68、腹ぺこ
朝は時計の針だけが知っている。
部屋に窓がないため実感はないがもう午前6時らしいので弓奈は布団からはい出した。普通のパジャマを持ってきたつもりが誤って沢見さんから送られてきたセクシーなキャミソールを持ってきてしまったため、人に見られる前に着替えたいのだ。
弓奈に与えられた部屋は昨夜ひと騒動あった生徒会の間と同じ地下一階にある来客用の和室で、右隣りが竜美さんの部屋、左隣りが犬井さんの部屋という全くくつろげない空間であった。消灯時間を過ぎると部屋が勝手に暗くなり、間接照明しか機能しなくなったため眠らざるを得なくなったのだが、電気が点くタイミングは果たしていつなのだろうかと弓奈は朝一番の歯磨きをしながら天井から下がる照明を見上げていた。
「ん・・・」
お腹がグーと鳴いた。実は弓奈は昨日色々なことがあって晩ご飯にありつけなかったため腹ぺこなのである。
「ほれ弓奈。晩飯じゃ!」
昨夜竜美さんはそう言って弓奈の部屋に飛び込んできたのだ。
「私は優しいからの。フランスかぶれした嫌味な学園から来た使者も手厚くもてなしてやるのじゃ」
「・・・ありがとうございます」
二本の缶ジュースと謎の大瓶を携えた竜美さんは部屋の真ん中の布団の上にぺたんと座り込んだ。せっかく弓奈が綺麗に敷いた布団が一瞬でクシャクシャである。
「まず飲み物じゃが、ドイツコーラとチキンココア、どっちか選ぶのじゃ」
「ド、ドイツコーラ! ドイツコーラ!」
「おお、即答じゃの。弓奈は炭酸好きじゃな」
ココアに浸かった鳥を見たくないだけである。
「さてメシじゃが、これは我々がこよなく愛する健康食での。本来は舶来のナイフとフォークを使って上品に食べなければ砲撃される品じゃが、弓奈のような庶民にはそれも難しかろう。今日は特別に瓶詰めを持ってきてやったぞ。グビっと飲むのじゃ!」
竜美さんが差し出した瓶の中には何やらドロっとした液体が入っていて、部屋の灯りに透かすと赤茶色に鈍く光った。とても人間が口にして明日があるものとは思えない。
「そら! 女ならば思い切りも大事じゃ!」
「こ、こんなの飲めません!」
「遠慮しなくても良いぞ。私はさっきたらふく飲んだからの」
せっかく険悪なムードから解放されお部屋まで貸してもらえたところなのに、夕食を巡ってトラブルになりたくないと思った弓奈は、散々迷った末に瓶のキャップを開ける。ミシンのボビンケースを触ったあとに手に付く匂いによく似ていてちょっと懐かしく、決して悪い香りではなかったが、それでもこれが食べ物の醸していい香りだとは到底思えない。竜美さんは身を乗り出して弓奈が瓶に口づけするのを待っている。そんなキラキラした目で見られてしまったら、弓奈はもう頑張るしかない。
「ん!」
瓶の口にキスをして傾けた瞬間に弓奈の口いっぱい広がる目が回るようなフレーバー。例えていうのならばホコリっぽい鍋に刻みゴーヤと大豆を入れて大量の胡麻油と共に三日三晩煮込み、ドロドロになったところにグルタミン酸ソーダで無理矢理味をつけたような感じである。
「どうじゃ!」
そんな無邪気な顔でどうじゃと言われたら吐きだすわけにもいかず、弓奈は冷や汗をかきながらその『健康食』を飲み込んだのだった。
「オ、オイシイです」
声が裏返ってしまった。
「おお! そうか! 弓奈は見かけよりセンスがあるのう。ただ乳がデカいだけの女ではないようじゃな」
「なんか・・・胃が気持ちわるい・・・」
「それじゃまた明日の。風呂は廊下のどんつきにあるぞ。昼以外はいつも沸いてるから適当に入っていいからの」
「わ、わかりました・・・うげ・・・」
「ではさらばじゃ! ダンケダンケ」
「ありがとうございました・・・また明日・・・うげぇ」
結局その一口で挫折し、糖分100%カットの超辛口のコーラしか飲まなかった弓奈は今朝、貧血寸前なのだ。こんなことなら昨日のお昼ご飯は下から二番目のノリノリ定食ではなく、下から三番目のエビエビ定食にしておくべきだったと弓奈は後悔していた。とにかく頭がくらくらする。
