパートへ買いに行くという手段は使えないが、かといってお土産もなにも全てなかったことにするのも良心が痛む。
「雪乃ちゃん、一緒にドーナツ作る?」
「ドーナツ?」
「ミニドーナツ作って京都土産にしちゃう大作戦。一緒にしちゃう?」
雪乃ちゃんはごくごく稀に天使のように微笑むのだが、それが弓奈の前でだけ咲く表情であることに弓奈はまだ気づいていない。
「しちゃう♪」
真っ白な永久歯がちょこっと見えた。
雪乃ちゃんは型にバターを塗る才能がるようだ。弓奈は未開封のまままだいくつも冷蔵庫に眠っているハチミツのビンを処分していきたいので、お砂糖の代わりにハチミツをふんだんに使用し、ココアパウダーも小さじでぶち込んでオリジナリティ溢れる京土産を完成させた。焼いてみれば案外普通の色をしているので文句を言われることはないだろう。
「よし! 袋は京都のやつで。完成!」
「かんせーい」
「ありがとう雪乃ちゃん! 私いまから石津さんのとこ行くけど、一緒にどうかな?」
雪乃ちゃんは困った顔で首をかしげて体をぶらぶらと左右に揺らした。
「また今度にしよっか」
雪乃ちゃんは弓奈の目を見てうなずいた。他人とほとんどおしゃべりをできない彼女がいきなり石津さんに会うのは、さすがにレベルが飛びすぎだろうとは弓奈も思っていたところだった。石津さんはちょっと変わった人だからだ。
とは言っても、決して石津さんは悪い人ではない。言うならば癒し系変人である。駅前でバスを下りた弓奈は午後の日差しを追って石津さんのアパートへ向かった。もう九月ではあるが、まだまだ太陽は歩道をまぶしく焦がしていた。
外からアパートの古びた窓を見上げてみたがそこに石津さんの姿はなく、ギターの音も聞こえてこない。おでかけ中か、もしくは以前のようにネガティブスイッチが入ってぐったりしているに違いない。
「ピンポーン。こんにちは」
相変わらずインターフォンはない。
「石津さーん。いらっしゃいますかぁ」
「弓奈くんか! 入ってくれ!」
「あ、はい」
いつになく石津さんが元気である。アイスの棒にあたりでも出たのだろうかと弓奈は考えながら「お邪魔します」と言ってギィギィ軋むドアを開けた。
「お久しぶりです。石津さん」
「ああ、久しぶりだ。早速だがこれを見て欲しい」
早速にもほどがある。石津さんは目を輝かせてちゃぶ台の上に置かれた何か小さなものを見つめている。弓奈は靴を脱いでお部屋に上がらせてもらったが、ふと見るとキッチン台の足元、通路のど真ん中にフライパンが置かれていた。どんな生き物を捕獲するトラップなのか分からないが、弓奈は少し警戒しながらフライパンを避けて通行した。
「これだ。見てくれ」
「どれですか」
方位磁石だった。小学校の実験で使ったような、原価20円くらいの代物である。
「弓奈くん。このコンパスを見てどう思う」
「え・・・んー」
イエスかノーで答えられるような簡単な質問をお願いしたいところである。
「北を指してますね」
「その通りなんだ! 北を指しているんだ!」
石津さんはガタっと立ち上がった。大きめのワイシャツの下からちょっとパンツが覗いている。真冬に窓を開けたままブラジャーを露出する人だからこれくらいは目をつむらなくてはならない。
「私はこの方位磁針に教わったのだ! 夢を諦めないことの大切さと、努力の本質を!」
自称歌手なだけあって大きな声を出すときは腹式である。お隣さんとの不仲が危惧される。
「この世界には、頑張っていればいつか必ず夢は叶う・・・そんなことはありえないという風潮に支配されている! そうは思わないか」
「は、はぁ・・・」
なんだかめんどくさそうな流れである。これは雪乃ちゃんを連れてこなくて正解だと弓奈は思った。
「たしかにそうかもしれない。努力と結果がセット販売されていると信じた子どもたちが、大人への過渡期にどれだけ塩辛い涙を飲んだことか、私の胸も痛い・・・」
弓奈は頭が痛い。
「だかこの方位磁針を、コンパスの針を見るんだ。私がここにいても! ここにいても! そして、ここにいても! 必ず北を指す」
石津さんは楽譜の散乱した狭い部屋をつまさきを器用に使って動き回り、語り続けた。
「このコンパスに従ってひたすら歩き続けたら、どこにたどり着くと思う?」
「え、えーと・・・」
「北極点だ!」
活き活きしている時の石津さんは奇麗だなと弓奈はこの時なんとなく思った。幸の薄そうなお顔立ちにも、青空にかざした硝子玉のような素朴で澄んだ色が差している。が、残念だが方位磁石が指しているのは北極点ではなく北磁極である。
「必ず、必ずたどり付けるんだ! 方向を誤らず、歩き続ければ! こんな簡単なことにどうして今まで気づかなかったんだ!」
石津さんはコンパスにキスをすると、仰向けのままベッドに倒れ込んだ。枕元のギターにちょっと頭をぶつけた音がした。
「そういうことで弓奈くん、夢は叶うものなんだ」
気持ちがいいほどハッキリそう言うと、石津さんは眠るように安らかな顔をして静まった。弓奈は一体自分がなにをしに来たのか危うく見失いそうになった。
「あ、そういえば石津さん。これお土産です」
「だが・・・」
石津さんは急に表情を曇らせて体を起こした。
