63、初夏の魔法
あかりちゃんの叫び声がウォータースライダーの青色のチューブの中へ消えていった。
「あ、先に行っちゃった」
一緒に滑りましょうねなどというからここまで付いて来たのに、本人の意図しないスタートダッシュによってあかりは先に下界へ降りて行ってしまった。こうなったら弓奈は紫乃ちゃんと一緒に滑りたいくらいだが、彼女はこういったものに興味がないらしく下で弓奈を待っている。ついでに小熊会長はサングラスをかけてプールサイドの可愛らしいデッキチェアでおくつろぎ中だ。
「あの、もう滑っていいですか」
係のお姉さんが頬を染めたままじっと自分を見つめて動かないので弓奈は自ら安全確認をしてスライダーの中へ飛び込んだ。
涼し気な心地よい水音をざぼんざぼんと響かせて、スライダーの青いチューブは弓奈の心を夏のまっただ中へと加速させて行く。あまり遊びに行かない弓奈にとってこれは久しぶりの感覚だったので思わず「きゃあきゃあ」言ってしまった。
ふいに弓奈は自分が夏の空へ飛び込んだ錯覚におちいった。チューブは途中で透明になっていたのだ。天井のガラスからそそぐ7月の輝きを無限に反射させる光のチューブの中で、弓奈の胸はふるえた。
「お姉様ぁ! すみません、先に滑ってしまいましたぁ!」
爽快な水しぶきに体を受け止めてもらった直後、そんなところにいたら危ないだろうと突っ込みたくなるような場所にいたあかりがそう言った。
「いや、いいのいいの。面白いね、このスライダー」
「はい!」
弓奈はプールの端っこで鼻のあたりまで顔を沈めてこちらの様子を窺っている紫乃に言った。
「紫乃ちゃーん! あとでこれ一緒にどう?」
紫乃は返事の代わりにゆっくり泳ぎながら近づいて来た。こういう感じのあざらしを弓奈はテレビで見た事がある。
お昼はハンバーガーになった。
「紫乃先輩がハンバーガーを食べてるのってなんだか新鮮です!」
「な、なんでですか」
思ったより自分の行動が細かく見られていることに紫乃は恐怖を覚えながら、横にどけていたピクルスを口に放り込んだ。
会長はこの期に及んで弓奈をモデルにスケッチをしている。「弓奈さんは嫌がっています! やめてください」と言おうかと紫乃は思ったが、おそらく出来上がるのは史上まれに見る魅力的スケッチになるはずなのでこの星の芸術界のためにそれはよした。
「午後は鬼ごっこしましょう!」
「・・・他のお客様の迷惑になるようなことはしちゃダメです」
「迷惑なんかかけません! プールサイドでは走るのもタッチするのも禁止っていうルールにしましょう!」
あかりは弓奈にタッチしたいらしい。
「まあ・・・そういうことなら私も反対はしないです」
紫乃も弓奈にタッチしたい。
「あら、素敵な案だけど、ひとつだけ変更したほうがいいルールがあるわ」
会長がスケッチしながら何か余計なことを言おうとしている。紫乃と弓奈は警戒心をむき出しにしながら会長の言葉を待った。
「会長様。なんですかぁ、そのルールって」
「タッチじゃなくて、抱きしめる、にしたほうがいいわ。そのほうが愛と品があると思うけど」
弓奈が明らかにいやそうな顔をしている。紫乃はあの顔が少しだけ好きである。
「さすが会長様ですぅ! それじゃ、プールの中で鬼に抱きしめられたらその人が次の鬼ってことでいいですか!」
弓奈が助けを求めている。「そんなのダメです」と言って欲しそうな目をしてこちらを見ているのだ。紫乃は勇気を振り絞って、その視線に気がつかないふりをした。
「まあ・・・いいです。許可します」
「やったぁ! 弓奈お姉様もそれでいいですよね!」
「え! うん・・・まあ紫乃ちゃんがいいって言うなら反対はしないかな」
弓奈の苦笑いも紫乃は大好きである。
紫乃はジャンケンに勝ってしまった。弓奈に抱きつくという、一生に一度あるかないかのチャンスを逃して紫乃は肩を落としたが、神様は彼女を見捨てなかった。
「あちゃあ・・・私が鬼だ」
弓奈が鬼になったのだ。
「きゃあ! それじゃあお姉様、10数えてから追っかけて下さいね。逃げる人はプールサイドばっかりにいたら反則負けにしちゃいますからね! それじゃあスタートです!」
今日のあかりはその類い稀なる行動力を遺憾なく発揮している。紫乃は今日あかりがいて良かったと心から思った。弓奈がまるでかくれんぼの鬼のように目を塞いで数字を数え始めたので紫乃も逃げようかと思ったが、ここで真剣に逃げるのは愚の骨頂である。待っていれば弓奈に抱きしめてもらえるのだから、これはまさに夢のような事態なのだ。紫乃は自分のほっぺをむにっとつねってこれが現実であることを確認してからすぐ側にある流れるプールに身を任せてのんびり漂い始めた。