弓奈が今日やるべきことは決まっていた。よろずよ学園の食糧事情に身を任せていては肉体と精神に危険が及ぶ可能性が浮上した今、食べ物を自らの手で確保する必要があるのだ。弓奈はお気に入りの私服である『モテそうにない地味なワンピース』に身を包み、たった今脱いだキャミソールをピンクのビニールバッグに入れ、まだ暗い廊下にこっそり繰り出した。黒畳の廊下の照明は足元に点々と続く小さなライトのみで、派手なはずの天井や壁は真っ暗である。弓奈はそれぞれ竜美さんと犬井さんの部屋の入り口である金閣寺と銀閣寺のふすまを横目に抜き足差し足お風呂場に向かった。余裕があれば朝風呂に浸かって爽やかな一日にしたいところだが、今の弓奈は人間らしい最低限の生活をすることに必死なので無理である。脱衣所の隅に設置されていたランドリーにキャミソールを入れて回した弓奈は、何気なくお風呂場のガラスを覗いてみた。よろずよ学園のお風呂は共同浴場になっていて、昨夜は弓奈の貸し切りだったためこの広さを独り占めできた快感につい長風呂してしまったが、このことが今朝の弓奈の体調不良を加速させたことも事実である。お風呂は心身をリラックスさせるが、案外体力を消耗するので特に旅先など肉体が疲労しているときはちゃんとご飯を食べられる見込みがある上で入らなければいけないのだ。ふと、お風呂場の湯煙の中に人影が見えた。ガラスが曇っていて誰が入っているのか判別はできなかったが、脱衣所のかごに白い着物が畳んで入れられているので犬井さんかもしれないと弓奈は思った。挨拶しようか迷ったが、服を着たままお風呂場のガラス戸を開けて「おはようございます!」というのもおかしいし、洗濯が終わるタイミングに合わせて外で買い物を済ませて戻ってきたいので弓奈はそのまま脱衣所を出た。
浴衣ちゃんにもらった校内マップによればこの地下施設の中心部には大きな螺旋階段があるらしいが弓奈の好奇心はいつだって警戒心に劣る規模の展開しか見せないため、安全と判明している昨日の小階段を使って地下五階へ降りた。
「あ、小熊様。おはようございます」
「わあ!」
突然真っ暗な昇降口に青白い提灯が浮かびあがった。これではお化け屋敷である。
「おでかけですかぁ?」
浴衣ちゃんがどこで寝泊まりしているのか弓奈は気になって仕方がない。
「は、はい。おはようございます。昨日はありがとうございました。あの、この近所に朝も営業してるスーパーありませんか」
「それなら24時間営業のヤサカマートがいいでしょう。地図を差し上げます」
浴衣ちゃんは帯から取り出した手帳のページをまた一枚ちぎって弓奈に渡してくれた。
「ありがとうございます・・・」
地下通路を浴衣ちゃんの背中を追って歩きながら、弓奈はこんな質問をしてみた。
「あの・・・竜美さんっておいくつの方なんでしょう」
「え?」
「なんか、小学五年生くらいに見えるんですけど・・・気のせいですかね」
浴衣ちゃんは真下からライトが当たったときのあの不気味な顔を闇に青白く浮かばさせたまま振り返り、にっこり笑って答えた。
「気のせいですね」
怖い。この学園にも紫乃ちゃんのように頼りになって適度に厳しくて優しくていつもそばにいてくれる人がいればいいのにと弓奈は心底思った。緩い傾斜を上り続けて、二人はようやく鉄扉の前にたどり着いた。
「それでは小熊様。出来る限り早くお戻り下さいね」
「わかりました。朝からどうも、ありがとうございます」
「いえいえ。お気をつけていってらっしゃいまし」
重い扉がぐおーんと鳴いて口を開けると同時に、夏の早朝の爽やかな風が弓奈のワンピースの中をさっと駆け抜ける。眩しくて目を細めた弓奈のまぶたに、太陽は優しく降り注いだのだった。
ヤサカマートのアルバイトはなかなか大変である。
八坂神社のそばにあるからという単純明快なる命名センスを持つこのスーパーは場所が場所だけに利用客が多く、この夏休みに初めてアルバイトに挑戦したばかりの彼女にとってここは決して楽なお仕事場ではなかった。
「ありがとうございました。またお越し下さいませー」
レジの機械がおつりの小銭を自動で出してくれるタイプなのでまだ楽なのだが、朝からお昼まで立ちっぱなしで同じ作業の繰り返すというのはなかなかつらいものがある。彼女はため息をそっと胸の中だけでついて新しいかごをレジの台に乗せた。
