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48、うちのファン

 

『おめでとうございます!』

 手紙の最後にはおそらく教頭先生のものと思われる達筆でそう書き加えられていた。弓奈はアルバイト希望用紙には確かに時計塔の整備補助という素晴らしく地味なお仕事を書いておいたはずなのだが、どういう訳かその希望は微塵も通らずフォカッチャ・ドルチェ二年生寮店でのお仕事に決まってしまった。目立ちたくない弓奈にとって接客業は最も疎んじるべき分野であることは言うまでもないのでちっともおめでたくない。これは学園のプリンセスを利用し売り上げを伸ばそうと企む何者かの陰謀だ。アルバイトは5月の連休明けからなので、それまで弓奈の憂鬱は加速し続ける。

 イヤなことを忘れるには体を動かすに限る。二年生寮に来て間もない弓奈は寮の周辺を調査する目的も兼ねて早朝ジョギングに出発することにした。

 二年生寮は学園内で最も古い建築物の一つで明治十四年に建立されたものだが、多少廊下が軋んで音が響く以外は学舎と同様丈夫で品があり、曲線美にこだわった細部のデザインと暖色を多用したカラーリングがまるでチョコレート菓子のおうちのようなので学園生徒たちのみならず全国のサンキストファンから大変な人気を集めている。弓奈は物音を立てないようにそっと靴箱で運動靴に履き替えるとアキレス腱のストレッチだけしてから駆け出した。

 ランコントルの泉という湖がある。かつてはその湖底が実際に地下水脈と繋がっており、元気に湧き上がっていたらしいが現在その水面は鏡のように穏やかに静まり空の青に桜の色を散りばめて輝くばかりだ。

 15分ほど迷走し良い汗をかいた弓奈は泉のほとりの高いプラタナスの木の足元に腰を下ろした。遠くレンガの塀向こうに緑の丘が見えるから、紫乃ちゃんの家はここから割と近いのかもしれない。弓奈は深く息をして爽やかな空気をお腹いっぱい飲み込むと、ゆっくりと目を閉じて風のささやきに耳を傾けた。

「カフェイン。多くの高等植物中に含まれるアルカロイド。中枢神経興奮作用を持ち感覚受容や精神機能の・・・あー意味わかんない」

「わわっ」

 弓奈は驚いて魚のように飛び上がった。弓奈がもたれているプラタナスの幹の影には実は先客がいたのだ。今風で蓮葉なこの物言いは、おそらく安斎舞さんである。

「あれ、誰かいんの?」

 向こうもこちらの存在に気がついた。弓奈はどうしていいか分からず取りあえず持っていたハンドタオルで目から下を全て隠し、列車強盗のようなスタイルになって横になり木に背を向けた。

 なぜこのような小細工をしてまで自分の正体を隠すのか。それは舞に対する数々の苦い経験が弓奈を臆病にさせるからである。放課後廊下ですれ違い様に頭を下げたらあっさり無視されたし、食堂のドリンクバーで出会ったときなどは何もしていないのにあっかんべーをされた。理由は不明だが弓奈は舞に嫌われているらしいのだ。モテモテコマッチャウな人生を歩む弓奈にとってこれは良いとも悪いとも言えぬちょっとした事件である。

「はいはーい、ちょっとそこのあんた。ここはうちの休憩場所なんだけど」

「す、すみません。知りませんでした」

 裏声で答えてみた。

「あー、もしかしてあんた一年?」

「え! あ、そうです。新一年生です」

 それを聴いた舞は「マジで!」などと叫びながら弓奈に飛びつき、素早く彼女に腕枕をして添い寝した。弓奈は学舎を歩いていて突然通り魔の少女に抱きつかれることはあるが、まさか舞にこんなことをされると思っていなかったので慌てた。

「あんたさ」

「は、はい」

「テニス部入りなよ」

 勧誘だった。

「ここだけの話、うち部長になる予定だから、あんたを役職につけてあげるよ」

「いやぁ・・・球技はちょっと・・・苦手っていうかぁ」

「あんたはガットの張替え職人って感じの顔だね」

「それどんな顔ですか・・・」

「どんなって」

 舞はじっと弓奈の目を見つめながら、顔の半分を覆っているハンドタオルに手をかけた。

「ま、待ってください!」

「なんだよ。顔見せてよ」

「恥ずかしいんです・・・」

 舞はしばらく弓奈の顔をじろじろ見つめてから「ふーん」と言って仰向けに倒れた。今であれば弓奈は容易に舞の腕枕から逃げ出すことができる。

「あんた名前なんていうの」

「ん・・・えーと」

 逃げ出すタイミングがつかめない。

「ゆ、弓子です」

「ユミコ?」

 弓奈は嘘をつくのが下手である。

「弓子かぁ」

 舞はやはり頭がちょっと弱いらしい。

「弓子、この学校はすげえよぉ」

「はぁ」

「変なヤツがいっぱいいて、毎日飽きないしね」

 あなたもかなり変だと弓奈は思った。

「とくにうちの同級生には凄いのがいるよ」

 湖を渡る春の風が二人の前髪を優しく揺らす。

「そいつね、人形みたいに美人なんだ。動いてるのが不思議って言われるくらい。肌もスタイルも良すぎて誰も近寄れないんだ。近づくと緊張のせいで体温が急上昇して、全身の血管が切れて死ぬらしいよ。いやマジで」

 ほとんど兵器である。

「あいつは・・・」

 舞は腕枕した弓奈の前髪をふわふわと触りながら言った。

「うちよりも髪がキレイなんだ」

 どうやら舞は自分のことを語っているらしい・・・なぜかは分からないが今の一言で弓奈はそう確信した。そしてすぐに自分の頭が混乱していくのを感じたのだ。舞は自分を嫌っているはずなのに、一方では後輩に誇らし気に語っている。弓奈はもう一度しっかりと鼻と口を覆ったハンドタオルがずれていないか確かめた。

「あんたの髪なんかとは全然違うから」

 舞はそう言って弓奈の髪をがしがしと荒っぽく撫でた。

「あれ・・・でもあんたの髪・・・」

「あ・・・」

 弓奈は体を起こした。今朝は運動する気満々だったためポニーテールではなく安っぽい貴族を気取った編み込みヘアをしているのだが、正体を隠すのももう限界が近い。髪質で変装がバレるなんて笑い話にもならない事態は勘弁である。

「安斎先輩、私はそろそろ授業の準備をして学舎へ行きますので・・・」

「マジ? まだ早いよ」

「いえ、えーと、私シャワーが長いタイプなので、それでは失礼します!」

 弓奈は振り返らずに駆けた。

「弓子! おぉい。一年生寮はあっちだけどぉ」

 舞は少しだけ追いかけたが弓子ちゃんの脚の速さに圧倒されて湖の畔のベンチに座り込んだ。

「あれ・・・あいつなんでうちの名前知ってたんだ」

 舞は一度も自分の名を名乗っていない。

「もしかして弓子って・・・」

 舞は腕を組んで天を仰いだ。

「うちのファンかぁ」

 ウグイスが一羽、舞の肩にとまった。

 

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