71、ブラインドブライド
「あの、竜美さん」
「なんじゃ」
螺旋階段を上りながら、弓奈は竜美さんに小声で質問をした。
「犬井さんってどうして今日も目隠ししてるんですか」
犬井さん本人が二人の数メートル前にいるので普通に話していては聞かれてしまう。
「それがよう分からんのじゃ。入学した時からあれでの」
竜美さんも小声になって答えた。
「えっ! ずっとあの状態なんですか。それでどうやってお勉強してるんですか」
「んー、ノートはとっておらんようじゃが」
「というか、今ああして普通に階段を上ってたりするのが不思議で仕方ないんですけど・・・」
「うむ。ここだけの話じゃが、私はいつもなんとなく犬井の視線を感じておる。朝晩は特にじゃ」
それは気のせいだと弓奈は思った。
三人は生徒会の間に帰って来た。何の稽古かというと剣道らしい。サンキスト女学園には武道のクラブが一切ないのでほぼ初めて見る剣道というスポーツに弓奈の胸も高鳴らないでもない。弓奈は見学させてもらうことにした。
「では始めましょう」
「望むところじゃ!」
様子がおかしい。面や胴、小手を付けないまま、おまけに竹刀ではなく部屋に飾られていた木刀を握って二人は向かい合ったのだ。木刀チャンバラはサンキスト女学園で二番目にヒマなクラブ、統計愛好会が実施した「絶対にやっちゃいけない遊びランキング」で第12位にランクインしている危険な遊戯だ。木刀は見た目以上に硬く、断面の形と刀身の反りのおかげで重心が容易に剣先に移るので、ちょっと振り回すだけで色々なものを破壊してしまうおそれがある、まさに凶器なのだ。
「あの、すみません」
二人が弓奈を睨む。睨むと言っても一人は目隠し状態だが。
「なんじゃ」
「あの・・・剣道部さんの練習内容にとやかく言うつもりないんですけど・・・」
「なんじゃ。ハッキリ言うのじゃ」
「本気で打ち合いをされるなら・・・面とか着けて、竹刀で練習したほうが・・・」
血みどろの試合は勘弁して頂きたいところである。
「ふん。何を甘っちょろいことを言うておる。東のメッチェンは真面目ちゃんばかりで困るの。我々は既に筋体力づくりのための試合、稽古のための打ち合いをやる段階にはないのじゃ。必要なのは勝負の感、斬るか斬られるかの張りつめた攻防じゃ」
こんな複雑な施設に救急車はすぐには来られないから先に呼んでおいたほうがいいかも知れないと弓奈は思った。
「竜美様。始めましょう」
「よし。ゆくぞ!」
赤い竜美さんと白い犬井さん・・・見た目も性格も正反対と思える二人が生徒会の間で対峙した。この勝負に審判のようなものは必要ないのか弓奈には疑問だったが危ないスポーツに巻き込まれてたんこぶを作るのもイヤなので部屋の一番隅っこに移動することにした。掃き掃除をしておいて正解である。
こうして改めて見ると犬井さんがとても美しい女性であることがわかる。咲き始めのクチナシのような純白の羽織袴は花嫁の白無垢衣装を弓奈に彷彿させた。いつまでも見ていたくなるような不思議な引力を断ち切ったのは、カンッという木刀の先と先が触れ合う音だった。弓奈は時代劇をあまり見た事がないが、イメージしていたよりも戦う二人の距離が近い。一歩踏み込めばスパーンと切り込める間合いである。二人は一見ほとんど動いていないように見えたが、竜美さんの方はひざを使ったり右足の指をちょこちょこ動かしたりして距離を調節しているようだ。相手の中心、相手の喉元に向かって刀が据えられていれば攻めでも守りでも圧倒的に有利なので、剣先をカンカンと小さくぶつけ合っているのはおそらくその中心の取り合いをしているに違いない。
次の瞬間、竜美さんの脇腹に犬井さんの木刀がバッサリと入っていた。これが真剣だったら竜美さんはおしまいである。
「ま、また負けた・・・」
何が何だか分からなかったが、この一瞬に起きたことを弓奈の瞳の中で踊る残像を元にして振り返ると次のようになる。
