72、犬猫
「紫乃先輩」
紫乃は我に返った。
「お月様なんか見て、どうかしたんですかぁ?」
「いえ別に」
「宿はもうすぐですよ。知り合いのやってる旅館ですけど私も久しぶりに行くのでドキドキしちゃいますよぉ」
結局京都駅よりは北にいるということ以外に弓奈の情報は得られなかった。半日も厳しい日差しと戦い抜いた二人の疲労は、ちょっとお月様が奇麗だからといって癒せるものではない。
「あ、あっちです。あの突き当たりを、まっすぐ」
「突き当たりをまっすぐ!?」
「はい。大丈夫です。私を信じて下さ〜い」
不法侵入も辞さない裏道抜け道くぐり抜け、二人はなにやら趣きのある老舗旅館にたどり着いた。その名も「津久田屋別邸三葉亭」。四葉でないあたり幾らか現実的なお名前である。
「もう電話してありますから。お客さんをキャンセルして貸し切りにしてくれたみたいですよ。入りましょう!」
「お客さんをキャンセル!?」
「はい! 津久田屋旅館の行動力は日本一です」
見事な築山庭園である。決して大きな旅館ではないが、普通に一泊しようと思うと相当なお値段になりそうだ。二人が玄関前に立つと中から女将さんと思しき淑女が出てきた。
「まあまあまあ、あかり様ぁ。大きくなられてぇ」
「女将さーん! お久しぶりですぅ」
「おかえりやすぅ。お待ちしておりました。可愛いお友達もご一緒でぇ」
紫乃は髪を整えて背筋を伸ばした。ぱっと見はやはり同級生だと思われるらしい。
「す、鈴原紫乃です。お世話になります」
「まあまあまあ、ごゆっくりどうぞぉ」
「行きましょ先輩。中は涼しいですよ」
さて、ロビーに入ると10人あまりの着物のおねえさんが出迎えて「おこしやす」とおじぎしてくれたのだが、そんなことより紫乃を動揺させたのはとある小動物の出現である。それはフロント奥から鞠が転がるように飛び出してあかりの胸に飛び込んだのだ。
「キャーよもぎー」
「い、犬!?」
紫乃は飛び退いて着物のおねえさんたちの陰に隠れた。
「はい! ポメラニアンですよぉ。豆柴みたいになってぇ! カットしてもらったのぉ? 涼しそうだねぇーよしよしぃ!」
「ど、どうして旅館に犬なんているんですか! き、聴いてないです! もしお客さんにアレルギーの人がいたらどどうするんです! い、犬嫌いの人がいたら、どどうするんですか!」
「よもぎは本家にいるわんこなんです。今日は特別に来てくれたみたいですぅ。よしよしぃ! あーシャンプーもしてもらったのぉ?」
「犬と一緒に泊まるなんて、できません!」
「わんこはお嫌いですか?」
紫乃は犬が苦手である。小さい頃近所のチワワに追いかけられた経験がきっかけとなり、以降犬と触れ合う機会がある度に苦い思いをしてきたのだ。犬は良くも悪くも人間と関わることに積極的であるから、警戒されるときゃんきゃん吠えられるし、好かれてしまうと手をペロペロペロペロ舐められるので、紫乃のようにあらゆる外部との接触に慎重な少女との相性はあまり良くない。
「ほら、よもぎぃ。こっちのおねえさんは紫乃先輩っていうんだよぉ。しーのせーんぱい。はい、よろしくーは? よろしくぅー」
「ちょ、ちょっと! こっちに近づけないで下さい!」
紫乃に興味津々のよもぎはあかりの腕の中でしっぽをぶんぶん振って紫乃にご挨拶をしている。紫乃はおびえた子猫のように腰が引けた。
「紫乃おねーさーん。よもぎでーす」
「わー! やめてくださーい!」
クールな紫乃先輩が逃げ回るのが面白くてあかりはしばらくよもぎを抱いたまま彼女を追いかけたのだった。
「紫乃せんぱーい。ごはんはもう少し時間かかるみたいなのでまず一緒にお風呂行きましょう」
「・・・イヤです」
紫乃は怒っていた。
「機嫌直して下さいよぉ。謝ってるじゃないですかぁ〜」