「お次にお待ちのお客様、こちらにど・・・」
彼女は心を奪われた。言葉を失い、自分がレジ係であるという自覚も意識の彼方にすっ飛び、ただ彼女の姿に自分の全てが向けられていることだけを感じた。見ているだけで体がほどけてしまいそうなほど美しいその人は清楚なワンピース姿で、豊かな黒髪のポニーテールを揺らしながら買い物かごを台に乗せた。それと同時に微かではあるが確実にハートをやられる甘く清らかで瑞々しい香りが彼女の鼻先ではじけた。その人の肌の透き通るような白と、吸い込まれそうな瞳に意識の全てをうずめながら、彼女はこの幸せな超常現象との遭遇をどこかにいるかもしれない神様に心から感謝していた。
「あのぉ・・・」
「・・・ハイ」
鈴の鳴るのような美しい声だ。
「レジ、お願いしてもいいですか?」
「あ!」
彼女は我に返った。
「はぁぁー! はい! も、もちろんです!」
手が震えた。彼女がこんなにも緊張したのは人生で初めてかもしれない。その人の視線を体じゅうで感じてしまってドキドキが止まらないのだ。
「おか、お会計3450円になっります・・・なります!」
ああうち今絶対顔真っ赤やわぁ・・・彼女はその人に笑われてしまう覚悟を決めてそっと顔をあげたが、その人は情けないほどに照れるレジ係を笑うわけでも、もたもたしている彼女に腹を立てるわけでもなく、まるで花がほころぶように優しく微笑むだけだった。
「3500円おあずかりいた、いたします」
おそらく芸能人かモデルさんか天使だろうと彼女は思った。
「ご・・・50円の・・・おかえしです」
彼女はまるで自分が子犬になり、女神様にお手をしているような気分になった。その人の温かい手のひらを指先に感じた時、とうとう彼女の心と体は幸福でちょっぴり性的な桃色のシンフォニーと共に崩れ落ちてしまった。後光が差すその人の後ろ姿を見送りながら彼女はへなへなと床にへたり込んだ。
「ありがとうございませ〜・・・」
ああレジってなんて素敵なお仕事なんやろう・・・彼女は胸の中で叫んだのだった。
「おかえりやす」
「あ、どうも。ただいまです」
よろずよ学園の夏休みの起床時間は午前7時らしい。弓奈が買い物を済ませ、学園に戻って来たのは7時半だったため、浴衣ちゃんが開けた昇降口のふすまの先は初めてここを訪れた時と同じようにまばゆい世界だった。もう竜美さんも起きたに違いない。
「小熊様。実はわたくし小熊様のためにこちらを用意しておきました」
下駄箱の前で浴衣ちゃんは弓奈に何やら衣装を手渡した。
「よろずよ限定ハイカラな羽織と紅袴です。上が白色なので正規の制服とは少し異なりますが、私が用意できる最高のお和服です。きっとお似合いですよ。次にご入浴された時のお着替えにでも、どうぞ」
「ええ! ありがとうございます。わー、袴なんて履いたことないんですけど大丈夫かな・・・」
「大丈夫ですよ。足袋もセットにしたのでご利用下さいまし」
浴衣ちゃんにお礼を言って別れた弓奈は小階段をせっせと上り地下一階へやってきた。すると黒畳の廊下にあの人の姿があった。
「おい弓奈あ! いつまで寝ておるのじゃ。私はもう30分前には目を覚ましておったぞ! 起きろー!」
弓奈はその更に一時間前に起きている。だが弓奈の部屋のふすまの前で大声を上げている竜美さんにそんなことを告げたらまた不機嫌になってしまうに違いないのだ。とりあえず弓奈は竜美さんを見なかったことにしてお風呂場の脱衣所に洗濯物を回収しにいった。もうお風呂場に人影はなく脱衣カゴも全て空っぽだった。犬井さんが今どこにいるのか弓奈にはさっぱり分からない。
「あ・・・おはようございます竜美さん」
廊下に出た弓奈はたった今竜美さんに気づいた振りをしてそう言った。
「お! すでに動いておったか。いつ起きたのじゃ」
「6時・・・じゃなくて、今から25分くらい前です・・・」
「そうか! 私の勝ちじゃな。惜しかったのう!」
「ハイ・・・」
竜美さんは弓奈の提げる買い物袋を見てペタペタと歩み寄ってきた。雪乃ちゃんと大差ないくらいのサイズでとっても可愛らしいのだが、とにかくしゃべり方がキツいのでちょっと怖い。
