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73、弾く女

 

 バニウオは二人乗りだ。

 大きな耳を羽ばたかせてト音記号のビルを駆け上がると、そこはクッションのような虹色の雲の世界である。

「高いね」

 オルゴールの音色に髪をなびかせながらそうささやく弓奈を、雪乃は彼女の腕の中から見上げた。雪乃は弓奈と同じ制服を着ていて、二人仲良く空飛ぶ巨大魚に股がっているのだ。ほうき星たちの作るアーチを抜けると、大きな一輪のひまわりがお出迎えである。これは太陽ではないから、雪乃は日傘をささなくていいのだ。しかし大好きな三日月さんも隣りで微笑んでいるし、お気に入りの日傘を開いてみせてあげたい気もする。雪乃はどこからともなく日傘を取り出して弓奈の腕に抱かれたままパッと開いた。すると二人はバニウオの背中からふんわりと浮かび上がり、風に乗って漂い出したのだ。まばゆい夏の街角を足元に見ながら、雪乃は自分の家を探してみた。

「あ、雪乃ちゃん家」

 五線の道を目で辿って雪乃もようやく白い洋館を見つけた。上から見るとハ音記号そっくりだった。

「私ね、雪乃ちゃんの歌が聴きたいな」

 日傘をぽんぽんと叩く雨音。気がつけばひまわりは翳り、シャワーヘッド付きの雨雲がお月さまに照らされていた。

「あめふーりーおっつきさーんーくものーかーげー」

 カシオペア座に並んだカエルたちがゲコゲコ合唱しはじめた。

「およめーにーゆくとーきゃーだれとーゆーくー」

 バニウオが雨の中を気持ち良さそうに泳いでいる。

「ひとりーでーからかーさーさしてーゆーくー」

 そして二人をもう一度背中に乗せて大きく羽ばたいた。

「からかーさーないとーきゃーだれとーゆーくー」

 なんて気持ちのいい雨だろうか。月明かりを灯した夜空の雫が雪乃たちの周りをふわふわと舞うのである。

「しゃらしゃーらーしゃんしゃーんーすずつーけーたー」

 いつのまにか弓奈も一緒に歌を歌っていた。

「おうまーにーゆられーてーぬれてーゆーくー」

 二人は声高らかに巨大魚を駆って乙女座銀河へ漕ぎ出すのだった。



 ドアが開いた。

 雪乃はびっくりすると両手を上げるクセがあるのだが、それは寝ぼけていても同じらしい。彼女はオルガンの角に手の甲をぶつけた。雪乃が学園で暮らすうちに見つけたもっとも住み良い部屋はここ第一音楽室である。ひまわり畑が見える角部屋でとても明るく、エアコンもよく効くうえに奇麗なカーペット敷きで、なにより雪乃の愛する音楽があふれている。ちょっぴり狭いがそのせいで授業やクラブで使用されるのは第二音楽室ばかりだし、今は夏休みなのでこの部屋にいれば床でお昼寝をしても誰にも叱られないのである。まさか、その第一音楽室に訪問者が現れようとは。雪乃はまずオルガンの影からバニウオの顔を出して様子を探らせようと思ったがあまり意味がないことに気づき、おそるおそる自分が顔を覗かせてみることにした。

 ひとつ編みの女の人が向こうを向いたまま椅子に座って髪をいじっている。彼女はカジュアルシャツを着ているので学園の文化財などを見に来た一般の人である可能性もあるが、夏休み中は生徒も私服を着たまま学舎をうろつくのではっきりはしない。彼女は黒いケースから楽器を一台とりだした。生徒用のヴァイオリンである。スクリューをくるくる回して弓を張る彼女の姿を見せようと、雪乃はバニウオの頭をオルガンからひょっこり外に出した。窓明かりにバニウオの大きな耳はきらきら輝いたが、ヴァイオリンのおねえさんは背中を向けているので気づかない。

 ちょうどおねえさんがヴァイオリンを構えたとき、廊下から生徒たちの声が近づいてきた。すると彼女はヴァイオリンを抱えたままそっとグランドピアノの陰にしゃがんで隠れたのだった。雪乃とやっていることが大して変わらない。廊下の生徒たちは音楽室の手前の階段を下りていったようで幸いこの部屋には入って来なかった。ほっとした様子のおねえさんがピアノの陰から顔を出したので雪乃は慌てて自分の顔を引っ込めて魚もしまった。ふと、雪乃はたった今一瞬だけ見えたおねえさんの顔に見覚えがある気がして首をかしげた。雪乃は自分の家族とスクーリングの先生と弓奈以外の人間にはほとんど関わらないので、もしかしたらずっと昔に会ったことがある人なのかもしれないが、とりあえず今の雪乃がひょっこり顔を出してすぐに仲良くできるような親しい女性ではないことは確かなので雪乃はオルガンの陰で隠れ続けることにした。

