57、西風
生徒会室は急に静かになった。
葉桜を透けた西日の窓を背負い、会長は空のティーカップの白い取っ手を細い指先でなぞっている。とりあえず弓奈は椅子に腰掛けてしばらく黙り、会長の言葉を待つことにした。遠くから運動部の生徒達が終礼をする声が聞こえてくる。
「あの、お話というのは」
耐えかねた弓奈はそう切り出してみたが、会長は指先をティーカップで遊ばせたままで答えてはくれなかった。
どれほど時間が経ったか分からないが、弓奈がうとうとし始めた頃に会長は急に大きく息を吸い込んだかと思うと、小さな声で "Got it!" と言って立ち上がった。
「ん・・・どうしましたか」
弓奈が目をこすって顔をあげると、いつのまにか会長はすぐ隣りに座っていて彼女をじっと見つめていた。
「な、なんですか」
「用件は二つあるの。ひとつは、私から弓奈ちゃんへのお願い」
何かされる・・・弓奈はそう思って思わず胸の辺りを手で隠したが、会長が思ったよりも真剣な表情をしているので警戒は解くことにした。気づけば弓奈は会長の髪の甘い香りに包まれていた。
「あのね・・・」
「は、はい」
会長は弓奈のももに手を当てて唇を弓奈の耳元に寄せる。
「弓奈ちゃんは・・・」
「はい・・・」
弓奈は息をのむ。
「舌を入れるのと入れられるの、どっちが好きか教えて欲しいの」
弓奈は少しのあいだ固まったままで自分の感情を整理すると、カバンを持って立ち上がった。
「帰ります」
「んもぅ、今のは冗談よ」
会長は弓奈の肩を背後から抱いた。
「お願いっていうのは、夏休みのことなんだけど」
「・・・夏休み?」
どうでもいいから放して欲しいと弓奈は思った。
「完結に言えば、私の代わりにこの学園の代表として姉妹校の親善訪問をして欲しいの。弓奈ちゃんに」
「シンゼンホウモン・・・ですか」
無理を言わないで頂きたい。弓奈は自分のささやかな毎日で手いっぱいだ。
「えーと・・・無理です」
「お願い。私はどうしても行けなくなっちゃったのよ」
会長の胸のやわらかさは制服越しでも容易に背中で感じることができる。おまけに会長の手は弓奈の胸をアンダーからトップにむけて徐々にせり上がってくる。
「だ、代表とかなら・・・紫乃ちゃんのほうが・・・適任・・・かと」
「これは弓奈ちゃんにしかできない仕事なのよ」
会長の両手は完全に弓奈のおっぱいを揉み始めた。
「お願い」
「あー! 放して下さい!」
「私の代わりに行ってくれる?」
「そ、それは・・・」
力に屈してはならない。弓奈はいつもこのパターンで会長に利用されている。
「お願い」
「あん! ちょっと! そこはダメです! 絶対ダメ!」
「代わりに行ってくれるわね?」
「わー! あー! わーかりました! わかりましたからそこはやめて下さい! だめぇ!」
力に屈してはならないが、世の中にはいくつかの犠牲を払ってでも守らなければならないものもある。「じゃ、決まりね♪」と言って微笑んだ会長の頬は、夕日の最後の赤に染まっていた。この決断がのちに弓奈の人生に大きな影響を及ぼすことを、少なくとも弓奈本人は今まったく気づいていない。
夏の細かい話は今後ゆっくり説明してくれるらしいので、ともかく弓奈は寮へ帰ることにした。あまりおそくなると晩ご飯に遅れる可能性がある。今日は弓奈の好きなクリームシチューが出るはずなので早く行って確保したいのだ。
「それじゃあ、私はこれで」
「待って」
会長は窓を閉めながら弓奈を呼び止めた。
「昇降口までご一緒してもいいかしら」
「あ、はい。もちろんです」
会長と二人きりで歩くことはあまりない。弓奈は何の話をしていいかわからなかったので、ホワイトタイガーはカッコイイ虎なのにブラックタイガーがエビなのはおかしくないか、といったようなことしばらく話した。
弓奈のくだらないお話のネタが尽きた頃、西階段の踊り場で会長は不意に立ち止まった。器の大きさが全国平均を大きく上回る小熊会長もさすがにあきれてしまったのだろうかと不安になった弓奈は振り返ったが、会長は微笑んでいた。
「弓奈ちゃん」
会長はおもむろに弓奈の手をとり、彼女の左手と弓奈の右手を合わせて指を絡めたのだった。
「あっ・・・」
弓奈は慌てて手を放し、その手を胸の前でぎゅっと隠しながらうつむいた。先程の自分と紫乃の様子は会長にしっかりと見られていたのだ。そりゃ会長ほどの人間があれほど露骨な照れを見逃すわけもない。弓奈は顔が熱くなった。
「からかわないで下さい・・・別にそういうんじゃないですから。お互い女の子には興味ないし、紫乃ちゃんも私もほら、マジメですから、変に気を使っちゃってただけです」
じんじんする耳を会長に向けていても彼女から返事がないので弓奈はおそるおそる顔をあげた。
会長はほんの少しだけ、哀しそうな目をしていた。普段通り口元だけは優しく微笑んではいるが、瞳の奥底からはいつもとは違う色が水彩画のように柔らかくにじんで溢れていた。
「弓奈ちゃん」
突然会長はカバンをぱたんと床において弓奈を抱き寄せた。会長のものとは思えない、優しくて温かくて、透き通るように清々しい真っ直ぐなハグだった。
「・・・会長?」
会長は何も言わずに弓奈の背中をゆっくりぽんぽんと叩いた。弓奈には会長がなにを思ってこんなことをしているのかさっぱり分からなかったが、エッチないたずらをしてやろうだとか、弓奈の困った顔を見てやろうだとか、そんな低俗な思惑による行為でないことだけは分かった。
「いつか」
小熊会長の優しいささやき声。弓奈は彼女の肩のあたりに口元を当てたまま耳を澄ました。
「いつか困ったら、私のところへおいで」
「・・・・・・はい」
弓奈はなんだからよく分からないままに返事をしたが、この体験は深く胸に刻んで覚えておくべきだという気がした。
会長には見えているのである。弓奈と紫乃のあいだにある、新たに特別な関係を築くことを望むに際しては致命的ともいえる彼女たちの友情の構造的問題と、その遥か未来が。
食堂のシチューの香りを運んだ西風が、踊り場の窓を抜けて二人の髪を揺らした。