「10!」
鬼ごっこやらかくれんぼやらをやるのは久しぶりなので弓奈は少しだけわくわくしていた。だがやはり逃げる人に抱きつくというのは気が引ける。特に会長などに抱きついてしまったら一生後悔するような「何か」が起こってしまう可能性もある。
ちょうど夏休みに入ったばかりであるからプールはそこそこに混んでいるので、まずはあかりたちを探す作業から始めなくてはいけない。弓奈は流れるプールにかかる大きなアーチ橋に上って辺りを見回した。
最初に発見したのは小熊会長だった。彼女ははなから逃げる気などないらしく、マンゴーのジュースのストローと口づけしながらデッキチェアで優雅な午後のひとときを過ごしている。弓奈は彼女に気づかない振りをした。
次に見つけたのはあかりだ。あかりはウォータースライダーの横にある子供用滑り台を滑っては階段を上り、滑っては階段を上りを繰り返している。おそらくあれは自分を追いかけて来た弓奈から鮮やかに逃げるために滑り台を使おうとしているのだが、係のおねえさんに「準備できてるなら滑って下さいね」などと言われてしまうため頂上で待機ができず、ぐるぐると回っているのだろう。残念だが彼女にはずっとあれを繰り返してもらおうと弓奈は思った。
そして弓奈は紫乃を見つけた。自分の立つ橋の下をクラゲのようにぷかぷか漂って過ぎていったのだ。しめた、紫乃ちゃんが油断している・・・そう思った弓奈は彼女を追ってこっそり流れるプールに入った。会長やあかりちゃんに抱きつくと、抱き返してきたりキスしてきたりしそうなので恐ろしいが、紫乃ちゃんは安全なので弓奈は喜んだ。
プールの底へ降りる光の糸をかき分けながら、弓奈は水中から彼女を追った。弓奈は水泳も大得意で、小学生の頃などは市民プールで弓奈の泳ぎを見た「人魚の会」とかいう謎の団体のおねえさんにしつこく勧誘されたこともあるくらいだ。弓奈はサメのようにぐいぐいと紫乃に迫った。
紫乃は弓奈の姿を見失っていた。弓奈は会長かあかりを追っていってしまったものだと彼女は思った。仕方ないので誰かに発見されるまでクラゲごっこをすることにした紫乃は、知らない女の人に何度かぽよんぽよんとぶつかりながら漂い続けた。
「紫乃ちゃん捕まえた!」
紫乃は心臓が停まるかと思った。突然ザバリと水しぶきに包まれたかと思うと、次の瞬間自分の体が人の肌の感触の真ん中にいたのだ。
「びっくりした?」
頬のすぐ横にせまったその人の顔。背中いっぱいに感じる柔らかで滑らかな感触。自分の体に回されて密着した温かい腕。紫乃はこの瞬間のことを一生忘れることはないだろうと思った。
「つ・・・つかまってしまいましたね」
「えへ、次は紫乃ちゃんが鬼ね。10数えるんだよ」
こんな凄いことを平気やってくれるのは、弓奈が女性に慣れているからでも、ましてや自分の気持ちをもてあそぼうと考えてるからでもなく、自分を信頼しているからこそなのだと紫乃にはよくわかっている。だが今のはちょっとサービスが過ぎるのではないかと紫乃はぼーっとする頭を上げて天を仰いだ。太陽だけは今の自分の気持ちを見透かしているような気がして紫乃は照れ隠しに天井に向かってこっそりあっかんべーをした。
「それでは・・・私が鬼です!」
紫乃は腕いっぱいに水をかきながら弓奈を追いかけていった。と言っても彼女はそこまで泳ぎが上手くないのでプールの流れに身を任せていっただけであるが。
紫乃はなんとしても弓奈を捕まえたい。彼女はアーチ橋の上からプールを見回す。人の波にあってはあまりに美しすぎるあの人を、色とりどりの水着姿の中から見つけ出すことは紫乃にとっては吸った息を吐くのと同じくらい容易だった。
「い、いました!」
弓奈は隣りのプールの洞窟トンネルの入り口でこちらを見ていた。彼女は見つかったことを悟るとすぐに水に潜って泳ぎ始めたので同じ場所に行っても彼女を捕まえることはできない。未来を読んで先回りするより他に勝機はないのだ。紫乃は歩きと小走りの間の速度でプールサイドをぺたぺたと移動していった。紫乃にはもはや会長やあかりなど見えなかったのである。
洞窟トンネルの出口は開けたプールになっているが行き止まりである。紫乃はここで水に入ると、トンネルの出口のすぐ脇で小さくなって彼女を待ち構えた。少し年下の知らない女の子が「あの人何やってるんだろう」みたいな冷たい視線を送ってくるが紫乃は気にしない。まるで自分が観葉植物になったかのようにじっと耐え、環境に溶け込んだ。
