37、逃走本能
弓奈は学園通りを走っていた。
それは決して新年のおめでたい風が彼女の胸にささやかな冒険心を吹き込んだといったものではなく、単に暇だったからである。弓奈はてっきり4日から授業開始だと思っていたのだが、実際は8日からだったのだ。基本的にしっかりしている弓奈もドジをする時はある。中学生の頃などはゼラチンとギロチンを間違えて覚えていたくらいだ。
「あれぇー」
聞き覚えのある声が車のエンジン音とともに近づいてくる。
「倉木さぁーん。明けましておめでとぉー」
香山先生である。先生は初心者マークを掲げた若葉色の軽自動車をぐいぐい歩道へ寄せてきた。
「先生、明けましておめでとうございます」
「倉木さん、今日学校はぁ?」
先生も勘違いをしているらしい。弓奈は丁寧に授業開始日を先生に教えて差し上げた。
「なぁんだそうなんだぁ。じゃあ先生今日暇になっちゃったなぁ」
弓奈は一緒に走りますかと提案しかけたが、登校日を勘違いした生徒と教師が学園の周囲をぐるぐる走っている光景はあまりにシュールなのでやめた。
「倉木さんも暇ぁ?」
「あ、はい。とっても」
「じゃあ先生とデートしよー」
「でーと・・・ですか」
どうかそういう言葉はもっと慎重に使って欲しいものである。先生は「乗って乗ってぇー」と言いながら助手席のドアを開けシートをぽんぽん叩いた。いったいどこへ連れて行かれるのか分かったものではないが一応相手は高校教諭なので弓奈は彼女を信用することにした。
「では・・・おじゃまします」
香山先生の車の中は新車特有の革とビニールのにおいがした。
「初心者マークついてましたけど、先生免許とったばっかりなんですか」
「年末にとったの!」
弓奈はしっかりシートベルトを締めた。
ちなみに弓奈は「シートベルトを締める」の「しめる」という漢字が「諦める」にそっくりだったため、交通安全の看板を「シートベルトをあきらめましょう」と読んだことがある。
「それで、どこへ行くんですか」
「お茶しよーお茶ぁ」
弓奈は今日編み込みヘアにウィンドブレーカーという妙な格好をしているのであまり街中へは行きたくないのだが先生はおかまいなしに車を駅前へ向けて走らせた。
「何か音楽聴くー?」
先生はそう言ってダッシュボードのポケットからCDをあさり始めた。弓奈にしてみれば音楽などどうでもいいのでちゃんと前を見て運転してほしい。
「どこだったかなぁ」
ガードレールがどんどん接近してくる。
「せ、先生! もっと右!」
「右ぃ? あ、ホントだぁ。これ探してたの」
「そうじゃなくてハンドルを右へ!」
エレキギターが奏でるブラームスのワルツだった。初めこそ違和感があったが、力強く伸びやかで、かつ繊細な音色が優しく軽やかな旋律に美しく調和し車内をドイツ音楽のあらたな境地に至らしめた。が、なぜ香山先生がこのような曲を好むのかは一切不明である。
「これでいいかなぁ」
「先生・・・駐車スペースからかなり出てます」
「怒られちゃうかなぁ?」
「怒られないかもしれませんが、車の鼻先をぶつけられちゃう可能性も・・・」
「下がりまぁす」
「わあ! せ、先生これは下がり過ぎです」
「駐車場出ちゃったぁぁあ」
「先生落ち着いて下さい!」
「もう運転やだやだやぁだぁあ!」
二人は駐車にしばらく苦戦したお陰で開店までの時間を潰すことができた。やって来たのは雑貨店の中の小さな喫茶コーナーだ。まずは何か飲み物を受け取って席に着くことにする。
「えーとぉ、アイスココア、ホットで」
「はい?」
「ホットココア二つお願いします」
「かしこまりました。二点で640円になります」
店員さんの言葉を聴いた香山先生は素早くお財布を出したのでお金を払ってくれるのかと思いきや、レジ脇に設置されていたWAF世界野生動物保護基金という募金箱に「ほっ!」などと言いながら5円玉をチャリンと投入したのみだった。とんだフェイントである。代金は弓奈が払った。
しかし、よく考えてみればこうして香山先生とお出掛けし、向き合うことなど滅多にない。この機に香山先生についてよく知り、人生をマイペースに生きる術を学ぼうと弓奈は思った。
「先生は・・・」
「ぽ?」
「どうして先生になろうと思ったんですか」
「んー」
香山先生は湯気の立つカップを両手で持ってぐびぐびココアを飲んだ。
「はぁー。おいひい」
「あ、美味しいですか」
弓奈もココアのカップに唇を寄せた。肩の力が抜けるような幸せな甘い香りに弓奈は包まれた。しかし、どうも彼女はこの香りに負の記憶がある気がしてならない。弓奈はなにかを忘れている。
「先生、今日は何日でしたっけ」
「いちがつよっか♪」
「あ・・・あと40日で、バレンタインデーじゃないですか!」
「あ〜、そうだねぇ」
今まで暇が出来たからといってランニングなどしたことなかったのに、なぜ今朝自分は走り出したのか、その謎がようやく解けた。弓奈は毎年この時期になると走っているのだ。2月14日に向けてコンディションを整えるために。これは闘争本能ならぬ逃走本能である。
「バレンタインデー、誰か追っかけるのぉ?」
「逆です・・・逃げるんです」
まさか同性から本命チョコレートを受け取るわけにはいかないので当日は本気で逃げなければならない。特に高校生になってからの弓奈は年上からばかりでなく同級生からもモテ始めたので波乱の予感がする。おこがましい心配に聴こえるだろうがこれが事実なのだ。
「私、走って帰ります。脚を鍛えないと・・・」
弓奈は立ち上がった。
「じゃ、先生もぉ! 競争しよう競争」
さすが体育教師、ノリノリである。
「え、でも先生。けっこう遠いですよ。それに先生は・・・」
「よーいどぉーん」
「わあ、待って下さい!」
「どぉーん」
「せんせーい!」
香山先生は自動車の運転という現実から逃走した。