 オルガンにもたれてバニウオのほっぺをこしょこしょとくすぐりながら雪乃は耳を澄まし、おねえさんの様子を窺った。彼女は黒板の前の台に上がり、優しくヴァイオリンを弾き始める。彼女が奏でたのはユモレスクの第7番。気まぐれで可愛らしいくそしてちょっと切ない19世紀のクラシック曲である。雪乃はこの曲を聴いたことがなかったので目が覚める思いで聞き耳を立てた。

 奏者を含めても人間は二人だけ、しかも弾く本人は雪乃の存在に気づいていないので本当に小さな演奏会である。だが雪乃はそうは思っていない。オルガンや木琴やドラムや、とにかくこの部屋に暮らす楽器たち全てに、今すぐにでもタッチして回って、この胸のドキドキを分かち合いたいと感じているのである。「不思議な人が来たよ」「ヴァイオリン弾いてくれてるよ」と言ってバニウオと一緒に楽器のあいだを飛び跳ねたいのだ。

 雪乃はエレクトーンの背中に立てかけてあった32音の卓上木琴に両手を伸ばし、がんばってオルガンの陰に引っぱり寄せた。自分もおねえさんの曲を演奏したくなったのである。雪乃は音感がよく、しかも耳にしたメロディを記憶する能力にも長けた少女なのでたったいま聴いているユモレスクを木琴で真似ることができるのだ。雪乃はおねえさんの演奏が終わったタイミングを見計らってマレットを振り上げた。

 気まぐれな曲がさらに気まぐれになり、ヴァイオリンの音色にあったような繊細さや情感の豊かさなど微塵もなくなったが、部屋じゅうに小さくて、柔らかくて、そしてとっても無邪気な音符たちがゆるやかに降り始めたのだ。まるで月夜の雨音のように。

 曲がちょうど変調するあたりで部屋の空気ががらりと変わった。なんとヴァイオリンのお姉さんも雪乃の木琴に合わせて演奏を始めたのである。二人は生まれた時代も育った環境も違うし、お互いに顔を合わせたことすらない。なのにこうして音楽でコミュニケーションが図れるのは、おそらく音楽を愛する人は声や楽器を使って気持ちを伝え合うことができるからである。二つの音色は一輪の大きな花になって音楽室に咲いたのだった。

 この人はいい人かもしれない、そう思った雪乃が木琴を抱えてオルガンの陰から顔を出そうとした時、廊下をパタパタと走って迫ってくる少女の靴音を感じて再び頭を引っ込めた。ヴァイオリンのおねえさんも演奏をやめてピアノの陰に隠れたようである。

「えーっと・・・」

 少女は第一音楽室に入ってきた。そもそも雪乃は母である学園長に学園滞在を許可されているのでなにも隠れる必要などないのだが、それ以前に雪乃は人が苦手なのである。バニウオと木琴を抱きしめて一生懸命に隠れた。

「あ、あったあった。よかったー」

 少女は一学期の忘れ物かなにかを取りに来たようである。独り言が多くてちょっと怪しいが用事を済ますとすぐに大人しく去っていってくれたので雪乃は胸をなでおろした。

 オルガンから顔を出すと、黒板の前にも、ピアノの陰にも、ヴァイオリンのお姉さんの姿はなかった。雪乃は左腕にバニウオ、右手にマレットを持ったままぺたぺたとカーペットを走り回りおねえさんを探したが、彼女はどこにもいなかった。準備室の扉からこっそり抜け出して帰ってしまったのかもしれない。音楽室は窓の外をそよぐ木の葉のささやきをかすかに響かせるだけの小さな箱になった。

 雪乃はバニウオを肩に当て、マレットを弓の代わりにヴァイオリンごっこをしながら鼻歌を歌った。いつか弓奈やお姉ちゃんの前で何か素敵な楽器をかっこよく演奏してみたい、彼女は無邪気にそう思ったのだった。

 雪乃は去年の夏に聴いたヴァイオリンの音色が、さっきのひとつ編みの女性によるものだと最後まで気づかなかったようである。

 

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