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5、紫乃ちゃん

 

 紫乃は弓奈を知っていた。

 まだ入学して間もないというのに倉木弓奈の噂は広がる一方だ。絶句する程に容姿端麗な彼女は、教師に指導を入れるほどスポーツ万能で、おまけに時折チャーミングな笑顔とセクシーなパンツを見せてくるらしいといったような噂である。しかし、紫乃の心の中に弓奈が特別大きい存在となっているのには他に理由があった。紫乃と弓奈は学年もクラスも同じ、座席はすぐ隣りで寮部屋も隣接しているのである。昼休みの弓奈はそうとは知らずたまたま紫乃に声を掛けてきたらしいのだ。

「はぁ・・・」

 紫乃は屋上の若緑色のフェンスにもたれてため息をついていた。確かに紫乃は曲がったことが許せない大真面目な生徒で、かつ物事を客観視する能力にも優れていると言える。しかし、弓奈が期待するようなクールな女ではない気がするのだ。紫乃は弓奈の前では平静でいられず頬や耳は真っ赤に、頭の中は真っ白になってしまうのだから。こんな感覚は紫乃が初めて経験するもので、先人達はこういった症状が出る病を『恋』と呼んだ。

「はぁ・・・」

 食堂では自分がそっぽを向いていたせいで声をかけてきた生徒が弓奈だと気づかず仕事に誘ってしまった。もし弓奈と分かっていたら会話もせずにその場から逃げ出していただろう。それは紫乃が臆病だからではない。弓奈に近づくには大きなリスクを負い、嫉妬の的をなる覚悟をしなければならないからだ。それほどに倉木弓奈という少女は生徒達の注目を集めているのである。自分にはその覚悟も器もない、紫乃はそう考えているのである。

「はぁ・・・」

「はぁ〜」

 突然すぐ隣りから自分のものでないため息が聴こえたので紫乃は飛び上がってしまった。

「えへ、驚かせちゃってごめんなさい」

 そこには紫乃だけを見つめて無邪気に微笑みかける学園のプリンセスがいた。紫乃は心臓はその高鳴りについていけず、壊れて止まってしまいそうである。しかし紫乃はもう後に引き下がれない状況に立ってしまっているので、弓奈の言う「硬派な女性」を演じていくことにした。

「お、遅いです」

「・・・ごめんなさい。保健室に行ってたんです」

 見れば弓奈は上履きではなく保健室の貸し出しスリッパを履いている。弓奈が午後の授業にいなかったのはこのためらしい。足の甲に重い物を落としたか、尖ったものを踏んだに違いないと紫乃は思った。本当は紫乃が落としていった画鋲のせいで怪我をしたのだが紫乃はそれに全く気づかない。

「ま、まあいいです。作業を手伝って下さい」

「はい! でもあの、いくつか訊いてもいいですか」

 弓奈の柔かな髪が春風に揺れている。紫乃は弓奈の姿を視界の隅に収めるだけで、彼女を直視することが出来ない。

「し、質問は手を挙げてからにして下さい」

「はーい」

 紫乃は不思議に思った。確かに弓奈という生徒は噂通りの魅力あふれる人間だ。だがそれゆえに幼い頃からちやほやされて育ったに違いないなく、いくらか尊大で思い上がった一面があるにだろうと紫乃は信じていた。なのに弓奈のこの無邪気な物腰ときたら、さながら天使である。格好良くて可愛くてセクシーで完璧なはずなのに、それに奢らない献身的努力家・・・そんな少女はこの世にいるはずがないと紫乃は思っていたので混乱をしているのだ。

「いくつか質問なんですけど、まず先輩のお名前を教えて下さい」

 弓奈は紫乃のことを先輩だと思っている。紫乃はいわば弓奈の目指す硬派道の師匠なのであるから、なるべくクールに答えることにする。

「あー、私のことは紫乃と呼べばいいです。同級生ですから、呼び捨てでも」

「同級生だったんですか! じゃあ紫乃ちゃんでいいですか」

 あと10メートルも距離をとれば弓奈の目を見て話すことが出来るのだろうが、紫乃は体が石膏のように固まっていて動けないので無理な話だ。

「しかも・・・同じクラスだったりします」

「ええ! そうなんだ! よろしく紫乃ちゃん」

 次の瞬間紫乃の小さな手は弓奈の温かい手の中にあった。弓奈は紫乃の手を取ったのである。紫乃は思わず「ひゃ!」と言って手を引っ込めた。弓奈は少し驚いたような顔をしたが、やがて照れながら上目遣いで謝った。

「あ、ごめんなさい・・・ちょっと嬉しくなっちゃって。私友達いないから」

 紫乃は弓奈を思いっきり抱きしめてしまいたい衝動にかられた。

「い、いや。気にしなくていいです」

 紫乃がそう言うと弓奈は手を自分の後ろに回したまま紫乃の顔を覗き込んだ。紫乃は胸のトキメキを悟られぬようにそっと下を向く。

「ありがとう。紫乃ちゃん。もうひとつだけ質問してもいい?」

「な、なんですか」



「紫乃ちゃんは、女の子に恋したりしないよね」



 風が止まった。紫乃は何もかも見透かされているような気がして弓奈の瞳を見た。しかし彼女の瞳はやはり無垢に輝いていて、自分をからかってこのような事を訊いてきたとは思えない。まだ紫乃の胸の内はバレていないのだ。紫乃は弓奈の向こうを流れる白い雲に視線を逃がしながら、平然を装ってこう答えた。

「あ、当たり前です。それどころか、恋そのものに興味がないです」

「やっぱり! 紫乃ちゃんは本当に硬派なんだねぇ」

 弓奈が再び紫乃の小さな手をとる。からまった二人の細い指先に、紫乃は長い旅路の始まりを予感した。

「・・・紫乃ちゃんに会えてよかった」

 弓奈がそうささやいて目を閉じる。彼女の微笑みに紫乃は、幼い頃によく遊びに行った古い教会のステンドグラスに佇む女神様を見た気がした。弓奈の体と心から、透き通った輝きと柔らかで離れがたいぬくもりを感じたのだ。もしかしたら倉木弓奈という少女は計り知れないほど性格が良い娘なのではないかと紫乃は思った。その証拠はどこにもないのだが。


 弓奈の指先から微かに消毒液の香りがした。

 

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