まず剣先数センチを細かくぶつけながら行っていた中心の取り合いの中で、突然犬井さんが竜美さんの木刀をカンと少しばかり強く弾いた。竜美さんは中心を取られまいと刀を真ん中に戻そうと動かしたが、犬井さんはここで刀を下から回し、先程弾いた方向とは反対側に向かって竜美さんの刀をぐいっと押さえ込んだのだ。竜美さんの刀にはすでにその方向に力が掛かっていたためその押さえ込みはすごい勢いになった。がら空きになってしまった自分の正面を守るために竜美さんは慌てて刀を持ち上げて自分の頭を守ったが、大きく振りかぶってわざと攻撃をワンテンポ遅らせた犬井さんによって隙だらけの脇腹を斬られたのだった。竜美さんの完敗である。
「なぜじゃ! なぜ私は犬井に勝てぬのじゃ!」
全くである。身長差こそあるが相手は目隠しをしているのであるから、その威勢の良さを少しは結果に反映して欲しいものだ。
「竜美様。危機的状況に陥っても相手から目を離してはいけません」
初めから目を閉じている少女の台詞とはとても思えないが、言われてみれば確かに武道の大切な基本である。犬井さんはそんなアドバイスを竜美さんに残し、木刀を元あった場所に戻して袴の折り目を整えた。随分短い稽古だなと弓奈は思った。
「今、随分短い稽古だなと思ったじゃろう」
「え! そんなことありませんけど・・・」
竜美さんは弓奈の前で大の字に倒れて天井を仰いだ。小さな足の裏がこっちを向いているので弓奈はこれをくすぐってやりたい衝動にかられたが木刀で叩かれたくないのでやめた。
「一本勝負は集中力を使うのだ。一回でヘトヘトじゃあ」
「おつかれさまです」
「ヘトヘトじゃー! ヘトヘトー!」
竜美さんのはだけた裾を直してあげようと弓奈が何気なく手を伸ばすと、竜美さんは飛び起きて身構えた。
「なんじゃ」
「・・・いや、別に」
「いたずらしようとしたな」
「ち、違います!」
「嘘をいうな! 罪人は市中引き回しの上、くすぐりの刑じゃ!」
「きゃあ!」
弓奈の脇腹に竜美さんの小さな手のひらが襲いかかった。弓奈はくすぐりに特別弱いわけではないが、あまりに彼女がわしゃわしゃと揉んでくるので悶えてしまった。竜美さんは法的制裁を主張しているが弓奈にしてみれば単に一方的な暴力を受けているだけなので、少しくらい仕返しをしてもバチは当たらないだろう。弓奈は半分押し倒されている状態だったが体を起こし、竜美さんに逆襲を仕掛けた。
「お返しです!」
「や、やめろ! 花屋の分際で私に触れるな! やめ! ひひ」
「あれ、家が花屋って言いましたっけ」
「ひひ! なんじゃ本当に花屋なのか。どうりで花くさいと思ったわ!」
「花くさいって言わないで下さーい」
「やめろ! ひひひ! 放すのじゃ!」
急に、風を切る音が耳をかすめたかと思うと、弓奈の目と鼻の先に木刀の刃先があった。弓奈は竜美さんの脇腹をくすぐる手を止めて背中に冷や汗をかいた。木刀を彼女に向けたのは竜美さんではなく犬井さんだったのだ。
「倉木様。お洋服が乱れますよ」
犬井さんはそう冷たく言って弓奈を頭を叩く代わりに彼女の乱れた前髪を木刀の先で優しく整えて刀を収めた。この時弓奈が犬井さんに覚えた恐怖は生徒会の間にある富士山の絵に迫る大きさであった。
弓奈は晩ご飯も作ったが、犬井さんはやはり来てくれなかった。
地下一階まで戻ってくると竜美さんは「もう腹がいっぱいで動けんぞなもし」などと言って生徒会の間でゴロゴロし始めた。「食べてすぐ横になると牛さんになりますよ」と弓奈が言うと「モー♪」としか返事をしなくなったので弓奈は彼女との対話をあきらめて自分の部屋に戻った。お風呂に入りに行こうと思ったのだ。ボディソープとシャンプーリンスは浴場にあったので持ち物はタオルと着替えだけで大丈夫である。着替えは今朝浴衣ちゃんから貰った白羽織と紅袴だ。