そこへ彼女がやってきた。気後れするほどに美しいその人は鬼の接近には気づいていないらしくプールサイドの遠くのほうを眺めながら紫乃の前を過ぎて行った。紫乃はドキドキした。まるで自分がくノ一になったかのようなスリルである。紫乃は一歩一歩、水をひとかきひとかき弓奈の背後に迫った。
「わ! 紫乃ちゃん!」
バレた。弓奈は背後への警戒も怠らなかったのだ。逃げられてしまう・・・紫乃はそう思ったが、弓奈は観念したようにその場から動かずに笑っていた。胸を恥ずかしそうに隠して、紫乃に抱きつかれるのを待っている。
「いやぁ、そこにいたんだー。気づかなかった」
まとめの話などをし始めているが紫乃はまだ抱きついていない。弓奈の手前1メートルで紫乃は立ち止まってしまった。
「ん?」
弓奈はそう言ってちょっと照れながら紫乃に右手だけ伸ばした。
「いいよ・・・おいで」
紫乃は水の中をちゃぷちゃぷと二歩あるいて弓奈に寄り添い、そっと腰に手を回した。真っ赤になった顔を見られたくないからうつむいたが、目の前には自分の体にやわらかく密着して、その隙間に少し水をためた弓奈の胸の谷間があったのでますます紫乃の体は熱くなった。
遠くからジュースのグラス越しに二人の様子を観察していた会長は「あらあら」と言って微笑んだ。
「ねえ紫乃ちゃん。ウォータースライダー一緒に行こう。ここ二人滑りオーケーなんだよ」
「え・・・でも鬼ごっこが」
鬼ごっこなどどうでも良かったが立場があるので紫乃は一応そう言った。
「大丈夫! すぐ終わるから。行こう!」
弓奈と一緒に階段をぺたぺたと上りながら、このまま二人きりでどこか遠くへ旅に出てしまいたいと紫乃は思った。
スライダーの入り口の係の女性が弓奈を見て顔を赤くし、固まっている。紫乃はこういう場面に出会う度妙に誇らしい気分になる。こんな天使のような人と自分は友達なのだと、世界中の女性に自慢したい気分であるが、そんな嫌味なことはしない。自分はいつだってクールな鈴原紫乃サンだからだ。
「紫乃ちゃん前に座りなよ。すっごく綺麗だから」
「綺麗?」
この口を開けたブルーの筒が綺麗だとはちょっと思えなかったが、紫乃は弓奈の言われたとおり彼女の前に座った。
「じゃ、行こう!」
紫乃は後ろから抱きしめられた。「ひゃ!」と言って紫乃の心臓が跳ねると同時に二人の体は青の世界へと滑り始めていた。
弓奈の「きゃあきゃあ」言う声を耳元で聞きながら、彼女とひとつになって滑る紫乃の心は真夏へ一直線だ。クールな紫乃もさすがにこの時ばかりはちょっとだけ歓声をあげてしまった。この時間が永遠に続けばいいのにと紫乃は思った。
そして突然紫乃は魔法にかけれれる。チューブが透明になっているあのエリアだ。宝石のように輝く水しぶきが二人の周りに無限に散らばっていて、紫乃の胸いっぱいに夏のトキメキがひろがった。弓奈と一緒にいるとどうしてこうも世界はきらめくのだろうかと、スローモーションで落下していく夢の欠片のゆくえを目で追いながら紫乃は思った。
「綺麗でしょー!」
スライダーのチューブの中に弓奈の声が響いたので、紫乃はチューブの丸い天井に向かって「はい!」と言ったが自分の声はとても小さかったので弓奈の耳に届いたかどうかは分からない。だが、弓奈の心には届いた気がした。
「きゃあ!」
夢の時間は胸に響くような大きな水しぶきによってフィナーレを迎えた。紫乃はふわふわして力の入らない足を動かして岸をめざした。
「お姉様! 紫乃先輩! 鬼ごっこの途中で遊んじゃだめですぅ!」
あかりがやってきた。紫乃はなにか適当な言い訳を考えようとしたが、先に口を開いたのは弓奈だった。
「ちゃんと鬼ごっこしてたよ! 私いまスライダーの出口でプールに飛び込んだ瞬間も紫乃ちゃんのこと抱きしめてたから」
「なるほど! 紫乃先輩が鬼ですかぁ!」
紫乃が弓奈に目を遣ると、彼女がウィンクしてきた。紫乃は顔の熱を覚ますためにプールにもう一度ブクブクと顔を沈めた。
「し、紫乃先輩! しっかりして下さい!」
シャワー室の存在が、弓奈の帰りの着替えを救った。紫乃はそれをあかりや会長と同じように残念に思ったが、むしろ着替えを見られなくて良かったと思っている。それほどに今日一日は紫乃の心と体に充分すぎる刺激を与えてくれた。これ以上は彼女の小さな胸の中のハートがもたない。
帰りの電車の中で紫乃は、座席でうとうとと居眠りを始めた弓奈の横顔にあたる夕日のきらめく赤を、いつまでもうっとりと見つめていた。




