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64、助手席

 

 目にしみるような白だった。

 その入道雲は巨大なソフトクリームとなって太陽に向かって力強くそびえ立ち、粗い磨りガラスのようにギラつく駿河湾の上に豪快に浮かんでいた。水平線がぼやけて見えるのは湿度が高いせいだと弓奈は聞いた事があるが、鈴原家のガレージで車に乗ってから一度も外の空気を吸っていないのでその答え合わせをすることはできない。助手席の窓の外をびゅんびゅん流れていく8月の港町をぼんやりと眺めながら、弓奈は今朝のことを思い出していた。

『リボンが曲がっています・・・』

 ガレージの前で紫乃はそう言って、弓奈の夏服のリボンを両手でつまんだままいつまでも放さなかった。

『京都は暑いので・・・まあその・・・気をつけて行ってきて下さい』

 うつむいて寄り添う紫乃のふんわりした前髪が朝風にそよぐのを、弓奈は不思議な心持ちで見つめた。それはどこか懐かしくて、幸せで、けれど少し胸が傷むような、弓奈には分かりかねる複雑な胸のざわめきだった。弓奈はあの時自分を見送ってくれたのが別の人だったら果たして同じような感情を抱いたかどうか考えた。もしも紫乃ちゃんではなく小熊会長だったら・・・あかりちゃんだったら・・・雪乃ちゃんだったら・・・。

「倉木さん」

「は、はい!」

 弓奈はおよそ3時間振りに口を開いた。

「次のサービスエリア、寄ります」

「あ、わかりました」

 サテンの手袋を付けてハンドルを握っているのは紫乃の母である鈴原先生だ。姉妹校訪問のためにたった二人で半日も車内で過ごすのだから、弓奈の緊張は相当なものである。なにしろ相手は学園長先生なのだから。

 しかし弓奈は鈴原先生がただ単に厳しいだけの先生でないことを知っている。ある日寮の昇降口を掃除する生徒たちが、散って吹き溜まりになった桜の花びらを落ち葉を片付ける時と同じように掃こうとしたとき、先生はそれを「このままでいいのですよ」と言って優しく止めたらしいのだ。弓奈はこの話を人づてに耳にしたとき、学園長先生のことをちょっぴり好きになった。高い場所で枝々に抱かれ、手をつなぎ合って微笑む花びらたちももちろん美しいが、そこからこぼれて地面へ降りた桜色にも、弓奈は大きな魅力を感じている。小さい頃から花に囲まれて育った弓奈は、花の妖精につきまとわれているようなものなので花びらたちの気持ちが分かると言っても過言ではない。花びらたちは、それぞれがそれぞれの物語と夢を抱いて咲いているのだ。地面に落ちて土にその色を陰らしていたとしてもそれが花であることに変わりはない。掃いて捨ててしまってはかわいそうなのだ。

「サービスエリアに着いたらお昼を食べましょう」

「そ、そうですね」

 鈴原先生がいい人なのは分かっているのだが、どうも弓奈は彼女から距離を置かれている気がしてならない。高速道路では仕方がないが、信号待ちをしていた時などにも弓奈はちらちらと先生に視線を送って友好的姿勢をアピールしていたのだが、結局一度も目を合わせてもらえなかった。そうしてなんだか悲しくなり、仕方なく窓の外を見ていたというわけである。

 おそらく教習所の先生もビックリの安全運転により、車は無事サービスエリアに到着した。香山先生の運転とは大違いである。

 車を降りようとドアを開けた瞬間に弓奈は学園周辺とは比べ物にならないほどのじめじめとした蒸し暑さに包まれた。なるほどこれなら水平線もぼやけるわけだが、このまま駐車場に立ち尽くして海のことなどを呑気に考えていては弓奈の頭の中までぼやけてきてしまう。弓奈は小走りで鈴原先生の背中を追いかけた。

「先生がご馳走します。好きなものを選んで下さい」

 フードコート脇の小さな和食レストランに入った二人は窓際のテーブルに向かい合って腰掛けた。

「え・・・でも」

「学園の都合で倉木さんにお仕事をお願いしているのですから当然です。気にしないで下さい」

 この親善訪問は二週間を予定されているので確かにたいそうなお願いであることは確かである。弓奈はお言葉に甘えることにした。弓奈はあまり和食を食べないのでドキドキしながらメニューを広げ、下から二番目の定食を頼んだ。ノリノリ定食とかいうふざけた名前だが、写真を見る限り海苔がふんだんに使われていてとても美味しそうなメニューである。

 料理を待つあいだも、運ばれてからも、二人はしゃべらなかった。腹ぺこだったため定食を早々に平らげてしまった弓奈はどんぶりの底を箸でつんつんしながら時が過ぎるのを待った。

