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81、送り火

 

 竜美さんの髪の香り。

 それは弓奈の枕のカバー、ひいては弓奈の髪の香りと同じであった。二週間も同じ学園に暮らし、一緒のシャンプーを使っておればお互いの体の匂いも似てくるものである。

「動いたぞ!」

 螺旋階段の地下五階、下り出口の陰に身を隠す二人がじっと様子を窺っていたのは浴衣ちゃんことお藤ちゃんである。彼女は基本的に昇降口に青い提灯を持っていつもスタンバイしているのだが、以前最下階の探検の時に彼女に出会ったように、一日に何度か持ち場を離れることがある。しかもお藤ちゃんは螺旋階段ではなく小階段を使って別の階に移動するので上手くやり過ごすことができるのだ。

「行くぞ弓奈!」

「はいっ」

 タイミングを見計らって二人は駆け出した。よろずよ学園の巫女さんみたいな恰好で屋外に出るわけに行かない弓奈はワンピースで、一方服など気にしない竜美さんは羽織袴のまま靴箱に向かった。いつもは二人で晩ご飯を食べている時間なので犬井さんとも別行動中である。

「あ、竜美さん、靴ありますか」

「しまった。ええいお藤の草履を使ってしまえ。追っ手が来なくて一石二鳥じゃ」

 昇降口のふすまをあけると足元の小さな灯りしかない薄暗い地下道が現れる。竜美さんは立ちすくんで薄暗闇をじっと睨んだ。

「私はいつも通ってますから大丈夫ですよ」

 弓奈は竜美さんの小さな手をそっと握ってあげた。

「よ、よーし! ゆくぞ!」

「はい!」

 別に急ぐ必要などないのだが、手を握ったままの竜美さんが駆け出したので弓奈も走った。暗く狭い廊下に二人の靴音が二重にも三重にも響いた。弓奈は今日の日が、自分にとってなにか特別な思い出になるに違いないと感じた。弓奈の胸の高鳴りが手のひらを通して竜美さんの胸の鼓動に熱く重なり合って、それが靴音となって廊下に響いているようだった。

「出口か!」

「はい!」

 二人は立ち止まることなく、扉にどかんと体当たりをした。一度立ち止まると、その扉を開けるのにまたたくさんの勇気が必要になってしまうからだ。

 重い鉄扉はぐおーんと鳴きながらマイペースにゆっくり開いた。

「いてて・・・肩が・・・」

 弓奈は肩や肘をさすりながら塔の階段に腰を降ろし乱れた髪を整えた。まるで鍋の底であるかのように外の空気はじりじりと煮え立っていたが、ほんのり夜風の香りもする。

「どうですか。学園の外は」

 振り返ると、西の空に差した最後の茜色をバックにとんがり頭の塔が星空に突き刺さっていた。竜美さんはその足元で空を仰いで立ち尽くしている。

「竜美さん?」

 竜美さんは辺りを見回したり自分の手をグーパーしたりしたあと、石段をぱたぱたと駆け下りて地面にへばりついた。乾いた土に爪を立てたり、草を引っ張ったり匂いをかいだり、まるで小さな動物のようである。

「竜美さん」

 もう一度呼びかけてようやく弓奈に気づいた竜美さんは、砂だらけの手を払いもせずに弓奈の腰にしがみついた。

「大丈夫ですか」

「大丈夫じゃ・・・」

 竜美さんはぎゅっと弓奈にしがみついてにやにや笑っている。

「な、なんで笑ってるんですか」

「お前も笑っているではないか!」

「えー、だって!うまくいったんですもん」

 竜美さんは弓奈の胸に顔をうずめてすりすりしてきたが、いたずらをしているわけではなさそうなので弓奈もぎゅっと抱き返してあげた。風が暮れかかった夏の深い緑と二人の髪を揺らした。

「行きましょう!」

 手をつないで薄暗い路地を抜け八坂神社の前の通りを鴨川に向かって二人は歩いた。竜美さんはすれ違う人の顔をまじまじと見つめたり、車に怯えたり、信号無視をしようとしたりとかなり様子がおかしかったが、その小さな手を放すことはなかった。彼女は紅色の羽織袴姿であるから、一緒に歩いていて目立たないと言えば嘘になるが、お祭り時の京の町にあってその姿は決して浮いたものではなかった。

 しばらく歩くと、南の空遠くに温かく輝く京都タワーが見えた。この街へ来た日はもっと冷たく見えたのだが、今こうして眺めてみるとまるで人々を見守り柔らかく毎日を照らす灯台のようである。

「弓奈! 月が見えるのじゃ!」

 和菓子屋の前の人波の中で竜美さんは夜空に手を伸ばした。

「ほんとだ。奇麗ですね」

 宵の鴨川沿いには花のような浴衣姿がたくさん咲いていた。竜美さんは空を仰いだまま小走りに弓奈の手を引いた。

「月が! 月がついてくるのじゃ!」

「え」

「私が走ると、月もついてくるのじゃ。私は月に好かれたようじゃの」

 車に乗っている時に天体が自分を追いかけているように見えることがあったが、それが天の高さによる錯覚であることに弓奈は小学校入学前に気づいている。

「えーと・・・皆についてきますよ」

「では、月は人の数だけあるのか。みんな違う月を見ているのじゃな」

「いや、ひとつだけです。同じのを見てますよ」

「なぜそんなことが言えるのじゃ。お前は私の目を借りたことがあるのか。ひとりひとりに違う月が見えていないと、誰が証明できるのじゃ」

「あー・・・なるほど」

 弓奈は妙に納得してしまった。

「月は人の数だけあるのじゃ」

 川面に揺れる街灯り。草履靴音響き合い、はじける月明かりは小滝に香り二人の耳を心地よく撫でて夏の夜に溶けていく。弓奈は駆け続ける竜美さんの背中越しに夏を見たのだった。二人の宇宙は今、手のひらを通じて結ばれているのである。

