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55、ピンチはピンチ

 

 ピンチはチャンスである。

 呪文のようにそう何度も自分に言い聞かせた弓奈は、ハート型ビスケット入りホットチョコレートのカップをトレイに載せてお客様の席へやってきた。

「おまたせいたしました。ホットチョコでございます」

 不思議なことに世の女子というものは目当てのお姫様から遠く離れていればきゃあきゃあ騒いでいられるのだが、いざ目の前に彼女がやってくると妙に大人しくなってしまうものである。ただしそれは目に見える範囲に限られる落ち着きであって、彼女たちのハートは恋の甘い香りにとろけてカップに浮かぶビスケットのように上気していた。

「あ・・・ありがとうございます」

「ごゆっくりどうぞ」

 そういって弓奈が背を向けてやっと生徒たちはきゃあと歓声をあげたのだ。

 二年生寮店のフォカッチャ・ドルチェはその店内の東側半分が瀟洒なカフェであるので、30円アイスのような庶民的商品を多く取り扱う一年生寮のフォッカとは多少雰囲気が異なり普段はとても落ち着いている。だが、今日は弓奈が原因で廊下が軋み窓が震えるたいへんな賑わいだ。

 弓奈は諦めていない。業者の陰謀によってフォカッチャ・ドルチェのスタッフになってしまい、カフェの制服を着て笑顔でお茶を出すなどというモテかねない状況に陥ってしまったが、そう簡単にモテてたまるかと彼女は意気込んでいるのだ。学園祭のカフェと違いこれはアルバイトであるからお小遣い程度とはいえお金を貰っているので責任ある行動をとらなくてはならないが、半ば強引に勤務させられているこの状況は店側も分かっていることなので弓奈の自己実現の一翼を担うくらいの協力的姿勢は見せて頂かないと釣り合いが取れない。

 つまりはこのお店に、弓奈が生徒たちから嫌われるためのステージになって頂くのだ。

「なーんちゃって、とっとと飲んで早く出てってくださーい!」

 弓奈は突然振り返ってホットチョコのお客様にそう言い捨てた。店員にこんなことを言われれば、正常な神経を持っている人間であれば腹を立てて帰るか怒鳴り返すかするだろう。

「きゃああ! あたし弓奈様に罵られたぁ!」

 大喜びである。弓奈はまだ自分のファンを甘くみていたようだ。カウンターの裏に敗走した弓奈は次の注文を確認してドリンクを作る。ディッシャーを使ったのは生まれて初めてだったが、なかなか上手いことバニラアイスが乗っかった。

「お待たせいたしました。コーヒーフロートでございます」

 孔子は思いやりについて「己の欲せざるところ人に施すことなかれ」と説明したことがあるが、今日の弓奈はこの標語を「人に嫌われたくば己の欲せざるところを人に施しやがれ」と解釈している。

「はい。コーヒーフロート飲んで下さい。ほら、ほーら、どうぞぉ。ほらほら」

 弓奈は笑顔で少女の口にぐいぐいグラスを押し付けた。こんなことをされれば、まともな感情を持っている人間であればテーブルをひっくり返してグラスをぶん投げるくらいはするだろう。

 ところがお客様の少女は初めこそ戸惑ったように肩を縮こまらせていたが、やがてポッと頬を桃色に染めて幸せそうコクコクとバニラアイス入りコーヒーを飲み出した。こんなはずではないと途中から弓奈は思い始めていたが、少女の恍惚とした表情がまるでミルクを飲む赤ちゃんのようでなんだか愛らしく、それ以上の追撃ができなかった。普段わるいことをしない人間が突然悪事を働こうとしても無駄である。

 カウンター裏に逃げ帰った弓奈は大歓声の店内に背を向けて注文表を確認する。とうとうやってきた「オーロラパフェ」。二年生寮店の名物なので作り方にこだわりがあり、さすがにマニュアルが細かいが、弓奈は学園祭の日に香山先生に教わってひとつだけ作ったことがあるので出来ないことはなさそうである。注文は一気に5つも入っていたが、同じものを作る場合、数はさして問題でない。弓奈は気合いを入れてパフェを作り始めた。

