41、ようこそ
雪乃には秘密の日課があった。
母が学園へ出勤してからホームスクーリングの先生がやってくるまでのおよそ2時間、雪乃は自宅待機を命じられている。この時間こそが彼女に与えられた至福のひとときなのである。
雪乃はこっそり姉の部屋に入る。姉の部屋と言ってもそこは長期休暇中以外は姉の私物物置のようになっている場所だ。そんな部屋へいったい何の用があるというのか、その答えは衣装だんすの中にある。
「んっ・・・んっ・・・」
雪乃が背伸びをして引っ張り出したのは姉の紫乃が予備として発注し自宅で保管していたサンキスト女学園の冬制服だった。雪乃は着るというより中に収まるといったような感じでその制服を身につけた。ぶかぶかである。雪乃は鏡の前で袖を振ったりスカートをたくし上げてみたりしたが、やがてリビングに戻りバニウオの頬に顔をうずめるようにしてキスをするとこっそり家を抜け出したのだった。
昨夜降っていた雪はもうあがっていたので雪乃は日傘を差した。雲ひとつない空の青をプラタナス並木の細い枝の隙間に見ながら、雪乃は学園へ向かっててくてく歩いていく。引きずったスカートの裾がつける何本かの線と雪乃の小さな足跡は、まるで楽譜のようになって雪道に続いた。
「はーるーときーかねーば、しらーでありしをー」
サンキスト女学園は全寮制のため学園沿いの道にも生徒たちはおらず、誰にも見つかる心配はない。
「きけーばせーかーるーる、むーねーのおもいをー」
雪乃は学園の正門に近い公園のベンチに腰掛けた。
「いかーにせーよとーの、このーこーろかー」
雪乃は学園入学が待ちきれないのだ。早く大きくなって、姉と同じ制服を着て、憧れのあの人と一緒にお勉強をするというのが彼女の夢である。
「いかーにせーよとーの、このーこーろかー」
自分が高校生になる頃、もう弓奈は学生ではないということを雪乃は忘れているようだ。
「あれえ」
聞き覚えのない若い女性の声を聴いて雪乃は両腕を上にパッとあげた。これは驚いた時の彼女のくせである。
「あれあれえ!」
声の主は公園の前に若葉色の車を止めるとものすごい早さで雪乃に駆け寄って来た。
「どうしたの鈴原さぁん! こんなに小さくなってえ!」
「今治してあげるからねぇ」
香山先生は公園で見かけた幼い少女を教え子と勘違いし学園へ連れ込んだ。体が突然小さくなる病を香山先生は知らないのでかなり動揺しているようである。先生は雪乃の頬や胸をなでたり体を抱き上げてぶんぶん振り回したりした。
「ダメだぁ。ちょっと待っててね、図書室に行って魔法の本借りてくるからね」
先生は去った。雪乃は全く思いがけない形でサンキスト女学園登校という夢が叶ってしまったが、喜んでばかりもいられない。このような事態に陥った原因は雪乃が姉の制服を勝手に着込んで外出したことにあり、それは姉と母にはバレてはならない悪事である。が、知っている人間としか口を利けない雪乃がこの窮地から脱出するためにはやはり知人に救援を求める必要があり、この学園に彼女を知るものは先に挙げた二人の他にもう一人しかいない。
(弓奈に・・・会いたい)
雪乃が取り残されたのは体育館と第二グランドの間にある体育教官室である。ここから弓奈がいる学舎まで行くくらいなら、グランド脇の通用口から学園の外へ出て家に帰る方が余程楽であるが、彼女にそのようなことは分からない。雪乃は体育教官室を出ると学び舎の香りがする渡り廊下をスカートを引きずりながらコソコソと歩いていった。
「なにあの子!」
「ざしきアザラシ!?」
「それを言うなら座敷わらしですわ」
「かわいいいい!」
学舎の入り口で四人組の少女たちに見つかってしまった。雪乃は両手を挙げてから必死にパタパタ走り、階段の脇の暗がりに身を隠した。
「どこ行っちゃったんだろ」
「制服着てたよね」
「誰かに似ていたような気がしますわ」
「さっきの子欲しいいいい!」
少女たちは去った。雪乃は階段の手すりから香るメープルの匂いの中で彼女たちの背中を見送った。踊り場のステンドグラスから差し込む七色の光の真ん中に立ち尽くしながら、雪乃は学園世界の素晴らしさをその小さな全身いっぱいに感じていた。広い廊下と高い天井が、雪乃の知らない輝きをたたえて彼女の目の前に広がっているのである。雪乃は長いスカートで転ばぬよう気をつけながら一段ずつゆっくりゆっくり階段を上っていった。
弓奈は紫乃と一緒に学舎3階の廊下を歩いていた。
「休み時間のうちに生徒会の仕事を進めておくってのは賢いね」
「時間の有効活用は賢女の基本です」
「これで放課後は生徒会室で会長と一緒に紅茶を飲んで・・・」
次の瞬間、弓奈は自分の目を疑った。傍らを歩く紫乃の向こう側、第二音楽室の前に据えられたリモージュの花瓶の陰から見覚えのある少女がこっちを見ているではないか。
(雪乃ちゃん・・・!)
