43、ヴァレンタインそれぞれ
紫乃のカバンの中に収まっていたのは教科書とペンケースだけであった。
(まさか・・・)
そのまさかである。紫乃はあろうことか弓奈のカバンの中に「大好きです」のチョコレートクグロフを入れてしまったのだ。弓奈が自分のカバンを無防備にしたのはおそらくあの一瞬だけだろうから、その中に紫色の紙箱が入っていたら間違いなく紫乃からのものだとバレてしまう。弓奈がカバンを開けるより先にあの箱を回収しなければ全てが終わってしまうのだ。
「お、鈴原ぁ。今日一人なの?」
「邪魔です」
「うわあ!」
教室出口の障害物を払いのけた紫乃は校則を破らないギリギリの速度で早歩きを始めた。ちなみに学舎の歩行制限時速5,2キロメートルだ。
(弓奈さん・・・今どこにいるんですか)
それが分かったら弓奈を追う全校生徒は苦労しない。ここは紫乃が抱く弓奈への愛と経験でこの危機を乗り切るしかない。紫乃は視聴覚室脇の倉庫の前を華麗に通過した。
「舞、ダスター知らない?」
舞の友達は自分のカバンの中を覗きながら舞に尋ねた。
「雑巾とか布巾のことでしょ。あんた部室の備品担当なんだからそれくらい覚えておきなよ」
「あー・・・そういう意味じゃなくって、どこにいったか知らない?」
「知らなーい」
「おかしいなぁ。部費で20枚まとめて買ってきたのに。どこかで落としたのかなぁ」
「ねえ、うちの手伝いしてくれたら探すの手伝ってあげるけど」
「舞の手伝い?」
「そ。あんた、あいつの居場所見つけてきてよ」
「あいつって?」
「・・・やっぱいいや」
「ん?」
「なんでもない。100円で手伝ってあげる」
「現金はやだよ・・・」
「で、そのダスターどんな袋に入ってるの?」
「袋っていうか、箱なんだけど。紫色の箱」
「なんで紫なの」
「ラベンダーの香りのやつ買ったから」
「うわ、オトメかよ」
「うるさい・・・」
弓奈があの状況で会長から逃げ切れたのは奇跡に近い。もしかしたら会長が故意に逃がしたかのかも知れないが真相は闇の中だ。弓奈はフォカッチャドルチェ一年生寮店のコーヒーメーカーの陰にしゃがみ込んで隠れながら、乱れたリボンとスカートの裾を整えていた。
「ゆ、弓奈さん・・・」
「わっ!」
いつのまにか隣りで正座していた少女、それは紫乃ちゃんだった。
「なんだ、紫乃ちゃんか。びっくりしたよ」
「驚きすぎです・・・。もっと堂々と生活して下さい」
「そ、そうだね。がんばる」
「はい」
「それで、なにか用事?」
「カバンの中を見せて頂けますか」
「え? なんで」
紫乃ちゃんはちょっと頬を赤くして答えた。
「も・・・持ち物検査です」
ヴァレンタインデーだからと言って学舎への嗜好品の持ち込みは許されていないからそのチェックをしているのだろう。さすが紫乃ちゃんは真面目である。弓奈はカバンを開けて紫乃に差し出した。
「良くないものは何も持ってないよ」
「怪しいものです・・・」
紫乃が弓奈に背を向けてカバンの中をじっと覗き込んでいる。こうして紫乃を後ろから見ていると彼女がお人形に見えてくるので、思わず背筋を指先でつーっとなぞって遊びたくなるが、そんなことをすると彼女に嫌われそうなので弓奈はやめた。しばらくして紫乃はがばっと立ち上がる。
「どうしたの紫乃ちゃん」
「・・・ない」
「何が?」
「弓奈さん、ちょっと私は用事がありますので、また後で」
「う、うん」
紫乃は時速5,2キロの速さで寮を出て行った。
魚はいずれ空を飛ぶ。人類がその現場に出会うことはおそらく無いが、トビウオにその予兆を見る事ができる。
雪乃のバニウオもまた進化のステージを一歩先へ行く魚なので、今日も管理棟の廊下を雪乃の腕に支えられてふわふわと浮かびながら散歩していた。不意になにかを発見したバニウオがその場に滞空したのでそれに合わせて雪乃も立ち止まる。
「どうしたの」
「なにかおちてるよ」
一人二役である。雪乃は人間に対しては無口だが一人きりでいるときは割とよく声を出す。自主的な演技力にも長けているようだ。
「なんだろうね」
「うーん」
紫色の小箱だ。バニウオが鼻先でつついても動き出す様子はなかったので雪乃はそれを拾ってみることにした。
「じゃあうち更衣室のほう探してくるから」
