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52、あなたがドーナツになる前に

 

 

 調理実習でドーナツを作った。

 弓奈は紫乃が料理下手であることにいまだ気づいていないので、彼女と二人組で作り上げたドーナツの出来がいまいちだったのは自分のせいだと勘違いしていた。

「じゃあ、残ったドーナツは私が食べるね」

 紫乃に迷惑は掛けられないと思った弓奈はそう言ってドーナツを部屋へ持ち帰った。冷蔵庫には山ほどハチミツがあるのでこれにたっぷり浸して食べようと思ったのだ。放課後に生徒会の集まりがない場合夕ご飯までは時間があるので弓奈は宿題などをやりながらドーナツを食べ始めた。特に芸のない普通のドーナツだがお砂糖は多用しているのでこれにハチミツをかけるとかなり味がくどくなってしまい、とても一人では食べきれない。時計を見たらまだ16時半だった。

「石津さんにでもあげようかな・・・」



 雨が降る気配はなかったが空は低く淀んでいた。会おうとして石津さんに会うのは久しぶりである。弓奈は駅前でバスを降り彼女のアパートを目指して歩いた。

 アパートの前へたどり着いたが、ぎこちないギターの音色も綺麗な歌声も聞こえてこない。石津さんは留守だろうか。先程駅前のドーナツ屋の店内をちらっと覗いてみても彼女の姿は見えなかったので、隣町でストリートライブでもしているのか、あるいはどこかの事務所のオーディションを受けにいったのかもしれない。石津さんは案外しっかりしているところがあると弓奈は信じているのでこういう発想が出る。

「ピンポーン」

 せっかく来たのだから在不在くらいは確かめなくてはならない。インターフォンは見当たらないので弓奈はドアの前でそう言ってみた。

「石津さん、いらっしゃいますか。倉木です」

「おお、入ってくれ」

 思いがけず返事があった。いると分かっていたらピンポーンなどとふざけたことは言わなかったというのに弓奈は不運である。

「おじゃまします。突然ですみません」

 前をはだけたワイシャツ姿の石津さんは、ギターを抱えていなかった。

「あのー・・・学校で作ったドーナツが余ったので、お裾分けに参りましたが、おじゃまでしたでしょうか」

「おお・・・それは・・・ありがたい」

 テーブルというよりはちゃぶ台に近いそれの上にドーナツを置いて弓奈は石津さんの傍らに静かに座った。

「よければこのハチミツをつけて食べて下さい」

「う、うまい!」

 ハチミツの瓶を開けるより先に石津さんはドーナツに手を付け始めていた。とりあえず喜んでもらえたようなのでなによりである。

「・・・しかし私もドーナツの食べ過ぎには注意しなければいけないな」

「え、ダイエット中なんですか」

 石津さんの体のどこにこれ以上やせていい領域が残っているというのか。

「いや、スタイルの話ではない。風の便りで聴いた、とある病の話だ」

「やまい?」

 石津さんはハチミツを口の周りに付けながらドーナツを頬張り、しばらくじっとギターケースをにらんでいたが、やがて話を続けた。

「ドーナツを食べ過ぎると体がドーナツになっていく。そんな病だ」

「・・・え?」

「ドーナツ化現象と言うのだ。都心で流行っているらしい」

 石津さんは自分の手首のあたりにそっと噛み付いてから「私はまだだ」と言った。本当に石津さんはどこまでが本気でどこまでが冗談なのかわからない。石津さんはお茶を一気に飲み干したかと思うと、天井を見上げたままの格好で固まった。こうして見ると石津さんは前よりだいぶ髪が伸びた。

