77、会長のマスカラ
夕方まで土まみれになって地下洞窟を這いずり回っていたので弓奈は竜美さんと一緒にお風呂へ行くことにした。
上り専用階段に足跡をつけないようにハイハイで上ってきたのでそれだけで一時間もかかってしまった。端から見ればあほみたいな光景である。
「げ! 犬井がおるぞ」
脱衣所のカゴに白い着物が丁寧にたたまれている。「げ!」というほどではないが弓奈も犬井さんと一緒は妙に緊張する。
「わ、私はまた後にするかの」
「ダメですよ・・・。畳に足跡つけたらそれこそ木刀で斬られますよ」
二人は静かに素っ裸になって服を洗濯機に入れてお風呂場に突撃した。
お風呂場の暖色の世界に雪のような白い肌が一点。湯船に浸かっていた犬井さんは、なんと目隠しを外している。
「こ、こんにちは〜」
遠くから挨拶してみると、犬井さんは目を閉じたまま頭だけ下げた。
「よ、よし。今日のことはバレておらんな」
「そうみたいですね・・・」
「そうと分かれば怯えることはない。風呂ライフを楽しむのじゃ」
「はーい」
湯桶と風呂椅子を持って弓奈がシャワーの前に座ると、なぜか竜美さんは彼女のすぐ前に椅子を持ってきて座った。
「背中を洗うのじゃ」
「えー・・・」
「えーではない。このスポンジを使って洗うのじゃ」
「はーい・・・」
髪を洗い始めた竜美さんの背中を弓奈はごしごし洗ってあげることにした。こんなところに土などついていないがせっかくだからしっかり洗ってあげようと弓奈は思った。
やたら柔らかい富士山型ボディースポンジで、どんどん泡が流れていってしまうのでもう少しボディーソープを足そうと思った弓奈がボトルに手を伸ばした時、弓奈の胸が竜美さんの背中に思い切り接触してしまった。
「あ、ごめんなさ・・・」
「こぉらぁ! 乳を押し当てるなぁ!」
「ごめんなさい!」
「ぬるぬるしててくすぐったいぞ! あほ!」
弓奈もこの時はくすぐったさを感じたが、少しだけ心地良いくすぐったさだった気がした。
体を洗った竜美さんは髪の毛もまとめずにざぶんと湯船に飛び込んだ。犬井さんは先程と同じ場所で、同じように目を閉じて温まっている。竜美さんは湯船から顔だけを出してちゃぷちゃぷと怪し気に泳ぎ彼女に近づいた。
「犬井! この辺りで海坊主を見なかったか!?」
「それは竜美様です」
弓奈も湯船に入った。よろずよ学園のお風呂は共同浴場なのでとても広い。サンキストにも大きなお風呂ができるらしいが、他の生徒がたくさんいる中自分も裸になるのは身の安全のためには避けるべきなので結局自室のお風呂を使うに違いないと弓奈は思っている。
「おい弓奈。犬井の乳とお前の乳、どちらがでかいかここへ来て勝負するのじゃ」
弓奈は聞こえないふりをして湯船に肩まで浸かった。若い鍾乳洞のように天井から下がる水滴をぼんやり眺めながら、弓奈は大きくひとつ息をついた。海坊主がバタ足で近づいてくる。
「無視をするな」
竜美さんは弓奈の肩にあごを乗せた。
「いい湯ですね〜」
「おーい」
耳元で騒いでも弓奈が反応をしないので、竜美さんは弓奈のおっぱいを鷲づかみにした。
「わぁあ! ちょっと!」
「んーいい勝負じゃが弓奈の勝ちかの」
泳いで逃げていった竜美さんに弓奈はお湯をバシャバシャかけた。おそらく塩も撒くべきである。
しかし五分もしないうちに竜美さんがぐったりしていた。お湯の中ではしゃぎすぎたらしい。体が小さい子はすぐに温まるので無理もないが、正直弓奈はあまり同情していない。
「先にあがって弓奈の部屋の冷蔵庫のよーぐるとでも食べて待っておるぞ」
「ど、泥棒!」
竜美さんは行ってしまった。弓奈も同じタイミングで出てもよかったのだが、もう少し温まりたかったし、脱衣所でいたずらされるのもイヤだったので残ることにしたのだ。
犬井さんは湯船のはじにいる。ずっと温まり続けていてのぼせないのか弓奈には疑問だったが、この距離感はおかしいと思ったのでもう少し彼女のそばに寄ってみることにした。
お湯の注ぐ音だけが二人の間に流れた。弓奈はこっそり犬井さんの美しい横顔を見つめた。今は目は閉じているが、先程竜美さんに「海坊主はあなたです」みたいなツッコミを入れていたのを聞いたので、見ようと思えば普通に見ることができるに違いないと弓奈は思った。