背後から生徒が近づいてくる。雪乃は腕に抱えていた巨大なぬいぐるみを背中に隠し、且つ自分の姿も赤い消火器の陰に収めた。もちろん丸見えだったが、やってきたのがちょっぴりおばかな生徒だったらしく雪乃の存在に全く気づかぬまま脇を通過し体育館の方へ降りて行った。
「失礼しまーす」
更衣室には誰もいない。舞は友達がいつも着替えをする辺りを探してみた。
「なんだよ。ここにあんじゃん」
青と黄色のプラスチック板で出来た謎のベンチの下に紫色の箱は転がっていた。中身は確かに友達がまとめ買いした雑巾である。
「さ、帰るか」
すると突然更衣室の扉が開いて息を切らせた少女が飛び込んで来た。
「うわ!? どうした、鈴原」
紫乃は肩で息をしながら舞の手の中の箱をにらんだ。
「な、なんだよ・・・」
「やっぱり・・・体育で着替えるときに弓奈さんのカバンから落ちたんですね・・・」
「・・・は?」
紫乃は顔を赤くしながらじりじりと舞に歩み寄る。
「それをこちらに渡しなさい・・・今すぐに」
「え」
「いいから!!!」
「ひい!」
舞は訳も分からぬまま取引に応じ、雑巾の箱を紫乃に渡した。
「中身を見ましたか」
「み、見てないっす・・・」
本当は見た。新品の厚手ダスター20枚だ。
「もし見ていたとしても・・・それはすぐに忘れて下さい。さもなくば、地獄を見ますよ」
「ハイ」
紫乃は恥ずかしそうに頬を染めたままじっと舞を睨みつけてから更衣室を出て行った。舞はしばらく抜け殻のようになって立ち尽くした。
「あいつ・・・掃除マニアか」
紫乃は無事にチョコレートクグロフを回収できたと思い込んだまま、箱を抱えて学舎へ帰って来た。このクグロフがこの世に存在していると自分になんらかの災いが起こらないとも限らないと考えた紫乃は、とっととこれを始末することにした。
「香山先生こんにちは」
「あー鈴原さぁん。こんにちはぁ」
香山先生は良い意味で鈍感なので様々な恋の思惑の絡んだ贈り物も、深いこと考えずにペロっと平らげて下さることだろう。
「先生にプレゼントです。どうぞ」
「わぁーなんだろう」
「大したものじゃないです」
実際大したものではない。
「それでは私は教室へ帰りますので」
「ありがとー鈴原さぁん」
背筋を伸ばし涼し気な表情を取り戻した紫乃は悠々と階段を上っていった。
香山先生は箱を開けてその中に顔を突っ込む。中身はちょっといい香りがする新品雑巾の詰め合わせだ。鈴原さんらしい実用性に満ちあふれた贈り物である。次の時間に担当授業がなく割とヒマな香山先生は箱を畳んで出席簿の間に挟むと、雑巾を頭に載せて廊下を歩くという非常に安っぽいバランストレーニングを始めた。
「あのー先生、すみません」
しばらく歩いていると生徒がひとり話しかけて来た。確かテニス部の子だった気がするが印象が薄いので名前が出て来ない。
「どうしたのぉ?」
「私じつは探し物してて」
「どんな探し物ぉ?」
「ちょうどそういうダスターなんですけど、見ませんでしたか。紫色の箱に入ってるんです。部室で使おうと思って買ったんですけどどこかでなくしちゃったみたいで」
「見てなぁいよー」
「そうですか。困ったなぁ」
香山先生は頭の上のダスターを下ろすと、それを名前の思い出せない女子生徒に差し出した。
「よかったらこれ使っていいよぉ」
「え、いいんですか先生」
「私はもう充分楽しんだからね」
「あ、ありがとうございます」
「あはー」
香山先生は校則に違反する速度でスキップしながら廊下の角へ消えて行った。
さて、この時の二人の会話を物陰から聴いていた幼い少女がいた。
「むらさき色の箱って言ってたね」
「きっとこれだよ雪乃ちゃん」
小声で相棒の吹き替えも担当するいじらしい雪乃は、バニウオの鼻先を使ってこっそり廊下の真ん中に紫色の箱を置いた。少女が気づいてくれる場所にである。雪乃は良いことをしたというキラキラした誇りを胸に今日は学長室へ帰ることにした。
先生からもらった雑巾を抱えて歩き出した舞の友達は、すぐに自分の足下に置いてある箱に気がつく。
「わ、こんな簡単なところにあった・・・」
舞の友達は箱を拾い上げてクスっと笑った。これでダスターは40枚になってしまった。備品になるだけだから多くても問題はないがこれだけ集まるとちょっと気恥ずかしい。
「ねー・・・あんたのせいで酷い目にあったんだけど」