「倉木さん」

 不意に鈴原先生が口を開いた。

「は、はい」

 よく見ると先生もどんぶりの底を箸でつんつんしていた。

「倉木さんのおうちは、何をされているのですか」

「私の家・・・ですか。花屋です。小さな」

 突然に「何をしている家か」と尋ねるのはなんだか不自然だと弓奈は思ったが、余計なことを考えているとまた脳が湿度にやられてしまうかもしれないのですぐに返事をした。

「そうですか。お花屋さんを営んでいらっしゃるんですね」

「はい」

「お父様がやっていらっしゃるのですか。それともお母様?」

「えっと、母です。お店は母のものみたいなものですから」

 ここでようやく弓奈は鈴原先生と目が合った。先生はやはり紫乃によく似ていると弓奈は思った。ホントは紫乃がお母さんに似たのだが。

「そうですか・・・」

 先生は目を再び伏せ、グラスの露を指先でゆっくりなぞりながら言った。

「お母様はどんな方ですか」

「母ですかぁ」

 弓奈の心はふるさとへ飛んだ。

「そうですね・・・母はちょっと変わった人です。何か考えているようで考えてなかったり、何もしてないようでちゃんとやってたり。つかみどころのない人ですね」

「そうですか」

「あ、あと回っているものを見るのが好きらしくて、洗濯機とか電子レンジとか、空っぽのまま回してじっと見てることがあるくらいです。電子レンジの光は目に悪いらしいですから注意してるんですけどね。あ、それから郵便ポストの口が好きなんです。あの、道に設置してある赤いポストです。あれのこう、手紙を入れるところのパタパタいう蓋というかシャッターみたいな部分、あるじゃないですか。あれが大好きらしくて、通りかかる度に指でこうやってパタンパタンパタンパタンって、もう行くよぉおって背中押してあげないと全く進まないんですよ。ほっといたら一日中やってるんじゃないかなぁって・・・」

 弓奈はふと我に返った。学園長先生は目をぱっちりと開けて彼女を見ていた。これは弓奈の頭の中で生き生きと動き、自己主張してきた彼女の母がわるい。

「し、失礼しました!」

 少し間があって、不思議なことが起きた。学園長先生がクスクス笑い出したのだ。てっきり自分の落ち着きのなさにあきれてますます冷たくされてしまうと思っていたので弓奈は少々呆気にとられた。しかし、笑ったときの先生の顔の可愛らしさと言ったらなかったので弓奈は赤くなって一緒に笑った。

「お母様のことが大好きなんですね」

 そんな照れくさい質問をされてしまっては、普段の弓奈であれば「いや、どうでしょう」などと言葉を濁しただろうが、この時ばかりは素直に「はい」と答えることが出来た。

 グラスの中の氷がカランと音を立てて揺れた。




「倉木さん」

 座席の心地よい揺れの中に弓奈は鈴原先生の声を聞いた。

「起こしてしまってごめんなさい。もう県境を越えたので」

 弓奈は助手席で眠っていたらしい。お昼から休まずに運転してくれた先生に申し訳なくなって弓奈は急いで背筋を伸ばしフロントガラスを見渡した。深い緑の山を照らす日差しはまだまだ厳しい様子だが、日が西に傾いているのは分かった。

「えーと、県境というのは?」

「京都です。グローブボックスを開けて下さい」

 なんじゃそりゃと弓奈は思ったが、ためしに目の前のダッシュボードに手を伸ばしてみたところ先生がうなずいたのでそこを開けてみた。中には学校の資料と思われる冊子が入っていた。

「話しておくことがあります」

「は、はい」

「あなたが親善訪問する学校は京都市内にある私立の女子校、西風閣よろずよ学園です」

「さいふうかくよ・・・え?」

 どこで区切るのかも分からず戸惑った弓奈が手元の冊子に目をやると、そこには確かに「西風閣よろずよ学園」と記されていた。なんか変な名前だと弓奈は思ったが、校名にひらがなが入っているのは少し可愛い気がした。

「その学校案内は去年小熊アンナさんが置いていってくれたものです」

 去年の夏に親善訪問をした小熊会長がよろずよ学園から拝借してきたものらしい。

「その冊子の中を私は見たことがありません。大人が見てはいけないことになっているのです」

「え・・・大人は見てはいけない?」

「学校案内に限ったことではありません。実は、その学園への部外者の立ち入りは女子高校生に限定されているのです」

 先生がなにを言っているのか弓奈にはよく分からなかった。

「・・・どういうことですか」

「よろずよ学園の教員でもなく、女子高生でもない私は立ち入ることができません」

「え!」

 あたふたする弓奈をシートベルトはがっちり押さえ込んでいる。

「これは創立以来の、いかなる権力にも侵されない伝統だそうです」

「つまりそれって、私一人で行くってことなんですか!」

「そうなんです。黙っていてごめんなさい」

「あ、いえ・・・」

 冗談ではない。弓奈は小熊会長と違って人並みの社交性と平均的な器しか持っていないので、生徒会長代理としてたった一人で他校に乗り込み、おそらくそこの学寮と思われる檻に閉じ込められて二週間も生活するなんて耐えられない。せっかく親しくお話できるようになってきた鈴原先生と分かれるのはとても心細いのだ。