「弓奈!」

 わたがしの屋台の前で目を輝かせる竜美さんに弓奈はわたあめを買ってあげた。

「弓奈!」

 焼きそばの屋台の前で飛び跳ねる竜美さんに弓奈は焼きそばを買ってあげた。

「弓奈!」

 りんご飴の屋台の前で唄い出す竜美さんに弓奈はりんご飴を買ってあげた。

 はしゃぐ彼女の笑顔は、手から滑り落ちた硝子細工のように儚気に輝いて、弓奈の胸をきりきりと締め付けた。弓奈にはもう分かっているのである。竜美さんが、本当はとても優しくて甘えん坊であることが。

「あ、竜美さんちょっと待って」

「なんじゃ」

 北に上がった通りのお土産店の前で弓奈は竜美さんを引き止めた。サンキスト女学園の仲間たちにお土産を買っておこうと思ったのだ。明日の朝一番に京都駅へ行ってそこで待つ学園長先生の車に乗ったらそれでこの滞在は終わりであるから、今のうちにやるべきことは済ませておこうと思ったのだ。

「早くしないと送り火が始まるのじゃ・・・」

「8時からみたいなので、まだもう少し時間あります。ちょっとだけだから、お願いします」

「んー・・・」

 竜美さんはいじけたようにうつむいて草履の鼻緒をちょんちょんと蹴った。

 華やかなお土産売り場を歩きながら、弓奈は紫乃ちゃんへのお土産に頭を抱えた。会長やあかりちゃん、香山先生、雪乃ちゃん、石津さんあたりのお土産は容易に選べるのだが、なぜだか紫乃ちゃんのお土産だけがなかなか決められない。

「よし! これに決めた!」

 京都への行き帰りを学園長先生の車に任せているので交通費はかからないのだが、いよいよ弓奈のお財布の残金も底をついた。ほとんどは食費のせいなのだが、とにかく一学期に寮のカフェで彼女が働いて得たバイト代は、こうして全て経済の血脈に溶けていったのだった。

「済んだか、弓奈」

「はい。お待たせしました。行きましょう! もうすぐですね!」

 出町柳まで上ったころ、竜美さんのご機嫌はすっかりなおっていた。お盆の終わりを告げるお祭りが始まろうとしている。二人は人波に揉まれてほどけぬよう手を強く握りしめたまま、浴衣姿を縫って通りを歩き続けた。今はまだ真っ暗だが、この正面に大文字の山が見えるはずなのだ。

「弓奈!」

 なかなかいい場所を確保できたところで、竜美さんが弓奈の手をくいくい引っ張った。

「私もあれをして欲しいのじゃ!」

 彼女が指差したのは、肩車をしてもらう幼い少女である。あの高さならさぞかし眺めがいいだろうと竜美さんは思ったに違いない。

「ええっ。肩車は・・・んーできるかなぁ」

「大丈夫じゃ。お前ならできるのじゃ」

 ポニーテールのままでは肩車ができないと思った弓奈は髪をほどいた。夜風に流れるその髪の黒を、竜美さんは珍しくぼんやりとした目で見つめた。

「どうしたんですか」

「な、なんでもないのじゃ・・・文化人形みたいな目をしおって。早く肩車をするのじゃ」

 体の小ささの割に意外と重い竜美さんを肩車するのは運動センス抜群の弓奈でもなかなかにつらかったが、肩に乗せてしまえば後は楽だった。

「高い! 高いぞ弓奈! 人を見おろしたのは初めてじゃあ!」

「わぁ! 暴れないで下さい」

 ただし動かれるとつらいようである。弓奈はこの時こっそり胸の中で竜美さんに甘えん坊将軍というあだ名を付けた。

「弓奈! 私はシャボン玉を持ってきているのじゃ!」

「おお!」

 竜美さんは羽織の袖に隠していたシャボン玉キセルを弓奈の頭の上で吹いた。

「ふぅー」

 シャボン玉は夜風にふわりふわりと流れながらどこまでもどこまでも立ち上り、街の灯りにきらめきながら夏の星座になっていった。竜美さんは大喜びしながら何度も何度もシャボン玉を吹いた。

 午後8時。息を飲んで人々が見つめる山の中腹の暗闇に、シャッターの光が続けざまに瞬いたかと思うと、命のように燃える灯火が小さく輝き始めた。

「弓奈! はじまったぞ!」

「はじまりましたね!」

 そしてその火は滲み出すようにじわじわと闇を焦がして広がり、二分あまりで巨大な「大」の字が夏の夜に咲いたのだった。

「すごい・・・奇麗ですね」

 弓奈の声をお腹のあたりで聴きながら、竜美さんは返事もせずただ目をまんまるにしていた。彼女の瞳の中で燃える山の姿こそが、彼女の夏そのものであり、彼女の胸に息づき始めた数少ない真実のひとつなのだった。

「大きくて・・・燃え上がるようじゃ」

 竜美さんはそう呟いて弓奈の温かい指をそっと握りなおした。


 更けていく二人の夏に、星影はやさしく降り注いでいた。

 

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