「お風呂、好きなんですか」
そりゃ嫌いだったらこんなに長湯してないだろうとは弓奈も思ったが、会話のきっかけに目の覚めるような意外性など別に必要ない。
「嫌いです」
「え!?」
「冗談です」
「は、はぁ」
竜美さん以上に接しにくい人である。弓奈はさっそく何をしゃべっていいのか分からなくなった。
「あのー・・・前から気になってること訊いてもいいですか」
「はい」
「どうして普段目隠ししてるんですか。目開ければちゃんと見えるんですよね」
犬井さんは黙った。弓奈は湯煙の中で膝を抱いて彼女の返事を待つことにした。湯船の底に足の裏をすりすりすると少し気持ちよかった。
「必要なものを見るためです」
「え?」
「必要なものはいつも見えています」
分かりづらい精神論は勘弁して欲しいところである。紫乃を除く弓奈の知り合いは大抵おバカさんか危険な哲学者のどちらかに分類できる。
「私からもひとつ質問をしてもよろしいでしょうか」
「え! は、はい」
犬井さんは一度話し始めると案外おしゃべりなところがある。
「去年ここを訪れた小熊アンナ様は私たちについて何か話していましたか」
「小熊会長?」
思い返してみたが「じゃ、決まりね♪」くらいしか言われていない。
「特に、なにも言われていませんけど」
「そうですか」
再びお湯の注ぐ音が壁になって二人の間に流れた。暑くなってきた弓奈は石の段に腰掛けて上半身をお湯から出した。
「小熊様は私のことを疑っております。私が、私のかつての主の言い付けを破ろうとしているのではないかと」
「え?」
長い沈黙に突如ひと雫落ちた犬井さんの言葉は、美しいけれどどこまでいっても不可解な同心円の波紋を弓奈胸に描いた。
「聡明な方ですから、私たちがここにいる理由と、私の狂乱が招く事態の危険性にいち早くお気づきになられたのでしょう」
「は、はい・・・」
元から変な人だなと思っていたが、その度合いは弓奈の想定を越える値であった。話についていけないレベルである。
「えーと・・・その、前のご主人さんっていうのは、もしかして前の生徒会長さんのことなんですか?」
「いいえ」
詳しく答えてはくれなかった。言いたくないことや言えないことがあるのだろうと弓奈は思った。
「疑われてはおりますが、私は今でもあのお方のことを・・・」
「おそいぞ!」
突然風呂場の引き戸が開いてヨーグルトのカップを持った竜美さんが吠えた。
「早く出てくるのじゃ! 退屈なのじゃ!」
お風呂を出た弓奈は、着替えを持って逃げ回る竜美さんを頑張って捕まえてパジャマに着替えた。
「でかいドライヤーじゃの」
「あ、私が持ってきたやつです。つやつやになりますよ」
弓奈はドライヤーに興味津々の竜美さんの髪を乾かしてあげることにした。竜美さんは鏡越しに弓奈にあっかんべーをしたりしていたが、乾かし終わるまで大人しくしていてくれた。
「弓奈。これの使い方も教えるのじゃ」
「なんですかそれ」
「去年小熊が残して行ったマラカスじゃ。絵筆だと思ってここに置いておいたのじゃ。ここは書道にも使う部屋じゃからの」
マスカラだった。そういえば初めてここへ来た日のお土産うんぬんの話にこれが出てきた。
「これはマラカスじゃなくてマスカラです。お風呂上がりだけど、ちょっと塗ってあげましょうか」
弓奈より一歩おくれてお風呂場を出てきた犬井さんは弓奈たちのすぐ後ろで着替えを始めた。
「何に塗るのじゃ」
「まつげですよ」
「まちゅげ!?」
「はーい塗りますよぉ」
竜美さんはちょっと怖がって、塗られるほうの目をきゅっと閉じた。
「目は開けてもらってたほうが奇麗に塗れるんですけど」
「黙れぇ!」
まず左目だけ塗ってあげたのだが、「できましたよ」と言っても竜美さんはキョトンした顔のまま動かない。何を見ているのかというと、着替え中の犬井さんの姿である。
「どうしました?」
「弓奈、右にも塗るのじゃ」
右目のまつげにもマスカラを塗ってあげた。すると竜美さんは左目を閉じたり開けたりをしばらく繰り返した。
「なるほど・・・これは面白いのう」
「え、そうですか」
「うむ。これは面白い」
そういうことは鏡を見ながら言ってほしいものである。
着替え終えた犬井さんはいつも通り目隠しをして何も言わずに脱衣所を出ていった。