「これは何じゃ」
「あ、食材です。買って来ちゃいました。ここに家庭科室ってありますか」
「貴様、よろずよのメシが気に食わんのか」
「・・・いえ、そういうわけでは」
気に食わないのではなく危険なのである。
「竜美さんたちの分も作ろうと思って。滞在させてくれるお礼です」
「我々はいらん。作りたきゃ勝手に作って食え。調理実習室なら地下3階じゃ」
「でも・・・」
「いらぬと言っておるのじゃ。一人分だけ作って一人淋しく食っておれ!」
また竜美さんの機嫌を損ねてしまったらしい。親善訪問というのも大変である。
調理実習室はさすがに畳ではなかったが、木と石で出来た時代劇に出てくるようなキッチンだったため弓奈は少々と惑った。だが基本的な調味料と電気炊飯器、ガスコンロは備えられていたのでなんとか朝ごはんくらいは作れそうである。弓奈は野菜たっぷりのお味噌汁と早炊きのごはん、そしてお醤油の目玉焼きを作り上げた。和風なよろずよ学園の生徒会長さんたちのお口に合いそうな食材を買ってきていたのでこのような献立になったのである。びっくりする程いい出来ではないが、それでも今の超空腹な弓奈の目を輝かせるくらいの魅力は充分にあった。弓奈は木椅子に腰掛けると、立ちのぼるお味噌汁の豊かな香りの中で箸をとった。
「いただきまぁす」
「弓奈!」
突然調理実習室のふすまがザッと音を立てて開いたので危うく弓奈は大切なお味噌汁のお椀をひっくり返すところだった。
「なんじゃまだ食っておったのか。近頃のメッチェンはトロくて困るのう」
「すみません。お米炊いたりしてたので今から食べるところなんです」
「一体なにを作ったのじゃ。どうせシケた泥団子じゃろう」
竜美さんは弓奈とテーブルの間に割り込んで弓奈の朝食をじろじろ眺めた。弓奈は竜美さんの後頭部のドアップしか見えなくなった。
「これは何じゃ」
「どれですか」
弓奈は竜美さんの肩から顔を出す。
「あ、それは野菜を入れ過ぎちゃっただけで普通のお味噌汁ですよ」
「なんじゃ、ドブかと思ったぞ」
「そんなぁ・・・」
竜美さんは味噌汁や目玉焼きをくんくんしながら上下左右あらゆる角度から観察した。弓奈は目の前で揺れる羽織の少女の長い髪を見つめながら、もうちょっと人間らしい動きをして欲しいと思った。
「あの・・・食べます?」
「ぬ! 私がそんな卑しいと思ったら大間違いじゃ。誰がお前のような気取った小娘が作った朝メシなど食うか。要らぬ」
しかしこんな近距離にあって自分だけ食べるというのも気が引けた弓奈は、竜美さんを後ろから抱くような形でお味噌汁のお椀を手にとり、乗っかっていた大根をお箸でつまんだ。
「どうぞ」
口元に大根を運ばれたとたん竜美さんは黙った。そして水草をつつく小川の小魚のように何度か唇の先で大根にちょんちょん触れてからパクッとこれに食らいついたのだ。弓奈は魚釣りをしている気分になった。
「おいしいですか?」
竜美さんの横顔は何も言わず、大根をもぐもぐしている。不味かったらすぐに「なんて不味さじゃ!」などと怒るはずだから、きっとそんなに悪い味ではないのだろう。弓奈は試しに目玉焼きも小さく切って竜美さんのお口に運んでみた。
「玉子ですよ」
今度はさっきと異なり竜美さんはすぐに目玉焼きに食らいついた。そして弓奈の膝の上に飛び乗り彼女の右手から箸を奪うと、ごはんをがつがつ食べ始めたのだった。どうやら気に入ったらしい。
「竜美さん。ちゃんと噛まないとお腹がびっくりしますよ」
「んー、んーんんんんんん」
何を言っているか分からない。
「まーわるくないの」
竜美さんは笑っていた。
「そうですか、喜んで下さってなによりです」
お味噌汁をご飯に豪快に掛けてからその上に目玉焼きをのせた竜美さんは、弓奈の膝の上で足をぶらぶらさせながら美味しそうに、本当に美味しそうにごはんを食べた。弓奈はその見事な食べっぷりと幸せそうな横顔を見つめながら、思わず彼女の頭を撫でてしまった。どうやら弓奈は自分が思っている以上に小さい子に弱いらしい。
あれ、この朝食私が食べるはずじゃなかったっけ・・・そう弓奈が思った頃には既にお茶碗は空っぽになっていた。