二人は最高級の客室に泊めてもらえることになったのでさすがによもぎは連れて来なかったが、紫乃はずっとそっぽを向いて正座していた。あかりは紫乃の背中にのしかかったり、お腹に顔をうずめたりしてなんとか気を引きながら無理矢理彼女に入浴ご一緒コースを承諾させた。
「ここの露天風呂は気持ちいいんですよぉー。温泉をそのまま引いてるんです。運び湯じゃないんですよ」
室内用の雪駄をぺたぺた言わせながら二人はお風呂場へ向かった。紫乃はまだ不機嫌な振りをしているが、一日の汗を気持ちよく流せるお風呂に実はかなりわくわくしている。
脱衣所に着くとあかりが目を輝かせて紫乃が脱ぐのを待ちはじめたので、紫乃は一度あかりをじっとりと睨んでから大きな扇風機の陰で裸になり、タオルを広げて抱きながらお風呂場へ入った。
お風呂ももちろん貸し切りである。紫乃は心地よい湯けむりを胸いっぱいに吸い込んだ。初めに体を洗うのは基本だが、すぐにお風呂場に入ってくるだろうあかりを警戒しなければいけないため扉から遠いシャワーに陣取った。こういったお風呂にあるシャワーのボタンは押すと「シャコ♪」みたいな音がしてなかなか爽快である。
「おっ風呂ー!」
あかりが来た。紫乃はすでに髪を洗い始めているのであかりの行動は確認できない。さっさと洗って顔を上げないといたずらされる可能性がある。あかりは弓奈のことが好きなのだが、そもそも彼女は女の子なら誰にでも興味を示す好奇心の塊みたいな少女だからだ。
「ニャ!」
不意に背筋に感じる指先。紫乃は体をのけぞらせた。
「紫乃先輩、今ニャって言いませんでした?」
「言ってないです! 触らないで下さい!」
「お背中奇麗ですね・・・」
「ちょっと! 触らないで下さい!」
「触ってないですよ・・・撫でてるんです」
「撫でないで下さい!」
紫乃は大急ぎで体を洗うと、露天風呂に逃げた。星空の覗く素敵なお風呂である。紫乃は髪を紫色のクリップで留めてゆっくり湯船に体を沈めた。ぬくもりがじんわりと体を満たし、肩まで浸かってほっと一息ついた時にはもうあかりのことなど忘れていた。
夜風は妙に涼しかった。紫乃は心の隙間に風を通さぬよう湯船の中で膝を抱いた。
「弓奈さん・・・」
今頃弓奈さんは何をしているだろうか、女の子に襲われてはいないだろうか、夏の滞在が終わる頃には自分のことなど忘れてしまっているのではないか・・・こんこんと湧き上がる温泉のように紫乃の悩みと焦りは彼女の小さな胸の中に尽きることなく溢れた。
「せーんぱい」
あかりはわざと体が触れるような距離感を無視したステップで湯船に入り、紫乃に寄り添った。身長はほとんど同じなのにあかりのほうが胸があるなと紫乃はこの時思った。
「弓奈お姉様に早くお会い出来るといいですね」
「体が・・・近いです」
「髪そうやってまとめてるのも可愛いですぅ!」
面倒くさい後輩である。
素手で洗いっこしましょうなどとたわけたことを抜かし始めた後輩を置いて紫乃はさっさとお風呂を出てきた。
「はわわわわわわ」
浴衣に着替えた紫乃はドライヤーの冷風を顔に浴びて遊びながらあかりを待った。空腹なので長湯はやめて欲しいところである。ふと、ドライヤーを止めて鏡の中に目を凝らすと、女湯ののれんの下にお座りするよもぎの姿があるではないか。おそらくあかりを待っているのだろうが、冗談ではない。忘れた頃に天敵再来である。紫乃はバスタオルを頭から被って扇風機の陰に隠れた。扇風機さんは大活躍である。
「あれ先輩なにしてるんですか」
色々と丸見えのあかりがお風呂場から出てきた。
「よ、よもぎが・・・」
紫乃はガタガタ震えている。
「よもぎ迎えに来てますかぁ? ごはんが出来たみたいですね」
鏡越しに紫乃と目が合ったよもぎはちょっと首をかしげてからしっぽをひらひら振った。
晩ご飯はお部屋食である。お膳が部屋に運ばれてそこに色とりどりのご馳走が並ぶのだ。
「いただきまーす!」