雪乃ちゃんの大きなお目々は明らかに弓奈に助けを求めている。なぜこんなところに彼女がいるのかは不明だが、姉の紫乃には内緒にしたほうがよいことを弓奈は瞬時に悟った。
「弓奈さん。どうかされましたか」
「いや! なんでもないの。あのね紫乃ちゃん。私ちょっと用事思い出しちゃったから先に次の授業の準備しててくれるかな」
「それなら私もお手伝いしてあげます」
「えーと、ひとりで大丈夫だから」
「そうですか・・・すぐに来て下さいね。授業に遅れますから」
「うん。またあとでね」
弓奈は姿勢のいい紫乃の後ろ姿が廊下の角を左に曲がるのをじっと待った。
「雪乃ちゃん! どうしたの!?」
弓奈がそう言うのと同時にスカートを床に引きずった雪乃が飛び出してきた。そして弓奈にの体にばふっと音を立てて思い切りしがみついた。
「んー、帰れなくなっちゃったの?」
雪乃は弓奈のお腹に顔をうずめたままうなずいた。弓奈は雪乃ちゃんの柔らかい髪を優しくなでてからゆっくりしゃがんだ。雪乃は目線の高さが合った弓奈に改めて抱きつき柔らかい頬を弓奈の耳元にぴったりくっつける。
「寒かった? ほっぺ冷たいけど」
雪乃は首を横に振って弓奈に頬擦りした。弓奈は子供が好きなのだが、ちょっと失礼な話その最も大きい理由は幼い女の子たちの恋愛に関する感覚や意識が女子高生に比べ未発達であるため、恋に発展する可能性が格段に低いからである。いわば小学校の教室は全員が安心安全の紫乃ちゃんのようなものなのだ。少なくとも今の弓奈はそう信じている。
「じゃあ、先生に見つかる前におうち帰ろう」
「うん・・・」
「一緒に行ってあげるからね」
「うん・・・うん」
ストレプトカルプスコンコルドブルー。
幼い頃に弓奈が実家で育てたことがある花の名前である。涼し気な咲き顔を見せる蔓性植物で、当時支柱にまきついて咲く花に目がなかった弓奈はこの花に「ローレン」というニックネームを付けて可愛がっていた。ハロウィンが間近に迫る頃、外は連日冷え込んだ。パンジーは寒さに強いことを弓奈は既に感覚で知っていたので同じような顔をしているローレンもきっと防寒対策は生来万全なのだろうと思い込み、彼女を屋外に置いたままにしていた。眠る前にベッドに潜ってから貝殻のランプの明かりで本を読むのが日課だった弓奈がその夜も書庫から引っ張り出してきた面白そうな本をぺらぺらとめくっていると、祖母から貰ったガーデン植物図鑑の中にローレンの姿を見つけた。「ストレプトカルプスコンコルドブルー。アフリカ原産。寒さにめっぽう弱い」
つまり何が言いたいのかというと、時すでに遅しという言葉は事象として確かにこの世に存在し、弓奈はそれを自らが経験する形で既に証明済みなのである。今回はその二度目となるのだ。
「雪乃・・・?」
二人の背後に品のある女性の声。振り向いた弓奈は思わず飛び上がり、その場で気をつけをした。
「ごごきげんよう、学園長先生」
弓奈は始業式や終業式で壇上に立ちお話をされる学園長先生を何度か見ているが、こんなに近くでお会いするのは初めてである。紫乃をそのまま大人にしたような典型的淑女であり、だがその毅然とした眼差しにはどこか哀愁が漂っている。
「雪乃・・・このようなところで何をしているのか説明しなさい」
雪乃は挙げていた両手をおろし、観念したように目をつむってうなだれた。
「弓奈の学校・・・来たかった」
学園長先生は一瞬だけ弓奈を見たがすぐに目を反らし、ため息をついた。気のせいなのかも知れないが、弓奈は学園長に避けられているような感じがしないでもない。
「雪乃」
「あの、先生・・・」
怒らないであげて下さいと弓奈は言いかけたが、それより先に学園長が意外なことを口にする。
「仕方ないですね・・・。これからは学長室で寝泊まりしなさい。その代わり、学舎をむやみに出歩いたり、生徒たちに迷惑はかけたりしてはいけませんよ」
いつも氷のように表情を閉ざしているの雪乃の顔が花のようにほころんだかと思うと、彼女は長い袖を巻き付けるように弓奈の腰に抱きついた。自分の一存で娘を勝手に学園に居住させる学園長の胆力に弓奈は内心かなりビビった。
「んー♪」
しかし自分の脇腹に顔をうずめて楽しそうに何かを叫んでいる色の白い少女の温もりを感じれば、これが過ちであるとは到底思えなかった。
かくして雪乃ちゃんはバニウオと大量の音楽のテキストを持って第三管理棟の学長室にお引っ越しとなったのだった。
「失礼します。C1組の鈴原です。体育倉庫の鍵を取りにきました」
体育教官室には誰もいなかった。紫乃は校則に従い時間とクラス、名前を管理表に記入し体育倉庫の鍵をケースから取り出した。その時である。
「ごめんねぇ鈴原さん! 魔法の本ね、もう捨てられちゃったんだってぇ」
突然香山先生が飛び込んできた。
「あ、こんにちは香山先生」
先生は紫乃の姿を見て一瞬言葉を失い、すぐに猛烈な勢いで駆け寄って紫乃に抱きついた。
「キャー! 元に戻ってるぅう!」
「な、なんですか先生!?」