「それじゃ先生はこのあとまたお家に戻られるんですか」

「いいえ。去年もそうだったのですが、駅前にある学園の関係施設に泊まって過ごします。関西一円の学校の先生方が集まる会議もありますので」

「はぁ・・・そうですかぁ」

 料金所を過ぎた車は大きく渦をまいて高速道路を降りて行く。胸がきゅっと冷やされるようなイヤな緊張感に苛まれた弓奈には、窓の外の景色が変に色鮮やかに見えた。

「京都へは初めてですか」

「はい・・・」

 お寺などはまだ見当たらないが、弓奈が育った町やサンキスト女学園周辺とは雰囲気が多少違っている。どう違うのか弓奈にはハッキリとは分からなかったが、生活のあいだに道を敷いたというよりは、道のあいだに生活をするようになったというような雰囲気をなんとなく感じたのだ。

「冊子のどこかに学園の所在地が記されているはずですので確認して下さい」

「あ、はい」

 決まりというのは恐ろしいもので、鈴原先生は姉妹校の場所すら知らされていないらしい。

「送ることができるのは京都駅前までですので、そこからのアクセスを調べて下さいね」

「わかりました」

 美術の教科書のようにやたらテカテカしていて薄っぺらいこの冊子が自分の唯一の味方なのかと思うと弓奈は不安で胸に穴が空いてしまいそうだが、他に術がないので学園案内を開いた。

「ん・・・」

 文字ばかりである。すべて縦書きで、ページをめくってもめくっても同じ光景が弓奈を待ち受けていた。

「倉木さん」

「はい・・・」

 弓奈は今住所探しに忙しい。

「紫乃や雪乃と仲良くしてくれて、ありがとうございます」

「え」

 弓奈は顔をあげた。そして鈴原先生の横顔に今朝の紫乃の面影を見たのだ。

「いいえそんな・・・私がかまってもらってるんですから。いつもすごく楽しくって・・・ありがたいです」

 黄昏迫る大通りの街路樹に鳴くセミの声が、窓をゆるやかに透けて車内に降り注ぐ。弓奈は冊子をめくりながら、先生がまたなにかを言ってくれた時に聞き漏らすことがないようにとそっと耳を澄ましていた。




「それでは・・・今日はありがとうございました」

 弓奈は車のトランクからキャリーバッグを引っ張り出すと、先生に深々と頭を下げた。ホントは一緒に姉妹校へ行くつもりだったので急なお別れではあるが、一日じゅう車を運転して下さった先生には心を込めてお礼を言わなければならない。先生は運転席に戻ってシートベルトを締め窓を開けた。

「もし何かあったらあちらの電話を借りて私に連絡を下さい」

「はい」

「親善訪問といっても形式的なものなので固くならずとも大丈夫です。二学期の学園通信に載せる原稿を後で書いてもらうことになりますが、それもごく短いもので構いませんので」

「わかりました。色々ありがとうございます」

 先生はそのままハンドルを握り、正面を見つめて動かなくなった。

「それから・・・」

 駅前の雑踏に半分埋もれるような小さな声で先生がつぶやいた。

「・・・なんですか。先生」

 先生はうつむいて北風のような小さなため息をひとつついた。まるで先生は夏の暑さをまったく感じていないかのようである。だがおそらくその心の中にあるのはに夏の厳しい日差しをものともしないたくましい一本の大木ではなく、季節に取り残された哀しい忘れ花のようなものだったに違いない。

 先生はふいに顔をあげて弓奈にやさしく微笑んでくれた。

「私も花が好きです。高校生の時から、ずっと」

「え」

 特に弓奈からの反応を期待したわけでないことの証拠に、先生は「それではよろしくお願いします」と言ってさっさと車を出して行ってしまった。

 弓奈は何がなんだから分からないままに立ち尽くし、鈴原先生の車のテールランプがビルの陰に消えて行くのをぼーっと見ていた。

「あ・・・」

 弓奈の目を覚まさせたのは、彼女の手からすべって歩道に落ちコツンと音を立てたよろずよ学園の学校案内である。弓奈はそれを拾い上げてパタパタとはたき、空を仰いだ。頭に円盤を付けた未来の家のような京都タワーが、雲の陰に茜が差し始めた薄焼けの空にのっぺりとそびえ立ち弓奈を見おろしている。弓奈は不安で胸がきりきりと傷んだ。

「行かないと・・・」

 弓奈は学校案内を開くと交差点に背を向けて歩き出した。

 

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