向かい合って座る浴衣姿のあかりは大変美味しそうにお造りを頬張っているが、紫乃はそうもいかない。なぜなら紫乃のすぐ脇にはよもぎがお座りしているからだ。
「あかりさん!ななんでここによもぎがいるんですか!」
最高級のお部屋に犬侵入は問題である。
「よもぎもご飯の時間なんです。紫乃先輩がヨシって言うまでは食べませんよ」
よもぎは晩ご飯のプレートの前にお行儀よく座ったまま紫乃のことを見上げている。
「そ・・・そんな目で私を見ないで下さい」
よもぎの視線が痛い。
「そんなキャンディみたいなおめめで・・・」
「先輩、ヨシって言ってあげて下さい」
「よ、ヨシ!」
よもぎは勢い良くごはんを食べ始めた。紫乃は自分のごはんのことも忘れてよもぎの食べっぷりをしばらくぼんやりと見つめた。紫乃は動物を間近で見るのが本当に久しぶりのような気がした。
「先輩! 一緒のお布団で寝ましょう!」
あかりが従業員のおねえさんたちが敷いてくれた布団をせっせと重ねている隣りで、紫乃は歯磨きしながらよもぎを遠巻きに監視していた。よもぎは部屋の靴箱の前で伏せたまましっぽを振っている。
「あかりさん。明日からは学校にどんどん当たっていきますよ」
歯磨きを終えた紫乃は、あかりがせっせと重ねた敷き布団を元通りに分けてから布団に潜り込んだ。
「ええーそっちのお布団行っちゃうんですかぁ」
「当たり前です」
「じゃあ・・・電気消しますよ」
「ちょ、ちょっと待って下さい。よもぎはあそこでいいんですか」
「はい。大丈夫です。私を信じて下さ~い」
「ええ・・・」
電気が消えると、あかりは当然のように紫乃のお布団に入り、彼女の背中にぴったり張り付いた。
「近すぎです・・・」
「いい匂い・・・」
あかりは紫乃の髪の中で「おやすみなさい」とそっとささやいた。部屋はこんなに広いのだからもう少し場所の使い方を考えてもらいたいものである。何度かあかりは紫乃の小さなおっぱいを触ろうと手を伸ばしてきたがモグラ叩きの要領で撃退しつづけると、やがて背後から小さな寝息が聞こえ始めた。紫乃の勝ちである。
街じゅうがとっぷりと寝静まったようである。ぼんやりと枕のはじっこを指でいじりながら、こんなことをしていていいのだろうかと、再び紫乃の心が雨漏りを始めた。今頃弓奈さんは女の子に囲まれているかもしれない。ほっぺにキスされているかもしれない。いや、そんなレベルじゃないことを強要されているかもしれない。弓奈本人が女性に心を動かされることはありえないが、心優しい彼女の物理的抵抗力など数の力であっという間に圧倒できてしまうにちがいないのだ。ボディーガードのいない今の彼女は女子高生にとっては恰好のエサ、女神のタイムセールみたいなものである。紫乃の頭の中では良くない妄想が積乱雲のように立ち籠め、それはやがて彼女のハートにひどい雷雨をもたらした。
「・・・う・・・うう・・・」
紫乃は懸命に泣き声を押し殺したが、涙が止まらない。淋しくて切なくてとても苦しかったのだ。
そこへ、てとてとと小さな足音を立てて近づいてきた柔らかな影。それは紫乃の手をペロっとなめてから布団にもぐり込んで来た。
「よ、よもぎ・・・」
よもぎである。よもぎは紫乃の涙を鼻先で追いながらクーンと小さく鳴いた。あんなに冷たくしたのに・・・あんなに騒いで逃げたのに・・・よもぎは私を心配してくれている・・・紫乃はもうがまんができなかった。
「よもぎ・・・よもぎー!」
紫乃はよもぎをぎゅうっと抱きしめた。そして「ありがとう」だか「さっきはごめんね」だかよく分からない不思議な鼻声を泣きながら繰り返したのだった。
実はあまりに紫乃がきつく抱きしめるものだからよもぎは少しばかり苦しんでいたのだが、まあ朝までの辛抱だからいいやと思ったのか、やがて彼女の腕の中で眠り出した。種族の壁と少し哀しいすれ違いを乗り越えて生まれたちょっと珍しい友情のお話である。