「私は、日本一のミュージシャンになれるだろうか」

「さあ・・・どうでしょう」

 日本一幸の薄そうなミュージシャンにはなれそうである。

「私は今、苦しんでいるのだ」

 そりゃその体勢を維持するのは苦しいだろう。

「だまし絵の階段をのぼり続けている気分だ。右へ左へ、表へ裏へと現実に振り回され、そうして最後は自分が一歩も上へあがっていないことに気づかされる。とても苦しい」

 回りくどいたとえ話である。詩人の哲学に巻き込まれるのは勘弁だ。

「大勢に受け入れられる芸術を作るためには、私が思う芸術の形を否定しなければならないんだ。私は・・・私は毒がある創作物こそ芸術だと、幼い頃から信じてきたのだ」

 よくわからないが歌に毒は盛らないで頂きたいと弓奈は思った。

「等身大の幸せと勇気を語り、あるいは愛と平和の讃歌を書くには、私の心は汚れ過ぎた・・・」

 石津さんは湯のみをトンとテーブルにおいてからがくっとうなだれた。急に下を向くと首筋を痛める可能性があるので注意するべきである。

 たしかに石津さんの部屋はドーナツの箱と書きかけの五線紙が散乱しており、決してスタイリッシュな空間とはいえないかもしれないが、だからと言って石津さんや石津さんの心が汚れているだなんて弓奈は思わない。弓奈とてぼーっとしながら人と会っているわけではない。ちゃんと石津さんを見ているつもりである。弓奈は石津さんの青白い横顔を見つめながら、彼女を励ます言葉を探した。

「だ・・・大丈夫ですよ! 石津さんはヴァイオリンうまいじゃないですか。もっとこう・・・胸張ってがんばっていいと思いますよ」

 本心で言ったつもりなのだが、なんだか自分が口にした言葉はみんなウソっぽいなと弓奈は思った。

「本当にそう思うか」

「はい!」

 弓奈が力強く答えると石津さんはほっとしたように少しだけ口元をゆるめたが、すぐにまた死神のような表情に戻ってうなだれた。

「いや・・・だめだ。やはり私には・・・」

 面倒な人である。どうしても彼女に諦めてもらいたくない弓奈は二の矢を継ぐ。

「ヴァイオリンだけじゃありません! 石津さんの歌声はすごいです」

「歌・・・いや私の歌唱力などたかが知れている」

 弓奈はじれったいともくやしいともとれぬ不思議な感情に襲われて、石津さんのシャツの袖をくいくいと引っ張った。

「・・・そんなことありません!」

 思いがけず弓奈に袖を引っ張られた石津さんは珍しくぱっちりと目を開き、まるで憧れの先輩の指先に偶然触れてしまい飛び退く女子中学生のような初々しい表情をした。そんな目で見つめられては弓奈も困るが、今日ばかりは目を反らさなかった。

「・・・そうか。君がそこまで言うのなら、そうかもしれないな」

 石津さんはシャツのボタンをいくつか留めながらそこに正座するとそっと目を閉じて、星空のように澄み、夕焼けのように穏やかな声で歌い出した。

「あーなたがドーナッツになる前に、わーたしは伝えなくちゃいけないわー。甘ーい言葉のハチミツと、昨日の香りのシナモン添えてー。いつまでも一人、一人ぼっちだと思ってたのー」

 石津さんの歌声が素晴らしいことは知ってたが、こんなにも間近で、しかも自分のために歌ってくれるのは初めてだったので弓奈はドキドキした。歌詞は相変わらず意味不明だが、ガラス細工のように透き通ったその歌声が、緊張や気恥ずかしさといった雑念を打ち消し、いやむしろそれらの中に美しく響き渡って弓奈の心をふわふわと浮かび上がらせた。

「わーたしはドーナッツに戻ったら、あーなたを忘れなくちゃいけないわー。その温かーい指先と、明日を夢見る眼差しをー。そうすれば二人、二人は何度も出会えるでしょー」

 歌い終えた石津さんは正座のまま弓奈の持って来たドーナツをパクっとくわえた。弓奈は胸の中の感動と興奮をどうしてよいか分からず、思わず後ろから石津さんの肩に抱きついた。

「いけますよぉ! 石津さーん!」

「や、やめてくれ・・・」

「人にうける歌を書こうとしなくていいじゃないですか! 石津さんはそうやって石津さんらしく歌えばいいんです! あなたにしか書けない歌をあなたがその声で歌ってくれれば、日本一ですよ! だって競技人口が一人しかいないスポーツだったらどんなにたいしたことない記録でも世界一なんですよ! それと同じです!」

「・・・今日の弓奈くんはよくしゃべるな」

 石津さんは少なからず照れていた。

「それに、あなたは実力でもきっと!」

 弓奈が思い切り石津さんにくっついたので二人は床に倒れそうになった。この狭い部屋に、本当に久しぶりに笑顔が咲いたのだ。

「それでは石津さん、門限の前に私は帰りますね」

 弓奈は石津さんとしばらく音楽のことなどを語り合った後そう言って立ち上がった。

「そうか。送っていこう」

「いや、いいです。それよりちゃんとしたご飯を食べて下さいね」

 石津さんならドーナツ化もあり得ない話ではない。

「そうか。それじゃあ、さよならだ」

 靴を履いて振り返ると、窓際の石津さんはギターを抱えていた。

 

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