「あ、舞」
舞が更衣室から戻ってきた。無償でダスター捜索を手伝ってくれた舞に、急遽彼女は謝礼を渡すことにした。
「はいはい、おかげさまでダスターの件は解決したよ。これ舞にあげる」
舞の友達はそう言ってたった今拾った箱を舞に差し出す。
「なにそれ、くれんの?」
「探してくれたお礼だよ。それじゃ、私は先に教室戻ってるからね」
「あー、うん」
舞は受け取った箱を見つめた。
「お礼とか・・・これ例の雑巾でしょ」
舞は箱を開ける。
「雑巾もらってもなぁ・・・」
舞は一瞬それがなにか分からなかった。甘い甘い香りがはじける可愛らしいブラウンのミニチュア火山が一枚のチョコレートボードを掲げて箱に収まっていたのだ。
「だ、大好きですって・・・なにこれ」
ハートマークも付いている。これを友達からの告白と舞が勘違いしても致し方あるまい。
「えー・・・ウソだろ・・・」
身近な人物からの告白が持つ衝撃は大きい。
「あいつ・・・まじかぁ・・・」
ある種の清々しさをすら感じさせるほどである。
「そうかぁー・・・」
花より団子とはよくいったもので、舞は目の前に迫った恋の決断に激しく戸惑い悩みながらも、クグロフを食べたいという抗い難い食欲にも苛まれた。舞はこっそり家庭科実習室に入ると中央のテーブルを選んで腰掛けると箱を開け中身を取り出した。
「あいつ、フォークとか付けとけよ」
舞は照れ隠しにこんなことを呟くが、正常な神経を持っていれば想い人に渡すヴァレンタインの洋菓子にフォークやスプーンをセットにしたりはしないだろう。
「しょうがない。食べてやるか」
舞は尖った犬歯を覗かせてにやにやしながら「大好きです」のチョコプレートをつまんで口に運んだ。これが本日最後の舞の笑顔となった。
「今日は疲れたね」
弓奈の部屋の窓からはオリオン座がよく見える。
「本当ですね。今日は疲れました」
弓奈と紫乃は今日まったく異なった方向性の疲労感を味わった。窓の外は吐息が白くなるほど冷えているが、二人でくっついて並んでいるだけで割と温まるものである。
「弓奈さんは毎年追いかけられているんですか」
「な、なにが」
紫乃は弓奈が作ってくれた特製ココアをふーふーと念入りに冷ましながらながら一口飲んだ。
「ヴァレンタインデーの話です」
「い、いや、別に追いかけられてなんかいないよ」
弓奈はウソをつくとすぐにそれが顔に出る。今年もなんとか本命チョコを直接受け取らないことには成功したが、例年通り明日は靴箱やポストに入れられていた大量のチョコを一人一人に深く頭を下げながら返却して回る一日になりそうだ。
「あんたさぁ! だましたでしょ! 何あのマズさ! 毒でも入れたの? うちあのあと吐いて保健室行ったんだけど!」
「ちょ、ちょっと舞! なんのこと!?」
「うっさいばか! 一生あんたのこと信用しないから! もうドッキリ企画すんなぁ!」
上の階からなにやらもめる声が聴こえてくる。そういえば紫乃は野菜サラダ以外の料理を作ったのは生まれて初めてだったのだが、あのクグロフは美味しく出来たのだろうか。
「紫乃ちゃんは誰かにチョコ渡したことあるの?」
「あるわけないです」
紫乃はわざとあきれたような口調でそう答えてココアをふーふーした。このココアには生クリームとチョコレートソースがたっぷり使われている。
「弓奈さんは・・・」
「ん?」
「弓奈さんはあるんですか。誰かにチョコレート、あげたこと」
弓奈は長いまつげをはたはたと動かしてから花のようににっこりと笑った。
「今紫乃ちゃんが飲んでるそれ、一応ヴァレンタインを意識して作ったココアなんだけど」
「あっつ!」
紫乃は驚きのあまり舌をやけどするところだった。
「ご安心下さい。友チョコですよ、紫乃さま」
「・・・当然です」
弓奈がクスクス笑った。世界一美しいとこの学園の誰もが信じる弓奈の笑顔を、今自分だけのものにしている感覚が紫乃の頬と耳を真っ赤に染めた。
「おいしい?」
「・・・まあまあです」
「そっか。それはよかった」
紫乃は弓奈と一緒にオリオンのベルトを遠くに望みながらカップの温かい側面にそっと唇を押し当てた。ココアの温かい湯気が紫乃のまつげを濡らした。
ヴァレンタインデーが世の女子にとって一大事であることはやはり間違いない。




