40、カントリーソング
街は茜色に染まっていた。
夕焼けの正体を弓奈はよく知らないが、日中に舞い上がった粒子がこの赤色を生み出しているらしく、生き物が地上で頑張って生きていなければもう少し大人しいカラーになっているという話だ。つまり、夕焼けの美しさとその日自分がかいた汗とは物理的に無関係ではないのだ。
3学期が始まってからもジョギングを続けているお陰で徐々に弓奈の脚は仕上がってきた。今なら本気で追いかけてくるゴールデンハムスターくらいからなら逃げることが出来そうだ。
弓奈が何気なく石津さんのアパートの前を通りかかると、その二階の一室からぎこちないギターの音色と不思議な歌声が聴こえてきた。
「君はエビー、君はエビー、エビも跳ねずば浮かべまいー」
エビの歌だろうか。
「でもエビ反りって逆だと思うのよ私ー」
石津さんの作詞作曲センスは一般的ソングライターの領域外にある。
「おー倉木君か。珍しいなこんな所へ」
「こ、こんにちは」
知らん顔して通り過ぎようとしたのに見つかってしまった。ギターを抱えた石津さんは窓から身を乗り出し、ウィンクしながら人差し指だけで弓奈を手招きする。弓奈は微笑みの仮面をかぶって彼女のお部屋へ上がらせてもらうことにした。
「おじゃまします」
ギターを持った石津さんのシルエットが夕焼け色の窓にまるで影絵のように浮かび上がっていた。芸術的とすら思えるその光景に弓奈は思わず見とれたが、よく見ると石津さんの上半身は下着姿だ。真冬に窓全開でブラジャー露出など狂気の沙汰である。
「倉木君、実はな」
「・・・はい」
「先週から駅前のドーナツ屋でアルバイトを始めたんだ」
「そうなんですか! それはいいですね。石津さんドーナツ大好きですもんね」
石津さんの天職はおそらく歌手ではなくドーナツ屋の店員だと弓奈は思った。
「ところが今日」
「今日?」
「クビになった」
どんな顔をしていいか分からず弓奈はそっと彼女から目を反らした。
「つまみ食いがーばれたぁ。ばれたよー」
石津さんはとても美しい声をしているのだからどうか妙な歌は歌わないで頂きたいものである。
「君は、ドーナツの真ん中になぜ空洞があるか考えたことはあるか」
もっと重要な考え事に弓奈の神経は使用されているため、今までそのようなことを気にしたことはなかった。
「ドーナツはな、君の心は空っぽじゃなかろうかと身をもって案じてくれているのだ」
「はぁ」
「そして私の心ならいつもポカポカだよと言うと、ならばそのハート、私が優しく包み込んで守ってやろうと答えてくれるのだ。無生物というのはその心の内を形状に現しているものばかりだ。人間より素直だと言っていい」
石津さんはどこまでが冗談でどこまでが本気かサッパリ分からない。石津さんはギターをベッドの上に寝かせるとヴァイオリンケースを開けた。初めて石津さんに出会った日に弓奈が預かったあのヴァイオリンケースである。中から出て来たのは確かにヴァイオリンだが、弓奈の知っているそれとは形が少し異なっていた。それこそ骨組みだけの、空洞だらけの不思議な楽器だった。弦楽器には元から空洞があるが、それが極まったような実に軽そうなフォルムなのである。たしかマリアとか呼んでいたそのヴァイオリンを、石津さんは目を閉じて弾き始めた。
弓奈は息をのんだ。ぎこちなくギターを弾いていた時とは比にならない程に、ヴァイオリンの奏でるメロディは素晴らしかったのだ。まるで別人である。楽器の内部に音を響かせる箱を持たぬためにごく小さな音しか出なかったが、その代わりにマリアの音色はまず石津さんの胸に響き、部屋に差した夕日を優しく伝わって弓奈の心に温かく染み渡った。この時弓奈は石津さんの美しい横顔に人知れぬ哀しみを垣間見た気がした。弓奈は自分の胸に沸き上がってくる穏やかな痛みに少々戸惑ったが、後にそれが大人の言う「切ない」という感覚であることを知った。
「曲名はもう決まっている。カントリーソングというのだ」
およそ五分間の夢のような時間が過ぎると、石津さんがそう口を開いた。彼女の作った曲だったらしい。
「だが・・・歌詞が書けないんだ」
そりゃこれほど美しい調べにエビ反りは逆だとかバイトクビになったとかそんな詞は乗せられないだろう。弓奈はここで思い出したように拍手をした。
「・・・すごいです石津さん。ヴァイオリンお上手だったんですね」
「たいしたことはない」
「小さい頃からヴァイオリンされてたんですか」
「いや、高校を卒業してからだ」
石津さんには謎が多い。それほどの短期間でヴァイオリンを物にし、しかも素敵な声を持っているというのは彼女の音楽的資質がピカイチだったということに他ならないが、それでも相当な努力をしたに違いない。なにが彼女をそこまで熱くさせるのか、そもそもなぜ彼女はシンガーソングライターになりたいのか、弓奈にはそれが大いなる疑問である。
「石津さんはどうして歌手になろうと思ったんですか」
「ああ・・・それはな」
石津さんは窓の外を見て黙った。石津さんには夕焼けがよく似合うと弓奈は思った。
「夢なんだ」
あんまり答えになっていない気がしたがそれも石津さんらしい。苦笑いする弓奈に、石津さんはゆっくり歩み寄ってしゃがむと温かい指で弓奈の髪を撫でた。
「人はな、自分ひとりのためだけに生きて行けるほど強くないんだ」
石津さんは真っ直ぐに弓奈の瞳を見つめた。弓奈は目をそらすことも忘れてしばらく彼女と見つめ合う。公園で遊ぶ子供たちの声と電車が走る音が遠くからかすかに聴こえた。
「お顔が・・・近いです」
弓奈はそう言ってそっと石津さんの顔を左手で押し返した。石津さんは笑いながらベッドの上のギターを指でペンペン鳴らした。
「もうすぐ寮の門限だろう。送って行こうか」
「いえ、一人で帰れます」
半裸で送られたらパトカーがやってくる。
「そうか。それじゃあ、さよならだ」