「時間が足らなかったとしたらどうなる・・・。人間五十年。長寿大国と言えど一人の命に千年は見積もれない。北極のシロクマには数年で会えるかも知れないが、もっと遠い夢だったらどうなる・・・」
「あのー・・・」
「ムリだ・・・心のコンパスと不屈の魂があれど・・・ムリだ・・・」
石津さんはベッドにうつぶせに倒れてお布団にすがりついた。
「ムリだぁ・・・」
今にも泣き出しそうな声である。石津さんはポジティブスイッチとネガティブスイッチの場所が近すぎる。
「絶望中のところ申し訳ないんですけど、これお土産です」
「・・・お土産?」
「どこのお土産かはご想像にお任せしますが、ドーナツです」
「なに! ドーナツか」
石津さんはベッドから滑りおりて弓奈の隣りに座り、何事もなかったかのようにドーナツをもぐもぐ食べ始めた。別腹という言葉はあるが別脳という言葉も石津さんのために用意してほしいところである。
「うまい!」
嘘が下手な弓奈は京都のお土産ですと言うことが出来なかったが、ともかく喜んでもらえてなによりである。
「う、うまい・・・」
泣き始めた。雪乃ちゃんがここにいたらさぞや怯えるだろうと弓奈は思った。
「今朝、数年ぶりにそこの駅前広場でストリートライブをしようと思ったのだが、怖そうな婦警さんに職務質問をされて撤収した・・・」
「しょくむしつもん、ですか」
どう答えたのか気になるところである。
「私は・・・歌をうたいたかっただけなんだ・・・」
石津さんはドーナツをくわえたままベッドの上のギターをずるずると引き寄せて抱きしめた。どうやら石津さんは楽器を弾きながら歌いたいがためにギターを練習していたらしい。確かに彼女はヴァイオリン演奏のほうがはるかに得意だが、ヴァイオリンと一緒に歌を披露するのは難しいのである。
「私は・・・歌を・・・うたい・・・うっ・・・」
これはいけない。登山者も飛行機もジェットコースターも全て上がったら下りる宿命を背負っているが、石津さんの場合は上がっていた反動があるらしく、このように地面にめり込む勢いで落ち込んでしまった。このままでは「日本一の歌手になる」という石津さんが大切にしていた夢の背中までもが彼女に愛想を尽かして窓からこの部屋を去ってしまうことだろう。何か石津さんに自信を持って頂けるような舞台を用意してあげたいところである。
ここで不意に弓奈の頭の中に浮かんだ水彩画のような笑顔、それは雪乃ちゃんのものであった。
「そうだ、石津さん。石津さんに会ってほしい人がいるんですけど」
「なに」
石津さんはうつむいてギターに顔を隠した。
「いや・・・私にはもう、好きな人がいるから・・・困る」
「告白とかじゃないんですけど・・・」
石津さんはよくわからないタイミングで乙女になる。石津さんは高校時代の同級生に片想い中らしいが、弓奈はこの恋をほどほどに応援している。
「小さな女の子です。私の友達の妹なんですけど、歌や楽器が大好きなんです」
「歌や楽器が・・・大好き?」
「はい。かなり人見知りなのでここに連れてこられるかどうか分からないんですけど、もし機会があったらなにか素敵なお歌とヴァイオリン、お願いできませんか」
石津さんは驚いたような眼差しをそっと窓の外へ逃がし、その瞳を夕焼けに染めて黙った。その沈黙が長いので弓奈は少し不安になってきた。
「あの・・・お忙しいようでしたら別に、いいんですけど」
いくら売れていない石津さんと言えど、たった一人の小さい子を相手にちょっとしたライブをやってくれなどと注文するのは失礼だったかもしれないと弓奈は思った。もちろん弓奈は雪乃ちゃんのことが大好きで大切な仲間だと思っているが、石津さんにしてみれば彼女は赤の他人なのだからそこに温度差が生じたとしても不思議でないし、石津さんはちっともわるくない。
「なんか、ごめんなさい・・・ムリなお願いして」
「君は・・・」
「ん・・・!」
気づいてみれば石津さんはぎゅっと目を閉じて震えながら大粒の涙を流している。
「君はなんていい人なんだ・・・!」
弓奈は石津さんに抱きつかれそうになったが、紙一重で回避した。こういった場面で活かせる身体能力を弓奈は普段から鍛えている。
「いいだろう。その少女のためにひと肌脱ごう。人見知りだが心優しく音楽を愛するその少女に、マリアは愛をささやく」
マリアとは石津さんのヴァイオリンの名前である。
「い、いいんですか? 私を入れても二人だけですし、日本一を目指す人にはちょっと舞台が小さすぎっていうか・・・」
これは石津さんへの気遣いである。ちゃんと私はあなたの夢のことを覚えてますし、応援もしていますよってことを伝えておきたかったのだ。石津さんは「それは違う」と言って、胸元が丸見えのハイハイで弓奈に近寄って一方的に肩を組み、窓の夕空を旅するはぐれ雲をそっと見上げた。
「私は日本一大きなコンサートを開きたいのではなく、日本一の歌手になりたいんだ。会場の規模やお客の人数に私の頑張り度合いは一切左右されない」
そしてその澄んだ瞳はただ真っ直ぐに明日を見つめていたのだった。
「だって、聴いているのはひとりひとりなんだから」
この人は私が考えているよりもすごい人なのかもしれない・・・弓奈はそんなことをぼんやり胸の中でつぶやきながら、石津さんの横顔にテレビで見るようなかっこいいミュージシャンの姿を見たのだった。