黒畳の廊下を歩きながらふと見るとふすまが一つ、5センチほどの隙間を開けている。竜美さんや犬井さんの部屋がある向かい側のふすまである。ここは予備のシーツや座布団などが保管されている押し入れかなにかだと弓奈は思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。こちら側にもそれなりの広さの部屋があるようだ。
「モー♪」
遠くで牛の鳴き声が聞こえたが弓奈はそれに気づかない振りをし、ふすまの隙間を覗き込んだ。
暗闇に満月が浮かんでいる。もちろんここは地下なので本物であるはずがない。よく見ると部屋の奥の壁がまるで夜景の切り抜きのようになっていて、小さな照明で作られた月といくつかの星がそこで輝いているらしいのだ。部屋の蛍光灯自体は点いていないので中に人はいないと思い込んだ弓奈はそっとふすまを開けてこの部屋にお邪魔した。
ほんのりお香のにおいがする。弓奈は壁の月のやわらかな光をぼんやりと見つめたまま畳の目に沿うようにするすると歩いた。昔の人は月を見てふるさとのことを想ったという。同じ空の下に我が愛する町があるのだと思いを馳せるだけであればお日様でも事足りる筈だが、なぜか月には郷愁の風を胸にそよ吹かす不思議な魅力が昔から備わっていたのである。弓奈はそっと腰をおろし、先人に倣ってふるさとに思いを馳せてみた。真っ先に月に浮かんできたのは、生まれ育った花屋でも、家族の笑顔でもなく・・・
「白檀の香りはお好きですか」
「わああああ!」
弓奈は久々に絶叫した。
「この部屋に人がいらしたのは初めてです」
「い、犬井さん・・・」
犬井さんは弓奈のすぐ隣りに、おそらく初めから正座していた。お昼ではあれほどアクティブな活躍をしておきながら、今度は忍者のように闇に紛れるとはやはり彼女はただ者ではない。
「この月は、三笠の山にいでし月・・・ほの白く浮かび上がっているのは奈良薬師寺の甍です」
質問してもいないのに犬井さんはこの部屋のお月様について語り始めた。弓奈は犬井さんが怖いのでここは大人しく彼女の話を聴いておこうと思った。
「薬師寺の東塔は西塔よりも彩色に落ち着きがあり、日本風で好みだと言う方がおられます。しかし、創建当時はあれも極彩色に輝いていたのです。人は現代に豊かな物語性を求めるばかりに、時の流れにすら仰々しく不透明な壁を設けてしまっている気がします」
犬井さんの言葉のひとつひとつが、お香の香りの中をまるで雪のようにふわふわと舞って弓奈の心に降り積もっていく。正直弓奈には犬井さんの話は完全に意味不明だったが、それでも月あかりに意識をとっぷりを浸して人の話を聴くという時間は弓奈にとってとても幻想的で胸躍る貴重な体験だった。
「現在というのは過去と未来のあいだを自由に行き来するものです。積極的解釈の舞台を、何も未来にのみ求める必要などありません。真実は時間も空間も飛び越えるのですよ」
沈黙が二人を包んだ。しかし、なんだかちょっといいお話を聴いた気分の弓奈には、ぼんやり見つめる月明かりに誘われて、芦の原を駆ける風のささやきや夏の虫の音が聞こえてくるようだった。時間と空間を飛び越えることが出来るのならば、自分は何をしたいだろうかと弓奈は考えようとしたが、なんだか難しそうなのでやめた。代わりに彼女は月明かりの中に大切な友達の顔を思い浮かべたのだった。朝風にふんわりと髪を揺らした、あの人の顔を。
「倉木様には今、月が見えますか」
「はい。とっても奇麗です」
犬井さんは目隠しをしておきながら剣術において不可解な強さを誇り、訪問者との接触も拒みおまけに威圧する恐ろしい女性だと弓奈は思っていたのだが、どうやらそうとは限らないかもしれないとこの時感じた。犬井さんを語るには、まだまだ知るべき彼女の心があると弓奈はなんとなく悟ったのだ。仮にそれがもっと深い恐怖の始まりだったとしても、これをせずして親善訪問もなにもないのである。弓奈はそっと犬井さんの横顔を覗いた。
月白色の彼女の頬が、闇の中でそっとうつむいた。
「私にも、月が見えます」
遠くでかすかに牛の声。