「あれ」

 サクランボがない。そもそもサクランボを乗せるようにマニュアルに書かれていないのだ。しかし確かに香山先生が作っていたパフェには、まるで親の仇のようにサクランボが山盛りに乗せられていた。数十年の歴史がある伝統的パフェなのでこの数年でレシピ内容が変わったとは思えないから、あのサクランボはおそらく香山先生が現役学園生徒だった頃からやっていた彼女オリジナルのアレンジだと考えるのが正しそうである。

 と、ここまで考えて弓奈は自分の胸の中にささやかな違和感を覚えた。何かが引っかかったのだ。しかしそれが何なのかハッキリとは分からなかった。

「まあいっか」

 ともかくパフェはできた。問題はこのパフェを使ってどうやって少女たちから嫌われるかである。ちょっとやそっとの嫌がらせでは逆効果を生んでしまうことが分かったので相当派手なことをしなくてはならない。それでもしもこのアルバイトをクビになってしまったとしても・・・まあ本望である。弓奈はちょっと屈伸運動をしてから慎重にパフェ5つをトレイに載せると、制服でごった返すフロアへゆっくり歩き始めた。




 紫乃は学園の放送部でアルバイトをすることになった。

 クラブや委員会が忙しい生徒はなにも無理してアルバイトをしなくてもいいのだが、学園の風紀を守り整えるにはまず情報の発信場所を抑えることが肝要だと考えた紫乃は、朝やお昼にその日の天気や学園に関するニュースを放送室のマイクでしゃべるというお仕事を希望し、このアルバイトをもらったのだった。学園長の娘の冷ややかな声が教室のスピーカーから聞こえると自然と背筋が伸びると、一部の真面目な生徒からは好評である。

 そんな紫乃は放課後に一人で生徒会室へ行ってはみたが、そこはエッチな金髪のねえちゃんが絵を描いているだけというあまり愉快な空間ではなかったため、「体育祭の企画発案にヒートアップした脳を冷却してきます」と言って抜け出し、ここへやって来てしまったのだ。弓奈がはたらく二年生寮に。

「すっごーい! あの子、弓奈さまに飲ませてもらったんだってぇ!」

「さっきの子は罵ってもらったんですってヨ!」

「早くフロアに出て来て下さらないかしらぁ」

「撮った写真私にも印刷してよぉ」

「いいけど一枚1000円ね」

「もも撮ってね。もも」

「ももはギリギリ見えないよぉ」

 勝手なことを生徒達がしゃべり合っている。紫乃は少し早足になってフォッカの入り口までやってきた。背伸びをしても少女たちの後頭部しか見えないので、自分の華奢な体格を生かした人波入り込み術にて徐々に前へ進むことにした。

「鈴原さん・・・鈴原さん」

 誰かの背中と誰かの胸のあいだで、紫乃は不意に自分の名前を呼ばれた。見ればそこには自分と同じように人にもまれた少女が腕を目一杯伸ばして一枚の茶封筒をこっちに差し出している。

「隣りのクラスの安斎から倉木さん宛ての手紙を預かってるんですが、とても本人に近づけません。彼女と一番親しい鈴原さんに、この手紙を託せはしないでしょうか」

 どこかで見た事がある少女だが存在感が薄いせいで名前は知らない。しかし、同情を禁じ得ぬいかにも苦労をしていそうな雰囲気と丁寧な物腰、そして何より紫乃のことを「彼女と一番親しい鈴原さん」と表現したその姿勢が、紫乃の中で彼女の評価を願いを聞き届けるに値するレベルにまで駆け上がらせた。

「仕方ないですね。いいでしょう。雰囲気から察するにラブレターではないようですから、私が届けてあげます」

「・・・ありがとうございます。お願いします」

 少女の姿は誰かの肩の向こう側に消えて行った。去り方も地味である。

 封筒を胸ポケットにしまった紫乃は進軍を続ける。ここまできたらカフェで働く弓奈の姿をひと目見るまでは引き返せない。時に誰かの脇腹をくすぐり、時に誰かの脚のあいだをくぐりながら、とうとう紫乃は弓奈を拝むにふさわしい最前列へやって来た。

「きゃあ弓奈ちゃーん!」

「来た来た!」

「弓奈さまぁ!」

 ナイスタイミングである。紫乃が最前列にたどり着いた直後にカフェ衣装の弓奈がキッチンからゆっくりとやってきた。

 見ているだけで幸せだった。紫乃の瞳に彼女の姿が映ったその瞬間に、時間はその流れを止めるのだ。おそらく人間の感性のど真ん中からその果ての果てまでを網羅するのに最高に効率のいい奇跡のフォルムを持ち、生物学的に分析不可能な内から滲み溢れて観測者の左胸ではじける甘美なるインスピレーションを無差別に提供し続ける。彼女が天使でないというのなら、この世界に美も真実もない。

 我に返った紫乃は、弓奈の運ぶトレイに並んだ5つのパフェを見た。あの注文の品のひとつひとつは弓奈によって支えられていると同時に店員としての弓奈の存在を支えているのだ。あのパフェがあるから自分はこうして弓奈さんのウェイトレス姿を見る事が出来ているのだと、紫乃は妙に感慨深くなった。なんだかあのパフェのひとつひとつがまことに愛おしく思えてきたのだ。

「きゃ!」

 次の瞬間である。弓奈が足元にあった0センチの段差につまずいて前方につんのめったのだ。これは、清潔感を持つことを最低ラインに構え、おしゃれに対して大いに敏感であるお年頃の学園少女たちに、頭上からパフェをプレゼントすればさすがに嫌われるだろうと読んだ弓奈がわざとやった演技である。なにしろ髪や顔についた大量の生クリームを部屋に戻ってからシャワーで洗い流し、予備が無ければジャージなどの代用服を着てブレザーやスカートをクリーニングに出さなくてはならないのだから、これは大変なことなのである。自分のファンが減ることへの確かな自信が、弓奈を大胆不敵なスーパー女優にしたのだ。

「・・・あぶにゃい!」

 思わず紫乃はちょっと噛みながらそう叫んで飛び出した。そして弓奈の手から飛び立ったパフェのトレイがその傾きを水平を保っているうちに空中でキャッチすると、パフェが慣性移動する力を吸収するために2度ほどその場でくるくる回った。弓奈を思う気持ちとそれに起因する集中力が、紫乃に自分の身体能力の限界を突破させたのだ。そう、パフェはすべて無事だったのだ。

 無事でなかったのは弓奈のほうだった。例えば自転車を運転していて突然前方に猫が飛び出して来たら誰しも急ブレーキをかけることだろう。演技のつまずきと咄嗟の片足急ブレーキをかけ算すると素の転倒が導き出されることを弓奈はこの時はじめて知った。

「きゃあ!」

 弓奈はスカートをド派手にはだけて転倒したのだ。周囲の生徒たちは息をのんだ。そして誰かのカメラのフラッシュが静かにひとつ焚かれ、ようやく少女たちは大騒ぎを始めた。

「きゃー! 私弓奈様のパンツ初めて見ましたあ!」

「私一年ぶりよ! 弓奈さんの下着ぃ!」

「なんて・・・なんて美しいおしり・・・」

「さっき写真1000円って言ったよね! 値上げしないでよ!」

「こういうファンサービスがあるから弓奈様の追っかけはやめられないわぁ!」

 紫乃はパフェを持ったまま立ち尽くした。ひらひらのスカートを押さえながら床にペタンと座り込んでうなだれる弓奈にどう声をかけていいか迷った。

「あの・・・弓奈さん。もしかして私・・・なにか余計なことをしましたか」

 弓奈は首を振ってから顔を上げた。紫乃ちゃんが珍しく当惑したような表情をしている。弓奈は自分が空回りのプロであるとたった今感じていた。同性からモテる運命に抗うことのできぬ無力な存在であると。だが紫乃の目を見た瞬間になんだか少しだけ救われたような気がした。邪な気持ちからではなく友達として自分のことを心配してくれているであろう彼女に、弓奈の心はほっこり温まったのだ。負けるな私、何もかもうまくいかなくても、自分の一番の友達に今できる最高の笑顔で答えることくらいはできるはず・・・そう弓奈は自分に言い聞かせて口を開いた。

「助かったよ紫乃ちゃん! ありがとう」

 さすがにちょっとだけ目が死んでいた。

 

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